5月28~29日 伊勢市 伊勢神宮式年御遷宮 お木曳
伊勢神宮の第60回御遷宮が昭和48年秋に当る。その造宮用材が木曽谷で伐採されているが、その用材は内宮の ものと外宮のものに分れて夫々搬送するのをお木曳といゝ、本年4、5月に行われた。
外宮関係の用材運搬を陸送(おかひき)、内宮関係のものを川曳(かわびき)といって、毎回伊勢市を中心とする 旧神領民11万人が一体となって、これを行事として曳く。
これに対して全国各地からの伊勢信仰の人々が1日神領民となってこれに参加する。
川曳 五十鈴川の菩提川瀬より川の中を用材を浮べて遡り、神宮工作所の前の河原で用材を橇(木馬)に引き あげ、工作所の裏門から構内へ曳上げる。
陸曳 宮川、度会橋の橋詰から二俣町、常盤町を経て八日市場町に出て外宮火除橋まで曳く。お木曳車を用い る。
特殊のお木曳。
お木曳初式 役木曳といって、内宮、外宮を始め別宮の棟木等大切な部分の材木を川曳及び陸曳で行うもので、
古来のしきたりのある町がこれに当る。本年は4月12日に川曳、4月13日に陸曳があった。その他の部 分の用材を曳く。お木曳まつりの先駆となる。
慶光院曳 内宮の御扉木を奉曳するお木曳で、これに限り川曳ではなく陸曳となる。宮川の橋向うのもと慶光 院のあった磯部落のものが曳く。宮川の橋詰より他の陸曳の路を外宮に立寄らず、更にそのまゝ曳進ん で内宮の神宮工作所まで曳くのである。慶光院は 上人が戦国時代神宮の遷宮に勧進して復活したた め磯に院領を与えられたもので、その子孫は今日なお現存する。
一般のお木曳はお木曳初式が行われて後、奉仕各町内(77団体)が夫々日を定めて曳く。本年は 川曳 5月21~29日に4日(大体、土曜と日曜)21町内。
陸曳 5月7日~5月29日、8日、56団体。
5月28日、午後2時4分、伊勢市駅着。すぐその足で電報電話局前に行き、陸曳中の常磐町西世古組を見る。木 製のゴムタイヤを掛けた双輪の木曳車の上に用材を載せ、その上に櫓を組む。用材には注連飾りをつけ櫓に幕を張 巡らし、その屋根を葺いた櫓には「木遣児」とよばれるものが乗る。
木遣児は各町内別に自町が曳く用材の曳車には必ず、あるらしい。大てい青年がなるが偶々町内に適当な子供の なしにて青年も乗る。西世古組では黒装束の青年が1人乗っていた。
櫓より掛橋を伝って櫓の前方、用材の先端の上部の方へ乗出し左手には紅白の布を巻いた手綱を持ち、右手には ぼんてん様の大総の幣を持って、町内の要所要所で車を止め、木遣謡を歌う。
木曳車には用材の後の部分から梯子をかけて櫓に登る。用材の後方には梶取綱が2本内客4本ついて世話人が車 の動く方面に常に整理している。
木曳車の前方に2本の曳綱をつける1本の綱の長さ50‐60mもある。これを引くものは町内の若衆で、その年に 考案された揃の法被を着る。その他に 1 日神領民として綱曳を希望するものは男女を問はずこれに参加するが、こ の方は服装に規定はなく区々である。従って多いときは1台の車に1,000人もの曳子が曳くことがあるらしい。綱 を曳くよりも青年が綱を左右に開いたり、交互させたりして相当暴れる。
綱の前方には囃子屋形(大ていは小型トラックを仕立てる)が行き、その後方綱との間には姫さん達の手踊りが 入る。伊勢踊りであるが歌謡と振付はこの日のために町内毎に新作ものを出すらしい。
西世古組に續いて、この日曳いたのは倭町、常盤表町、常盤仲町、浦口町、常盤第一区、宮町と全部 7 組が曳か れた。それぞれ衣装も違うし、例へば常盤第一区の木遣児は今年は年少の子供が選ばれ、櫓に上るのは危いという ので、木曳車に櫓はつけず、用材は注連飾の外に日の丸国旗を交互し、榊を立てゝあった。
宮町の木遣児は青年が 5 人ばかり、揃の鬱金地小紋の狩衣姿で交ること櫓の前方の張出台に上って、さながら木 遣音頭コンクールよろしく咽を競った。
少し空模様があやしくなって来たので川曳も今日のうちに見ておくことにし県立体育館前の五十鈴川磧へ急いだ。
川曳は今日は朝熊1組、朝熊2組、一宇田、中村、鹿悔、楠部の6町内が曳く。川曳は菩提山淵から新橋の手前 まで川中遡って曳くのであるが、到着したとき(午後 4 時頃)は各組とも水切場まで切上げた後で、最後の楠部町 の用材が河岸へ曳上げられている所であった。用材は何れも木馬風の橇に横たえて縛ってあり前後に笹竹と町内の 旗を立てる。4、5人の世話人風の若衆がやはり法被姿でその用材の上に馬のりになっている丈けで、陸曳の木曳車 や櫓のような飾り付けはない。2 本の引綱はやはり 40~50m川中は分らぬが川岸から曳あげて工作所門前のもと河 岸であったであろう広場では相当暴れる。まだその先導をする囃子屋台や娘達の踊りはない。
囃しには陸曳にはなかったホラ貝を吹いて勢づける役が2人乃至3人付く。木遣音頭は引綱のリーダーをやる世 話人格が巻込まれて倒されることもある。幣棒についている幣は水中を渡るためか川曳の方では薄い長細のヘギ(木 片)である。同じことではあるが陸曳の方のは大きな和紙の幣紙で造ってあった。この幣持の連中が途中で両綱の 間の1ヶ所へ6、7人輪になって、幣棒で調子をとりながら歌う木遣音頭は見事であった。
24日は予報通り雨で、川曳は中止となった。陸曳の方は礒組の受持つ慶光院曳で、これは宮川から内宮まで、約 3キロを曳いた。慶光院曳の木遣児は9~10才位の少年で、4人ばかり、木遣音頭は歌はず、櫓の中に雨中をおとな しく坐っていた。
午前中、雲の中の伊勢志摩スカイラインを通って見たがこれは雨のため折角の景観は全くだめ。神宮徴古館で、
お木曳に関する資料展があったので入る。
資料展で得た所によると、陸曳先導の伊勢踊、木遣音頭の歌詞、曳子若衆の揃えの衣裳、それに川曳で川筋に立 てる組ごとの大幟旗等は何れもお木曳ごとに町内が新しく工夫して新作を持ってやるのであって、古いのをその まゝ踏襲するのではない。
用材は当初は神宮領の神路山から伐出したものらしく、それが次第に良材が少なくなって、伊勢国各地となり、
今日では木曽谷で大部分が伐出される。そのため例へば昭和48年の遷宮に先だち7年前の昭和41年となっている が、この 7 年前というのは毎回決っているわけではない。お木曳はもと大部分の用材を宮川上流の山林より伐出し ていた頃の名残で、外宮関係の用材は宮川を流した用材を度会橋附近より曳上げて陸曳となったのは現在の通りで あるが、内宮用材はそこから 1 度宮川川口に出して海岸沿いに五十鈴川に運び上げ、菩提山淵に集めて、そこから 川曳を始めたようである。
木本祭といって両宮造営に当り中心の太柱にする木は今日でも神路山から伐出すことになっていて、その木に最 初に斧を入れる工行を木本祭という。(もとは山口祭といったことは「桧尾山心御柱行事図に出ている」
木遣唄にはいろいろ趣向をこらしたものがあったらしい。
明治42年岡本町の歌本によれば、同町の木遣歌はなぞなぞ尽しで古来名ありとある。
木遣若衆とかけて羅生門の鬼 と解く心は 綱をつかんで曳くワイナ 二月初午 とかけて 田楽の下手 と解く心は 厄を落す ワイナ 道唄に十二ヶ月あり
一月 門松や門松の数を重ねる喜びに はたたく鶴に亀の舞う ヨイナヨイナ ヱイサッサッレエー 馬瀬の木遣歌、女五首。
馬瀬の里人はこそりて猿楽の狂言をたしなみ、昔の木曳に鈎狐の芸をなして譽を得たり、此度は狂言の名によ せて木曳の心をのべ五十五音を以って次第となす
あ 麻布殿には はや しめをひく 春のくるのを待ちかねて い、伊文字をついたる伊勢宮本の有志いさみていざひかむ う、靭猿さえいのちをのべて弓と車をひきかへむ
え、夷子大黒、宮木の綱をとらばまことの福びきよ お、大藤間さへあわてゝ出づる狩場ならねど真木曳きよ か かくし狸のたのしきけふや、腹をたゝきて尾はみせず き 狐塚にはすむ あなかしこ、人のきをさえひきこめず く 鞍馬参りの宝も蔵にをさめたばはる代のためし