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Nakatsushi gakko ni kansuru kosatsu

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(1)Title Sub Title Author Publisher Publication year Jtitle Abstract Notes Genre URL. Powered by TCPDF (www.tcpdf.org). 中津市学校に関する考察 西澤, 直子(Nishizawa, Naoko) 慶應義塾福澤研究センター 1999 近代日本研究 Vol.16, (1999. ) ,p.65- 140. Departmental Bulletin Paper http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN10005325-19990000 -0065.

(2) 近代日本研究第十六巻二九九九年. 中津市学校に関する考察. はじめに. 直. しまないと述べている。. 子. 明治三年十一月二十七日執筆の「中津留別之書」でも「洋学の急務なる」を主張し中. 希望していたことなので、学校ができたあかつきには折々帰省するし、慶雁義塾から人を派遣するなど協力を惜. 治二年二八六九)四月十七日付藤本一冗岱宛書簡では「中津にも追々洋学御開相成候よし」を聞き、自分が切に. 中、ロンドンから中津藩の重臣島津祐太郎に宛てた書簡の中で、洋学による人材育成の急務を熱心に説いた。明. 治十六年三月まで存続した洋学校である。福沢は、文久二年(一八六二)遣欧使節に随行してヨーロッパに滞在. 中津市学校(市校) は福沢諭吉の提言によって、明治四年二八七二十一月に彼の故郷中津に設立され、明. 津. 津の人々も「今より活眼を開て先づ洋学に従事」するよう勧めた。こうした福沢の希望が具体化したのが中津市. 65. 西.

(3) 福沢は明治四年十月頃から、中津の人々に向けて、学問をすることの重要性を幾つかの文章で説いた。それら. 作との比較からみてまず間違いない。. き始められている。だが同書、が福沢の起草に拠ることは、ひとつには加筆原稿、が現存し、またこの時期の他の著. 学を控えた昌通が人々に洋学を学ぶことを勧め、互いに学業上達の上再会することを楽しみにしている旨から書. いる。昌遇はまだ十七歳で、福沢の勧めでアメリカへ留学することが決まっていた。「中津市学校之記」は、留. 市学校設立の趣意は、旧藩主奥平家の当主であった奥平昌逼の名で出された「中津市学校之記」に述べられて. (一)設立の趣意書「中津市学校之記 L. 、. 66. 学校であった。. L に準じ、. 資金は旧藩主奥平家の家禄の一部と天保義社からの拠出金で賄われた。天保義社とは、天保年間の藩による借. 上げに端を発した士族達の積立金による互助組織である。規則類はすべて「東京一二田慶慮義塾之規則 運営には福沢および慶慮義塾が協力した。. しかし市学校については一次資料のみならず、学んだ人物などによる三次的な資料も乏しいため、あまり研究. は進んでいない。本稿では、知り得た資料を可能な限り紹介しながら、市学校の様相とその変遷について報告し、. 市学校の設立. 福沢の設立意図や市学校が実際に担った役割について考察する。. 一.

(4) 中津市学校に関する考察. 「県内土民え文学告諭文」であり、また「学問のす. 「福沢最古の訳稿「経始概略」等について」『近代. め L初編であり、 「中津市学校之記L である。これらが. LA. 相前後して執筆されたことは、佐志伝氏が既に考証している. 日本研究』六)。ただ執筆年月日について、後者二編は奥付などから四年十二月頃と推測されるが、「県内土民え. 文学告諭文」については、中津県が明治四年十月二日付で大蔵省に提出した「布告文上木伺」【資料一】の中に、. 洋学校設立許可に伴い出版したい書として「県内土民え布告文」があげられていることから、素案は遅くとも十 月までに出来ていたことがわかる。. ま、ず「県内士民え文学告論文」を執筆し、それを練り直したものが「学問のす斗め」であることは、内容が酷. めの文」に置き換えられていることから知れる。. iA. しかし「学問のす. tA. め」と「中津市学校之記」の関係は、. 似していることや、「中津市学校之記」の中で「県庁よりさとしの文」とある箇所が、後に「教師の著せし学問 のす. J一 Z口 「中津市学校之記」の中に学校設立の趣意については教師の著した「学問のす斗め」に詳しいが、「余も亦一三. 「学問のす Lめ ニ記して士民の心得一一供するなり」と述べられていることから、 こ tA A 」の延長上に「中津市学校. 之一記」があるのではなく、後者は前者を補完するものと考えられる。. その点で比較してみると、「学問のす斗め」が一般的に学問の奨励を説いているのに対し、「中津市学校之記」. では「一身不覇の産」を立てるための学問の大切さを強調している。後者は全体で二六 OO 字程度にすぎないが、. その基礎をなすひ. 一身独立のために独立の活計を営む. 「射から身を役し射から心を労し」「一身不覇の産を立て其気象を子孫一一遺さつ. その約半分を武士の俸禄に関する記述に費やし、「人間交際の道一一於て射から労して射から食ふの大趣意 L に対 する理解を求めている。そして. 子孫亦独立の一人たるへし」と説く。市学校で学ぶであろう人々には特に、. ことの重要性を強調したかったことがわかる。福沢は一国独立のためには一身独立が必要で、. 67. tま.

(5) とつは独立した活計を営む力であると考えていた。中津市学校は、洋学を通してそれを身に付ける場として構想 されたのである。. (二)設立および運営資金. 開校および運営の資金については、中津県が大蔵省に提出した「洋学校開業願」(明治四年十月十日付)【資料. 者の授業料によって賄われたことが知れる。 それぞれの金額と用途は、まず奥平家々禄からの寄附が一. わせて計五 000 両が運営費となる。. 00 両を基金として年利を一割と見込み、毎年一五. L. OO 石となり、更にその五分の一で一 O 六 O 石になる。. 「千石」として. O. OO 両を「年々入費」に充てる。 つまり先の一二五 OO 両と合. 社からの拠出金は二 0000 両で、うち五 000 両を開校にあたっての書籍、器械類の購入に充て、残り一五. 一石 H一二両二分で計算し、家禄からの寄附は三五OO 両となっている。これは「年々入費」になる。次に天保義. 資料によっては一 O 六O 石となっているものもあるが、「中津市校洋学出金方法」では五分の一. によると五三 000 石なので、家禄はその十分の一の五三. 000 石である。中津藩の現石高は「藩籍取調帳. されている。すなわち市学校は県からの補助は受け、ず、旧藩主の家禄の一部と、旧土族達の拠出金、そして受講. 資料四】などに、土族たちの互助組織である天保義社から拠出金があったことや細かい授業料に関する規定が記. して旧中津県側が作成した「中津市校洋学出金方法」「中津市校洋学生費用之記」(明治五年正月付)【資料三、. が小倉県に合併されたのち、山口県から小倉県に対して旧中津県の洋学校に関する調査依頼があった際、返答と. 一一】に旧中津藩知事奥平昌遇の家禄から五分の一を学費に充て、県費からの支出はいらないことが、また中津県. 68.

(6) 中津市学校に関する考察. 授業料については、まず入社(入学)の費用として入社金は金札二両、道具金一二分、毎月の費用は授教の月金. 一両二分、書籍借用料が三朱から一分、などと定められている。前述のように「洋学校開業願」や「中. 津市校洋学出金方法」には、それぞれ「慶慮義塾えも示談相遂粗体裁も相成候」「規則は総て東京三田慶雁義塾. 之規則一一従ひ候Lと書かれていて、市学校の規則類は全て「社中之約束」と呼ばれる慶雁義塾の規則類に準拠し. ていた。授業料も慶雁義塾の規定にほぼ準じている。金額は彼是の物価差を反映して、例えば毎月の費用は東京. 七両に対して、中津は四両二分三朱になっている。この規則によると一年間に必要な金額は一人あたり、衣類や. 書籍に一切金を使わないで五六両一分、になる。これが実際にどの程度滞りなく支払われたかは不明である。. L の計画は予定通りにはいかなかった。明治五年五月付市学校教員手記によれば、. 「中津市校洋学出金方法」には授業料についての記述はなく、他の資料でも支払い状況や用途に言及しているも のはない。. そして開校後、「年々入費. その時点で「学校之元金」は天保義社からの二 0000 両と、奥平家々禄から寄附された一 000 石の代金およ. そ三 000 両の計二二一 000 両で、うち二 000 両弱はすでに使用し、残高は約一一一000 両であった。だが天. 保義社の分も家禄の分もい、ずれも藩札で受け取っていたため、金札に変換する必要が生じたが、政府から通達を. 不利なレートになったのは旧中津藩. 000 受けた金札への引換レートでは実高が三六 OO 両目減りすることになってしまった。教員達はわずか一一一 両のうち三六 OO 両を失えば「何ヲ以学校の会計を立ツ可キヤ」と困惑し、. 日下回孫八、鈴木開雲、佐竹四郎、雨. Lゆえ、官に訴えるべきだと述べている。結局この件は、. 吏の職務怠慢にあると憤ると共に、自分達の役割は「此学校ヲ預り、中津土民のため一一此の金を用て此道を教る の職分なれパ、今般の一条ニ付これを傍観すべからず. 明治五年六月付で旧中津県(古宇田与九郎、角口坪、井上剛蔵、萩泰治、. 69. 月 謝.

(7) 山健学連名) から小倉県へ相場変更の願いを出し、実情にあったレート(金一両. 藩札銀一七一匁六分). H. への変. 更が認められた。しかし福沢は、明治十一年十月九日付大分県令香川真一宛の書簡で「藩より一時に弐万円と申. 一五000 両を元手に年利一割として一五 OO 両を算出していたが、当時. す寄附金も、様々の訳にて約束の通りに参らず」と書いており、金札への引換が順調にいかなかったことを思わ せる。 また天保義社からの拠出金のうち、. のことであるから安定した金融機関がある訳ではなく、福沢の書簡や後掲の資料「市校事務委員集会録事」をみ. ると、市学校自体も個人や機関を相手に貸付けを行っていた。詳しくは後述するが、その中で確実に年利一割を 得ていくことはむずかしかったようである。. 更に秩禄処分を経ると奥平家の家禄自体がなくなってしまった。前出の香川宛書簡には「(九年の)華族の禄. 制変改に逢ひ、これより奥平家年々の寄附は学校より辞退いたし」と学校側から寄附を辞退したように書かれて. いるが、明治八年四月二十四日付島津復生宛福沢書簡には「奥平様の寄附五分の一の義、県庁よりグヅ/\申立、. 面倒に付、先達の事なり、内々をこしらへ、寄附は止めと東京府へ御願立相成、未だ御沙汰なし。何れこれにて 事は治り可申候」とあって、元々問題になっていた結果の辞退であった。. しかし当初の計画通りにはいかなかったものの、市学校は閉校時まで県費からの出資や融資はみられず、授業 料を除いては終始士族達の拠出金で運営されたのである。. (一二)学校組織およびカリキュラム. 校舎には三の丁東端の旧家老職生田邸が充てられた。但し「中津市校洋学出金方法」によれば、最終的には中. 70.

(8) 中津市学校に関ずる考察. 「町在」に四十か所程の私塾を建てる予定で、生田邸で開校した学校は、ま、ずそれらの私塾の教師となる人. の. けられた理由は、誰もが原書に取り組むことは現実的でないからであった。例えば予定されていた四十の私塾で、. 年少者や村方の人々がいきなり英語で学ぶことは不可能に近い。「訳書 L の設置は、明治五年三月二十三日付高. 力衛門宛福沢書簡によれば、慶雁義塾内で常に福沢の片腕となり市学校のために尽力した、小幡篤次郎の提案で. あった。小幡は初代校長として中津に赴任して、実情にあった科目を考えたのだろう。同書簡では福沢自身も. 「全日本国内の人民をして悉皆原書家に為さんとするは、人力の及ぶ所にあらず」と述べている。. また自身が市学校に学んだ広池千九郎の著作『中津歴史』によると、本科と別科が設けられ、前者は「専英語. 「究理ノ実学Lを学んだという。後掲の資料「市校事務委員集会録事」も 一ヨリ」後者は「訳書一一ヨリ」西洋の. l. スを設けたことは、市学校の教育が一部のエリートを育てる高等. 参照すれば、おそらく市学校では「原書」「訳書」どちらを専らとするかによってコースが分かれていたのだろ う。「訳書 Lを設け、更にそれを専攻するコ. 教育ではなく、広く一般の人々に対する洋学教育をめざしていたことを示している。. 市学校で行われたカリキュラムは、現在のところ不明である。前述のように学校の体裁や規則類は「慶雁義塾. そして経済書、歴史書等の会読. 之規則」である「社中之約束」に従って定められたはずなので、 カリキュラムについても「社中之約束」に準じ まず理学初歩か文典の素読、次に文典の会読、究理書、地理書、歴史等の講義、. に進んで「業ヲ終リタル」といった内容であったと思われる。. 使用された教科書のうち洋書については、中津市立小幡記念図書館および県立中津南高校に所蔵されているの. 71. 科目は「原書」「訳書」「数学」「羽白書」の四科が設けられた。英語の原書によって学ぶ以外に「訳書」科が設. 物を育てるための学校であった。. 津.

(9) で、概要を知ることができる。しかし和書は、市学校の蔵書印のあるものを他の資料保存機関や古本市場で時々. 見かけるので、廃校後処分されたものらしくわからない。「中津市校洋学出金方法」に、「都都遠近之相違」によ. り慶麿義塾とは「全く一様なりかたし」と書かれているので、使用教科書など細かい点は適宜変えられたであろ. また明治五年六月、福沢は大分県参事森下景端の諮問を受けて、「学校取建の仕組」と「課業表」を答申して. いる。市学校視察のため中津へ帰省する途中、京都の学校制度を見学して感銘を受け模倣したと福沢自身が語っ. 廃藩置県. に詳しい。「国史略」「世界国. l. ているが、科目が原書・訳書・譜一一調・手習・算術の五科で市学校と似ているので、明治五年頃はこの「課業表」. 一九八八年. とほぼ同じではないかと想像される。「課業表」については、多田健次『日本近代学校成立史の研究 前後における福沢諭吉をめぐる地方の教育動向』(玉川大学出版部、. 尽」「西洋事情」などの福沢の著作や、「地学事始」「生産道案内」「英氏経済論」「博物新篇」「天変 な異 ど慶 L地. 庭義塾関係者の著訳書が利用されている。ただ、「社中之約束」も明治四年四月制定以降改訂を重ねていくので、. 市学校も明治十六年までにはカリキュラムに変更があったと思われる。例えば明治十三年六月卒業の先述広池千. L には「科業表」が付いていて、明. 九郎の場合は「読方、作文、習字、算術、物理、生理、ソノ他トスマタ一及ノ科目中、読方ハ左ノ書ヲ用ヒタ リ。国史略、十八史略、 元明史略、各講読」(「初忘録」で )あった。. 学業の進歩を一不す等級については、明治五年八月改正以降の「社中之約束. 治五年八月の例では第一等から五等、等外が設けられている。しかし先の「課業表」は一等から一二等までで、広. 池千九郎の年譜に明治十二年「中津市校第三級に入学」とあることからも、おそらく市学校は一二等級で編成され ていたのではないだろうか。. 72.

(10) 中津市学校に関する考察. (四)教職員. 教員は小幡篤次郎、浜野定四郎、須田辰次郎、中上川彦次郎、猪飼麻次郎、といった慶庭義塾から派遣された. 人々が中心となった。ほとんどが中津出身者である。明治十一年十月九日付大分県令香川真一宛書簡で福沢は、. 経費の関係で中津出身者に「中津の学校」だからと言って、他に比べて一二分の一ほどの給与で「無理にL出さ張. せていたと述べている。『慶雁義塾百年史』付録によれば、各年度に市学校に派遣された教職員は次の通りで. 松山棟庵. (中津、明治二年五月). (和歌山、慶応二年十一月). 中津、元治元年六月. 中上川彦次郎. (中津、明治二年九月). (中津、慶応二年三一月). 須田辰次郎. 武藤吉次郎. (中津、明治二年十月). (中津、明治二年十月). 中野松三郎. (中津、元治元年二月). 久恒雄[右]五郎. 永島貞次郎. (中津、明治四年十二月). 中津、元治元年六月. 飯田三治. 浜野定四郎. 小幡篤次郎. あった。()内は出身地および慶雁義塾への入学年を記した。. 明治四年. 明治五年. 明治六年. 73. * *.

(11) (中津、明治元年十一月). 前出. 甲斐織江. 須田辰次郎. (中津、明治五年正月). (中津、明治四年二月). 手島春司 前出. 猪飼麻次郎. 飯田三治 前出. 明治七年. 猪飼麻次郎. (中津、明治四年三月). 津田興二. 永田一二. 前出. 明治八年. 明治十一年 猪飼麻次郎. 明治九年. 明治十二年. *は校長. め」初編に同著として名を連ねているのも、それゆえと言われる。 iA. れて校費を給し東京なる慶慮義塾に入り十二年七月卒業す、是より先き君一旦帰郷して前後二年間中津市学校教. 重太郎は『栃木県人物編後編』(明治二十八年、宇都宮以文館) によれば、「(明治)六年六月市学校より抜擢さ. また中津出身の慶底義塾の生徒が、ある程度学聞が進むと市学校へ出かけ教授する方法も執られていた。滝川. 中津の人々の信頼も厚かった。「学問のす. 人物である。特に中津に関することについては福沢の信頼が厚いだけでなく、上士階級ということもあってか、. のように生涯福沢を補佐して慶雁義塾では塾長や社頭、評議員会会長を歴任し、交詞社の運営にも尽力のあった. 頃は浜野定四郎、十二から十一二年頃は猪飼麻次郎が務めたことがわかる。初代校長を勤めた小幡篤次郎は、先述. 歴代校長の詳細は不明だが、福沢の書簡や各人の履歴などから明治五年六月までは小幡が務め、十から十一年. *. 74.

(12) 中津市学校に関する考察. 員となり、少年寮監督となり進んで副校長とな」った。同人は後述するように、明治十二年末東京における市校. 世話人に選ばれていることから、教鞭をとっていたことは事実と考えられる。但しこの記録によると、慶昨忠義塾. で学びながら途中市学校の教員を勤めたことになる。同様に中野松三郎も「(明治)十年迄半ば県地に半ば在京. して義塾に在学せり」といわれており、猪飼麻次郎も、中津から戻った後再入学の記録がある。「社中之約束」. に義塾の学習法は「心ヲ以テ心ニ伝フルノ奥義」があるわけでないので、「師弟ノ分ヲ定メス教ル者モ学フ者モ. 概シテコレヲ社中ト唱フルナリ」と書かれているように、慶雁義塾では一方で上級者から教えられ、他方で下級. 者へ教えるという方法が執られていた。中津出身者の場合は、それが市学校への派遣となったのだろう。. (五)付属の学校. 本科入学のための予備科として、付属小学校が明治五年北門通りに設立された。明治十年には枝町にも一校増. 設されている。これらは慶雁義塾が「十二歳以上十六歳以下ノ者」に対して、本塾とは別に童子局を設けていた 」とに準じたと想像される。. また明治五年中には諸町に女子部(女学校とも称される)が設立され、読み書きや数学の他に、裁縫や礼儀作. 法が教えられた。福沢がごく早い時期、二十代後半から女性論に興味を抱いていたことは、明治三一年二月十五日. 付の九鬼隆義宛書簡などから知れるので、女子教育にも関心が向けられたのだと思うが、この時期慶雁義塾では. x. 可申上候」とあり、初めて試みている。とするならば、女子. まだ女子教育には取り組んでいない。明治六年になって十月十一日付の福沢書簡に「当月九日より塾の傍に女学 所を設け、試に教授いたし候積り、様子相分候は. 部は他と異なりモデルは慶麿義塾ではない。福沢は明治五年京都で学校制度を見学した後、すぐに「京都学校. 75.

(13) 記. 中学校の内、英学女工場と唱るものあり。英国の教師夫婦を雇ひ、夫は男子を集めて英語を授け、婦人は女. Lを著している。そこでは次のような教育の場が紹介されていた。. iA. 英語を学び女工を稽古する児女百三十人余、. 児を預りて、英語の外に兼て又縫針の芸を教へり。外国の婦人は一人なれども、府下の婦人にて字を知り女 工に長ずる者七、 八名ありて其教授を助けり。この席に出で. 七、八歳より十一二、四歳、華土族の子もあり、商工平民の娘もあり。. 福沢は前述のように、京都の学校制度に非常な感銘を覚えたので、おそらく女子部のモデルはこの女工場では. ないかと思われる。但し土地柄もあってか、市学校では外国人の婦人を雇い入れたような形跡はなく、後掲資料. 「市校事務委員集会録事 L から判明する教師も東条利八(福沢叔父)、古宇田姑山とかなり年輩者である。女子部 は市学校閉校後唯一存続した。. 中津市学校の発展. 、. 本校教師等既ニ校内ニ弁説会ナルモノヲ開キ、古老ノ士人亦往々来テ之ニ参列シ、泰西新奇ノ演題ヲ掲ケテ. ほぼ信ずるに足ると判断した。. して来たことに触れており、同著を読んだか否か定かではないが、福沢が手にしたのは事実であることなどから、. 経ぬ内の出版であること、また福沢が明治二十五年三月二十八日付の小田部武宛書簡の中で、広池が著作を送付. 次のように伝えている。記事の信濃性については、広池自身が学んでいること、明治二十五年という閉校後十年. 開校後の市学校の様相は、現在のところ詳しく知り得ない。唯一の史料と言える広池千九郎の『中津歴史』は. 一 一. 76.

(14) 中津市学校に関する考察. 互ニ討論演説ス。又会議法ヲ講シ、新聞紙ヲ読ミ、自主自由ヲ談シ、殖産興業ヲ説キ、洋医ヲ尊ヒ、衛生ヲ. 論シ、時計ヲ携へ、寒暖計ヲ置キ、避雷柱ヲ設ケ、椅子立机ヲ用ヒ、洋服ヲ着、靴ヲ穿チ、蘭燈ヲ点シ、巻. OO 名程度にも達した。. 畑草ヲ吸ヒ、牛肉ヲ食ヒ、乳汁ヲ醸リ、洋食ヲ賞シ、麦酒ヲ飲、、\廃万断髪夙一一欧米ノ風化ヲ学ヒ、文明ノ 利器ヲ採用セシハ、地方実一一其淵源ヲ本校ノ内ニ発セサルモノナシト一五. 開校後生徒数は順調に増え、明治六、七年から八、九年には付属学校も含めておよそ六. 校内では「弁説会」と称する演説討論会が開かれ、会議法が講じられ、 また椅子と机、洋装、洋食など西洋風の. 生活様式が取り入れられた。欧米の文化は常に市学校から発信されると目されるような状況であった。. しかしこれは他方で、漢学系や皇学系学生の反発を招いた。明治五年の学制公布により、当時中津を管轄して. いた小倉県は、同年十一月渡辺重春等が皇学を教えていた西御門皇学校と、白石常人、橋本塩巌等が漢学を教え. ていた進修(学)館を合併し、第十六番中学校(通称片端中学校)とした。しかし皇学校の生徒達は「急進一一西. 洋実利的主義ノ教育法」を採る市学校や「支那貴族的主義ノ教育法」を採る進修館に反感を抱いていたので、合. 併は不満を生み、市学校、旧進修館、旧皇学校の三つのグループが対立して争うことになった。明治六年四月十. 万々一も左様の気振無之様御注意奉願候. Lと、他校生徒を挑発しないよう注意. 五日付島津復生宛書簡で福沢、が「中津の学校も依然たるよし。何卒静にして独立の本趣意を持張いたし度、官の 学校えカラカウ杯、以の外の義、. を促しているのは、こうした騒動への対処である。. また明治七年中頃には、学半ばにして早く生計の道を求めるという弊害が生じたようだ。福沢は独立の活計を. 営むための学問が強調されるあまり、俊英の少年が互いに生計の道を求めることのみに争うようになれば、少年. 達が結局は未熟のままに終わってしまうことを憂いた。明治七年五月、六月には『学問のすすめ』第九編および. 77.

(15) 十編として「学問の旨を二様に記して中津の旧友に贈る文」を著し、人間の心身の働きには二種類、すなわち. 78. 「一人たる身に就ての働」と「人間交際の仲間に居り其交際の身に就ての働」があり、「独立の活計は人聞の一大. 事」だが、これを達したからといって「人たるもの斗務を終れり」とはならない。社会のために益をなすべきで、. 学聞をする人は学問の道を以って人々の心を導き、「推してこれを高尚の域に進ましむる」べきで、今はその好. 機である。自分は「士族以上の人々」が「数千百年の旧習に慣れて、衣食の何物たるを知ら」ないため、独立の. 活計を営むべきことを強調してきたが、学半ばにしてとにかく生計の道を求めるというのは誤りであると説いて. 一 一. 、. 福沢は緒言で、市学校は費やした「財と労」に報いるだけの効果をあげ、華族が旧藩地に学校を建てることは、. つあった華族たちに、学校の有用性を知らしめ、各家が旧領国に学校を設立することを促すためでもあった。. 校校長浜野定四郎宛書簡によれば、同書のもうひとつの意図は、当時様々な事業に手を出し多くの資産を失いつ. よう、身分間の差別感情を持つことがあってはいけないことを説くためであったが、明治十年六月四日中津市学. 中津の島津復生や鈴木開雲、浜野定四郎らに示した。中津の人々に示したのは、旧悪が再び繰り返すことのない. ながらも社会関係を改めるには、学校が有効であることを『旧藩情』に著した。同書は明治十年五月に脱稿し、. なった市学校の発展が、上下関係にとらわれがちな士族社会の刷新に寄与したとして、士族固有の品行を維持し. 『学問のすすめ』第九編十編の一方で福沢は、明治八、九年頃までに「関西第一ノ英学校」と称されるまでに. いる。. 中津市学校の効果||『旧藩情』 における評価. 一.

(16) 中津市学校に関する考察. 華族のためにも旧藩地の公共のためにも利益が大きいと書いている。人々が「学校に心を帰すれば」懸念すべき. L商工の働. 「門閥の念」もなくなる。もし互いに利害感情を別にすれば、「工業」に協力することもなく、「商売」上で資本. を合わせることもなく、 かえって軌礁が生じるが、しかし共に「さらりと前世界の古証文に墨を引き. きと士族の精神が合致すれば「心身共に独立して、日本国中文明の魁」となることができる、と主張した。市学. 校が士族たちに一身独立を促す過程で、明治十年頃には士族社会の旧習打破に成果をあげ、福沢が市学校の意義 に自信を持っていたことが窺える。. 市学校の転換. だが、市学校は大きな転換期を迎えることになる。直接の契機となったのは西南戦争であった。西郷隆盛が挙. 兵し、中津でもこれに応じて増田宋太郎等が旧県庁を襲撃してのちの中津隊を組織すると、土族社会は動揺した。. 明治十年六月四日付浜野定四郎宛福沢書簡に「近来の騒擾に付ては、学校も定て混雑、教授の場合にも至らざる. 事なかるべし。残念ながら致し方も無之」とあって、市学校では授業が出来ない日も少なくなかった。またこの. 頃実学教育の点でも問題が生じていた。同書簡で福沢は「今の学校の教師、何分にも迂遠にて、此行く先き事実. に有用の人物を生ずべき見込なし」、そこで学校の傍らに「テクニカルデパルテメント」を設け、木挽、指物、. 鍛冶屋、飾屋等の職業を始め、生徒達に従事させてはどうかと提案している。東京にいる中津出身者達を見ると. 実際に役立つ学聞を身につけておらず、これで英語ばかり教えたのでは、旧時代に家老の子息が無用の学聞をし. ていたのと同じことだと述べている。. 79. 四.

(17) そして西南戦争とその後の不穏な経済情勢は生徒数の減少を生んだ。更に公立学校が充実して徴兵制度上の特. 典も受けられるようになると、市学校は徐々に衰退していった。『府県史料』大分県の部を見ると、中津が含ま. れる下毛郡の私立学校生は、明治十年に男女合わせて三四四人であったものが、十一年一二 O 二一人、十二年二七六. 人、十三年二三六人と減少している。この記録は中津、が大分県下となった明治八年と九年の記録はなく、十年は. 何故か私立小学校となっているが、 おおよその傾向を掴むことはできる。十四年は校数が増えた関係か二五一人、. しかし十五年一一一六人、十六年八O 人と減っている。それに対し公立中学校は明治十一年一二四人、十二年三八人、 十四年問、十五年一 O 三人、十六年一一四人と徐々に増加している。. 明治十一年十月には公立学校との合併話が起こった。九日付大分県令香川真一宛福沢書簡によれば、市学校を. 公立の名に改め、従来の資金より生ずる利子は「校用」(通常の経費の意味か)とし、新たに受ける県庁からの. 出金によって「学事の進歩」をはかる計画であった。具体的には教師の給与を引き上げ、科目に簿記(福沢によ. れば「記簿」)を設置して、まず「帳合の法ししかるのちは商法の講習を行いたいとしている。公立校との合併. の話はそれ以前の小倉県時代にも福岡県時代にもあったが、双方が満足せず立ち消えになっていた。早い時期で. は明治五年十一月七日付島津復生宛福沢書簡に「学校も不相替繁昌のよし、 天朝さまへうり付けは六かしき敗」 とあって、合併らしい話、が見える。. 福沢はこの十一年の合併話に賛成で、何とか成功させたいと思っていた。先の香川宛書簡では相談がまとまれ. ば、地方官民にとって非常に便利である、そこで市校の会計上の帳面などは全て見せるから、県庁の方も細かい. ことまで指図して無用な喧嘩の種を作らないでほしいとか、県庁から支出する金も額に応じてそれなりのことを. するまでだから、 いくら出してくれるか決めてくれればいいと述べている。また自分が一番恐れているのは、う. 80.

(18) 中津市学校に関する考察. まく相談を進めていても「些一末無用の事」から争いになり「又例の不熟不和」が起こることで、そのため合併後. 半年か一年の聞は小幡篤次郎に中津出張を依頼したと書いている。「何卒整候様いたし度事に御座候」の心情が. 表れている。. 福沢が合併を望んだ理由は、主に資金面にある。市学校は設備やカリキュラム等の体裁は整っていたが、今後. も学校を維持していくためには、教員を他の三分の一の給料で無理に集めるような、福沢や慶慮義塾の人脈に. 頼つての運営では無理であった。福沢は明治十二年三月二十五日付島津万次郎宛書簡や五月八日付猪飼麻次郎宛. 書簡で 「市校の教場今日の盛衰如何。或は金の少なきが為に不行届はなきゃ、若しも然るときは金を用ひ候様い. たし度、或は年々利子にて不足とあらば資本を用ひて差支なし」「市校も至て静にして静に困る程なるよし:・若. し金が入用ならば思切て資本を費すべきのみ」と書いているように、市学校を元の隆盛に戻すには、きちんと金. を用いることが必要であると考えていた。慶雁義塾でも明治十一年十月十四日から簿記の講習が開始され、新し. い学科が増えていた。 おりしも秩禄処分によって奥平家から寄附が見込めなくなり、学校を「八ム私中間の者」と. 定め、「学識ある者」は才を、「金ある者」は資金を出し、相助け合って運営すべきものと考えていた福沢は、. 的な資金によって教員給与を安定させ、さらに資金不足により増やせないでいる学科に、簿記学といった新しい 実学を加えていきたいと考えたのだろう。. しかし、この話はなかなかうまくいかなかった。明治十二年五月八日付の中津市学校長猪飼麻次郎宛福沢書簡. 81. には「書記官始一同の異論にて急に坪明申問敷候得共、何れ時節は到来すべしと極内々の報知なり」、同日付大. 分県令香川宛書簡には「成る程世の中の事は六ヶ布ものなる哉。併早晩必ず時節到来可致、私方も決して差急ぎ. 候訳には無御座、尚そろ/\御工風奉願候」とあり、県の役人側と折り合いが着かなかった。福沢はいずれ時機. 公.

(19) が来ると考え、この話は明治十三年二月頃まで引き続いたようだが、合併にはいたらなかった。後掲の資料「市. 校事務委員集会録事」によれば、合併に至らなかった理由もまた資金のことで、当時市学校が持っていた約二万 円の「資金」の帰属をめぐって、意見の一致が見られなかったことによる。. 五、 市校事務委員集会録事. (二市校世話人の選出. 市学校が様々な問題を抱える中、今後の市学校のあり方を決定するため、東京と中津の両方において「市校世. 話人 Lを選出し、両地で定期的に会合を聞いて検討することになった。この会は「市校事務委員集会」と呼ばれ、. 第一回から明治十六年一月二十一日までの東京における会合の記録が「市校事務委員集会録事」と題されて残っ. ている【資料五円現存する全文を後ろに掲げた。残念ながら現在原本は所在不明になっており、写真複写版を. 慶庭義塾福沢研究センターや福沢記念館などが所蔵している。最終記事の日付は明治十六年四月十七日で「以下 別冊第二号口続く」とあるが、第二号は複写物もない。. 第一回の市校事務委員集会は福沢邸で、明治十二年十二月十日に聞かれた。東京におけるメンバーは福沢諭吉、. 小幡篤次郎、奥平昌遇、津田純一、浜野定四郎、須田辰次郎、雨山達也、滝川重太郎、中上川彦次郎、中村英士口、. であった。多くは市学校で教職員を経験した者と思われる。前. 永田一二、中津のメンバーは菅沼新、古宇田与九郎、野本貞次郎、中野松三郎、猪飼麻次郎、島津万次郎、山口 広江、山口半七、奥平毎次郎(のち稲毛毎次郎). 82.

(20) 中津市学校に関する考察. 掲教職員一覧にない人物について若干の説明を加えると、まず東京側の津田純一は明治二年八月から慶雁義塾に. 学び、 アメリカ留学中の昌逼の伴を務めた。雨山達也は明治四年二月から慶雁義塾で学んだ。中村英士口は福沢の. 叔父中村術平の実子、明治四年十二月より慶雁義塾で学んだ。中津側の菅沼新、古宇田与九郎、山口広江は旧藩. 時代に重臣を務めた士族社会に影響力のある人物、野本貞次郎は永島貞次郎と同一人、島津万次郎は藩政におい. て活躍しやはり士族社会に影響力のあった祐太郎の子で、明治一二年八月に慶腔義塾に入学した。山口半七は山口 広江の子で明治三一年十二月の入学である。. またメンバーのうち島津万次郎、が「金銀取扱之事」を一切担当することになった。福沢は以前明治十二年二月. 十四日および三月二十五日付の島津万次郎宛書簡で、会計の責任者になってくれるよう重ねて依頼していた。担. 当したあかつきには「兎に角一銭たりとも行く先きの分らぬ金を遣はざる様呉々も御注意可被下候」と告げてい るところをみると、それ以前は杜撰であったのだろう。. 会合は両地聞の連絡手段となる郵便事情を考えて、東京での開催日は毎月五目、中津は二十日と定められた。. 東京での会合はほとんどが福沢邸で催された。福沢はまだ「老衰」にならぬうちに「早く二代目の人に托せ、ずし. ては何事も坪明不申」と考えていた。市校事務委員集会は、創立を担った福沢、小幡の世代から次世代への橋渡 しの意味もあったのだろう。. (二)改革の方針. ほとんど. 「市校事務委員集会録事」(以下「録事」と略す)に記録されている各会合の議題(後掲一覧参照)をみると、. カリキュラムや学則の改正は、明治十三年三月に夜学で簿記を教えることが検討されているくらいで、. 83.

(21) 議題にあがっていない。むしろ人数が減少した「原書. L と期していた時機は到. L や寄宿生、小学校を廃止し、その分の余剰費用を何に用. いるかが検討されている。おそらく合併話が出てから約一年が過ぎ、福沢が「早晩必ず. 来しそうもなく、市学校は別の方法での改革が必要になった。その結果市校世話人たちは、市学校の規模を縮小 し、資産を他に有効に転用する方向で相談をまとめていった。. 000 両について、年利. OO 円)、桜井恒次郎二六. OO 円はあったことが. 前述のように市学校の資産の一部は、機関や個人に貸付けられて運用されていた。明治十六年十二月十五日付. O 円余)の他、今永円純(五. の桜井恒次郎宛福沢書簡からは、慶雁義塾出版社に市学校からの預り金が少なくとも二六 わかり、また「録事」からは田舎新聞への貸付金(八. 00 円)といった個人宛の貸付金がわかる。開校当初、天保義社からの拠出金の内一五. 一割で計算して年間の運営費を算出していたことは既に述べたが、「録事」明治十三年十一月三日条に書かれた. L として、平均年利九朱(九%). で計算し一二六 O 円の使用計画を立てている。市学校は積極的に資産運用. 市学校資産の利用案でも、元金(不動産を除いた市学校の財産か)二八四九九円の内二四 000 円を「利子付流 用金 を行っていた。. 市校世話人たちはこれらの貸付金はなるべく引き上げ、また市学校のうち無用と思われる部分はカットして、. 資産を本来の目的に沿って有効に使う方法を考えた。「録事」から知れる計画は次の三つに大別できよう。第一. は新聞の発行、演説館もしくは集会所の建設といった啓蒙に関わる事、第二には士族授産を目論んだ養蚕事業の 展開、第三一に奨学金制度の導入である。. 三二)新聞の発行、演説館の建設. 84.

(22) 中津市学校に関ずる考察. 明治九年十一月十三一日中津において. 「田舎新聞Lが創刊された。 田舎新聞社社長は一瓦筑前秋月藩土で中津藩医. O 円余の貸付けがあった。「録事」を見れば、 はじめは. 村上家の養子となり、戊辰戦争では会津戦に軍医として従軍した村上田長である。草創期の編集長は福沢の従弟 増田宋太郎が務めた。この田舎新聞には前述のように八. かなり強く返済を求めたようで、明治十三年四月七日条では、機械の修理や社屋の移転を理由に猶予を願う田舎. 新聞側に対して「市校ノ与リ知ラサル処」と突き放している。 しかし八 O 円の内五 O 円は寄附の扱いとすること. 半’れ. n 一o. が認められているし、結局は在東京の購読者から集められた新聞代を押さえてしまうという強行策も行われな J. ミ「ノ. ,刀. 市学校と田舎新聞は単に資金の貸借関係の他に、「録事」から「中野島津山口等」が運営に携わっていたこと. L 中津在市校. 秋吉豊作、「地方官会議ノ結果ヲ論」在市学校 渡辺. が知れる。また春田国男氏、が大分県立図書館所蔵の田舎新聞マイクロフィルム版から拾い出された投書一覧をみ ると、「初学ノ間修学スル都郡軌レカ善ナル. 筒、「門閥論」在市校 奈穂美須、「有志講談会ヲ開ク」「士族諸君前途ノ方向」「政府不得止ノ権」市学校. 生、「小学教員ノ責任大ナリ」在中津市校 耶馬秀厳などが見出され、市学校関係者の意見発表の場であったこ. ともわかる。春田氏は田舎新聞が当時の多くの新聞同様、投書欄にウエイトを置いて政治的社会的発言を掲載し. 「自由民権思想を情熱的にアピールした」り、「新時代への対応に苦慮岬吟する、当時の地方土族の姿」を浮き彫. りにしたことを検証された。市学校が結果として田舎新聞を保護する側に立ったのは、問題を提起し世論に働き. しかし「録事」によれば、七月三日の会合で「田舎新聞維. かけるという存在意義が、市校世話人達にとって認め得るものであったからだろう。 田舎新聞は明治十四年六月を以って廃刊となった。. 持之事」が話し合われ、 一ヶ月二O 円余を限度に扶助することを決定している。同年十一月に田舎新聞に替わっ. 85. 鶴 城.

(23) によれば、こ. 86. て「田舎新報」が登場する背景には、こうした市学校の援助も考えられる。また「録事」明治十四年九月二日条. には、市学校の規模を縮小して起こす「新ナル事業」として 「新聞紙ヲ盛大一一発行スルコト」が東京中津両地委. 員の同意を得たことが記され、閉校にあたっても「新聞社ノ保助金ハ是迄ノ通リ据置キノコト」(明治十六年一 月二十一日条)が決定した。新聞というメディアへの期待があったことを窺わせる。. 市学校、が「弁説会」を聞き「泰西新奇ノ演題」を掲げて互いに「討論演説」していたことは前述した。市校世. 話人たちは更に演説館を建て、充実した規模で講演会を行うことを考えた。福沢は『学問のすすめ』『会議弁』. などで演説の効用を説いており、慶雁義塾では演説会が盛んであった。これについては松崎欣一氏『一二田演説会. と慶庭義塾系演説会』(慶慮義塾大学出版会、 一九九八年)を参照されたい。「録事 L によれば明治十一二年四月七. 日の会合で、 「原書」を廃止し、「演説堂或ハ集会所」のような大きな部屋を作って、原書を学びたい人向けの. 「講談」や時には「市人集会」を催す計画が立てられた。講師には東京から所用があって帰郷している人を頼む. ことが相談された。これらの案から、同年八月五日の会合では「講義並演説集会一一使用スルノ大堂」を建設する. 三月十九日付、第一一九八、 二九九号. ことを議決している。また十四年二月五日条によれば、結局小学校を「演舌館」に改修し、近日中に「演舌会」 を開くことがわかる。 田舎新聞(明治十四年三月十六日付、. 「演舌館」は三月十三日に開館式を行い、奥平毎次郎と中野松三郎の挨拶の後、島津万次郎等が演説を行った。. の後も五月、 七月、 八月、十月、十一月と二ヶ月に一回は議題に挙がっている。中津産生糸に「褒賞金」を与え. 次に養蚕製糸については、明治十三年二月五日の会合で早くも市学校の養蚕専門学校化が議論されており、そ. (四)養蚕製糸業の奨励. の.

(24) 中津市学校に関ずる考察. る、「俊秀ノ少年」を選び養蚕の盛んな地方で研修させるといった奨励策が検討され、十一月三日には五二九円. 九二銭を費やして「桑苗ヲ拡ムル事」「蚕繭ヲ産出スル人へ保護金ヲ与ルコト」「苗木植付ノ為ニ畑地ヲ買入ル、. 者へ資金ヲ貸渡ス事」「養蚕事務ノ担当人ヲ定ムルコト」等の具体策も出された。また明治十三年十一月十八日. L人を派遣したり、「見舞金」の送金も行っ. 条によれば、士族たちが出資経営する養蚕製糸会社末広会社の二五名の工女が、富岡製糸場へ修行に行く際、市 学校で費用の一部を負担している。 工女達に対してはその後「見舞. ている(「録事L 明治十四年五月二十二日条、二十六日条、六月十五日条)。市校世話人たちは中津における養蚕 製糸業の展開に期待を寄せていた。. 多くの地方において養蚕製糸業は士族授産の中心を成していたが、中津において積極的に取り組まれるように. なったのは、明治十二年十二月に末広会社が設立された頃からと考えられる。同社の資本金は四五 OO 円で、一二. 分の一にあたる一五 OO 円が市学校同様天保義社より拠出された。時事新報社説「士族の授産は養蚕製糸を第一. とす」(明治十六年九月十四日、十五日、十七日)によれば、明治十一、二年頃までの中津では士農を問わず、. 養蚕製糸業で生計をたてられる者はなかったという。大分県では、明治初年に清涼育養蚕法を学んだ小野惟一郎. が中心になって養蚕製糸を奨励し、各都一名、ずつ養蚕世話係を任命して資金の貸付けなどを行ったが、思うほど. 効果は上がらなかった。一つには大分県が小藩分立地域であったため、それぞれが小規模の座繰操業を行ってい. たことが発展を阻んだとも言われる。その中で市学校が他に先駆け、有効な事業として養蚕製糸業への介入を打. ち出したのは福沢、小幡の指導によろう。先の富岡製糸場の件でも、大分県が県として伝習工女を派遣するのは 明治十八年のことである。. 福沢は明治十二年十二月八日に、初めて富岡製糸場長の速水堅曹と面会した。福沢側の記録には速水との接点. 87.

(25) L 中の. 「船津伝次平」の項目に「上州勢多郡原ノ郷村農 今は農. 速水堅商日氏話」とあるのみである。しかし速水の日記には「(明治十二年)十二. はほとんどなく、「明治十七年以降の知友名簿 学校に在り頗る農事に明なり. 月八日、福沢諭吉ト始テ面談ス。而シテ大一一親睦セリ。」とあって、 ちょうど末広会社設立の頃に面会している. ことが知れる。速水は、明治三年には既に日本最初の洋式器械製糸場である前橋製糸所を設立した実績があり、. 富岡製糸場の前には、招聴されて福島県の二本松製糸株式会社で器械製糸技術の指導にあたっていた。「録事」. からは二本松製糸株式会社と市学校の接点も窺われる。明治十四年二月五日条に「昨年福島より帰国之女生徒」. を「座繰糸取之教師」として女学校(市学校女子部)が雇い入れる旨が書かれており、官営の富岡製糸場と並ん. で模範的製糸工場として研修者を受け入れていた二本松製糸株式会社にも、伝習工女を派遣していたと思われる。. 二本松製糸株式会社との関わりは小幡篤次郎にもあり、明治十六年四月四日付の山口広江宛小幡書簡に、二本松. 製糸株式会社社長の佐野理八が養蚕業の進歩を共に喜んでくれ、「養蚕有志之男女」があれば年に五人ずつ無費. 用で研修させてもよいと三一口っていることが書かれている【資料六】。小幡は佐野を、和田義郎に宛てた書簡の中. ともに慶雁義塾幼稚舎. で、「年来知音の人」と紹介しているので、福島で修行した「小幡」という女生徒は縁者かもしれない。佐野理 八の息子市蔵、副社長山田惰の息子一、創立メンバーのひとり安斎徳兵衛の息子徳三は、. に入学している。. 市学校が養蚕製糸業奨励への支出を検討し始めた明治十三年頃から「録事」の最後の記録がある十六年までの. 聞に、養蚕製糸業は士族授産事業として定着していった。十四年四月には末広会社が和田弥六郎以下一七八名の. 一一五的に生糸の共同販売」を行う蚕業原社に参加したり、同社が. 参加者で、明治政府から九四二八円の起業基金の貸与を受けた。また同社は統一された製糸法、製品検査、等級. の設定、荷造り方法などで「同一商標により. 88.

(26) 中津市学校に関する考察. 本部となって中津連合製糸組合が設立された。その結果先の時事新報社説によれば、中津の養蚕製糸業は明治十. 一方で市学校の介入をむずかしくもしたようである。十三年七月頃. 五年には八梱の糸を米国に直輸出し好評を博するまでになった。 しかし中津における養蚕製糸業の発展は、. の「録事」を見ると、既に養蚕製糸業に取り組んでいる人々との関係で、迂闘には行動できない様子が窺われる。. 末広会社と市学校、そしてそれぞれに出資している天保義社の三者が、皆基本的には士族の集団でありながら、. L の開設も考えて. 一枚岩ではないことが障害になった。だが市学校は手を引くことなく、閉校に至るまで新しい方向として養蚕製. 糸業への補助を打ち出した。前述のように福沢は実学を重視し、「テクニカルデパルテメント. いた。養蚕製糸業を奨励することは、独立した活計を営む力をつけることに直結した。市学校における教育の日 的にかなった活動といえる。. (五)奨学金. 奨学金については明治十三年十月十三日、十一月三日、十六年一月二十四日の集会で相談されている。旅費を. 支給して東京に短期的な留学をさせる制度や、俊英の者を選んで学費を支給する制度、が考えられた。最終的には、. (「録事」明治十六年一月二十一日条)。. 士族の中から俊秀の者を毎年三名選んで、 四年を限度に月七円五 O 銭の学費を支給し、東京に留学させる制度を 発足することが決定した. (六)市学校の閉校. こうした議論が重ねられていく中で、市学校のあり方自身が、縮小から閉校へと変化していった。市校世話人. 89.

(27) 90. が定められた当初、前述の公立学校との合併問題、がまだ決着しておらず、うまくいけば現状維持のまま県から資. 金を受けられる可能性があった。また生徒数減少の背景に公立学校が有利になる徴兵令の問題があったので、田 中不一一麿文部大輔との交渉に期待をょせたが、 はかばかしくなかった。. そこで生徒数減少の著しい「原書」および寄宿生の廃止が何度も検討された。また十三年十月からは付属小学. (九月二日条)。世間一般の学校で 「充分修行ノ出来ル」ものは排し、市学校でしか教えられない. 校の廃止も検討された。 しかし何度もの話し合いを経て、十四年九月にでた結論は「原書ノミ」を残し他は一切 廃止であった. ものを残すことで、市学校の存在価値を見出そうとしたのである。同年十一月四日付と思われる奥平毎次郎宛福. 沢書簡にも「普通小学の教」は公共の手に委ね、市学校は「日本国中最高最新の説をば怠なく講究いたし度」と. ある。開校時の、原書に限ら、ず翻訳書を用いても多くの人々が学ぶことのできる学校としての位置付けは、 O 度転換した。. だが結局は十六年一月二十一日に、全面開校が決定した。元々衰退が著しかったのは「原書」であり、原書の. みの存続には無理があった。また「中津市学校之記」で強調されていたように、市学校の当初の目的は士族に. 明治十六年一月三十一日の市校事務委員会で、次のように市学校の閉校が決定した。教育機関としての役割は. 市学校閉校処分. するよりも、市学校の持つ資産を、その目的のために有効に使うことの方が重要であった。. 「一身不覇の産」、独立の活計を立てさせることにあった。そのための学問奨励であったから、無理に学校を維持. /¥.

(28) 中津市学校に関する考察. なくなったが、「録事 L に見られた三つの方向が活かされ、本来の学校としての役割がなくなった。 市学校は全廃する。 士族中の俊英の者年間三名に学資を与える。. 学事世務について集会を持つことができるように、「クラブ」を設ける。. ②の対象者は「クラブ」の 「社員試検法」で決める。 女学校は維持する。. 市校の貸付金や預け金はなるべく回収し、公債証書を買入れる。. ②の生徒への奨学金は東京において直接本人へ渡す。 新聞社への保助金は据置く。. 今度の改革については東京から一名中津へ出張する。(のち小幡篤次郎に決定). 閉校の唯一の例外は女学校(女子部) で、他の存廃が検討され始めてからも一貫して存続が承認され、遂に最後. まで残った。その理由は、 ひとつには女子教育機関が少なかったことがある。先に掲げた私立学校の生徒数のう. ち、女子だけの変遷をみれば明治十年四五人、十一年四三人、十二年四七人、十三年五六人、十四年三九人、十. 五年四二人となっていて、あまり変化がない。また他方で座繰教師の一履い入れからもわかるように、他と異なり. 「テクニカルデパルテメント」の要素の強い学校であったことが、目的にかなっていたのであろう。. ひとつは. 市校世話人たちの協議によって決定した閉校であったが、中津の人々、特に市学校の資産の大部分を担ってい. た天保義社に出金していた土族たちは納得したのだろうか。市学校閉校に関しては二つの資料がある。. 明治十六年一一月六日付で、奥平昌通が山口広江、菅沼新、島津万次郎、中野松三郎、山口半七、稲毛毎次郎、古. 91. ①. ② ③ ④ ⑤ ⑥ ⑦ ⑧ ⑨.

(29) 宇田与九郎に宛てた「中津市学校閉校処分書」と題するものである。慶雁義塾福沢研究センターが所蔵しており. L で、『中津歴史』の中に収録されている。. 中津市学校の用筆に書かれている【資料七】。もうひとつは閉校にあたって、明治十六年三月に小幡篤次郎が中 津で演説した「閉校ノ主旨. まず「中津市学校閉校処分書」は閉校の理由および今後を次のように語っている。市学校は十二年間子弟の教. 「開通社L という一社を設け、 同社に托して俊英の子弟を毎年三人ず. 一方で土族たちの養蚕業に使い、他方で学校を再興し子弟の教育を行う。但し女学校は維持. 育を行ってきたが、近年は「就学ノ徒」がわずかになった。そこで 「資金ヲ移シテし桑田を聞き、 三、四年後に はそれを販売して するし、また閉校の問士族中から人選して. つ東京に留学させる。諸事は小幡篤次郎に托したので、協力してほしい。この内容は一月二十一日の市校事務委. 員会の決定をほぼそのまま伝えているといえる。. 但し、同日付で奥平昌逼はもうひとつの文書を出している。管見の限りではタイプ印刷の写本しか残っていな. 士族が「倹素勤勉 L. し. E い。「旧知事様御書写」と書かれ、逸見蘭腕、桑名曲 山一 、鈴木開雲、山口広江宛になっている【資料八】。内容は. 近年旧中津藩士の中に「不如意之者」が増加している、そこで長篠の合戦の古事を引き、. J 家独立之計」をなし、「子弟之教育」に心掛け、「円永名ヲ埋減」しないよう希望するつ 。いては士族の中から. 名望ある者を集めて一社を作り、毎月一回は集まって倹素勤勉を励まし、一廉恥を重んずる気を養いたい。ま、ずは. というものであった。ここでも委細. 士族授産の道を立てることが主張され、また一社を結ぶことも. 養蚕から始めて、「衣食住之営」を務められるよう工夫する相談をしたい、 は小幡と相談せよとしている。閉校処分書同様、. 提唱されているが、市学校の閉校に全く触れられていない。. 」れらに対して小幡篤次郎の 「閉校ノ主旨」は大きく異なる。小幡の演説は、市学校の目的は「学校施設ノ表. 92.

(30) 中津市学校に関する考察. 準」を示し、「未開ノ文運ヲ鼓舞誘導」することにあったとする。今や中津には小学校が五校、中学が一校あり、. 各地に概ね小学校や師範学校ができて、市学校は既にその必要がなくなってしまった。無用となった以上学校は. 廃するが、学校の「資本金」は「素ト教育資金」ゆえ、他の用途には使用すべきではない。そこで在京の奥平昌. Lが変わり、再び洋学に人気が集まり. 逼、福沢らと相談した結果、「学生給費ノ制」を設けることにした。俊英の者三名を選び、修学費を給する。奥 平の「育英ノ芳志」を水泡に帰してはいけない。数年後には「天下ノ文運. 英語が流行するだろうから、その時には市学校を再興しよう、という内容であった。そこでは養蚕については全 く触れられていない。. 閉校にあたっては、士族社会に不満を生み出さないために駆引きがあった。市校世話人たちは、本来の目的が. 達せられる条件さえ整えば、資産運用の方向転換に異存はなかった。しかし中津の士族たちにとっては、福沢が. 明治十一年十月九日付の香川真二知書簡で、中津の士族たちが「市校を金玉の如く思ふは当然の事」と述べてい. るように、天保義社から多額の拠出を受けて作られた市学校は自分たちの学校であるという意識が強かった。ゆ. えに学校を閉じ資産を他に転用するには、慎重さが必要であったのだろう。廃校とは三一口わず、あくまでも「閉. 校」とし、再興の可能性を示唆している。また特に養蚕製糸業は、「録事」からも窺われるように、既に取り組. んでいた人々との関係がむずかしかった。無用の争いをさけるために、演説という形をとった小幡の「閉校ノ主. 旨」では、 わざと養蚕に触れなかったのだろう。. 93.

(31) 閉校後の市学校. L 四O 名によって組織さ. 94. 日開運社は奥平家に市学校再興の件を裏請している。また福沢も八月十五日付山口広江宛書簡で「市校再興の事. 明治十九年六月十九日には山田小太郎、新庄関衛が、市学校再興の請願書を開運社幹事に差出し、同年七月二八. 明治十六年三月の閉校時には、再興の可能性を一掘っていた市学校だが、結局は再び開かれることはなかった。. 名の名前が記載されている。. 給与を受けた。『中津藩史』(黒屋直房著、昭和十五年、碧雲荘)には「開運社登第生選挙方法及び給費」と二. 小幡篤次郎が中心になって活動していた交詞社の影響も感じられる。開運社を通じて、全部で一一名が奨学金の. れた。「録事」には「学事世務一一付キ集会」が無くならぬよう「クラブ」を設置するとあって、明治十三年から. 社 L と呼ばれた一社の人々が担当した。開運社は明治十六年五月に、士族中の「名望家. また奨学金制度の運営は、市校事務委員会では「クラブ」と表現され、「中津市学校閉校処分書」では「開運. 例として中津を挙げていることからも、成果はあがったことがわかる。. 告されている。前述した明治十六年の時事新報社説「士族の授産は養蚕製糸を第一とす」で養蚕製糸業での成功. た閉校処理で帰郷した小幡が、西国東郡で養蚕製糸業奨励の学術演説会を行ったことが、交詞雑誌二一一二号で報. とがわかった。後掲の十六年四月四日付山口広江宛小幡篤次郎書簡からも、中津の養蚕業の様子が窺われる。ま. た桑苗の到着などが記されている。この時の送り状や領収書などが残存しており、桑苗が中津まで転送されたこ. 計画通り資産の一部は、養蚕業に費やされた。「録事」の最終項は明治十六年四月十七日条で、福島に注文し. 七.

(32) 中津市学校に関する考察. 情い才承知仕候。再興は甚だ望ましき事なり。. Lと述べている。しかし再開には至らなかった。明治一二年にも. ひとつには必需性の問題であろう。市学校が他にはない、特別. 四0000 円余あるべき資産を一五 000 円までに減らしてしまったことに. また市学校再興が運動されるが、しかしこの時の福沢は「学校など気楽なる時節にあらず」と反対している。士 族たちがいつまでも奥平家を頼り、. 危機感を募らせていた。 市学校が再び聞かれることのなかった理由は、. な教育を提供できなければ再開の契機を見つけ出すことはむ、ずかしい。また他方、士族問でおこった対立にも理. 由が求められる。明治十六年に天保義社をめぐって紛議があったことは以前報告したが(「天保義社に関わる新. 収福沢書翰」『近代日本研究』三二)、その発端は天保義社を解社するか否かにあった。解社派は、天保義社の貸. 付金返済は等閑にされることが多く、回収に苦慮する状況が続いていたので、思い切って一度改組すべきだと主. 張した。しかし解社、が市学校の閉校や関連社の設立と重なり、士族たちの間では解社によって一部の人々が資金. L には「市学校再興案モ亦殆ンド党論確執ノ犠牲トナラン」と書かれている。. を握ってしまうのではないかという不安が生じ、次第に解社派と非解社派の三極対立化していった。『山田小太 郎先生』掲載の「中津学事沿革一班. 一国独立の根本である一身独立の基礎をなす、独. おわりに||中津市学校設立の意図と今後の課題 福沢は中津の士族たちに、新しい社会での生活の術を与え. 立した活計を営む力をつけさせたいと考えた。それは何も士族に限ったことではなかったが、長い間の俸禄生活. に慣れきってしまった士族たちには、とりわけ重要であった。そこで洋学を通じて実学教育を行う市学校を計画. 95.

(33) 1. 一九六四年、十七巻、七. 八頁。『福沢諭吉. t. 96. したのである。また旧藩主や士族たちは、事を起こすだけの資産を持っていたが、使い方によっては全く無用の. まま消えてしまうことも多かった。福沢は土族が資金を提供し、将来的には各地に展開していく学校の教師や、 産業の先覚者たることを望んだ。. 市学校はそうした福沢の意図通りに発展し、福沢は自信を持って「旧藩情」を執筆した。 しかし政治情勢や公. 立学校の充実によって、市学校が本来の目的を達する最良の方法ではなくなっていった。士族の資金をより有効. に使うためには、新開発行や演説会などの啓蒙活動、士族授産のための養蚕製糸奨励、奨学金制度の運用への転 換が必要になったのである。. 本稿は市学校の実態を少しでも多く知りたいと欲張ったあまり、能力を超えて史料を消化しきれず、市学校の. 断片をわずかに明らかにしただけに留まっている。全体として慶雁義塾との充分な比較が必要であろうし、また. 特に市学校の公立化問題は、具体的には師範学校との合併という形で進められており、「県立」に対して「公立」. の持つ意味合いなど課題も多い。更に富岡製糸場の伝習工女も含めて、女子教育のあ灼方はまだまだ史料不足で. (2)『全集』十七巻、七一一t七 一四頁。. 全集』は以下『全集』と略す。. (1)四月十一日付。『福沢諭吉全集』岩波書店、 一九五八年. 注. ある。本稿は途中経過報告であると自覚し、今後更に市学校の担った役割と福沢の意図について考察していきた し、.

(34) 中津市学校に関する考察. (3)『全集』二十巻、五三頁。. (4)教育史関係の書籍に見られる中津市学校に関する記述は、ほとんどが市学校に学んだ広池千九郎の. 『中津歴史』(一八九一年、防長史料出版社により一九七六年復刻)に拠っている。その中で木村政伸氏. は、本稿巻末に掲げた「市校事務委員集会録事 Lや山田小太郎著「中津学事沿革一班」(井坂秀雄著『山 田小太郎先生』学仏社、一九四 O年に所収)、田舎新聞を利用して「中津市学校にみる明治初期洋学校の 地域社会における歴史的役割」(『日本教育史研究』第九号、一九九 O年)をまとめられた。 (5)「中津市学校之記」は『福津諭吉年鑑』(福津諭吉協会発行、以下『年鑑』と略す)四、六 1九頁。加 筆原稿は慶雁義塾三田メディアセンター蔵。かな遣いは草稿による。 (6)「県内士民え文学告諭文」は福津研究センターが稲葉家より寄贈を受けたもの。中津市立小幡記念図書 館に所蔵され『全集』第三巻に所収されている「県内士民へ告諭文」と同一内容である。更に「大分県人 であるから、本稿では割愛した。. 奥平家の系譜と. 民へ布告文」(内題「さとしの文」)が執筆されるが、中津が小倉県から大分県と変わるのは明治八年以降 (7)天保義社については『旧中津藩士族死亡弔慰資金要覧天保義社及中津銀行の由来. 、一九八六年。. 2. 一九九八年。 K15A02. 。. )『慶雁義塾社中之約束』解題・解説佐志伝、 慶雁義塾福津研究セ. 藩士の現状』(一二木作次郎昭和二年)に詳しい。. l. (8)慶腔義塾福津研究センター資料( ンタ. (日)福沢は個人で二五 OO 円寄附している。 のちに預け金扱いとなる。. (9)福津宗家旧蔵。マイクロフィルム版福津関係文書、雄松堂出版、 (叩)前掲『旧中津藩士族死亡弔慰資金要覧』一二 s 一五頁。 (日)『全集』十七巻、二五三頁。 O 頁。 (ロ)『全集』十七巻、一八. (日)『全集』十七巻、二一六頁。 (日)『中津歴史』下、二四五頁。. 97.

(35) 教授ノ規則. 98. 前掲『慶慮義塾社中之約束』 一二頁。 第一条初学ノ生徒へつ理学初歩或ハ文典等ヲ素読セシム. (お)『中津歴史』下、二四六1二四七頁。 (幻)『全集』十七巻、一四七頁。 (お)『全集』一一一巻、8八 九五 五頁。 (却)『中津歴史』下、三O 七頁。 (初)『年鑑』四、四8五頁。. (日)一覧は『慶態義塾百年史』付録(昭和四十四年、慶麿義塾)掲載の「明治二十三年以前における慶応 義塾出身教職員の分布状況」によったが、同表が何を典拠に作成されたかはわからない。おそらく様々な 個人の履歴や学校史を基に作成されたと思われる。年度は原則として就任年を表わすとある。 (却)中野については『慶麿義塾名流列伝』(三田商業研究会、一九 O 八年)。但し同著は記録に誤りも多く、 すべて信頼できる情報とはいかない。猪飼については『慶庭義塾入社帳』復刻版(慶腹義塾、一九八七 年) V 二九二頁。 (幻)前掲『慶腹義塾社中之約束』一一一頁。 (幻)『全集』十七巻、九三、一五七頁。 (幻)『全集』二十巻、七九頁。 (討)『年鑑』十三、一 O 頁。 (お)『中津歴史』下、三O 八頁。. 第二条次テ文典会読究理書、地理書歴史等ノ講義二、尚一歩ヲ進メパ経済書歴史等ノ会読一一出席セシ ム。此会読終リシ者ハ此塾一一テ業ヲ終リタル::・ (口)『資料、が語る広池千九郎先生の歩みへ広池学園事業部、一九七三年、二七頁。 (日)同右、七七一頁。. 1 6.

(36) 中津市学校に関する考察. (お)ゆまに書房、一九八六年。. 「旧藩情」は残念ながら福沢の生前には活字にならなかった。明治三十四年六月一日から九日まで時事 新報に掲載されたのが最初である。先の浜野宛書簡で福沢は、中津を悪しき例として挙げているので、中 津の人の中には公にするのを嫌う人がいるかもしれない、嫌がる人がいるなら公表はしないと言っていた。 (担)『全集』七巻、二六一1二八 O 頁。 (詑)衰退理由の考察については、鹿毛基生氏や木村政伸氏の先行研究を参照されたい。 M)『全集』十七巻、二五三頁。 ( (お)『年鑑』一一一一一、一一頁。 (お)『全集』十七巻、三 O 三、一三四頁。 (釘)明治四年一月二十九日付九鬼隆義宛書筒、『全集』十七巻、一一一頁。 (犯)『全集』十七巻、二三五土ハ頁。. (却)『中津歴史』下二四四 1二四五頁からは、市学校開校当初に制度その他を決める際の協力者として「市 校協議人」と呼ばれる人がいたように読みとれるが、詳細はわからない。挙げられているのは、島津祐太 郎、山口広江、菅沼新、中野松三郎、古宇田与九郎である。「市校世話人」は十二年末に定められたのだ が、協議人とかなり重なるであろうと思われる。 (判)『全集』十七巻、二九一、三 O 三頁。 (担)『全集』十七巻、三 O 三頁。 (位)桜井宛書簡は『全集』十七巻、六一七 t二O 頁。 (必)「録事」明治十四年二月九日条に書かれている東京で管理している市学校の資産は、七分利付きの公債. l. 明治期大分の新聞研究. I. 」『大分県地方史』 一五三号、「「田舎新. 証書、丸家銀行券、第八銀行券、交銀局(中村道太)預け金などとなっている。また士族達の方でも、例 えば福沢は姉ゃいとこ達への送金を市学校宛の為替にしており、市学校を金融機関的に利用することも あった。. (判)春田国男「「田舎新聞」の時代. 99.

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