Posted at the Institutional Resources for Unique Collection and Academic Archives at Tokyo Dental College, Available from http://ir.tdc.ac.jp/
Title コロナ禍で振り返る東京歯科大学での40年
Author(s) 矢島, 安朝
Journal 歯科学報, 121(3): 254‑273
URL http://doi.org/10.15041/tdcgakuho.121.254 Right
Description
道はなかった 道は築くものであった
時代の黎明にあってフロンティアであることほど困 難なことはない
しかしそこには大いなる意思があった 東京歯科大学口腔インプラント学講座
幾多の苦難を乗り越えて今を築き上げた仲間たちの 勇気と情熱に乾杯
さらなる高みをめざし立ち上がれ未来の仲間たち,
そしてもう一度,皆で乾杯
はじめに
十数年前,父の納骨を終え,遺品を片付けている 時に父 の 卒 業 証 書 や 卒 論 の 賞 状 を 発 見 し た(図 1)。戦時中のため粗末な紙ではあったが丁寧に保 管されており,父が大切にしていたことが一目でわ かった。ちょうど日本が真珠湾攻撃を行い太平洋戦 争に突入したその18日後,昭和16年12月26日に繰り 上げで卒業させられている。さらに,校長の署名に は「東京歯科医学専門学校長ドクトルオブロース勲 四等血脇守之助」と書かれていたことに大変驚い た。父の青春と血脇先生の時代が重なっていたとは 思いもかけないことだった。同時に,父が生きてい るうちに血脇先生のことを聞いておくのだったと後 悔もした。血脇先生と重なっていた父の青春時代を 知りたいと思い,30年以上本棚の片隅で眠っていた 埃だらけの血脇守之助伝を一晩で読んだ。感動し た。そこには,血脇フロンティア集団が,東京歯科 医学専門学校ばかりではなく,日本の歯科界を血の
にじむ努力によって創造した苦難の連続が書かれて いた。フロンティア集団の前には,まったく道はな かった。ただひたすら,混迷の中で道らしきものを 必死で築いた歴史が刻まれていた。
ところで,現在,令和の時代に始まった新型コロ ナ感染症は,いまだに猛威を振るい,現在緊急事態 宣言(2021年2月初旬)の真っただ中である。この 感染症は,地震や洪水などの自然現象ではなく,人 間が世界中を動き回ることによって,瞬く間に地球 全体に COVID-19を拡散させてしまった社会現象で ある。自然現象であれば復興が完了すれば,すべて 元の社会に戻ることができる。しかし社会現象は,
社会が変わるまで終息を迎えない。社会が変わると は,各人の行動変容が積み重なって社会全体が動 き,ようやくコロナは終息に向かうのである。そし て,終息したとしても,コロナ以前の社会に戻るこ とは決してない。コロナ以前の常識は,コロナ以 後,非常識となっているかもしれない。つまり,コ ロナ終息時には,目の前に道はないのである。新た にそこから道を築かなければならない。当然,われ われの大学の教育も研究も臨床も,新たな道を築き ながら前に進まなければならないはずである。
今,人類の急務となっているコロナ禍からの脱却 は,血脇フロンティア集団の「創造」と同じよう に,新たな道をつくりながら前に進むしかないので あろう。ところで,規模ははるかに小さいが,われ われの新設された東京歯科大学口腔インプラント学 講座の前には全く道がなかった。道は築くもので あった。時代の黎明にあって,フロンティアである ことほど困難なことはない。ゼロから作り上げると いう作業は,既存の講座が当たり前のように持つ前 例がないため,常に決断,実行の連続であり,試行 錯誤しながら前に進むため,膨大な時間と労力が必
歯学の進歩・現状
コロナ禍で振り返る東京歯科大学での40年
矢島 安朝
東京歯科大学口腔インプラント学講座
キーワード:コロナ禍,インプラント学,退職記念講演,
東京歯科大学での40年
(2021年2月18日受付,2021年4月20日受理)
http : //doi.org/10.15041/tdcgakuho.121.254
連絡先:〒101‐0061 東京都千代田区神田三崎町2−9−18 東京歯科大学口腔インプラント学講座 矢島安朝 254
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要であった。しかし,どこにでも進むことが可能で あり,自由度が高く楽しい作業でもあった。私たち は口腔インプラント学講座という場所で,フロン ティアであることの楽しみと苦しみの両方を味わう ことができたのである。迷いながら失敗しながら築 き上げた,その軌跡をご紹介したい。
口腔外科学第一講座での24年間
1980年口腔外科学第一講座に入局し,2年目の 夏,大森主任教授が急逝され,その後の1年間,主 任教授が決まらないまま他講座の教授が代行を務め た。われわれ医局員にとって自分の教授が存在しな いことのみじめさ,悲惨さをこの時十分に味わっ た。どのような事情があるにせよ,決して襷の受け 渡しをさせない駅伝を行うべきではないと思った。
その後,幸いにして医局員皆が望んでいた野間弘康 先生が教授に選任され,講座は新たな道を歩み始め た。私は大学院生として軟骨移植をテーマとして研 究に励み,多くの先輩方の助言と協力によって大学 院を修了した。その後は,病棟・手術室が私の主な 仕事場となった。多くの手術症例を経験し,毎日が 学習の連続であり,手術や術後管理に熱中した。39 歳の時,念願のドイツ連邦共和国ハノーファー医科 大学顎顔面外科学教室に留学をさせていただいた。
留学生活はこの上なく刺激的であり,町を歩いてい るだけで毎日が新しい発見ばかりであった。大学で は朝7時半から毎日手術に参加し,遅い昼食の後は アシスタントの学生とともに,自分の研究や図書館 での文献検索に打ち込むことができた。大変充実し た毎日であった。私についてくれたアシスタントの 学生は,初め て 会 っ た 時,「Schöne Mädchen(き
れいな女の子)」の日本語を知っていると自慢げに 話しかけてきた。いってごらんと応えると「尻軽お んな〜」とリズムをつけて真面目な顔でいった。私 は驚いたが,すぐにその理由を思いついた。前年,
彼がアシスタントをしていたのは肝臓外科へ留学し ていた日本人医師とのことなので,その医師が冗談 半分で教えたのであろう。実際に彼が日本人の女性 にこの単語を使った時の状況を想像し,あえて間違 いを指摘せずに笑いをかみ殺して「よく知っている ね」と褒めておいた。
ドイツでの私のボスは,野間教授のドイツ留学時 代の同僚であった Hausamen 教授である。シェフ と手術室でお会いすると彼はいつも「Dr.矢島,
日本もドイツも手術は一緒。せっかくドイツにいる のだからドイツ社会を見てきた方が勉強になるは ず」といわれる。そんな時は手術場の仲間に別れを 告げて,近くの町の博物館へ遊びに行くことにして いた。シェフからは,口腔外科ばかりでなくドイツ 社会と日本の社会の違いについて歴史の観点から多 くの貴重な話を伺った。Hausamen 教授の教養の高 さ,自国ばかりではなく日本の歴史に対する造詣の 深さに大変感心した。さすが「愚者は経験から学 び,賢者は歴史から学ぶ」といった宰相ビスマルク の国である。私も帰国したら高い一般教養を身に着 けたいと決心したことを,昨日のことのように覚え ている。帰国後,この決心も日常の忙しさに負けて しまうことが多く,いまだにゲーテのファウストも 読むことができず「Göthe」さえもうまく発音でき ない。
楽しい1年3か月の留学生活は瞬く間に終了し,
41歳で帰国した。さっそく口腔外科外来にハノー
図1 他界した父の卒業証書等と血脇守之助伝
右から順に血脇守之助伝(1979年発刊),父の卒業証書,精勤賞の賞状,卒業論文賞の賞状(1941年)
何れにも血脇先生の署名が入っている。
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ファーのシステムを真似た「悪性腫瘍外来」を立ち 上げ,腫瘍の再発・再燃は担当医ではなく,講座と して管理するシステムを創設した。腫瘍再発の見逃 しは,それまで担当医の責任として処理されたが,
管理システムの不備が原因であるというドイツの合 理主義を持ち込み,担当医の負担を減じたのであ る。また国立がんセンターへも出向させていただい た。がんセンターの手術場では,卓越した技能を持 つ執刀医がおり,術者として上には上がいることを 思い知らされた。このころは,臨床も研究も教育も すべてが同じように大きな比重を占めるようにな り,一時期は1〜6年生まで全学年の講義を担当 し,その総時間数は計102時間を上回ることさえ あった(図2)。
口腔インプラント学講座での16年間 2005年,千葉病院に診療科として口腔インプラン ト科が誕生し,私はそこに配置替えとなった。口腔 インプラント科開設当初は,私を含めて4名の医局 員と3名の歯科衛生士で始まった。
口腔インプラント科ができるまでのインプラント 診療は補綴科,保存科,口腔外科でばらばらに行わ れており,それぞれの料金も,使用インプラントも 異なっていた。口腔インプラント科開設からは,イ
ンプラント治療はすべて口腔インプラント科で行う ことにした。しかし,各科にはそれまで別々にイン プラント治療を行っていた医局員がいるわけであ る。そこで,インプラント科以外の医局員でインプ ラント治療を行いたい者を全臨床講座から募ると,
なんと120名から手が上がった。これらの医局員 が,インプラント科診療室で無法図にインプラント 治療を行うわけにはいかないため「インプラント治 療の質と安全を担保する規約」を策定した。この規 約により120名の医局員すべてを経験,技量により 見学から執刀医までの4段階に分けた。ステップ アップのための条件(ケース,試験等)を明確にし たうえで,インプラント科主催のカンファランス(週 に1回)や講習会等への出席も義務づけた。カン ファランスへの他科の医局員の出席は,本学のイン プラント治療の基本的な考え方を浸透するために大 いに役立った。ここに東京歯科大学インプラント治 療スタンダード(診断,治療,考え方)が,すべて の医局員に統一された。今後,大学全体として臨床 講座間の連携を強化し,東京歯科大学歯科治療スタ ンダードを全医局員に教育することも重要であろ う。その方略として「インプラント治療の質と安全 を担保する規約」が参考になるのではないかと考え ている。
図2 私の口腔外科第一講座時代の年表(1980〜2004年:24年間)
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2007年,口腔インプラント科は診療科から口腔イ ンプラント学研究室となり,大学院生を受け入れる ことができるようになった。2009年,口腔インプラ ント学講座に昇格し,2012年には大学院生18名の総 勢三十数名の大所帯となることができた。講座と なったことにより,本格的に口腔インプラント学の 講義,実習が始まり,有給者5名の半講座は,てん てこ舞いの大忙しだったが,すべての医局員が協力 し合い活気あふれる講座となった。その証拠として 半講座でありながら,医療収入は年間3億円をこ え,千葉病院の外来収入の中でトップの科となって いった。その後2013年6月,私は水道橋病院の病院 長に就任し,医局員よりも一足早く水道橋へ仕事場 を移すことになった。同年9月に臨床講座の水道橋 移転があり,水道橋病院口腔臨床科学講座インプラ ント部門が合流したことでさらに仲間が増え,よう やく1講座分の有給者数となることができた。現 在,口腔インプラント学講座での臨床,研究,教育 とも順調に発展し,医療収入も年度ごとに増収とな り,2019年度の水道橋病院と千葉歯科医療センター のインプラント科の医療収入を合計すると,7.2億 円まで増加している(図3,4)。
2名の恩師に感謝
私の口腔外科とインプラント科両時代には,2名 の恩師が存在する。24年間の口腔外科時代は野間弘 康教授から手術の基本,研究の姿勢,口腔外科医と しての矜持を厳しく教わった。大学院2年目の夏,
野間教授の頸部廓清術の手術に参加し,手術も終盤 に入ったとき頸部の内部縫合を任された。しかし,
私の内部縫合は10分間,ダメ出しの連続で,すべて の糸が切断され1糸も縫わせてもらえなかったこと を今でも鮮明に思い出す。手術の技術は自分のため ではなく,患者を救うために極めなければならない ことを教わった。
口腔インプラント学講座時代16年間の恩師は,添 島義和臨床教授・客員教授である。添島先生は偶然 にも野間教授の同級生で,熊本市で開業されてお り,日本で最初に ITI インプラント(現在の strau- mann インプラント)を臨床に用いたインプラント 治療の草分け的存在である。「歯科界にとって,東 京歯科大学に日本初の口腔インプラント学講座をつ くることが大変重要である」と,インプラント科が できる10年前から歴代の学長に説き続けていたとい う。当科の新設が決定した時は大変喜んでくださ り,外来の設計にもかかわっていただいた。開設し
図3 私の口腔インプラント学講座時代の年表Ⅰ:千葉時代(2004〜2012年)
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てからは臨床教授のトップとして飯島,椎貝,武田 臨床教授をまとめ上げ,われわれの臨床技能を高い レベルまで引き上げていただいた。千葉病院インプ ラント科の設計を行っている頃,添島先生の熊本の 診療室を訪ねた時「君は口腔外科を捨てられるか」
との言葉をいただいた。インプラント科のトップと なる覚悟を尋ねられたのであった。添島先生の本学 インプラント科への並々ならぬ期待を知り,身の引
き締まる思いであった。
口腔インプラント学講座の臨床業績 1.インプラント治療のリスクファクターの提案 図5は,当講座がインプラント治療のリスクファ クターをまとめて提案したものである。それまでの 教科書に掲載されているインプラント治療のリスク ファクターは,患者の局所的因子,つまり骨量や咬 図4 私の口腔インプラント学講座時代の年表Ⅱ:水道橋時代(2013〜2020年)
図5 インプラント治療のリスクファクター(東京歯科大学の分類)
今までは「局所的因子」だけが議論されていたが,「全身的因子」を追加した。さらに手術は誰が行っても同一 レベルではないため「術者側の因子」も明記した。
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合状態だけが論じられていた。しかし,われわれは
「患者の全身状態も当然インプラント治療の成功を 妨げるリスクと成り得る。さらに術者の知識や技能 の不足は,大きなリスクファクターである」と学会 シンポジウムや出版物を通じて提言し,今ではこれ らリスクファクターの分類が,口腔インプラント学 の教科書に採用されるようになった。
さらに図6は,インプラント治療のリスクファク ターとなる全身疾患の一覧である。これも当講座の 用いている分類を提示し,日本口腔インプラント学 会編の口腔インプラント治療指針にもこのまま記載 されるようになった。その当時,世界的なインプラ ント非営利学術組織である ITI においてさえも,リ スクファクターとなる全身疾患は,「口腔外科手術 において注意すべき全身疾患」としているだけで あった。つまり,手術を行う上で問題となる全身疾 患にしか目が向いておらず,インプラント治療の成 功を妨げる全身的因子は考えていないのである。こ れでは開業の先生方は,全身的因子による骨結合の 不成立や維持困難は起こり得ないと考えてしまう。
われわれはこの部分を危惧し,手術危険度としての
リスクとは別に,インプラントの骨結合を脅かす,
あるいは維持できない全身疾患をピックアップして 具体的に提案したわけである。
図7は当科開設以来行われている臨床検査を,イ ンプラント治療の流れに沿って記載したものであ る。スクリーニング検査として血液・尿検査によ り,全身疾患のスクリーニングを行い,さらに骨代 謝マーカーによって骨代謝についてのデータを集 め,唾液を用いた歯周病細菌検査も,インプラント 治療に進む全患者に行っている。そのほかの臨床検 査も随時,必要な患者に必要な時期に実施できるよ う準備している。当時,当科のスクリーニング検査 の結果から面白いデータが得られたため,新聞やテ レビで取り上げられた。インプラント治療を希望し て当科に来院した769名の患者のうち,臨床スク リーニング検査で異常値が認められたものは52.1%
で,半数以上を占めた。異常値ありのうち,患者自 身がこれらの異常値を自覚していなかった割合は,
87.3%であった。異常値ありの70名の患者が,内科 のコントロールを要した。つまり来院患者の約9.1
%(70/769)は,内科のコントロールが必要なほど
図6 インプラント治療のリスクファクターとなる全身疾患(東京歯科大 学の分類)
〇印:インプラント治療の成功を妨げるリスクあり 無印:手術危険度としてのリスクのみ
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の基礎疾患を持っているにもかかわらず,本人も自 覚しておらず,当然,問診表にも記載のない高いリ スクを抱えている患者であるということになる。こ れらの事実を学会誌,商業誌等に発表すると複数の メディアの目に留まり,読売新聞の特集や NHK ニュ―ス等で報道された。これにより,多くの歯科 医師およびインプラント治療を希望する患者に対し て,治療の前には様々な臨床検査を行う必要がある ことを強く印象づけることができた。
2.インプラント撤去基準の提案
図8は,当講座が考えたインプラント撤去基準で ある。東京のある大学のインプラント科において,
2年前に開業医が行ったインプラント治療が不良で あったため,インプラントは大学病院で除去され,
患者も疼痛から解放された。しかしインプラント埋 入を行った開業医が,自分に許可なく勝手にインプ ラントを除去されたと大学病院を相手に訴えた。そ れ以来,そのインプラント科は,早急に除去を必要 とするインプラント症例でも埋入した開業医の許可 が取れなければ,処置を行わない方針を取ってい る。これでは医療として成り立たない。患者はそっ ちのけである。
対応策として最も重要なことは,明確なインプラ ント撤去基準を策定することであり,今まで国際的
にも明確な撤去基準が示されていなかったことが大 きな問題であると考える。そこで,当講座で撤去し たインプラントの原因を調査し,これをもとにして 撤去基準案を作成した。これは日本口腔インプラン ト学会専門医講習会で当科の提案として発表し,い くつかのシンポジウムのテーマになり,徐々に活発 な議論が展開され始めているところである。また学 会だけでは拡散が不十分であるため,商業誌等にも 掲載し,この基準をたたき台とした撤去基準の議論 が広がり,早急にインプラント撤去基準が策定され ることを期待している。
3.インプラント治療を前提とした骨移植の目的 変更
口腔外科での経験から遊離ブロック骨移植は,た だ単にスペースメイキングだけの意味で有用であ り,ブロック骨の大部分は梗塞骨(血行不良のため 死滅した骨)とし時間をかけて吸収され,母床から の骨形成細胞により新しい骨が形成されることは,
十分に理解し十分に経験していた。ところが,イン プラント科が新設された2005年頃は,インプラント 界では,ちょうどトップダウントリートメント(理 想的な上部構造配列位置にあわせてインプラント埋 入位置を決定する:つまり既存骨がなければ積極的 に骨造成を行うべきという考え方)が主流となり始 図7 インプラント治療の流れと臨床検査(東京歯科大学口腔インプラント科の実際)
□:スクリーニング検査として全患者に実施
〇:必要とする一部患者に実施
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めた時期であった。
トップダウントリートメントの概念が広がるにつ れ,インプラントのための骨造成術が急増した。し かし,前述したような骨造成に関する基本的な考え 方が,多くのインプラント治療を行う開業歯科医師 に浸透しておらず,造った骨はそのまま生着し生き ながらえると考えていたものが大部分を占めてい た。それを否定するために学術大会やシンポジウム で強く訴えていたが,この流れは止まらない。そこ で,東歯学会シンポジウム2007年版 東京歯科大学 学会インプラントコンセンサスを発表した。「骨造 成術の目的は,インプラント埋入時に既存骨だけで はリスクの高い症例に対してリスクを軽減するだけ のものであり,長期的に骨量を維持することを目的 としない。さらに移植骨は継時的に減少し,上部構 造装着後も吸収は継続する。また審美性の改善を目 的とした骨造成術の長期予後には疑問が残る」とし た。これを発表した当時は,多くの学会指導者や臨 床家から批判を浴びたが,数年すると各自の症例で 骨造成術の予後が判明し,今ではこのコンセンサス は多くの論文で引用され,正しいことが広く伝わっ た。改めて東歯学会の存在の重さを実感できた(図 9)。
4.日本初のインプラント事故調査報告
2011年は,日本全国のインプラント治療を行って いる歯科医師にとっては試練の始まりとなった。
2012年12月末の国民生活センターの報告(歯科イン プラント治療に係る問題 身体的トラブルを中心 に)がきっかけであった。この報告書の内容は,イ ンプラント治療によって危害を受けた相談が多発し ており,5年間で343件の被害者からの苦情が寄せ られており,そのうち75%はいまだに身体的症状が 継続している。消費者へのメッセージとして,「イ ンプラントで危害を受けたらまず弁護士会へ相談し なさい」というものであった。それを受け,1か月 後に NHK はクローズアップ現代(2012.1.18)で
「歯科インプラント トラブル急増の理由」という 番組を放映し,同様の内容を次の朝の情報番組(朝 イチ)でも放映したため,単純に視聴率を合計する と20%に達し た と い う(NHK 調 べ)。ま さ に「や られたらやり返す。倍返しだ!」のドラマと肩を並 べる数字であり,日本人の5人に1人がみた計算と なる。
この番組では,NHK が全国の病院口腔外科にア ンケートを取り,500件の重篤なインプラント関連 の医療事故が明らかとなり,その86%が担当医の技 図8 インプラント撤去基準(東京歯科大学の試案)
抜歯の適応基準が絶対的,相対的と分けられているように,インプラントの撤去基準も同じように分類した。
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術不足によるものであると結論づけていた。これを きっかけとして,新聞,テレビ,雑誌では「インプ ラントの事故急増,危険な治療,歯科医師のもうけ 主義が原因」などといった言葉が並んだ。それま で,少なくとも2011年前半までは「インプラントは 素晴らしい治療,第二の永久歯,夢のような治療 法」という歯の浮くような評価であったものが,そ の振り子は一気に負の方に振れすぎてしまい,当科 に来院する患者も疑心暗鬼となっている様子が手に 取るように理解できた。「クローズアップ現代」放 映以降8か月間のインプラント治療に対するマイナ ス報道は,新聞報道:71件,週刊誌報道:10件,テ レ ビ 特 集:12件(Straumann Japan 調 べ)に 及 ん だ。マスメディアの論旨は,歯科医師過剰→経済的 問題発生→慣れない人がインプラント治療へ参入→
歯科医師の知識,技術,モラルの欠如→事故多発→
歯科医師,歯科医療に対する不信感である。これが インプラント治療に対する社会的評価となりつつ あった。事実,2011年の本邦の年間インプラント出 荷本数は約57万本であったが,2012年以降は40万本 を割り込む数字にまで落ち込んでいる。このままで
は,歯科界において20世紀最大の発明といわれてい るインプラント治療が,国民の健康増進には役立た なくなることを危惧し,私が学術委員長であった日 本顎顔面インプラント学会を通じて「インプラント 手術関連の重篤な医療事故」発生件数を,全国の歯 科大学・歯学部,医学部口腔外科,病院歯科等を中 心に約100施設の調査を行った。その結果を当講座 でまとめ,プレスリリースし同時に論文として投稿 した。図10はその結果である。
2009年から2011年までの3年間では,NHK が報 道しているような「急増」は認められず,3年間で 421件のインプラント手術関連の重篤な医療事故が 確認された。事故の7割は,神経損傷と上顎洞関連 であった。インプラントの事故に関する調査報告 は,本邦初であり,調査規模も全国を網羅している と高い評価を得た。そもそもメディアがアンケート 調査行う前に,学会が事故の集計を行っておくべき であり,学会の責任は大きいと考えられる。顎顔面 インプラント学会では,この時の調査結果を基準と して,3年おきにインプラント事故調査を行い公表 している。現在,事故事例は年々減少傾向にある。
図9 東京歯科大学学会 インプラントシンポジウムからの提言 口腔外科関連の提言
インプラント治療のための骨造成術の目的を明確にした。このコンセンサスには,その他に「歯周病関連の提 言」「補綴関連の提言」があり,3つの重要なインプラント治療のための提言が注目された。
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この原因は,インプラント治療を行っている母集団 の減少とともに,日本口腔インプラント学会から刊 行された「口腔インプラント治療指針」と「口腔イ ンプラント実習書」が,日本のインプラント治療の 知識,技能のスタンダードとなったことが大きいも のと考えている。
口腔インプラント学講座の研究
口腔インプラント学講座15年間の研究等の業績と して は,原 著 論 文:101編(内 学 位 論 文32編),解 説・総説論文:86編,症例報告:28編,学会招待講 演・特別講演:35講演,学会シンポジウム:39講 演,学会発表:507演題,学会長賞等の受賞:20演 題,文科省科学研究費の取得:23件(8,074万円),
治験・委託研究費・奨学寄附金等:28件(2,246万 円)である。文科省科学研究費および委託研究費等 の合計1億円以上の資金は,自由な研究,継続性の ある研究を行うために大変貴重な原資であり,これ らの経済的支援がなければこのような業績は上げら れなかったと思っている。多くの治験費,委託研究 費,寄付金を拠出してくださった企業の皆様にも大
変感謝している。
当講座で学位記を取得した医局員,これらを指導 した講師陣,さらに直接手取り足取りで研究の指導 をいただいた,基礎系の先生方や学外の研究施設の 先生方すべてに敬意と尊敬を込めて,32編の学位論 文のデータを図11〜18に提示した。実はこれらの研 究テーマは,まとまりがないように見えるが「イン プラント生存率の向上」という大きな目的に向けた 研究群である。母床骨の改善,インプラント周囲軟 組織の改善,インプラント材料の改善・開発,イン プラント形状やシステムの改善,リスクファクター の明確化の5つのラインは,すべてこの一つの目的 に向かっているのである。
教 育 1.学年主任,副主任として
副主任として99期生,106期生,109期生のそれぞ れ5,6年生の時期を担任した。主任としては105期 生(5,6年担当)およ び120期 生(3,4,5,6年 担当)を担当し,既卒担当主任も2回行っている。
教授としての15年間のうち8年は,学年主任をして 図10 インプラント手術関連の重篤な医療事故調査と「口腔インプラント治療指針」「口腔インプラント学実習書」
本邦で初めての本格的インプラント事故調査(2009.1〜2011.12)を行い,プレスリリースと同時に論文発 表。
その後,3年おきに同様の調査が行われ,事故は減少傾向にある。その要因となった日本口腔インプラント 学会編集の治療指針と卒前教育の実習書は,東京地裁民事35部にも置かれていた。
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いたことになる。おそらくこの経験年数はかなり多 い方であろう。6年生の学年主任を経験した者とし ない者では,決定的な違いがあることを実感してい る。6年生の国家試験直前の必死な顔つき,卒業で きなかった自分の行路に慟哭するような恐怖と迷い を帯びた顔,ボーダーラインだった学生が,合格を 聞いた時の子どものような天真爛漫な笑顔,こんな 顔をみられるだけで教師冥利に尽きるのである。こ
れらが教師の醍醐味なのである。彼らの日々の努力 あるいは,恐れや迷いを知っているからこそ味わえ る顔なのである。日常を知らずに,このような顔を 見ても感動はわかないであろう。「教育は情熱であ り感動である」と誰かがいっていた。
教師が学生と真摯に,真剣に向き合うためには,
学生から与えられる情熱や感動が必要なのである。
担任した学生から得られる感動は,何物にも代えが 図11 学位論文紹介Ⅰ:スタチン系薬剤を応用した骨治癒促進の検討(母床の改善)
図12 学位論文紹介Ⅱ:顎骨の生体結晶アパタイト配向性計測による骨質評価(母床の改善)
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たい人生の宝物となるはずである。その証拠に120 期生で初めて副主任を務めてくれた口腔外科の渡邉 章先生と麻酔科の塩崎恵子先生は,自分が卒業する わけでもないのに,謝恩会の後,誰の目もはばから ず120期生と抱き合ってドームホテル内で号泣を続 けた。号泣である。シクシク泣くのではない。声を
上げて顔をくしゃくしゃにして泣くのである。両先 生には,年齢も近いことから学生の中に入って,彼 らの気持ちや様子を報告してもらう役割を担っても らっていたからこそである。両先生も初めての経験 で不安がいっぱいの中,学生の手前,気丈にふる まっていたが,ついに最後に「本当に良かった。君 図13 学位論文紹介Ⅲ:インプラント周囲軟組織特異的発現遺伝子の同定(周囲軟組織の改善)
図14 学位論文紹介Ⅳ:インプラント周囲炎のメカニズム(増悪因子)の解明(リスクファクターの明確化)
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たちの担任で」という気持ちが涌き出たのであろ う。この涙は大学にとっても貴重な涙である。2名 の懐の深い教員が生まれた瞬間でもあったのだか ら。大変良い光景をみさせていただき幸せな気持ち になった。
なぜ120期生は,3年生から臨床系の私が担任す
ることになったのか。実は115期生を担当した後,
次に学年主任をやるのであれば1年生からやりたい と考えていた。学長にも直訴した。なぜなら,115 期生と共有したほとんどの時間は,成績,合格,不 合格等が大半で,歯科医師の仕事の魅力,発展性,
将来の歯科医療の方向性等は,2年間で一度も話し 図15 学位論文紹介Ⅴ:ジルコニア表面の改変とアバットメント抗菌効果(材料の開発・改善)
図16 学位論文紹介Ⅵ:イットリア安定化ジルコニア(Y-TZP)のインプラント体への応用および透光性ジル コニアの上部構造への応用(材料の開発・改善)
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てあげることができなかった。そんなことより,目 の前の合格であった。それならば1年生から6年生 までを連続で担任し,余裕のある低学年の時代から その年代に合わせた歯科医師,歯科医療の話を聞か せ,彼らに大きな夢を抱いてもらいたいと思ったか らである。臨床現場を経験している歯科医師でなけ れば語れないことを,1年生から教育したいと切望
した。これにはもう一つ伏線がある。実は今から二 十数年前,副担任をした卒業間近の99期生の一つの 班の約40名に「君たちの将来の夢は何?」と尋ね た。「ペリオを勉強したいので開業医で働いて,た くさんお金を貯めてアメリカにわたってペリオを極 めたい」「自分の実家の周りには内科も外科もない ので,麻酔科に残って全身的なことを学び,田舎に 図17 学位論文紹介Ⅶ:偏心荷重および摩耗が及ぼす影響:チタン,Y-TZP(材料の開発,リスクファクター
の明確化)
図18 学位論文紹介Ⅷ:エクソソームの分離・解析(リスクファクターの明確化)
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帰って地域医療に貢献したい」「イタリア車が大好 きなので,開業して大もうけをして大きなガレージ に何台もイタ車を留めて眺めたい」などなど,どれ もよい夢である。学生の夢を聞くたびに,自分の夢 のように感じうれしく思い,真新しい道の先に小さ な光が見えたようで本当に楽しい気分になる。
しかし,それから約20年後,主任をした卒業間近 の115期生にも同じように「君たちの将来の夢は 何?」と一つの班全体に尋ねると,だれも何もいわ ない。何度聞いてもいわない。これは皆の前で自分 の夢を語ることが恥ずかしいのだと感づいた私は,
一人ひとりをつぶすローラー作戦に変更した。自習 の問題を出し,その間に学生達のところを回り個別 に尋ねた。「夢なんてありません」という返事がほ とんどで,少々がっかりしていたのだが,35人ほど 尋ねた中で2名の男子学生がまったく同じ回答をし た。それは衝撃的な答えだった。「先生,20年後,
家族で食べて行ければいいです」大きなショックを 受けた。若者だからこそ夢を語れるはずなのに。夢 を語れないとは,なんと可哀想なことか。歯科医師 という仕事が,夢を持てない職業としてしまったの は誰の責任なのか。その責任は,現在生きている歯 科医師全員のせいではないだろうか。特に,歯科医 師の卵と毎日接しているわれわれ歯科大学の教師の 責任は重い。そうであるならば,私は彼らが夢を語 れるよう1年生から担任し,勉強以外の将来に対す る歯科医師としての多様な選択肢を語りたい。話を して一人でも多くの学生が,声高らかに自分の夢を 堂々と語れるようにしてあげたいと心から思ったの である。残念ながら,1年生からの担任は却下さ れ,それまでの慣習であった臨床系の教授は,5,
6年担当という部分だけが取り払われ,問題児で あった120期生を3年生から,はじめて臨床の教授 である私が担任することになった。これが,3〜6 年までを担当するシステムが始まった理由である。
そのため,病院長をやりながら学生の主任を行うと いう事態が発生し,かなり忙しい日々が続くことに なったが,教師として充実した毎日を送ることがで きた。学生に感謝である。3年生からの学年主任を 私が行うことに対して,学内には多くの批判があっ たと聞いている。こんな理由であったことを今初め て明かすこと,さらにわがままを通していただいた
ことをこの場を借りてお詫び申し上げたいと思う。
2.学生,医局員,国民に向けたインプラント教 育の方略
口腔インプラント学教育の主眼は,「安全・安心 なインプラント治療」である。学生への教育では,
全国の歯科大学に先駆け2007年に,4年生を対象と してインプラント埋入実習をいち早く導入した。こ の実習の目的は,「埋入手術の基本的技能の習得」
は当然だが,同時に「埋入手術による重篤な医療事 故を模型上で経験させ,事故への対応と予防法を身 に着ける」ことであった。実習Ⅰとして,通常の顎 堤模型に埋入することで基本技能を習得したのち,
実習Ⅱとして,グループごとに吸収の著しい顎堤模 型で埋入計画を立てさせ,その計画通りに埋入させ ることにした。医局員が行っても埋入などできない 模型である。当然,骨折,下顎管損傷,舌側皮質骨 穿孔などの多くの医療事故が発生する。自分たちが 引き起こした事故により,発現する症状,必要とな る緊急処置,対応法,さらに予防法をよりリアリ ティを持たせて検討させるのである。模型上で事故 を起こすことで,卒業後,自分の患者では決して医 療事故を起こさないよう,細心の注意を払うことが 可能となることを期待した基礎実習である。この実 習は,特徴的な基礎実習として NHK の複数の番組 で特集され,大きな反響を呼んだ。
当講座では,5種類のインプラントシステムの埋 入実習を,全科の医局員および研修医を対象に以前 より実施している。大学に在籍している医局員の大 半は,いずれ開業医となる。自分の診療室でインプ ラント治療を始めるに当たっては,メーカーの講習 会に参加し,良いことばかりを教えられ,そのメー カーのインプラントシステムを臨床に用いることに なる。しかし,これではインプラント治療に関する
「安全・安心なインプラント治療」という東歯大型 スタンダードは,本学卒業生に伝わらない。そこで 2009年より11年間,1回約2時間で年間5〜6回,
他科の若手医局員や研修医を中心に埋入実習を行っ ている。全科の医局員が東歯大型スタンダードを学 び,開業してからもインプラント医療事故を起こさ ず,「安全・安心なインプラント治療」を実践して もらうための方略である。
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インプラント医療事故を最小限にするためには,
歯科医師の教育ばかりではなく,国民を教育するこ とにより患者がインプラント治療に詳しくなり,賢 い消費者が「安全・安心なインプラント治療」を行 う歯科医師だけを選択できるようにすることも重要 であると考えた。そのためには,国民が一般の書店 で購入でき,新書版で低価格の本を出版したいと思 い立った。その日のうちに永末書店の知り合いに連 絡を取り,角川書店の編集者を紹介していただき,
直接,編集長を落とすために飯田橋の角川書店のビ ルに飛び込んだ。そこで「角川書店にはこの新書を 出版する社会的義務があること,さらに以前コカイ ンで逮捕された前社長の角川春樹氏はいかに才能豊 かな天才か」という無茶苦茶な理屈を1時間にわ たって熱く語った。どうも角川春樹氏をほめたこと が功を奏したようで,その後の編集会議によって 2013年春の出版が決定した(角川春樹氏のことは以 前から俳句で交流のあった義母から聞いていたた め,お世辞を伝えたのではない。天才的な俳句を作 るらしい)。私のインプラントに関する新書の出版 が決まった。この年の年末から年始にかけては,文 豪のように山の上ホテル泊かと思いきや,なんと編 集者と二人だけで,角川書店本社ビルの広くて寒い オフィスに缶詰めにされ,毎日3〜4時間ほどしか 寝ないで7日間で書き上げた。国民に向け,平易な 言葉で,患者に必要な知識,患者が知りたい知識で あることを意識して,何より「本音」で解説した本 である。特に本音で書いたことは,新聞等の書評で 高く評価された。角川書店としても予想外に売れた らしく,第2刷も出していただき,さらに第2版も 予定されている。
学会には一定レベル以上の実力を保証された専門 医が存在し,学会員は学術大会によって最新の知識 と技能を日々修得していることを,国民に知らしめ る必要があると考えた。これも患者が賢い消費者と なるために,知っておいてほしい情報である。学会 での「安全・安心なインプラント治療」推進事業を メディアを通してアピールしたいと考え,クローズ アップ現代のスタッフに連絡を取り,2011年,当講 座が主管した第15回日本顎顔面インプラント学会学 術 大 会 に NHK の カ メ ラ を 入 れ,19時 と21時 の ニュースで学会のシンポジウムの様子を放映しても
らった(図19)。
未来への提言 1.東京歯科大学の未来に向けて
千葉病院の副病院長の時代(2011年ごろ)から,
「学費値下げ合戦に本学は耐えられるのか」という 問題が,常に頭の隅に引っかかっていた。そのころ 順天堂大学医学部では,それまで6年間で約3,000 万円であった学費を3回にわたって値下げし,つい に2012年,1,000万円の値下げを断行し約2,000万円
/6年間の学費とした。これにより受験者数は増加 し,偏差値は60から70に急上昇した。さらに2015年,
医師国家試験の合格率は全国1位となった。学費の 値下げによって大成功を収めたわけである。この成 功により医学部の学費値下げ競争が始まり,医学部 から発生したこの競争は,歯学部にも急速に派生,
各校は優秀な学生を確保し,大学の実力を向上させ るために学費値下げに追随した。値下げをしていな い本学は,ご存じの通り取り残されたように高い学 費にとどまっている。
本学も学費を,6年間総額で1,000万円値下げし た場合のシミュレーションをしてみよう。1学年130 名,6年間の学費3,400万円として,これを順天堂 大学と同様に1,000万円/6年間の値下げをした場 合,年間収入として約13億円の減収となる。2013 年,水道橋病院長に就任した時,この13億円を新病 院の運営を工夫することでなんとか捻出できない か,数年間かけてこれを可能とするためにはどうす べきか。その方略として,「自費率向上による効率 の良い医療収入」と「病院外での医療収入」の2つ を柱と考えた。千葉から水道橋への移転により,
チェア数220台が130台に減少することを考慮する と,一台当たりのチェアの単価をあげなければなら ない。同時にチェアが少なければ,病院の外で,特 に医科の病院に入り込み収益を上げればよいと考え た。幸いにして水道橋周辺には,歯科のない大きな 病院が多数ある。ここで周術期口腔機能管理や摂食 嚥下等を当病院の歯科医師,歯科衛生士が実施する ことで,チェアがなくても病院の収益を上げること につながると考えた。図20は2005年から2019年まで の水道橋病院の総医療収入,収益(帰属収入−消費 支出),減価償却をグラフにしたものである。2013 歯科学報 Vol.121,No.3(2021) 269
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年9月に臨床系の医局員の水道橋移転が行われ,こ こからは水道橋病院で診療をする医局員の数は増加 した。それまで16億円の医療収入は,年々増加し,
2019年は29億円にまで達した。また病院全体の自費 率は,矯正歯科,補綴科,インプラント科の頑張り により金額ベースで約48%を達成した。この自費率 図19 正しいインプラント治療の教育:学生,医局員,国民に向けて
「安全・安心なインプラント治療」を目的として,様々な方略を考えた。
学生基礎実習の導入と工夫,他科医局員教育による東歯大スタンダードの確立,賢い患者となるための新書出 版,教育現場や学会のシンポジウムを放映し,メディアを通して国民へのアピールをした。
図20 水道橋病院の医療収入,収益(帰属収入−消費支出),減価償却
(2005〜2019年:病院概要・HP より)
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は,大学病院として異例の高さである。2017年3月 に水道橋病院のリニューアル工事が竣工したが,完 成するまでの長い期間,現場スタッフには,チェア 数や診療スペースの臨時縮小,入院・手術の制限な ど多大な負担をかけ続けた。しかし,それにもかか わらず,これだけの医療収入を達成できたことは,
各科の医局員が全力をあげて診療に取り組み,多く のスタッフがこれを支え続けてくれたからこそ成し 得たものと心から感謝している。
歯科のない近隣病院での診療は,当初,相手の病 院側に歯科の重要性や,周術期口腔機能管理の有用 性を理解してもらうことに時間を費やした。私が ターゲットとした病院に飛び込み,病院長や看護部 長にパワーポイントを使って歯科の重要性を説明す ることで,相手側も半信半疑のまま,杏雲堂病院,
三楽病院,石川島記念病院等と次々に連携ができ,
ここに口腔健康科学講座の医局員と歯科衛生士が出 張してくれた。彼らの活躍により,相手側の病棟看 護師たちからの信頼を得るには,大した時間はかか らなかった。大活躍である。しかし,これだけ病院 全体で医療収入を意識しても,これだけ頑張っても 水道橋病院の黒字は御覧の通り0.7〜2.1億円どまり であった。病院全体のリニューアルのための減価償 却費が,年間4億円をこえており,これが大きな負 担となっていることも事実である。私の病院長の6 年間,この程度の黒字では,到底,学費値下げによ り発生する13億円を補うことはできなかった。した がって,今回の慶応義塾大学との合併は,大学の実 力を向上するために大変合理的な手段であると拍手 喝采である。しかし,合併後,学費の値下げが実施 できなければ,合併の意義は半減するとも思ってい る。学費値下げが可能かどうか,これが今の東京歯 科大学の根幹的な問題なのであるから。
2.教育の未来に向けて
東京歯科大学の教育の未来に対する提言である。
矢島家に伝わる昔話を披露したい。
むかし,むかし,二組の家族が山奥に住ん で い ま し た。
ひと組はおじいさんと7歳の孫の男の子,もうひと組 はおばあさんと7歳の孫の男の子でした。それぞれの孫
は,山をいくつも超えて5日がかりで麓の村まで1人で 行かなければなりません。おじいさんは孫に5日分の食 料と寒くないように毛布を持たせて出発させました。と ころが,この孫は荷物が重すぎて途中で動けなくなって しまいました。
おばあさんの方は孫に狩りの方法や夜露を防ぐ方法を 教え,1日分の食料だけを持たせて出発させました。こ の子は途中でおじいさんの孫を助けて無事に麓の村まで 到着しました。
この40年間,おばあさんの孫のような学生を育成 したいと思って努力したが,成し遂げられなかっ た。大きな障壁はやはり国家試験である。国家試験 合格は目標ではないはずである。通過点であるべ き。しかし,必ず通過する必要があるチェックポイ ントである。国家試験合格のはるか彼方にみえる本 来の目的は,患者から信頼される良医となることで あろう。われわれ教師は,しばしば勘違いをする。
教育という名のもとに,知らず知らずのうちに自分 のコピーを作ろうとしていないだろうか。現在の学 生が活躍する20年後,30年後に社会が求めている歯 科医師像は,現在を生きているわれわれには全く分 からない。特に,コロナ禍という大きな返還点の後 の社会全体が向かう方向性は誰にも分からない。こ れからの歯科界は,これからの若い歯科医師が試行 錯誤を繰り返し,まったく新しい価値観で築き上げ ていかなければならないのである。大げさにいえば
「天地創造」である。
今の学生達は歯科界のフロンティアとして,血脇 フロンティア集団と同じように「歯科界の創造」を しなければならないのである。ここには,自分の力 で考え,問題を乗り越えて行くことのできる能力,
また高い向上心が必要であり,われわれ教師は狩り の方法と夜露を防ぐ方法を教え,状況に応じて自ら 考え,方向を決定して進む推進力となる原料を彼ら に与えるべきだと思う。どうかこれからの東京歯科 大学の教育では,どんなに大きな障壁をも乗り越え られる勇気と精神力と実行力を備えた,おばあさん の孫のような学生達を育て上げていただきたいと 願ってやまない。
3.インプラント医療の未来に向けて
健康長寿のために,口腔機能の改善・向上が注目 を集めている。オーラルフレイルという言葉もつく 歯科学報 Vol.121,No.3(2021) 271
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られ「口腔の些細なトラブル」という目印が,フレ イルや身体機能障害による要介護状態を予防・改善 するために重要な役割を担うことが分かってきた。
特に,柏スタディによりオーラルフレイル→フレイ ル→サルコペニア→要介護状態→死亡という流れが 確定され,口腔機能の改善・向上を図ることが健康 長寿の最重要項目の一つとなった。そこで,インプ ラント治療の介入によってオーラルフレイルレベル の低下防止・改善に役立てることが,インプラント 治療の将来に対して大きな目的の一つと考えられ る。
現在の日本人の健康寿命から考えると,男性は最 期の9年間誰かの世話にならなければ死ねない。女 性は,12年間誰かの世話にならなければ死ぬことが できないのである。健康寿命と平均寿命の差が縮ま れば,本人の喜びばかりでなく,医療費,介護費,
高齢者福祉費を抑制することができる。社会にとっ ても大きなメリットが生まれることになる。特に元 気な老人が増加すれば,年をとっても働くことがで きる。日本医師会前会長の横倉先生は,有名な横倉 ドクトリンの中で「健康寿命を75歳まで伸ばして労 働者とすることができれば,労働人口の比率は2040 年まで現在と変わらない」といっている。つまり,
高齢者が高齢者を支えるシステムになるのである。
現在,インプラント治療は,義足やコンタクトレ ンズと同様にリハビリテーションの医療器具であ る。しかし,インプラント治療によってオーラルフ レイルを改善(咀嚼機能,舌の運動障害,嚥下機 能,食べこぼし等の改善)ができれば,低栄養,サ
ルコペニア,摂食障害等を改善することにつなが る。残念ながら,これらに関する大規模データはな いが,日常臨床の現場では,インプラント治療後,
咀嚼機能や嚥下機能,さらに食べこぼしや発音の改 善が得られていることは紛れもない事実である。ほ とんどの高齢者は,様々な原因で低アルブミン血症 を起こし,高齢者の代表的感染症である尿路感染や 肺炎に罹患する。つまり,インプラント治療によっ て低アルブミン血症の予防や改善が可能であるとい うデータが集まれば,インプラント治療はリハビリ テーションの器具ではなく,病気を治す治療法であ ることが証明される。インプラント治療が病気を治 す治療であるならば,保険収載ができるよう働きか けることも可能であろう。
インプラント治療を国民医療とするためには,多 くの患者がインプラント治療の快適さを自覚し,社 会,国民から大きな支持を得ることも重要であると 考える。インプラント治療を保険収載し,国民医療 とするための大きな障害は,一定レベル以上の歯科 医師の技術力の担保,および国民医療費の枠組み
(総額43兆円のうち歯科は2.9兆円)の変更による インプラント治療の財源確保であろう。インプラン ト治療の未来は,リハビリテーションの医療器具で ある現在の存在位置をステップアップし,特定の疾 病を改善・予防するための治療法となれば,インプ ラント治療のプレゼンスは飛躍的に向上することに なる(図21)。
図21 インプラント治療のプレゼンスを向上し国民医療へ
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謝 辞
最後に口腔インプラント学講座に所属した95名の先生 方(図22),また口腔インプラント科を支えてくれた多く の歯科衛生士の皆さま,スタッフの皆さま,事務の皆さ
ま,講座の発展にご尽力いただき誠にありがとうござい ました。心より感謝申し上げます。また,この40年間,
お世話になった東京歯科大学のすべての方々にこの場を 借りて御礼申し上げます。長い間お世話になりました。
ありがとうございました。
Looking back on my 40 years at TDC during the coronavirus crisis
Yasutomo YAJIMA
Department of Oral and Maxillofacial Implantology, Tokyo Dental College Key words: coronavirus crisis, implantology, retinement memory lecture, 40 years at TDC
図22 口腔インプラント学講座に在籍した95名の仲間たち
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