日本におけるセルフヘルフ
ーそこにみられる相互扶助の伝統と自立=解放運動の流れをめぐって−
岡 知 史
は じ め −こ
欧米のセルフヘルプには二つの思想が,その要素として根底にあると指摘されている(1).ひと つは,自助(self−help)であって,もうひとつほ,相互扶助(mutualaid)である.それぞれ,
スマイルズとクロボトキソがその思想の主唱者としてあげられる.一方は,19世紀イギリス資本 主義の道徳規範をかかげる著述家であり,他方は,無政府共産主義を代表する思想家である.言 い換えれば,一方ほ伝統を重んじ既存の制度を肯定する人であり,他方ほ,既存の社会制度を根 底から否定しようとする革命家である.
西欧のセルフヘルプにほ,このように二つの対照的な思想が共存しているといえる.これか ら,日本の「セルフヘルプ」について考えてみるのだが,そこでも対照的な思想を含む社会的事 象が取り上げられることになるだろう.
まず,日本の相互扶助が考察される.日本においては,相互扶助の思想ほ伝統的なものである といえるだろう.日本のそのような相互扶助制度は,後述するように,稲作農業と深く関係があ る.日本の相互扶助ほ,ムラ社会の相互扶助制度を見てもわかるように,伝統によって維持され,
ムラの変化を求めるものではないという意味で,現状肯定的なものである.社会を根本的に変え てしまおうとするクロボトキソのいう相互扶助とは,全く向かう方向が異なっているのである.
それに対して,自助に対応する日本の思想として,筆者ほ,部落解放運動などに代表される自 立=解放思想を取りあげたい.日本の網の目のように張られた人間と社会の相互関係のなかで,
自助の思想のなかに含まれるはずの自己決定の思想を実現するためには,まず「解放」されるこ とが必要だったのではないか.
スマイルズが「自助論」を書き上げたときほ,イギリスは世界中に領土をもつ世界帝国であっ た.そこで,自分自身の意志の力で切り開く西欧の「自助」の精神が強調された.それに対し て,限られた国土のなかで伝統的に高度に組織化された日本社会のなかでは,人間が自己を実現 するためには,まずさまざまなものから解き放たれることが必要だったのだろう.したがって,
人びとを引きつけたのは,「自助」というより「自立=解放」の思想だったのである.
日本におけるセルフヘルプ
西欧の「自助」が,伝統を重んじ現状肯定的な価値観を代表したものであるのに対して,大正 デモクラシー期の全国水平社運動にみられるような日本の「解放」思想は,もちろん社会の変革 を求めるものであった.部落差別の「伝統」,男尊女卑の「伝統」を否定するために,それほ社 会の変革へと向かうのである.
以上のことを考察すれば,欧米のセルフヘルプが,伝統を重んじる「自助」と,社会変革を要 求する「相互扶助」から成るとされる一方で,日本のセルフヘルプは,伝統としての「相互扶 助」と,社会変革を要求する「自立=解放」の部分から成ると言ってよいのではないか.やや図 式化して言えば,欧米のセルフヘルプが,「自己」を伝統のなかで見,「相互扶助」を変革の思想
としているのに対して,日本のセルフヘルプは,「相互扶助」を伝統のなかに見,「自己の解放」
を新しい核としていると考えるのも面白いだろう.
さて,以上のような観点から,日本のセルフヘルプを,ムラ社会を中心にした伝統的な相互扶 助と,それを受け継いだ形で近代国家のなかで生き続けているさまざまな地域組織,そして,そ れと相対する思想としての自立=解放運動の流れという三つの部分に分けて考察していきたい.
1.ムラ社会の伝統的相互扶助
1.1.ムラとその中のグループ
日本のセルフヘルプを考えるにあたって,その原点として,ムラの相互扶助を考えてみたい.
ここでいうムラとほ,日本の伝統的村落社会なのであるが,そもそもムラとは何だろうか.以下,
民俗学の成果に頼って論をすすめていきたいので,民俗学におけるムラの定義を見てみたい.
それによれば,ムラは「生活および生産のための地域的組織の基礎単位」(2)であるとされる.
その成立ほ中世後期から近世前期に遡り,「『小農』の家を構成単位として形成されたもの」(3)で あった.構成単位が個人ではなく,家であることが重要なポイソトである.そのためムラの中の グループも,本質的には家のグループであることが多く,その点で,個人が単位である欧米のセ ルフヘルプグループ(4)とほ,ほっきりと質的に異なるのである.
そのようなムラ内部のグループを以下に考察するのだが,そのグループは,ムラ内部にあるも のとして共通の特徴があった.それをここでは四つとりあげてみたい.
第1に,ムラ内部に凝集されて組織されたものが多かったことである(5).一部の例外を除い て,ムラを越えてグループが活動することはなかった.これほ,全世界にメッセージを送ろうと するセルフヘルプグループとほ全く対照的な点である.
第2に,加入脱退の任意性が少なかったことである.「ある集団に加入する資格や条件をもっ た該当者は,その人の意志のいかんにかかわらず,すべてが加入して構成員となることが原則で あった.また,逆に,一度加入すると,基礎的条件や資格が変化しないかぎり脱退は許されない のが普通であった.この点から加入脱退に関する閉鎖的集団がほとんど全てであったと言っても 過言ではない」(6)とされた.
そのため,それほ,決してボランタリーなグループであるとは言えなかった.ムラは,その一 体性を確保し,秩序を維持するために,むしろ,ボランタリーなグループやアソシューショソを 排除する性格をもっていた(7).
第3に,これらのグループほ「伝統的な」ものであった.「ここで伝統的であるといったこと ほ,まず,グループの起源が必ずしも明確でないということである.いつ,どのように組織され たかは集団の成員でもはっきりしないものが多い.つぎに,その成員は一度固定されると簡単に は変更できない.とくに成員の役割と地位とほ固定されたまま伝承される場合が多い」(色)のであ
る.
セルフヘルプグループの場合は,メソバーが合意すれば,いつでも会則等が変更できる(9).ま た,そのグループの起源などは,ほとんど記録によって明らかにされている場合が多いだろう.
ここも大きく異なる部分である.
そして最後に,ムラ内部では人間関係が分化していないため,人間関係の重複化が見られる.
福武の言葉を借りるなら,「集団の分化が都市ほどではないうえに,その集団が一定の地域の上 に累積している」(10)のである.したがって,グループが変わっても集まっている人間は同じであ るという現象がおきる.また,グループに集まってくる人々は,互いに,他の生活の側面を熟知 しあっている.そのため,AAなどのセルフヘルプグループに見られるような「匿名性」の原則 が可能になるような社会的背景は成立しえなかったわけである.
このようにムラのグループは,現代の,特に都市社会のなかでのグループとはかなり質の異な るものにならざるをえなかった.そのようなことを銘記したうえで,考察を次に進めていきたい.
1.2.互助組織
ムラの相互扶助組織として,まず想起されるのほ,おそらく「互助組織」であろう.この互助 組織とほ何かということであるが,それについて福田は次のように述べている.
「ムラほ個々の家の維持存続にとって必要不可欠の補充物として存在してきた.ムラが一つの組 織として運営され,その内部の種々の社会組織が活動することによって生産も生活も安定的に維 持されてきたといえる.しかし,それらは個々の家で生起することに直接的には関与しない.各 家のことについてはその家ごとに形成されている一定の関係やその家が帰属している集団によっ て処理されている.そのような各家のことを処理する関係や集団を互助組織と規定しよう」(11)と
いうのである.
すなわち,互助組織は,ムラや他の組織とほ違って,個々の家の問題に対処するためにつくら れたものである.この「個々の家」という個別性を問題にするところに,セルフヘルプとの類似 が感じられる.「集団全体の問題」ではなく,構成単位としての「個々の家の問題」を,互助組 織ほとらえるのである.
さて,このような互助組織ほ,農作業のような作業を行う「生産互助組織」と,葬儀や婚礼の とき,あるいほ災害や病人が出たときに行われる「生活互助組織」に分けられる(12).
まず,前者であるが,それは,モヤイ,ユイ,テツダイという三つのタイプに分けることがで
日本におけるセルフヘルプ きた(13).
モヤイとは,一種の「協同労働」で,「仲間で共同に働き,その成果を平等に配分する労働慣 行」であった.
それに対して,ユイは「(ひとつは)仲間がまとまった協同作業団をつくり,仲間の家仕事を 順次まわって済ませて行く形であり,他ほ家同志で個別に仕事の交換・貸借をし,まとまった協
同作業団ができないものである.前者をせまい意味の協同労働とすれば,後者ほ交換労働(14)とい うことにな」るとされる.
最後のテツダイというのは「田植えや稲刈りの際に特定の家から働きに来てもらうが,先方へ はいかない」という一方的なものであった.「そのかわり生活のめんどうをみてやったり,盆・正 月や節供にいくらか物品を贈るといった程度の反対給付がそこにあった」とされる.ユイが対等 の関係のうえで成り立っていたのに対して,テツダイは上下関係にあるイエの間で行われるもの で,典型的なものほ「身分関係に立つ古い地主小作関係におけるもの」であった.
生活に関する互助については,「吉凶行事の互助」と「病気・災害の互助」にわけられる(15).
「吉凶行事の互助」は,婚礼や葬儀のときに必要となるものだが,特に「葬儀の互助組織はどこ でも一番ととのった仕組みを示し,その範囲も広い」とされる.「病気・災害の互助」は火災,
水害などの非常事態の際に行われる.また,病気のときの互助であるが,「病人などで生活に困 るものをムラとして扶助する仕方にも,いろいろの慣行があった」.「見舞いとして田植えの最後 に,そうしたイエの田植えをみんなで済ませてやるとか,病人クボなどと名づけて,草刈日に出
られなかった家々のために草場を保留するとかいう慣行である」.
1.3.年齢集団
Killilea,M.は,ライフサイクルの移行(1ife−CyCle tranSitions)に対処するものとしてセル フヘルプグループをとらえる見方があることを紹介した(16)が,日本のムラには,そのようなライ フサイクルにしたがって,年齢集団が伝統的につくられていた(17).
年齢集団は,通例,二つの種類に分けられる(18).ひとつは「階梯型」とよばれるもので「ム ラの成員が性と年齢の別によって帰属すべき仲間のわくがはっきりできていて,しかも,人々ほ 年齢を加え,家族内の地位がかわるにしたがって,順次,上位の仲間に所属がえをしてゆく‥…・
(各集団は)けっして個々別々の存在ではなく,おたがいに関連しつつ,ムラ生活の協同機能の 一部をわけあっている」(19)という形態をもつ.
もうひとつの年齢集団は「累積型」とよばれ,「男女を問わず成年後になると,同輩のものが 任意に仲間をつくり,終生親しく交際する.これを連中とよぶ.連中はいくつか任意にできるが,
これにはいらぬものはない.だからムラ全般からみると,こうした同輩仲間が横にいくつか並び,
また世代的にほ縦にいくつか積み重なる形になるが,相互の連係ははとんどない.同じ仲間は年 齢を重ねても解体しない」(20).このような組織は「同年講」とか「同年会」とも呼ばれる(21).
しかしながら,一般的にムラのなかでの年齢集団といえば,「階梯型」のものをいうことが多 い.以下,この「階梯型」を中心に考察することにしたい.
例えばそれほ,男性は,子供組一若者組(青年団)−中老組(壮年団)一家長組(戸主組)一隠 居組,女性は子供組一娘組一嫁組一主婦組一老婆乱というように構成されていた(22).もちろん,
そのような組の名称も地方ごとによって違うし,その組分け方も違っていた.また,家長組(戸 主組)はムラそのものであって,年齢集団とは見なされていないことが通例であった.さらに,
女性の年齢集団に関しては,一般に男性のそれに比べて明確でほなく,また,年齢よりもむしろ 家族内の地位に関係して構成されていた(23).
次に,この集団を簡単にひとつひとつ見てみたい(24)
まず,子供組であるが,通例,寺小屋や明治以後の学校に行き始めたりする7歳から入会し,
男子15歳,女子13歳く らいが最年長である.男女別々にあるといわれるが,基本的にほ男子のみ という説もある.日常的な活動ほはとんどなく,ただ祭りのときに一定の役割をもつ.
若者組は,「年齢集団といえば青年男子の組織である若者組を意味するように,日本の年齢集 団の代表的存在」(25)であった.加入の年齢はムラの伝統的な成年年齢であり,15歳ないし18歳で あった.未婚青年(25歳く小らいまで)だけの若者組と,40歳ごろまでの壮年層をふくむ長男だけ からなる若者組という二種類があり,前者は西日本に,後者は東日本に多く,それぞれ全員加入 制の青年型若者組,長男単独加入制の若者絶と呼ばれる(26).その違いは,財産相続の仕方の違い からきていた(27).
若者組ほふつう寝宿(ねやど)という常設の合宿所(通常,個人の住宅がそれになる)をもっ ていた.この宿に対応して未婚の女性たちの娘宿というものがあり,集団的な男女交際の場にな っていた.結婚はその土地の若者組の承認を得なければならないのが普通であった.また寝宿は 警備の拠点や職業訓練や教育の場にもなった.組の内部統制については年齢の順に従い,かなり 厳しい自治的なものだった.ムラの年齢階梯制度にもかかわらず,上位の集団に対してもかなり
の自主独立の性格をもっていたという(28).
中老組については,「若者組を脱退して,まだ家長にほならない壮年層が,まま中老組といっ た名称で,かつてほ別の組織をもつこともあった」(29)というもので,その存在ほ「むしろ例外的 であった」(30)とされる.
家長組(戸主組)は,ムラそのものであり年齢集団とほ見られなかったと,すでに指摘した.
隠居組(老人組)も,「それが組として組織されていることほ少ない.一般的には還暦をすぎ た老人たちが,隠居した後に宗教的な講をつくっている例が多く,そのばあい,=…・男女を問わ ないのが普通である」(31)という.
さて,女性の年齢集団であるが,最も若い娘組については,若者組に対応する女性集団ではな く,「娘仲間」と呼ぶべきものであるという説がある(32).「仲間」は「若者組」と比べて任意加入 的な自由な小グループであった.
次の嫁組であるが,これほ「概して東日本に発達しているようである.安産と育児にかかわる 信仰集団として存在するのが通例で,子安講,十九夜話,地蔵講,子安観音講,山の神講,大官 講,淡島講など信仰対象はさまざまであるが,だいたい内容は似ている.年数回,講の集まりを
もち,共同飲食をする」(33)とされる.
日本におけるセルフヘルプ
主婦組,老婆組については,「主婦の同輩集団ほ,多く嫁組と対置されてつくられ,やほり東 日本に一般的であるようである.……時には主婦組の上位に老婆組のある場合もある.念仏講,
観音講など信仰集団の形をとり,年数回,あるいほ月念仏として毎月一定の日に講の集まりを持 っている」(34)といわれる.
さて,このような年齢階梯集団は,セルフヘルプグループとの関連でいうと,互助組織とほ違 って,イエが参加の単位でほなく個人が参加の単位であったことに注目すべきだろう.それだか らこそ,若者組のように,「イエ連合」であるムラから一定の独立性をもちうることもあったの
である(35〉.
また,今日にもムラ社会の年齢階梯的組織の流れを受けているように思われる組織が,多くの 地域社会に残っていることにも注意したい.今日の子供会,青年団,地域婦人会,老人クラブな どほいずれも,子供組,若者組,嫁組・主婦組,隠居組・老婆組などの伝統をなんらかの形で引 き継くやものであろう(36).
さらに,女性の年齢階梯集団が,年齢よりはむしろ家庭内の地位によって形成されたという点 も興味深い.というのは,セルフヘルプグループの一部もまた,家庭内の地位によって形成され ているからである.
女性や高齢者など,ムラ社会のなかで弱い立場にあった人々が,規律の厳しい若者組のような 組織をつくらず,むしろよりゆるやかな「仲間」や「講」という人間関係を選んだようだが,こ れもセルフヘルプグループへのヒントになりそうである.
1.4.講
互助組織,年齢集団に続いて,ここで考察してみたい第3の伝統的集団は「講」である(37).
講とは,「もともと仏教の経典を講説することで,講経の集会の呼び名として用いられてきた Lが,やがて,そうした集会に関係する仲間をさすようになり,ひいては同じ信仰にむすばれる人
々の集まりを広くいうことに転じた.そして,さらにはたんに同志の団体(結社)を意味するに すぎないほど,広い用例を持つようにもなった」(38)とされる.そして,講はその機能によって,
宗教的な講,経済的な講,娯楽的な講という三つに分けることができる(39).
宗教的な講は,さらに,崇拝者・信徒の講,氏子・壇徒の誇,民間信仰的な講に分けることが
できる(40).
崇拝者・信徒の講とは,全国の有力な神社寺院が,遠方の信者をムラ単位にまとめて,神社寺 院に結び付けるものである.伊勢講,金比羅講などは,その代表的な例である.講の行事として ほ,参詣祈願が主であり,全員が参詣することほできないので,費用を分担して代表者が参詣す るという代参制度がとられ,分担金を出すことができる家だけが諸員になれた.この代参制度ほ しだいに親睦,共済,娯楽旅行などの役割をも兼ねるようになる.
氏子・壇徒の集団も,例は少ないが,講と呼ばれることがあった.とくに壇徒の集団は,ひと つの壇郡寺にひとつの講が組織されるのではなく,ムラ単位や,年齢集団(若者衆,嫁講,婆講
など)ごとに分かれて講がつくられた.
民間信仰的な講ほ,ここで特に詳しく取り上げたい講であるが,講の外に信仰の中心があるの ではなく,講仲間だけで独自に祭礼を行うものである.信仰の対象ほ,山の神,田の神などの民 間信仰の神々か,それと混合した形の仏教か道教で,信仰内容はたいてい念仏中心であった.
「このように信仰対象はきわめて雑多であるが,行事内容はいちじるしく相似していて,いずれ も特定の宗教家的な指導者をもたず,仲間の家を輪番に宿(頭星)にあて,だいたい夜間に参集 して祈願と共同飲食を行う点は共通している……この類の講の集まりは多く夜間で,しかも徹宵
行事を本旨とするものであったから,共同飲食と談話が伴ない ,信仰から娯楽中心の形に移りや すかった……かつての村落生活でほ,これらの講は大切な社交の場であり,情報交換の機会にも
なった」(41)とされる.
女性の講としてしばしば言及される子安講や念仏講は,この民間信仰の諸に属するものであっ た.子安講は安産祈願のための講であり,嫁の講でもあり,嫁の地位にある女性たちの「唯一の
リクリエーショソの機会」(42)だった.姑は念仏講に参加する.子安読も念仏講も全員参加の組織 であって参加・不参加の自由ほなかった(43).
福武によれば,「こうした宗教的な講集団ほ,時代の進むにつれて,宗教的信仰よりも,娯楽 的な枚能をよりつよくしていった.したがって娯楽の機会が増すにつれて衰退した」(44)とされる.
一方,経済互助的な講とは,板母子講や無尽講などといわれる,一般民衆の金融互助組織であ った.また,社交娯楽的な講にほ,茶話,将棋講,講読などがあった.
このように一口に講といっても,その内容は実に多様であった.しかし,たいていは共同飲食 を伴なっていた(45)ので,代参講の一部を除いてほ,それほど大集団にほなりえなかったのである.
戦中,戦後まもなくほ食料事情が悪く,「共同飲食」という講の活動が実質的に不可能になっ てきた.それでかなりの講がなくなったようだ.また,戦後ほレクリエーショソの機会もふえ,
婦人会や老人クラブなどが講を再編する形で現われたので,講は衰退していったとされる(46〉.
さて,以上 諸について簡単に説明してきたが,現代のセルフヘルプグループとの関連を考え てみると,前述の互助組織,年齢集団と比べて,講はセルフヘルプグループとの類似点が少なく ないことに気づく.
まず,女性や高齢者の集団は多くは「講」という名称をもった(47)ことに注目したい.障害者や 病人がほとんど力をもたなかったムラ社会においてほ,女性は,ムラにおいては被抑圧者であっ たと考えてよいだろう(48).そのような被抑圧者たちが,信仰に救いをもとめて集まり,それが彼 等の唯一のレクリエーショソの場となったとすれば,講は,現代のセルフヘルプグループに近い ものとして映ってくる.また家庭内の地位が,講成員の参加条件であったり,死や生の問題を考 えるグループ(つまり信仰集団として)であったりすることも,セルフヘルプグループを思わせ る.一度に会食できるだけの少人数の組織であったことも,セルフヘルプグループと通じるので ある.
さらに,重要なことは,参加メンバーの間にリーダー シップにおいて平等性がみられることで
日本におけるセルフヘルプ 11 ある.平等性ほ,運営の当番制(49)という形で現われた.
しかし,講もまたムラの内部組織であり,その限りにおいて,現代のセルフヘルプグループと はかなり異なっている.例えば,「伝統」のなかで活動した講には,セルフヘルプグループのよ
うに社会変革の機能ほ一般にもつことが難しかったであろう(50).また,自由に加入したり脱退し たりすることもできなかった(51).
ともあれ,講は基本的にほ信仰の団体であった.西欧のセルフヘルプグループのひとつの起源 が,ユダヤ=キリスト教のグループ告白にある(52)ことを思えば,講もまた,日本のセルフヘルプ
グループの性格を形成しているひとつの潜在的な歴史的要素となっているのかもしれない.
2.明治以後の伝統的相互扶助の変化
2.1.匡懐の中央集権化と戦前・戦中の住民組織
この節では,明治政府が富国強兵の軍事大国をめざしてから,昭和の敗戦までのムラの変化,
および都市の住民組織について簡単に考察する.
まず,明治政府による中央集権的な行政機構確立の過程について述べなければならないだろ う.「明治政府は中央集権体制樹立のために最大のガンであるムラの自立性をこわすこと,そし て体制の基礎単位として,ムラに代わって行政市町村を創設することに必死の努力を懐けた」(53〉
といわれる.そして,そこで行われたことが,ムラの自立性の象徴ともいえる氏神を廃し,伊勢 神宮を頂点として,すべての神社をヒエラルキー構造のなかに組み込んでしまう国家神道政策で あり,明治4年の大区小区制にはじまる行政再編成の政策であった(54).
明治政府ほ,ムラの封鎖性を打ち破る中央集権体制をつくるにあたっては,かなりの困難に出 会わなければならなかった.ムラはムラの解体に強く抵抗したからである.その結果,政府は妥 協し,明治11年の地方三新法によって,「ムラを行政単位と認めはしないが,暗黙の了解のもと 行政市町村の下部単位とする.ムラの支配者を戸長,区長,村会議員,あるいはなかでも有力な 一人を町村長にあてる.権力ほこうしてムラの支配層を権力末端機構にくみこみ,彼らが支配す るムラをインフォーマルだが実質的な支配単位として,それの操作を可能にした」(55)のである.
ここで,共同体であるムラが同時に,行政の末端組織であるという構造,「公行政と村落自治 との二重構造」(56)が産まれたのである.
同じことがムラの内部組織に対しても行われる.つまり,明治政府ほ,第1章で述べたように ムラのなかで強い自治性をもっていた若者組の解体を計ろうとする.しかし,その強い抵抗を受 けた政府ほやがて逆に若者組を利用することを考えはじめ,官製の青年団を育成するようにな る.そして明治の後半になれば,全国の若者組を官製の青年団に変えてしまうだけではなく,ム ラ全体の年齢階梯組織を,「戸主会」を中核にして,老人の組織として「者老会」,若者組に代 わって「青年修身会」,女性には「母の会」「処女会」という官製の組織(これほ矯風組織とよばれ た)に変え,ついにほ「軍隊組織の農村」と呼ばれるようなものに変えていくことが勧められた
のである.ここに「一村一家」という概念が強制され,それが天皇制軍事国家としての「家族国 家」の底辺としての枚能を果たすよう期待されるようになる(57).
また,ムラ社会の伝統的な団体が変質させられただけではなく,国民総動員体制のなかで「常 会」や「隣組」がつくられた.常会は,職場でも地域でも,さらには職能別にもつくられた.常 会は「上意下達。下情上通」の組織として日本全国に(それどころか侵略した外国にまで)文字 どおり網の目のように張りめぐらされたわけである.そこで,われわれが特に興味をもってよい のほ「隣組常会」である.これは部落会や町内会の下に十戸前後の世帯より成る「隣保班」のこ とであった.その常会は月に一度,決まった日に行われた.その運営は(1)開会挨拶に始まり,
(2)遥拝・黙頑,(3)伝達・報告,(4)協議・懇談,(5)申し合わせ,(6)講話・和楽,(7)閉 会挨拶といった順序で行われた(58).
日本においてセルフヘルプグループの問題を考えるとき,われわれの国がかつてファシズムの 支配下にあったことを考慮すべきであろう.それは,全国的なファシズムを歴史的に経験しなか
ったアメリカやイギリスとは異なる市民運動の流れを日本において形成させる重要な一要因とな っていると考えられるからである.
2.2.町 内 会
現代においてもなお戦前からの相互扶助の性格を多く残していると思われる組織の代表的なも のとして,ここで町内会を取り上げる.それは,同時に町内会を日本の集団・組織の「原型」で あるとする考え方(59)を重視するからであって,現代の日本のセルフヘルプグループの概念を検討 する際に看過できないものと考えるからである.
町内会の起源ほ,大化の改新のころ,唐の五保制度を見本につくられたとされる五人組制度に 求める説もあるが(60),「これほ誤りである.五人組制度と町内会とほ直接ほ結びつかない.町内 会の祖型ほ,江戸時代の中期に官製した『町組』に求められる」とする近江哲男の説を取りた い.なぜなら,それは町内会と隣組をはっきりと区別すること(61)と,「町内」という社会的な集 団の単位を認める(62)ことにつながるからである.
「町内」という社会的な集団の単位を考えることは,次節で述べる「自助的公認アソシューシ ョ:/」の考察においてより明らかになるように,日本のセルフヘルプ,あるいほ相互扶助活動を 考えるにあたってきわめて重要なことである.
すなわち,「町内」というひとつの社会集団的な単位があって,その中の最大の組織として「町 内会」があるというのである.「町内」にある他の組織としてほ,地域婦人会や老人会,子供会な どがあり,そこには一種の年齢階梯制がみられるのである(63).そのような団体が「町内」にあ るということほ,会員がすべて「町内」の定住者であることを意味し,活動の範囲も「町内」に 限られていることを意味する.
例えば,東京都墨田区の場合は多くの老人クラブが「町内」ごとに作られてきている(64).ま た,大阪市阿倍野区の場合をみると,「町内」ごとに老人クラブがつくられている地域があるの みならず,「町内」の連合体である「連合町会」の債域ごとに「連合長寿会」がつくられ,母子
日本におけるセルフヘルプ 13
家庭の会,遺族会等もつくられているのである(65).
さて,このような「町内」についてよりよく知るために,戦後の町内会について若干,考察し
てみたい.
戦後の日本の政治改革において,GHQほ,全体主義特有の政治的装置として町内会を認識し,
1947年,地方制度改革の一環として禁止したのであった.しかし,それにもかかわらず,多くの
町内会は姿形を変えて存続し続けた.そして5年後の1952年,禁止令の失効によって町内会は全 国各地でよみがえったのである(66).
その一方で,「市町村内の地域下部組織について論ずることほ,行政担当者にとって一種のタ ブーとなった」(67)状態が続いたが,70年代にほいると,進む都市化現象に対応するため,自治省 はコミュニティ形成の促進事業を始めるようになり,町内会ほ再び注目されるようになった(68).
「コミュニティ」の概念は,町内会などの既成の住民組織とは異なった体質をもつものとして提 唱されたのだが(69),実際の政策レベルでは,町内会や自治会などの伝統的住民組織を強化する方 向につながっているといわれる(70).
そのような町内会がどのような特質をもって現代にいたっているかについては,いくつかの考 察(71)がこころみられているが,ここでほ,近江哲男の分析(72)を参考にし,前節までの考察と関 連づけて,以下の三つの点にまとめたいと思う.
まず,第1に,それは「町内」という基盤のうえに成立したものであることである.すなわち 市町村内を相互に重複しない形で成立している各地区(町内)にひとつひとつ結成されるのであ
り,その地区(町内)は,他の団体の結成の単位にもなっている.
これほ,日本の地域に密着した形での(すなわち「町内」を活動範囲に含める)セルフヘルプ グループが,「町内」の最大の組織である町内会となんらかの関係をもたなければならないこと を意味している.町内会あるいはそれに類した組織ほ,全国いたるところにあり(73),地域で活動 していこうとするグループは,町内会との関係を,好む好まざるにかかわらず考慮しなくてほな らない状況にある.その結果,町内会が強い地域でほ,ボランタリー・アソシエーションほ育た なかったり(74),新興のグループと町内会との衝突が生じたり(75),あるいほ「町内会連合会」が 地域の多くの組織を傘下におく(76)といったことが見られるのである.
第2に,伝統的なムラのなかの組織との類似点があることである.具体的にほ,その構成員の 単位が個人ではなく世帯であること,区域内のすべての世帯が加入する全加入制であること(77),
共同体的性格と機能集団的性格を合わせもつこと,その機能が複合的,包括的,かつ未分化であ ること,活動の関心が地元を越えるものではなく,閉鎖的であることなどである.
特に注意したいのは,全世帯の自動加入ということである.町内会がボランタリー・アソシエ ーションであるとほ言い難いのは,その加入方法が自発性に求められるのではないからである.
このような自動加入は,古く日本の農業の生産形態にその起源が求められることがある(78).
第3に,行政の末端組織と密接な関係をもつことである.すなわち,行政末端組織の事務の下 請を行う協力組織という一面をもつ一方で,地域住民の要求を行政当局に伝える下意上達の組織 であるということである.これは,町内会をボランタリー・アソシエーションとは言えないもう
ひとつの理由になっている.近年,市民と行政の接点においての住民参加が求められるなかで,
行政はますます町内会依存の傾向がでてきているといわれる(79).
以上のような町内会の性格は,同時に,その背景にある「町内」の性格をも反映していると言 わざるをえない.そのような「町内」の枠組みのなかで,特定の当事者が組織化される場合があ る.次節でほ,それについて論じることにする.
2.3.自助的公認アソシエーション:老人クラブの事例から
ここで,われわれほ,「公認アソシエーション」という概念を用いたい.それほ,越智昇が特 にムラ社会のなかでの「講」についてあてはめた概念であって,「ムラの一体性を日常的に体現さ せるた捌こムラ共同体によって伝統的に制度化され公認されたアソシエーション」(80)とされる.
前節において,われわれは,「町内」という社会的単位がいまもなお日本の地域社会のなかで生 き続けていることを見た.そこで,そのような「町内」のなかで,「町内」の一体性を前提とし て制度化され公認された当事者の自助的アソシエーションを,ここでは「自助的公認アソシエー ション」と呼びたい.
その「自助的公認アソシエーシ ョン」を具体的により明らかにするために,その典型とも考え られる老人クラブについて考察することにする(る1).
老人クラブは,「一定の地域社会において,老人自身がその福祉を高め,しかもそれが家庭の 福祉,社会の福祉をも進めるのに役立つことを目的とする自主的な組織である」(82)とされる.さ
らにその自主性は「老人自らの意志と働きによってクラブを結成し,その企画,運営も自らの手 によって行われること」(83)と規定されている.このように,老人クラブは老人のみを会員とした
グループであるし,後述するように,それは,少なくともその歴史の初期においては,老人たち 自身の強い願いによってつぎつぎに結成されたものであった.老人クラブを「自助的」と呼ぶの は,こうした理由からである.
また,上記のように老人クラブほ自主的な組織であると自己規定している一方で,老人福祉法 第13粂第2項ほ「地方公共団体ほ,老人クラブその他老人の福祉を増進することを目的とする事 業を行うものに対して,適当な援助をするように努めなければならない」といっている.このこ
とは,老人クラブが行政末端組織の支持を受ける条件を充分にそなえていることを意味する.
さらに,重要なのは,老人クラブほ「町内」からの承認を得て成立していると考えられること である.多くの老人クラブが,隠居組・老婆阻などの年齢集団や老人の講などを引継いだ形にな っていることは第1章で述べた.また,行政末端組織と深いつながりをもつ「町内」は,法律で 行政組織からの援助が約束されている老人クラブと良好な関係を保っていると考える方が自然で あろう.
一方,老人クラブにおいても「町内」は意識される.すなわち,老人クラブの地域の広さは
「会員がらくに集まれる程度の範囲であることが望ましい」(84)としながら,「都市,農村等のそれ ぞれの実情により,例えば,町内会区域等が考えられる」(85)という運営指針が述べられている.
また,活動のうえでも町内会への協力が大きな比重を占めているのである(86).
日本におけるセルフヘルプ 15
以上のようなことから,老人クラブはひとつの典型的な「自助的公認アソシエーシ ョン」と考 えられるのである.
次に老人クラブの性格をより明らかにするために,その歩みを簡単にふりかえってみたい.そ の歩みは,老人クラブが老人福祉法の制定によって国庫補助事業の対象となった1963年を境とし て,大きく二つに分けることができるだろう.
そもそも老人クラブは,1950年,関東ブロック養老施設研修会で,浴風会保護部長であった 芦沢威夫が英国の老人のクラブ活動を紹介したのがそもそものきっかけで広がったとされてい
る(87).また,翌年1951年,中央社会福祉協議会(現在の全社協)によって「としよりの日」の運 動が行なわれ,そのような社会的な意識が高まった.そして,1953,4年ごろから全国的に広が
りはじめたというのが「定説」(88)という.しかし,いずれにしても,「老人クラブの発生について ほ諸説が分かれるところ」(89)であるとされる.また1954年には,全国で112の老人クラブが結成さ れていた(90).
その当時の老人クラブほ,「強力な指導者の指導が必要欠くべからざるものであったし,……そ れぞれ特定な人達の相当な犠牲の上に」(91)運営され,「先覚者による孤軍奮闘」(92)が目立つもの
であった.
しかし,老人たちが,老人クラブを心から欲していたのは事実のようである.ある報告書ほ次 のように言う.「当時の老人クラブほ,……戦後の社会変動によって窮地に立たされることになっ た老人達の心の寄りどころでもあった.例えば,民法の改正ほ,家族制度や家父長制を崩壊させ たし,夫婦子供単位の家族構成は,経済力を持たない老人達を,精神的にも,経済的にも,更に は,物理的にも,その家庭の枠外にほみ出させる結果となった.これら家族からはみ出した老人 達は,同病相集い,相隣む式に,孤独をやわらげ,お互に慰め合う場としての老人クラブを求め て集まった」(93)とされる.希望のない状態から自発的に自分と同じ問題をもつ老との交わりを求 め,そこで問題を解決しあっていこうというセルフヘルプグループとしての性格(94)がそこに現れ ていたのである.
このような性格をもった老人クラブは,徐々に,全国的に広がっていったが,1963年,国庫被 助事業の対象になると,そのクラブ数も会員数も一挙に倍増する(95).質ほかならずしも量にとも なわないのが通例であるから,「粗製乱造式のものも現れ……開店休業の状態に追いこまれる例 もたいへん多い」(g6)のが実情であった.
もちろん,国からの経済的援助をめく一っては,多くの議論がなされたらしい(97).老人クラブの ような「自主的な任意の小団体」が,「国からの補助が出されることは,世界にも例を見ない画 期的なことであり,わが国だけの特別な措置である」(98)と言われる反面,経済的援助と引換えに,
その主体性を失ってしまうことが懸念されたのである.一方,補助金ほ,少なくとも東京都内の 老人クラブにおいてほ,「これがないとどの単位老クの運営も成立不能といえる」(99)状態にある.
とはいえ,老人クラブほ,社会変革的な機能を失ってしまっているというわけではなく,老人医 療の有料化への抵抗などソーシャルアクションを起こすこともあった(100)
ともあれ,1989年度の統計によると,全国の老人クラブ数12万9,600,会員数828万人,全国の
60歳以上の人口の42.8%が老人クラブの会員になっている(101).クラブ数,会員数は現在も増え 続けているが,これは人口の高齢化によるものであり,老人クラブの加入率そのものは,1980年 の51.0%をピークに減少の一途をたどっている.その理由としてはさまざまなものが考えられる だろうが,東京の老人クラブの場合,大半のクラブが新規会員の勧誘に力を入れていないことが
あげられるようである(102)
最後に,老人クラブと第1章第4節で述べた「講」との関連について若干指摘したい.
講が,特に会食活動を中心としていたため,戦争状態が深まるにつれて食料事情が悪くなり,
活動が停止してしまったことは第1葦第4節に述べた通りである.
その講と,戦後8,9年の間に広がった老人クラブにいくつかの共通項を見つけることができ
る.
すなわち,第1に,老人クラブは,ムラ社会が残っている農村部の方が,都市部に比べて活動
がさかんである(103)
第2に,もちろん自由参加であるが,ムラ社会が残っているところでは,ある種の「しきた り」として,老人クラブに加入することもあると考えられる.そこでほ,自発的に加入するとい うよりは,「加入することになっている」と思って加入する傾向が若干見られるのである(104)
第3に,地域性の重視である.クラブの機能別,老人の特性別の老人クラブは,以前から必要 性が言われながらも(105),定着していない.それどころか,地域性に固執するあまり,二重入会 の禁止(106),越境入会の問題(107)が論じられている.これほ,セルフヘルプグループでほはとん ど考えられないことであろう.
第4に,老人クラブは,その活動の内容において,講の伝統を引き継いでいるような兆候があ る.まず,「会食」の伝統.老人クラブにおいては「支出の上で,飲食に関する経費が相当に多 い・‥‥・ あるクラブでほ,集まるたびに一パイ出さないと会員が集まってこないというところもあ る」(108)と言われる.さらに「娯楽重視」の伝統.講が娯楽供給の機能をもっていたことは先に 述べたが,老人クラブもまたレクリエーショソを非常に重視しているのである(109).さらに,一 部には「信仰」の伝統が残っている.老人クラブへの参加率が日本で最も高い富山県を例にとる
と,196のクラブのうち167が「よく行なわれている活動」として「信仰」をあげている(110)
以上のようなことから,老人クラブは,日本の伝統的な相互扶助の要素を非常に多く残したも のであると考えてもよいのではないか.そのような相互扶助組織を「自助的公認アソシエーショ ン」と呼ぶとすれば,このようなアソシエーションは,他にも母子家庭の会(111)などにも見られ,
日本のセルフヘルプグループ活動のあり方を考える上では無視できない存在であるといえる.
3. 自立=解放運動の展開
さて,最後に,日本のセルフヘルプ運動に社会変革的な要素を与えていると思われる自立=解 放運動の展開をさぐってみたい.ここでは,戦前の解放運動として,婦人運動と部落解放運動を
とりあげたい.そして,戦後の解放運動として,患者運動,障害者運動をとりあげることにする.
日本におけるセルフヘルプ 17
3.1.戦前の二つの解放運動:女性解放と部落解放
第2章第1節において若干言及したように,明治政府ほ,ひたすら日本の軍事大国化政策をす すめていった.その勢いほ,第2次世界大戦において頂点に達し,それまでにはとんどの市民運 動は弾圧されつくしてしまう.したがって,日本の市民運動の流れは,戦争を契機に,戦前と戦 後に分けることが可能であろう.
さて,日本の市民運動の出発点としてしばしば言及されるのは,1918年(大正7年)の米騒動 にほじまった民衆運動である.それは,ひとつの画期的な民衆蜂起であり,これを契機としてさ まざまな市民運動が歴史の表舞台に出てくる.1920年にほ日本最初のメーデーが開かれ,また同 年,大杉栄等が日本社会主義同盟を結成,平塚雷鳥等の女性たちほ新婦人協会を結成する.1922 年には全国の部落民たちが水平社の創立を宣言し,全国の小作農民は日本農民組合をつくる.
この社会的な動きは,大正デモクラシーと呼ばれるが,そのなかに,日本のセルフヘルプグル ープ運動の思想の核のひとつである自立=解放思想の萌芽をみることになるだろう.それは,西 欧のセルフヘルプグループ運動が,ヨーロッパの18世紀から19世紀にかけて成長していく友愛組 合や,アメリカの19世紀から20世紀にかけて広がる労働組合運動に,ひとつの思想的源流をもつ
のと対比することができる(112)
しかし,大正デモクラシーは,1923年の関東大震災とそれに続く社会的混乱によって大きくつ まずくことになる.「関東大震災は,朝鮮人と社会主義者・労働運動家にたいする無法・暴虐き わまりない白色テロリズムが横行する機会となった」(113)のである.そして数年後(1925年)に 公布された治安維持法によって,国家権力の思想統制ほますます苛酷になり,育ち始めたデモク
ラシー(民本主義)は圧殺されていくことになるのである.
ともあれ,大正デモクラシーほ,労働運動,普選運動,農民運動など多様な側面をもっていた が,戦後の日本のセルフヘルプグループ運動にもっとも影響が大きかった運動は,ひとつは婦人 運動であり,もうひとつほ部落解放運動であろう.というのは,それらの運動は「女であるこ
と」「部落民であること」が厳しい差別の対象であった時代において,それを積極的な価値を持 つものとして捉え直し,その上にたって権利を主張する基礎としようとしたからである.平塚雷 鳥の「元始,女性は実に太陽であった」,水平社宣言(114)の「吾々がユタであることを誇り得る 時が来たのだ」という有名な言葉ほ,まさにその運動の思想的原点を象徴するものであった.
L.H.Levy は,セルフヘルプグループの認知的なプロセスとして,最後にくるものは「オル ターナティブな,代替的な文化・社会的構造の出現であって,そのなかからメンバーは,自分の パーソナルなアイデソティティの新しい定義と新しい規範を発展させることができるのであり,
またそれによって自己尊敬の感情を基礎づけることができる」(115)とする.戦前の婦人運動。部落 解放運動ほ,そのような思想的契機をもっていたということで,戦後の日本のセルフヘルプグ ループ運動に与えた影響は大きいといえる.
さて,そこで,簡単にその二つの運動を,歴史的流れにそって見ていきたい.
戦前の女性解放運動を語るときに,婦人運動と呼ばれることが多いようだが,戦前の婦人運動 の第一歩は,1886年の東京婦人矯風会の結成であった(116).また,平塚雷鳥が1911年に雑誌「青 年」を創刊したことも婦人運動の夜明けを告げるものであった.青韓社そのものほまだ「いわば 中流以上の家庭のインテリ女性による文学の結社」(117)という側面をもっていたが,それでも,
良妻賢母主義を前面に押し出す当局は,青年社の思想を「家族制度をゆさぶるもの」として厳し い弾圧を加えたのである.雷鳥ほのちに自分の後継者に伊東野枝を選んだが,「青鞍」は1916年 には廃刊に追い込まれる.伊藤は後に大杉栄の妻になり,1923年,憲兵によって惨殺される運命
をむかえる.
一方,雷鳥らは,1919年,新婦人協会を結成.1921年には,久布自落莫らが婦人参政権協議会 をつくった.それは1900年にできた治安警察法の第5条の「女子ほ政談集会に会同し,その発起 人となるを得ず」という条項を改正させることを主たる目的としてつくられたものだった.のち にこのような目的をもった婦人団体が団結し,1924年に婦人参政権獲得期成同盟が結成される.
翌年,普通選挙法が公布され,婦人の公民権運動は高まりを見せたように思われたが,同年,
治安維持法の公布,1928年特高警察の全県配置,同年の文部省による「大日本女子青年団」の結 成,1929年の世界恐慌というように社会的混乱と国家権力による抑圧は強くなり,1930年には文 部省の指導監督による大日本連合婦人会がつくられる.そして,それは内務省・厚生省をバック にした愛国婦人会,陸軍省をバックにした国防婦人会と結合され,1942年,東条英機内閣のもと で大日本婦人会が発足.それは全体として大政翼賛会の傘下団体になった(118).各県,市町村に その支部がつくられ,女性ほ半ば強制的に入会させられ,その結果,会員は1年間で1,900万人 にも達した(119).
戦前の婦人運動については,参政権だけではなく,消費者運動の芽生えもあったことも少しふ れておきたい.米騒動以降,各地に消費者組織が結成された.1920年に,大阪府下室町婦人会が 中心になって室町購買組織が,1923年には,やはり大阪で総同盟指導者たちの夫人たちが中心と なり購買組合友愛社が創立される.特に,この友愛社は,組合活動を婦人解放と無産階級の運動 に結びつけていた.また,1927年には婦人消費組合協会が設立されている(120)
もうひとつ,ここで取り上げたい解放運動は,部落解放運動である.1871年,明治政府は「部 落解放令」を出すが,しかし,それほ「単に蔑称を廃止し,身分と職業が平民なみにあつかわれ ることを宣明したことにとどまり,現実の社会関係における実質的な解放を保障するものではな かった」(121)のである.そのために「明治維新後の社会においても,差別の実態ほほとんど変化 がなく,同和地区住民は,封建時代とあまり変わらない悲惨な状態のもとに絶望的な生活をつづ けてきたのである」(122).このような状態から部落の人々が立ち上がる契機となったのは,やは
り1918年の米騒動であった.この騒動によって同和問題は新しく再発見されたといわれる.そし て帝国公道会は翌年(1919年),第1回同情融和大会を開催.1921年には,全国規模の融和団体,
同愛会が結成された.
こうした融和運動に対して,それを批判する論文「特殊部落民解放論」が1920年,社会主義老
日本におけるセルフヘルプ 19
の佐野学によって書かれ,部落の青年たちに大きな刺激を与えた(123).そして1922年,京都で全 国水平社の創立大会が開かれる.中心となったのは,奈良県の一部落の青年たちであり,彼等ほ 東京の堺利彦,山川均,大杉栄などの社会主義者の影響を大きく受けていたといわれる(124).水 平社の運動方針の第一の綱領は「我々特殊部落民は,部落氏自身の行動によって絶対の解放を期
す」とあった(125〉
しかし,このような水平社運動も,翼賛体制のなかでしだいに変質していく.1938年には「国 体尊重・国民融和」の新綱領を採用し,1940年には「大和報国運動」を自ら展開することとなっ た.そして,内部から「部落厚生皇民運動」が提唱されるようになったが,それほ「国体尊重」
のためには水平社の組織そのものの解消が必要と訴えるものであった.翌1941年にほ,内務省の
「言論・出版・集会・結社等臨時取締法」の施行があり,水平社は「解散声明」を出すことを当 局に迫られたが,自然解消という形で精一杯の抵抗を示したのである(126)
以上のことを見るかぎり,戦前の自立=解放運動の特徴は,二つあると思われる.ひとつほ,
天皇制国家とたえず戦いを迫られたということである.米騒動を契機として民衆ほ立ち上がり団 結したのだが,軍国主義化のプロセスのなかで,その組織ほ圧殺されるか,もしくほ変質させら れた.国家総動員体制のファシズムの下では,自律的な社会変革的な組織ほ解散する自由しか与 えられなかったのである.もうひとつは,その思想が,社会主義思想(無政府主義,マルクス主 義,無産者運動等)と密接な関係があったということである(127〉.そのため,セルフヘルプグル
ープ運動に特有の問題の個別化・特殊化(128)の視点はあまり見られないように思われる.
3.2.戦後の患者運動
1945年,日本ほ敗戦を迎え,社会は大きく変わることになった.戦前の市民運動としてほ,婦 人運動と部落解放運動を取り上げたが,戦後のセルフヘルプグループ遅効として,まず患者の運 動を考察してみたい.
さて,戦後の患者運動をとらえるといっても,戦前にそのような運動がなかったわけではない.
長宏は,戦前の患者運動として,1877年から1890年まで大小の規模でくりかえされた明治の「コ レラー揆」をあげている(129).コレラは明治期の全時代をつうじて流行したといわれるが,それ に対する対策として,明治政府のコレラ患者にとった処置は極めて残忍なもので,コレラ患者と 診断されたために,無理やりに毒薬を飲まされ生きたまま箱に詰められ焼かれた多くの人々がい た事実がったえられている,一方,ハソセソ氏病患者に対しても,やほり残酷な仕打ちがなされ たが,大正デモクラシーの影響を受けて,全国各地の療養所では患者自治会が結成された.1926 年には九州療養所で全国はじめてのハソセン氏病患者の自治会ができた.つづいて,1927年,
1931年,1936年に,大阪の外島保養院,大島療養所,長島愛生園で,それぞれ自治会が結成され
たのである.
しかし,このような運動が戦前にあったとしても,ファシズムの嵐のなかでほどのような市民 運動も息をすることほできなかった.患者運動が本格的に展開するには敗戦を待たなければなら
なかった.以下,いくつかの研究をもとに簡単に戦後の患者運動をふりかえってみたい(1301 戦後,いちはやく患者の組織を作ったのは結核患者たちだった.彼等は終戟後3年目(1948 年)にして,日本患者同盟をつくった.それほすでに全国規模で広がっていた二つの組織,全日 本患者生活擁護同盟と国立療養所全国患者同盟が統合されたものだった.その先頭にたって患者 を組織化した人々のなかには,戦前・戦中にかけてファシズムの弾圧のなかで身体をこわした労 働運動・政治運動の「活動家」たちが少なくなかったという.また,全国ハソセソ氏病患者協議 会が結成されたのは,日本患者同盟結成から3年後のことであった.この二つの全国組織を中心 に患者運動ほ展開されたが,この組織の特徴ほ,長期の療養生活を共におくっている患者達の自 治会を基礎にしていることであった.
筆者は別稿で,西欧でほ60年代に急速にセルフヘルプグループの運動が社会変革の側面を強く して伸びていったと指摘したが(131〉,日本の患者運動でも同様のことがいえる.長宏は患者団体 の調査の分析によって「特に,1960年代の中ごろから,1970年代の中ごろまでの10年間にほぼ
(患者の)組織化が集中しているのが特徴といえよう」と述べる(132).っまり,疾病別の患者組 織が次々に結成された時期なのである.在宅生活をおくる患者を対象に,地域単位に支部組織も つくられた.患者同士の体験や知識の交流も重要な活動と考えられるようになった.
なぜ60年代かということについては,「1950年代の後半からすすめられてきた《高度経済成長≫
政策の推進過程で,労働災害,職業病,交通事故,企業公害(大気汚染,水質汚染など),薬害等 によって国民の健康が急速に破壊され病人が増えたこと.そこで病気の原因を明確にし,その責 任を追求しようという抵抗運動が組織されてきたのである.その抵抗運動が患者運動であり,そ の母体が患者団体である」(133)とされる.それは,運動の性格上,戦後まもなく始まった結核患 者やハソセソ氏病患者の運動の流れとは独立した運動であった(134)
70年代にほいると,各患者団体は疾病の種類を越えて全国的に団結した組織ができる.ひとつ は1972年に結成された「全国難病老団体連絡協議会(全難逓)」であり,もうひとつは1975年 にできた「全国患者団体連絡協議会(全患連)」である.また,都道府県単位の地域では地域難 病団体連絡協議会がつくられ,1974年から「全国地域難病連絡会」がもたれている.なお,「我 が国において,初めて患者運動の全国統一組織」と結成宣言に読み込まれた「日本患者。家族団 体協議会(日患協)」が発足したのほ,1986年のことである(135)
さて,最後に患者運動についての問題点をひとつあげると,それは,政党との関係であろうか.
患者運動のリーダーである長宏ほ,次のように述べている.すなわち,「いくつかの(患者)団 体は特定の政党とのみむすびついている.このような団体にはややもすると,その政党を支持し なければ,同一歩調をとるべきではない,と共同行動を拒否する懐向がある.ここでは要求より イデオロギーが先行して統一行動を妨げる,ということになる.これは運動論の初歩的なあやま
りといえよう」(136)というのである.同様のことは,障害者運動(137)や,戦後の部落解放運動(138)
についても,指摘されている.戦前の自立=解放運動が,社会主義思想と深い関係にあったこと は前節に述べたとおりである.患者運動は,そのような戦前からの伝統を引きずったままで,自 らをどのように位置づけるのかを未だ模索しているのかもしれない.
日本におけるセルフヘルプ 21
3.3.戦後の障害者運動
さて,最後に,戦後の日本のセルフヘルプグループ的な市民運動の,もうひとつ大きな流れで ある障害者運動について考察したい.
障害者運動の流れについて,順を追って見ていくと,戦後まもなくから「障害者運動の黎明 期」が始まったとする見方もあるものの(139),→般的には,それほ60年代半ばか後半から始まっ
たと考えられている(140)
それ以前はどうであったかというと,自分自身,障害者運動のリーダーである八木は,「1960 年代前半までの障害者運動は欧米,日本とも,解放運動と呼びうる内実をもつものは全くといっ ていいほど存在しない.いわば障害別の障害者団体が,権力の政策としての慈善的,慈恵的,社 会防衛的,社会効用的取扱いの枠内で,既得権の分配をェゴのごり押しを通じて継続的に展開 し,結果的にほ自己消滅的な運動を続けてきたということができよう」(141)と指摘する.
60年代後半に見られる運動の成果としてほ,1963年に,脳性マヒ老の運動団体である「青い芝 の会」の呼びかけによって,「身体障害者団体連絡協議会」が結成されたことである.しかし,
これは,その当時のリハビリテーショソ医療をめく−る闘争と「健全老のひきまわし」によって,
結成後わずか2年で崩壊したという(142).また,「全国障害者問題研究会(全障研)」と「障害者 の生活と権利を守る全国連絡協議会(障全協)」が結成されたのも,この時期(1967年)である.
70年代に入ると(143),1975年,前年にひきつづいて,身障者団体ほ,総評などの支援をうけて
「75春闘身障連絡会議」が発足したが,前年と違って障害者自身が事務局長に選ばれていた.そ して春闘が終わると,それを引き継いだ形で「障害者の生活保障を要求する連絡会議(障害連)」
が発足した.その経過からして,総評系の労働団体と深いつながりがあった.→方,そのような
「政治色」と相容れない障全協ほ参加せず,「青い芝の会」等が中心となったグループは,、翌年
「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」を結成した.
これで,70年代後半には,障害者の全国組織ほ三つに分かれたわけであるが,それが79年の養 護学校義務化の問題をめく一って,全障連は「阻止」という立場をとり,障害連は「義務化阻止闘 争そのものの戦列に加わることがついにできないで終わってしまった」.そして障全協ほ養護学 校義務化を運動の成果ととらえるという三者三様の態度をとることになった.
70年代のもうひとつの重要な展開ほ,障害者運動が「地域」と結びつくようになったことであ る.すなわち,「1970年代に入る頃からは,このような運動が,とくに地域に立脚した地道な実 践として全国各地に展開されはじめてくる」(144)のである.
津田等は,そのような障害者運動の変化について,次のように述べる.すなわち「障害者問題
が,社会で,公然とマスコミにとりあげられるようになって…… ,それまで,障害者と 無関 係 に暮らしえてきた健常者のなかから,運動に参加してくる老が非常に増えた」(145).そして
「健常者が多量に参加してくることによって,地域的にも独自の運動を組織することが可能にな ったのである」(146).さらに,この「地域」を障害者運動が目指し始めたということほ「生活圏 拡大のための物理的要求だけが提出されるというのでほない.障害にたいする当然の配慮をその