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Reading Toyohiko KAGAWA

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賀川豊彦を読む

―公共哲学部門対話研究会報告 千葉大学人文社会科学研究科 特任教員 伊丹 謙太郎 はじめに  2008年9月30日(火)に千葉大学人文社会科学系総合研究棟1階演習室1 にて、公共哲学部門対話研究会が開催された。本研究会では、杉浦秀典氏(賀 川豊彦記念・松沢資料館学芸員)より「賀川豊彦を読む―愛と社会正義を追い 求めた生涯―」と題する報告を得た。講演者は学芸員として、賀川豊彦に関す る国内外の資料収集における中心的役割を果たすとともに、キリスト教の牧師 としても活躍されている。賀川豊彦の残した膨大な原資料の整理や保存処理、 データベース作りやリファレンス対応をするアーキビストとして資料館での業 務に携わられるほか、大学の演習や資料館来館者、団体職員等を対象に賀川の 活動について講義するなどの社会教育も行われている。  公共哲学部門では、これまでのセミナーでも、平和や友愛がたびたびキーワー ドとなってきた。また、公共哲学センター長である小林正弥・法経学部教授も 中心メンバーとなっている『公共哲学』シリーズ(東京大学出版会)の第17 巻では、福沢諭吉や南原繁、石牟礼道子、康有為、李洪洙など公共政界の形成 において大きな役割を果たしたとされるアジアの知識人が「公共的知識人」と いう形で採り上げ、検討されている。そして、友愛や平和という観点から日本 の思想家を考えるとすれば、大正・昭和期を中心に活躍したキリスト教社会運 動家である賀川豊彦は極めて重要な存在である。そこで今回は賀川の思想・実 践に光を当てることとなった。

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 来年の2009年は賀川豊彦献身(スラム街での活動開始)100年にあたり、 その足跡を再評価していこうという動きもある1。今回の報告では、多数の記 録スライドや映像資料2も活用しながら賀川の足跡全体を振り返り、同時代の 歴史的背景や賀川の思想的スタンス、賀川が創始した諸々の社会事業の今日の 展開まで多様な話題に触れられた。 1.出生からプリンストン大学留学まで  最初に、講演者は、賀川豊彦の出生から説明を行われた。1888年7月10日、 兵庫県神戸市で生まれた賀川豊彦が非嫡出子であり、4歳のときに父親(純一) の他界に伴って徳島の賀川家に引き取られることとなったこと、さらに非嫡出 子ゆえの差別を受けたことなど、幼少期の経緯がその後の賀川の性格形成に大 きな影響を与えたことが語られた。  賀川は、徳島中学時代(15歳)にマイヤース宣教師より洗礼を受ける。翌 1905年には明治学院に入学、「一生を支配するほどの知的満足を図書館から得 た」と賀川本人が語るほど読書に明け暮れたようである。1907年、明治学院 から神戸神学校に移り、1909年には神戸市にある通称「新川」と呼ばれるス ラムに移り住むことになる。新川での経験は、キリスト教伝道だけではなく、 病者の介護やこどもの保育、教育、食料の配給、無料診療所、職業斡旋など多 くの社会事業に結実したことが説明された。特に、「貰い子殺し」の習慣に賀 川が胸を痛めたというエピソードは、賀川における「こどもの権利」思想の萌 芽を思わせるほか、保育事業への献身など、晩年の賀川の活動にまで一貫した 倫理観を垣間見せるものであった。 1 賀川豊彦献身100年記念事業実行委員会が、神戸・東京の2ヶ所で立ちあげられ、 それぞれがシンポジウムを開催するなどのプロジェクトを企画している。今回の対 話研究会では、同東京プロジェクトの広報委員長を務める伴武澄氏も列席され、プ ロジェクトの概要などについてご説明いただいた。

2「賀川豊彦を知っていますか?」NHK1988)。「A DAY WITH KAGAWA(米国、

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 1914年8月、賀川は米国プリンストン大学に留学し、翌年には実験心理学 および生物学の論文でM.A.のクレジットを受ける。賀川の心理学に対する知 識は、初期の作品『貧民心理の研究』(1915年刊)を通しても確認できる。同 書はスラム街での経験や見聞に基づいて書かれた当時の下層社会のエスノグラ フィでもあるが、後年賀川豊彦全集に再録される際に部落問題に対する差別的 記述が批判されたとのことであった3。米国滞在中の賀川は、ユタ州日本人会 書記に就任し、小作人組合による労働運動を指導して、その際に同地での労働 運動に強く感化された。こうした米国での経験は、社会運動家としての賀川豊 彦を形成する上で貴重なものであった。  賀川の社会事業に対する姿勢についても「救貧から防貧へ4」というキーワー ドを用いて説明された。当初の賀川は救貧事業としてスラム街での活動を開始 したが、「社会事業というものは、人間相互のたすけあいによって、個人ある いは社会の悪い所をよくしてゆこうという働きである」5という認識の転換が、 「防貧事業」に社会問題解決の糸口を示すものとなり、賀川を労働運動・農民 組合運動等の社会運動に向かわせたのである。 2.労働運動・農民組合運動の指導者としての賀川  1917年に米国より帰国した賀川は、神戸における伝道と社会事業を再開す る。この頃、鈴木文治が設立した友愛会が賀川との接触し、翌18年には賀川 も友愛会評議員に就くこととなった。この時期の賀川は友愛会を中心に関西で の労働運動に参加、指導者としての地位を確立するに至る。友愛会関西労働同 盟会の結成において宣言を起草するなど活発な活動を行い、スト権や治安維 3 この経緯については、『資料集『賀川豊彦全集』と部落差別』(キリスト新聞社、 1991年)が詳細な情報を与えてくれる。 4 賀川の救貧・防貧策にみられる問題点を統治権力との関係から検証する試みとし て河路絹代「生―権力からファシズムへ―賀川豊彦における公共性の問題」(1)∼(3) がある(『早稲田政治公法研究』84号、2007より分載中)。 5 賀川豊彦「農村社会事業」(全集12巻)、同「防貧策の科学的知識」(全集10巻)。

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持法の撤廃、8時間労働制を要求する労働争議に積極的にコミットしていった。 ここで講演者によって賀川の労働運動思想についての説明が行われた。当時の 賀川は、マルクス主義にみられる唯物論に反対の姿勢を示し、「唯心論」に基 づく「主観経済学」の理論を提起している。彼の思想は、「純経済運動として 政治運動と絶縁することこれは社会主義と混同させられぬため」6という言葉 にも表れている。労働運動を「非政治的なもの」であると規定する彼の言論は、 社会主義やアナーキズムといったヨーロッパの思潮が盛んに移入され急進化し つつあった当時の労働運動から穏健さを非難され71921年の三菱川崎大労働 争議の敗北を機に農民組合運動に軸足を移すこととなる。  講演者は、賀川が農民組合運動に興味をもった理由として、幼少期を過ごし た徳島の原風景と、工業化が著しかった当時の都市スラム労働者が農村から 供給されているという社会構造に対する冷静な認識の2つを挙げた。1921年、 6 賀川豊彦「日本における防貧策としての労働組合運動」(全集8巻) 7 当時は、社会主義やアナーキズム思想の移入が本格的になった時代であり、賀川の 立場は「穏健なギルド社会主義」として批判されることが多かった。なお、賀川は『自 由組合論』(1921、全集11巻)において自身の立場をギルド社会主義ではなく、「動 的人格的社会化主義」として説明している(松野尾浩「賀川豊彦の経済観と協同組 合思想」『地域創成研究年報』Vol.3、2008)。また、賀川が関西労働組合運動の指導 者であったことは、関東・関西の労働運動の温度差も示すものである。この点につ いては普選運動と絡めて指摘した松尾尊兊『大正デモクラシー』(岩波同時代ライブ ラリー、1994)など。小南浩一「賀川豊彦と大杉栄―大正デモクラシー期における 労働運動の可能性」(『法政論叢』Vol.43、2006)は、両者の「生命」観などを比較し、 実践上の距離に比して賀川と大杉の思想的源流が極めて近いものであると論じた上 で、賀川の思想が柄谷行人によるアソシエーショニズム論といった現代にまで繋が る極めて広い射程を有していたことを指摘している。その他、社会主義の急進化と 異なる立場である(賀川を含む)大正デモクラシーに至るクリスチャン言論人の思 想的影響力については三宅正一『激動期の日本社会運動史』(現代評論社、1973)が 参考となる。なお、こうした賀川の思想すら「危険なもの」として青年大宅の目に は魅力的に映ったという加山久夫「大宅荘一の賀川豊彦素描」(『雲の柱』2008年春) や青地晨編『大宅荘一日記』(中央公論社、1971)の指摘は、思想内容のラディカル さとは別のものとして、当時の賀川像がどういうものだったのか受容者側から迫る 大切な視点だと思われる。これに近いものに、金子啓一「賀川豊彦のもう一つの読み」 『賀川豊彦研究』Vol.45(本所賀川記念館、2002)にある「物語られる賀川豊彦」と いうアプローチの提唱がある。

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賀川は杉山元次郎らと日本農民組合を結成、数ヶ月で会員3万名、29の支部 を数え、多くの小作争議を指導する。労働運動に対する姿勢と同じく、ここで も階級闘争ではなく穏健な組合運動を通じた農政改革が主張されている。農村 問題において賀川の精神的主柱となったのは「土地を愛し、人を愛し、神を愛 する(愛土、愛隣、愛神)」という三愛主義であり、農業の多角的経営を提唱 する「立体農業」、協同組合主義である。この分野における賀川の足跡は、日 本農民組合の後継組織である全日本農民組合連合会(全日農)のほか、雪印乳 業や高崎ハム、酪農学園大学にも辿れる8ことが説明された。 3.生活協同組合運動  今回の公共哲学部門対話研究会のポスターでも「現在のコープの父」という 紹介文を示したように、今日において、賀川豊彦は生活協同組合の創始者とし てイメージされることが多い。多様な分野でその足跡を残す賀川であるが、協 同組合事業については戦前戦後と一貫して日本を主導する立場にあった9  まず、講演者は、賀川の協同組合思想の淵源を石川三四郎『協同組合の話』 (1905)、ロバート・オウエン(英)やロッジデール消費組合、シュルツェ、 ライファイゼン(独)らの信用組合運動にあったと指摘しつつ、1924-25年 の欧米視察が本格的に協同組合運動に取り組む転機となったことが説明され た。賀川は1920年に神戸購買組合・灘購買組合を設立後、翌21年には安部 磯雄らと東京学生消費組合、医療生協を、28年には中ノ郷質信用組合を設立 8 賀川は雪印乳業や酪農学園の事業に直接関与したわけではない。詳しくはBlog 「Think Kagawa―賀川豊彦献身100年記念事業実行委員会」http://d.hatena.ne.jp/

kagawa100/の伴武澄「雪印乳業と黒沢酉蔵」参照。 9 もっとも、R.シルジェン『賀川豊彦―愛と社会正義を追い求めた生涯』(賀川豊彦 記念松沢資料館監訳、新教出版社、2007)によれば、日本の協同組合運動に果たし た賀川の役割の過大評価がみられ、賀川自身が14世紀の「講」に遡る相互扶助の精 神といった日本の文化伝統に率直に頼ろうとしていた点を再考する必要があるとさ れている。シルジェンが注目するのは、「賀川精神」と呼ばれる協同組合運動と平和 思想・国際的共生との理念的結合であり、同書では、(日本ではなく)米国の協同組 合運動への賀川のインパクトの大きさが強調されている。

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している。神戸・灘購買組合設立の前々年には吉野作造を理事長とする「家庭 購買会」が発足するなど、この時期には大都市圏で複数の消費組合が生まれた が、賀川の協同組合には共済や医療が含まれることが大きな特徴であることが 講演者によって指摘された10。日本協同組合同盟(後の日本生活協同組合連合 会)設立に至る賀川の協同組合運動の根本理念は「相互扶助による兄弟愛(友 愛)の精神」であり、このモデルはヨーロッパの修道院文化の精神に淵源を 辿ることができる。「兄弟愛による搾取なき経済組織の実現」が賀川の求めた 協同組合であり、2009年に翻訳出版予定のToyohiko Kagawa『Brotherhood Economics』(Harper、1936)は、こうした賀川の思想を読み解き、今日に活 かす手がかりとなるだろう11 4.文学者・平和運動家としての賀川  多数の社会運動、社会事業にかかわるとともに、賀川豊彦には文学者として の顔もある。小説『死線を越えて』(1920)は、100万部を売り上げた大正期 最大のベストセラーであり、論文や詩集、児童書、随筆を含めると賀川の出版 物は300点を超える。講演者によれば、この印税収入のほとんどが組合活動 等社会活動の資金となったと同時に、小説や詩集を読んで感化されたものが組 合活動における賀川の共闘者となったということであった。『乳と蜜の流るゝ 郷』(1935)などは先にみた立体農業や協同組合の理念を平易かつ心を打つ文 体で小説として提示したものであり、だからこそ当時の都市インテリ(読書人) 層以外に農村まで含む広範な大衆を社会運動・協同組合運動へと惹きつける魅 10戦後に共済事業のJA共済(1950)や全労連(1957)、金融機関の労働金庫(1949)、 保険事業の共栄火災会場保険相互会社(1942)などとして結実する。 11今回の報告では、賀川の協同組合論として『家庭小説消費組合物語』(購買組合共 益社、1926)から次の文章が引用された。「消費組合運動は、人生に直面したる理想 的社会改造の実際運動であり、欠陥の多い資本主義営利的経済組織の建て替えであ る。而してまた自治的共同訓練であり、愛の精神教育である。我等は単に組合事業 の経営のみを以って満足すべきでなく、堅実なる合理的社会改造運動の先駆として、 消費組合精神の普及を図らんと欲する者である。」

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力があったのだと思われる12  次に平和運動家としての賀川像が示された。徳島中学時代トルストイを愛読 した賀川は、「世界平和論」を徳島毎日新聞に発表(7回連載、1906年、当時 18歳)している13。日中戦争開始の翌1938年に協同組合的世界経済同盟を提 唱した賀川には協同組合によって経済のみならず世界平和を導くことができる という確信があったのだと思われる。戦時中には反戦思想の嫌疑で2度にわ たり拘留されたが、その間にも―失敗に終わったが―訪米平和使節団として日 中の調停や日米開戦阻止の働きかけを行っている。また、講演者が学芸員を務 める賀川豊彦記念・松沢資料館では、昨2006年「満州基督教開拓村と賀川豊 彦」という特別展を開き、『愛の科学』中国語版序文14では中国の同胞への謝 罪を語った賀川が満州問題では国策協力の役割を果たしていた点を批判的に検 12この点について、映像資料として提供された「賀川豊彦を知っていますか?」 (NHK、1988)における大江健三郎の発言では、同時期に出版された『死線を越え て』と『貧民心理の研究』の間にみられる表現の乖離について、後者が当時の知識 人層の文章における「眼差し」を反映したものであるとし、賀川の差別的表現の問 題をより大きな時代背景・社会構造と重ね合わせて問題化されている。なお、先の 脚注ではクリスチャン言論人の影響力についての参考文献を附したが、芳賀綏『言 論と日本人』(講談社学術文庫、1999)は社会運動の指導者としての賀川の弁舌に対し、 「発想・修辞のバタくささ」「外国語や学術用語のキザっぽさ」が労働者大衆を惹き つけたと述べている。感情移入しやすい小説の構成・表現が賀川の影響力を支えた とする大江の発言と対比すると、賀川のエリート然としたところもその魅力の源泉 であり、すなわち、賀川自身、想定される聴衆や読者に向けて言論表現を(意識的に) 絶妙に使い分けていたと解釈することも可能であろう。こういった形で賀川の差別 的言説のコンテクストを重視することは、大江のように当時の知識層全体の問題(鈍 感さ)として賀川を救い出すのとはまた別の方向性を示唆するものであろう。私見 だが、賀川のナイーブさを前提とした消極的弁護(逆に、河路論文はナイーブさゆ えの体制奉仕という積極的批判を行っているように思われる)から離れ、後述の吉 本論文の視点(一貫した現実主義者としての賀川)や前述したシルジェンで指摘さ れている戦間期における平和主義と愛国主義とのバランスに対する賀川の認識など に新しい賀川像の糸口を探ることも重要だと思われる。もっとも、シルジェン(同 253頁)が引用しているように、賀川「武蔵野の森より」(全集24巻)が示す松岡 洋右評など、人物や時局に対しナイーブとしか表現できない側面が賀川にあること も確かであり、魅力でもあるのだろう。 13前年にはラスキン「胡麻と百合」の翻訳を同紙に連載しているが、これは文学者 としての賀川の一面でもある。

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証する作業を行ったということであった。他にも、対外ラジオ放送で米国批判 を行ったことや、イシガオサム事件をめぐる国際非戦同盟からの脱退宣言15 ど、賀川と戦争の話題も展開された16  戦後の賀川は、終戦の翌月に国際平和協会を設立し初代理事長となったほ か、世界連邦建設同盟(1948年結成、総裁は尾崎行雄)の副総裁を務めるなど、 国際平和に向け積極的に取り組み1751年広島で開かれた世界連邦アジア会議 では、議長として「われらはマハトマ・ガンジーの「真理の把持」の原理にた ちて世界連邦運動を協力に推進する」と結ばれる宣言を行った。  こうした説明の後、講演者は「制度と精神の同時並行的改造」が賀川の思想 の特徴であるという指摘を行い、経済問題の解決を協同組合主義によって行お うとした賀川の提案は思想的には意識の覚醒による互助友愛思想であると捉え られるものであり、その実践は「民主的経済共同体」の構築にあったのだとさ れた。そして賀川の事業が今日どのような形で発展してきているのかについて、 協同組合や企業、教育機関など具体例を挙げながら紹介され発表が終了した。 14米沢和一郎「賀川豊彦の戦時下における侵略謝罪の意義」『賀川豊彦研究』Vol.31(本 所賀川記念館、1996)、浜田直也「中国語版『愛の科学』著者新序、訳者序について」 『賀川豊彦研究』Vol.53(同、2008)などに詳しい。 15この間の経緯については、吉本浩三「イシガオサムの兵役拒否と賀川豊彦―資料 紹介を兼ねて―」『阿波牧舎』Vol.3(賀川豊彦記念・鳴門友愛会、2006)に詳しい。 吉本は、賀川の平和主義からの転向の証拠とされる「ランズベリー卿への手紙」に 対し、当のランズベリー卿が手紙の3年前に没していたことや当時の取調べの状況 から<フィクションの手紙>であったと指摘し、賀川転向論における歴史資料の批 判的検証の甘さを指摘している。 16戦時中の国策協力、被差別部落問題とともに、ハンセン病患者のために設立した 日本MTLの活動にみられる賀川の優生思想にも言及された。この問題をめぐっては、 藤野豊『日本ファシズムと優生思想』(かもがわ出版、1998)に詳しい。 17なお、杉浦・伴両氏があまり人口に膾炙していないことを残念がっておられたが、 終戦年の12月に尾崎行雄が議会に提出した「世界連邦建設に関する決議案」にあっ た世界連邦構想を盛り込んだ「国連創設及びわが国の終戦・被爆六十周年に当たり 更なる国際平和の構築への貢献を誓約する決議」が2005年8月衆議院本会議で可決 成立している。

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5.討論  今回の対話研究会では、公共哲学セクションで事前の検討会において提起さ れた論点をまとめて書面で質問をしていた。これに対し、講演者の杉浦氏から賀 川の著作からの引用を含む紙面回答が配られ、それに基づいて討議が開始された。  まず、「『自由組合論』で展開された賀川の労働組合論、労働運動論の特徴は、 当時の社会情勢においてどのような位置にあったといえるのか」という質問に 対しては、暴力革命の否定と人間の自由意志による労働組織の形成が賀川の特 徴であり、マルクス主義やサンディカリズムとは異なる主体の真理による解放 があるという説明がなされた。賀川は労働組合を起訴とした新社会の創設を求 めており、同書では労働者に産業管理権が与えられた産業民主主義が主張され ている。賀川は「あくまで非政治的で、純粋な経済活動」として労働問題に取 り組んだとされる。また、労働価値説と対比される「人格価値説」の提唱も指 摘された。こうした賀川の立場は、階級闘争というよりも内的生命の成長と社 会進化による解放という形で他愛社会の到来を希求するものであった。  次に、「賀川の思想は、現在の地球的・地域的な環境問題に対してどのよう な応答ができるか。彼が生きていたらどのような環境運動を行うだろうか」と いう質問に対し、講演者は「立体農業の理論と実際」(1935)の文章を引きな がら、賀川の農業政策は生態系の維持をも前提としたものだと説明された。ま た、大阪日報の連載風刺小説「空中征服」(1922)の概要を示しつつ、賀川が すでに大正11年に煤煙による環境汚染を警告しており、今日賀川が生きてい たらCO2取引への協同組合的取組を提案するのではないかと述べられた。  「プロテスタント諸派を含む当時のキリスト者・キリスト教系知識人の賀川 に対する反応、およびこれに対する賀川の対応はどうだったのか」という問い に対しては、当時の多くの正統的教会は、人間の人格的内面の問題に救済の焦 点を当てる傾向があったと指摘し、それゆえ「パン」を求める者に主体的にか かわることはなかったと説明され、教会内の「兄弟愛」に自己限定された隣人

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愛の理念と賀川の友愛との相違点に説き及ばれた。  「賀川の言動や社会活動に対し共同体主義(コミュニタリアン)としての賀 川像を描くことは可能か」という質問に対しては、賀川が協同組合による共同 体的な発想を推奨しており、ドイツの「ゲマインシャフト」兄弟団、修道院文 化など、全人格的なかかわり合いを勧めていると述べられた。共同体主義とし て描く場合には、協同組合的経済共同体によって社会問題を解決しようとした 賀川の姿が参考になることが指摘された。  「協同組合運動など、賀川の言論は経済に主眼が置かれていたと思うが、賀 川の政治思想というものがあれば、どのあたりに〔時期・著作〕に見ることが できるか」という質問に対し、講演者は、賀川の究極的な思想目的は国家の協 同組合化にあったのだと指摘された。協同組合貿易の提唱による世界平和の実 現など、賀川が目指していたものは、資本主義を漸進的に改良していくことで 最終的に協同組合経済による国家体制である。こうした説明の根拠として、「世 界平和の協同組合的工作」(1935)、『Brotherhood Economics』(1936)や協 同組合的世界経済同盟の提唱(1938)などが挙げられ、現代の北欧型社会民 主主義の路線に近いのではないかとも付言された。  その他、賀川の思想について、『Brotherhood Economics』と友愛の理念の 問題、賀川が自己規定した「動的人格的社会化主義」という概念の内容、晩年 の賀川の哲学書『宇宙の目的』(1958)や、初期社会主義やユートピア思想と の関係などについて話が及んだ。 後記  今回は、講演者である杉浦秀典氏に対し、賀川の経済思想・協同組合思想を 中心に賀川像全体に触れていただくようお願いしていた。宗教者賀川について は、各自の信仰上の背景や対話セミナー参加者の宗教知識によって大きな差が 生まれるという配慮もあったためである。しかし、今回の講演を聴講し、逆に 宗教者賀川が賀川の思想・実践において中核的なものであることが改めて確認

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された。賀川の経済思想のユニークさは、むしろこの賀川の宗教観との関係で 検討しなければ正確な理解を得ることはできないだろう。  賀川豊彦を「忘れられた巨人」と評したのは今回の講演者が学芸員を務める 松沢資料館の館長加山久夫氏(明治学院大学名誉教授)であるが、賀川が手が けた社会事業は今もわれわれの身近に息づいている。今回の講演で、あらため て賀川の再考が現代日本社会を問い直す手がかりになると実感するに至った。  また今回列席された伴武澄氏(共同通信社勤務、財団法人国際平和協会・会 長)からは、2009年の賀川豊彦献身100年記念事業では、共同研究の出版や 海外の賀川研究書の邦訳など学術面にも力を入れていることが語られた。  近年、米沢和一郎氏(明治学院大学キリスト教研究所協力研究員)の編にな る『人物書誌体系37 賀川豊彦Ⅱ』(日外アソシエーツ、2006)、同著『賀川豊 彦の海外資料Ⅱその意図したものを読み解くために』(明治学院大学キリスト 教研究所、2007)やM.R.マリンズ氏(上智大学教授)による米国内賀川資料 の発掘など、国内外の賀川関連文献の収集が精力的に進められている(講演者 の杉浦氏も松沢資料館にてこうした賀川資料の収集・分析に努められている)。 一方で「関西で世代交代が徐々に始まっているが、関東では、まだ直接賀川豊 彦を知る関係者が比較的多く残っている。他方、体系的なオーラル・ヒストリー の収集はなされていない」(「賀川豊彦の遺産と現代」日本宗教学会発表資料、 2008.09)という濱田陽氏(帝京大学准教授)が指摘する課題も残されている。  公共哲学部門での賀川研究は緒についたばかりであるが、以上に挙げたよう な先達の研究に多くを負うことになるだろう。近代日本における賀川の実践の 思想的意義を公共哲学という視角から検討していくだけではなく、むしろ賀川 研究を通じて公共哲学自体がより一層の進展を得るのだという期待に包まれた 講演・討議であったという感想をもった。これは私のみならず、対話研究会の 会場全体で共有された認識でもあったのではないだろうか。 (いたみ・けんたろう) (2008年10月27日受理)

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