!−論文一六二
価値形態論と交換過程論
富
塚
良
三
序 節
古典経済学は︑社会的再生産の観点から︑諸商品の価値関係の内実は︑労働の︵社会的労働としての︶等置と交換
と結合の関係にほかならないことを明らかにし︑−不完全にではあるが1商品の価値を分析してそれを人間労働
一般に帰着せしめることができたのであるが︑資本主義社会の歴史的な形態規定性についての問題意識を全く欠いて
いたために︑何故に︑労働というこの内容が商品の価値という対象的形態においてのみ現われ︑また︑商品の価値が
貨幣という必然的な現象形態をとり自立的定在をもつにいたるのかという︑この肝要な問題を︑解くことはおろか︑
問題として提起することさえもなしえなかった︒それゆえにまた︑ 一方においては遡って︑価値として対象化され
る労働の︵﹁抽象的.一般的な︑そしてこの形態でだけ社会的な労働﹂としての・︶独自の歴史的規定性が把握されることな
く︑また他方︑誤まれる貨幣論と︑したがってまた誤まれる資本把握とが︑不可避的であった︒−商品・貨幣・資
セ ヤ ち モ セ ち ち ヨ モ モ ち ヤ本等の︑資本主義的生産様式を特徴づける経済的諸範疇を︑その独自の形態規定と内的編成において批判的に把握し
えなかった点に︑古典経済学が︑社会的再生産の観点を打出しながらも︑重商主義的思考に対して﹁抽象的対立﹂た
らざるをえなかった所以があり︑また︑この点を明確に意識しながら︑経済学の批判的体系を展開しえたところに︑
マルクスの﹃資本論﹄の劃期的意義があったのである︒このことは︑学説史上すでに周知のことがらではあるが︑経
済学的思考における﹁抽象的対立﹂が︑︵例えば﹁有効需要﹂の問題などをめぐって︑︶新たに再版されているのをみ
るとき︑あらためて強調しておく必要があるようにおもわれる︒貨幣商品もまた本来は商品にほかならないというこ
とによっては︵あるいは︑貨幣はたんなる﹁ヴェール﹂にすぎないとすることによっては︑︶﹁貨幣の魔術﹂とそれに
とらわれた見解を批判することはできないゆ貨幣が︑生産物の商品形態の必然的な発展として︵商品価値の自立化の
所産として︶︑解明されなければならない︒この意味での商品.貨幣把握がa︵自立化した価値の自己運動体たる︶資
本把握の︑したがってまた特殊資本主義的な再生産・蓄積過程を︑それに固有の形態規定性と運動法則において把
握するための︑不可欠の基礎をなす︒小論のテーマは︑この商品.貨幣把握に係わる︒
﹁困難は︑貨幣が商品であることを把握する点にあるのではなくて︑如何にして︵暑一〇︶︑何故に︵類帥旨旨︶︑何に
よって︵名&震畠︶︑商品が貨幣であるか︹となるか︺を︑把握する点にある︒﹂︹﹃資本論﹄第一巻︑インスティトゥト版
九八頁︒角括弧内は引用者による補足︒︺t﹁資本論﹄の第一巻第一編において︑右の﹁如何にして﹂は価値形態論に
よって︑﹁何故に﹂は物神性論によって︑﹁何によって﹂は交換過程論によって︑それぞれ解明される︒ ﹁商品と貨幣
とへの商品の二重化﹂の必然性・﹁価値の自立的形態﹂としての貨幣成立の必然性は︑方法的に緊密な連繋をもつ右
の三様の視角から論証され︑かくして﹁貨幣物神の謎﹂が﹁商品物神の謎﹂の必然的な発展として解明される︒ ﹃資
本論﹂第一巻第一編﹁商品および貨幣﹂において展開されている価値形態論・物神性論.交換過程論によって︑貨幣
を・商品から鈴然許に発生し且つ商品に部立する価値の昏立師形態として明確に理解していなければ︑W−G−Wと
一価値形態論と交換過程論1 ︑六三
一論 文t ︑ 六四
セ セ ヨ コ ヘ ヨ ヨいう商品の形態変換運動を商品︵生産物の商品形態︶に内在的な矛盾の運動形態として把握することはできず︑したが
ってまた︑ ﹁商品流通﹂のうちに含まれるものとしての﹁恐慌の原基形態﹂をも︑その全き意味において理解するこ
とはできない︒﹁商品流通﹂を︑﹁形態運動﹂たるその本質においてみることなく︑それによって媒介される結果た
む ヤ ヤ む セ も やる﹁社会的な質料変換﹂という素材的な側面からのみとらえ︑したがってまた貨幣を﹁流通の媒介要具﹂としてしか
把握しえないとすれば︑販売は購買であり購買は販売であ巻から︑販売と購買・需要と供給とは当初から﹁形而上学
的に均衡﹂しているというJ・B・セイの命題を︑どうして批判しえようか︒いうところの﹁有効需要論﹂を本格的
にそして体系的に展開するためには︑先ずもって︑ ﹁商品流通﹂を︑商品に内在的な矛盾の運動形態として︑明確に
・把握しておく必要があるのである︒
この観点に立って︑小論は︑ ﹁価値の自立的定在﹂としての貨幣成立の必然性を︑諸商品の﹁全面的外化﹂の矛盾
との関連において明らかにすることを課題とする︒交換過程における諸商品の﹁全面的な持手変換﹂において生ずる
矛盾を︑ 価値形態論における第二形態︵﹁開展された価値形態﹂︶から第三形態へ﹁一般的価値形態﹂︶への移行の困難の問
題との関連において明らかにすることが︑小論の中心論点である︒
商品は使用価値であり価値である︒商品において規定的なのはそれが価値であるという点にあるが︑その﹁価値性
格﹂ないしは﹁価値対象性﹂は純粋に社会的なものであり︑したがって︑個々の商品を個々の商品としていくらひね
りまわしてみても︑i﹁諸欲望の対象﹂たる諸使用価値としてその﹁感覚的な対象性﹂において現われるだけであ
って一︵その使用価値が同時に価値たるものとして︑すなわち︶それを﹁価値物︵名︒暮合p閃︶﹂としてとらえるこ
とはできない︒商品はそのものとして直接には使用価値として現われるにすぎず︑その価値は他の商品との関係にお ヨ う セ ヤ むいてのみ現象しうる︒だが︑商品の価値は他の商品との関係において如何にして表現されるのか︒われわれは︑諸商
品の価値が︑ ﹁価格﹂として︑ ﹁貨幣形態﹂において︑貨幣商品の﹁商品体﹂において︑その物としての量におい
セ ち も ヤ セて︑表現されることを︵事実として︶知っているが︑如何にして諸商品の価値が貨幣商品の﹁商品体﹂において︑金 セ ヨ︵ないしは銀︶の量として表現されうるのかは︑決して自明的ではない︒かくして︑価値形態論の課題は︑如何にして
商品の価値が他の商品の使用価値︵価値の反対要因︶によって表現されうるかの︑その論理を明らかにし︑またその
価値表現の発展を最も単純な形態から燦爛たる貨幣形態にいたるまで追跡することによって﹁貨幣形態のO窪︒の冨﹂
を証明し︑同時にまた﹁貨幣の謎﹂を︑すなわち金という物それ自体が価値として閃︒一8口し︑地中から出てくるま
まで﹁すべての人間的労働の直接的な化身﹂として現われることの謎を解き明かすことにある︒ モ む 価値形態論において重要なのは︑或る商品の価値が他の商品の使用価値によって表現される場合に固有の﹁廻り
う ヤ ヨ む モ ち モ ヤ ヨ セ ち ち ヤ セ む途d唐名畠﹂の論理を明らかにすることであり︑またこの論理に制約されての・価値形態の発展の論理を明らかにす
ることである︒前述のように︑筆者は︑価値形態の発展において︑第二形態から第三形態への移行には本質的な困難
がよこたわり︑この困難が交換過程における諸商品の﹁全面的外化﹂の矛盾を規定すると考えるのだが︑この第二形
態から第三形態への移行における困難を明らかにするためには︑先ず︑単純な価値形態について︑相対的価値形態と
等価形態との対立関係と価値表現に固有の﹁廻り途﹂ の論理とが充分に明らかになっていなければならない︒そこ
で︑次節以降での議論の前提として本節において先ず︑この点を究明しておく︒
一価値形態論と交換過程論一 ・ 六五
1論㎜ ・文− 六六
執︑随切 κ量の商品Aはy量の商品Bに値する︵例えばboOぐ1這e囲郵奇一落eh盤︶︑という﹁単純な価
値形態﹂において︑A商品の価値がB商品の使用価値によって表現されているのであるが︑それは如何にして︑如何
なる﹁廻り途﹂の論理を通じてであるか︒
執︾時短切 というイコールで結ばれたこの価値等式関係において︑左辺の商品且と右辺の商品Bとは本質的に異な
った役割を演ずる︒この等式関係においては︑A商品の価値が他の商品Bによって相対的に表現され︑BはAに対す
る等価︵︾呂葺く巴Φ暮︶として機能する︒それゆえに前者は﹁相対的価値形態︵お一讐貯︒ミ︒詳8︻日︶﹂にあり︑後者 ヤは﹁等価形態︵︾2三黄げ暮8ヨρとにあると呼ばれるのであるが︑この価値等式関係においては︑且商品の価値の
ヤ む ヤ ち やみが表現されβ商品はその価値表現の材料となっているにすぎない︒それの価値が表現されるA商品は能動的な役割
ヤ ち ちを演じ︑それで価値が表現されるB商品は受動的な役割を演じている︒だがそれにもかかわらず︑A商品がその価値
をB商品の使用価値によって表現する場合︑ ﹁自分は価値としてB商品に等しく︑いつでもB商品と交換できるの
セ ヤだ﹂ということによってその価値を表現するのではなく︑その反対に︑ ﹁B商品は価値として且商品に等しく︑いつ
でもA商品と交換できるのだ﹂ということによって︑かくしてB商品に自分すなわち且商品に対する直接的な交換可
能性の形態を与えることによって︑価値を表現する︒A商品の価値が表現される価値等式関係において︑価値表現の
材料たるにすぎないB商品が且商品に対して直接に﹁価値の体現物﹂たる形態規定をあたえられる︒B商品の商品体
そのものが且商品に対して﹁価値の実存形態︵国×馨の目8厭日︶﹂としての意義をもち︑かくしてB商品はハ商品に対
して﹁価値物︵霜月鼠ぎ㎎︶﹂となる︒A商品は先ずB商品を自分に対して﹁価値物﹂ならしめ︑そしてそれから︑こ
の﹁価値物﹂としてのB商品との関連において︑且商品の﹁価値存在︵名︒耳の︒ぎ︶﹂が現出する︒ こうした﹁廻り
i
、
途﹂を通じてはじめて︑A商品の価値は﹁一の自立的な表現﹂を受取るのである︒A商品が︑自分で︑自分自身に対
して︑ ﹁価値物﹂としての形態規定を与えることはできない︒他の商品に価値物としての形態規定を与え︑それとの
関聯において価値を表現しうるにすぎない︒この価値表現における﹁廻り途﹂の論理を︑マルクスは左記のように叙 ヤ ヤ む述している︒1﹁︹8寸1語3圏曇書目一落e臣屠という価値等式関係において︑︺上衣が価値物として亜麻布に等
ヤ も セ ヤ ち ち も セ セ セ ち ち ち ヤ ヨ置されることによって︑上衣のうちに含まれている労働が亜麻布のうちに含まれている労働に等置される︒さて︑な
るほど︑上衣を作る裁縫業は︑亜麻布を作る織物業とは異なる種類の︑一の具体的労働である︒しかし︑織物業との
等置は︑裁縫業をば事実上︑双方の労働における現実に同等なものに︑人間的労働というそれらの共通な性格に︑還
ヤ ち ヤ ヤ ヨ ヤ ち ち む も ヤ う ち ち元する︒こうした廻り途をして︑それから︑織物業もまた︑それが価値を織るかぎりでは裁縫業と区別さるべき何ら
の特徴も育たず︑かくして抽象的・人間的な労働だということが︑語られているのである︒﹂ ︹﹃資本論﹄第一巻︐イン
スティトゥト版︑五五頁︒傍点は引用者︒︺︵価値等式関係において等価形態にある︶上衣を作る労働︵具体的労働︶が亜
麻布を織る労働との等置において抽象的・一般的労働に還元され︑価値を形成する労働としての意義をもつというこ
とは︑上衣という商品の商品体そのものが価値の体現物としての意義をもつことの別様の表現にほかならない︒ も ね ヨ 執>U梅bOなる価値表現の関係において︑それの価値が表現されるところの・左辺に立つ商品五が能動的な役割を
演じ︑をかか価値が表現される・右辺の商品Bは価値表現の材料として受動的な役割を演ずるにすぎないにもかかわ
らず︑この価値関係の内部においては︑商品Aの自然的形態は使用価値の姿態としてのみ意義をもち︑逆に商品Bの
自然的形態は↑伽衡重みにとっての﹁価値姿態﹂譲︒拝閃︒の富犀としての意義を一その自然的諸属性とともにそねわ
る﹁社会的な自然属性﹂であるかのごとくに一もち︑かくして︑等価形態に置かれる商品が﹁価値物﹂≦o旨α言㎎
1価値形鰻論と交換過程論一 ・ 六七
一払細 文1 . 六八 ●として次第に黄金色に輝いてゆき︑あたかもこの価値関係の主体であるかのような顛倒的な表象が出来あがってくる
のは︑この価値表現に固有の﹁廻り途﹂の論理による︒それゆえにまた︑その表象は単なる錯覚ではない︒ ﹁等価形
態の謎性﹂の発展としての﹁貨幣の魔術﹂は︑ここにその根拠をもつ︒ ﹁重金主義的目ならびに重商主義的表象﹂に
セ ヨ ヤ セ対する古典派的批判の限界は︑貨幣が商品の価値の必然的な現象形態たることを把握しえない点にあった︒
註 本節でみた価値表現に固有の﹁廻り途﹂の論理については︑ヨリ詳細には︑久留商鮫造著﹃価値形態論と交換過程論﹄を参
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 照されたい︒その価値表現の論理に制約されての・価値形態の発展の問題が︑小論のテーマである︒
二
さて︑価値形態の発展の問題に入ろう︒価値の現象形態は︑一単純な価値形態二開展された価値形態三一般的 ︹ ︹ ︹ コ価値形態と発展し︑最後に四貨幣形態において完結する︒第一形態から第二形態への移行と︑第三形態から第四形 ︹態への移行には格別の困難はないが︑第二形態から第三形態への移行には本質的な困難があると考えられる︒
聴>目篭切 なる単純な価値形態は︑ある一商品の価値が他の一商品の使用価値によって表現される形態であるが︑
この価値形態において等価の位置におかれる商品は︑相対的価値形態の商品と種類を異にするものであれば何であっ
てもよい︒それゆえに︑訣﹄発切なる価値表現のほかに︑挟>11ねOあるいは聴﹄目︑bあるいは聴>隔ミ両⁝⁝とい
った︑ある︻商品Aについての﹁単純な価値諸表現のたえず延長されうる系列﹂が成立しえ︑かくして︑ ﹁単純な価
値形態﹂は容易に︵右の﹁価値諸表現の系列﹂によって構成される︶ ﹁開展された価値形態﹂へと移行する︒そこに
は︑なんらの困難もない︒また︑諸商品の価値がどれか一商品の使用価値によって表現されるところの﹁一般的な価
値形態﹂と﹁貨幣形態﹂との差異は︑後者においては﹁一般的等価形態﹂が﹁社会魑超吉金という商品の独自
奮然的形態と究極的嶽着﹂するとい・エ点にのみあるのであ・て︑その移行にも本質的な意味お困難寒い.
しかるに︑ある一商品の価値が他の諸商品の諸使用価値によって表現されるところの﹁開展された価値形態﹂と︑あ
る一商品の使用価値蟹って他の諸曹器価値装現されると乞の﹁一般的盆値罷心﹂の運は本質雲差異が
あり︑その移行には本質的な困難があるとされなければならない︒
ある一商品Aの価値が他の任意の一商品Bの使用価値によって表現されるところの﹁単純な価値形態﹂において
は︑商品且の価値がA自身の使用価値から区別された他の商品Bの使用価値によって﹁個別的﹂に表現されるにすぎ
ないのに対して・ある曹盟の価値が無数の他商品の諸使用価鰹よって表現されるところの﹁開展され猛値形
態﹂においては・商曼の価値蜜賃自身の鰭価値から区別されるだけ履く︑よってもってそれが現象する諸
使用価値の特殊的形態からも区別されたものとして表現され︑かくして︑A商品の他のすべての諸商品との価値とし
ての質的同等性と量的比率性が︑この価値形態においては表現されうることになるのであるが︑しかしなお︑この価
値形態は・根本的な欠陥をもっている.ある曹躍ついての単純藩値諸表現の果しな炉︵したが.てまた未完結
な︶系列によってその﹁総和ωロヨヨΦ﹂として形成されるところの﹁開展された価値形態﹂は︑その構成要素たる種
々な価値表現の﹁雑然たる寄木細工﹂にすぎず︑それみの価値等式においてそれぞれに等価の役割を果すB.C.D
・E・比の諸商品は︑これらによって相対的にその価値を表現する且商品にとっての等価たるにすぎず︑相互には全 く無関係であり︑かくしてA商品にとっての﹁輸蜘静﹂か等価であるにすぎない︒さらに︑ ﹁開展された価値形態﹂
は・どの曹麗ついても︵右の与Cゐ・E臨の諸商品についても︶同時的晟山立しうるのだが︑客商口器相
六九 −価値形態論と交換過程論−
f
一諭 文一 . 七〇
ヤ じ ヤ ち対的価値形態は︑他の各商品の相対的価値形態とは異なった︑諸価値表現の無限の系列﹂にすぎず︑したがってま
ヤ ち う ヤ ほた︑その価値諸表現の関係においては︑各個の商品の自然的形態は︑ ﹁無数の他の特殊的な諸等価形態と並んだ一の
ち ヨ む ヤ モ も む セ コ ヨ ち セ む ち む特殊的な等価形態﹂にすぎず︑かくして︑ ﹁存在するのは︑総じてただ︑それらのいずれもが他を排除するところの
モ セ も セ ち限定された諸等価形態だけである﹂︒要するに︑﹁開展された価値形態﹂においては︑各個の商品の価値が自己と異な
ち も ヨ ヤ あ つ ヤ セ も やる無限の諸商品の系列によって表現されるにしても︑ ﹁一つづつの商品の価値﹂がそれぞれに表現されるにすぎず︑
も セそれらの価値諸形態は各個の商品の﹁私事﹂として﹁他の諸商品の助力なしに﹂成立しえ︑したがってまたそれらは
同時的にも成立しうるのではあるが︑同時的に成立してもそれらの価値諸表現の間にはなんらの﹁共通性﹂もなく︑
かくしてこの価値形態は﹁統一性﹂と二般性﹂とを欠き︑ ﹁無区別な人間的労働の凝結﹂たる・﹁価値﹂の現象形
態としては不完全であり︑それゆえにまた︑ヨリ高次の・価値概念に適合した価値形態へと発展しなければならな
い︒ これに対して︑諸商品がそれらの価値をそれら以外のどれか一つの商品の使用価値で﹁統一的﹂に且つ﹁共同的﹂
に表現するところの﹁一般的な価値形態﹂においては︑右の﹁開展された価値形態﹂に含まれていた本質的な欠陥が
克服される︒この第三形態は︑一見したところ︑第二形態をたんにひつく・り返したものにすぎないようにみえるが︑
しかし両者の間には根本的な差異がある︒第二形態が︵第一形態と同様に︶各個の商品の﹁私事﹂として成立.しうる
のに対して︑第三形態すなわち﹁一般的な価値形態﹂は︑ ﹁商品世界の共同事業としてのみ成立﹂する︒1﹁一商
品は︑同時に他のすべての諸商品がそれらの価値を同じ等価で表現するがゆえにのみ︑そして︑新たに登場するどの
商品種類もこれを模倣せざるをえないがゆえにのみ︑一般的な価値表現を獲得する﹂のである︒この﹁一般的価値形
態﹂髪いてはじめて・曹叩の橿は︑︵﹁無区別な人間的蕩の蕪﹂たる.︶その概念接合した現象形態をうる
ことになる・相対禦価値表現の発展は︑等価形態の発展反・馨れる.篁形讐誇る等繁﹁個別的﹂蕉寺価
にすぎず・篁形簿諄る等禦﹁特殊的﹂な等煙すぎないのに対して︑第二形態における等価は二般的﹂な
等璽ある・どの商品もコ般的揺﹂たりうるが︑しかし同時にすべての曹罪﹁一般的等価﹂たることは馨な
い・ど紮5の蕊のみがコ般的慧﹂たりうる.各個の商煙ついての﹁豊され揺値形態﹂が同時的箴
立すをとは可韓ありじたがって︑各個の商品の自然的形祭︑﹁いずれもが他を排除するところの﹂.﹁特殊
的な等価﹂としてあをとは罷蕩るが︑しかし︑これらの各個の商煙ついての﹁開展され猛値形態﹂をひ.
くり返した形態が・■同時箆竪す塗とはで窪い.第二形態の左辺と右辺と実れ変えることによ.て第二形態
をうる髪は・紙面の上お智能馨とであ註す青い.この点︑現行﹃栞論﹄の価値形態論に誇る第二形
態鷲第三形態への移建関葛論述緩︑卒直にい・て疑問の余地がある.すくなくも︑右の問題の所在を不明確
にするおそれがあるとおもわれる.次節でそれを検討し︑敢て私見を展開してみることにしよう.
三
﹁盟され猛値形態﹂奮コ般的盆値形態﹂への移行の膿は︑﹃葉論﹄髭いては左記のように論呂
れている・その論旨垂者箋嬰誓えないのだが︑念のため先ずその箇所の全審掲げ藷くこたする.
﹁開展された価値形態﹂歯する論述の最終部分でマルクスは︑︵前讐嚢︶あ価値形態の欠陥を翼しての
ち︑次ぎのように移行の論理を展開している︒1 七一 一価値形態論と交換過程論−
!論 文1 七二
﹁だが︑開展された相対的価値形態は︑ つぎのような単純な相対的価値諸表現ないしは第一形態の諸等式の総和
によって構成されているにすぎない︒すなわち︑
8寸i㌧マe国勢含H盤e旨掛
boO寸−篭e鼠葬誉打目〇洗Vτe楽 嚇寿
ところが︑これらの諸等式はそれぞれ︑同↓の等式を逆の関連でも含んでいる︒すなわち︑
一難e旨爲一NO寸i這e国葬奇
一〇施Vτe楽日8寸喜︑マe国勢奇 婆寿
実際︑もし或る人が︑彼の亜麻布を他の多くの諸商品と交換し︑従って︑それの価値を他の一聯の諸商品て表現
するとすれば︑その場合には必然的に︑他の多くの商品所有者たちもまた︑彼等の諸商品を亜麻布と交換し︑従っ
て︑彼等の種々の商品の諸価値を亜麻布という同じ第三の商品で表現せざるをえない︒−がくして︑もしわれわ
れが︑8寸1㌧マe国勢掛H一蓉e旨掛蹄δぐ.舜一〇馬Vτe暴翫δ一ノ算跨ぎという系列を顛倒するならば︑す
なわち︑もしわれわれが︑事実上すでにこの系列のうちに含まれている逆の関係を表現するならば︑次ぎのような
形態を受けとる︒﹂︹﹃資本論﹄第一巻七〇頁︒︺
窪獣畑∵−
かくして︑ ﹃資本論﹄の価値形態論においては︑あたかも第二形態から第三形態への移行は容易に可能なことであ
るかのように論述されているのである−
問題は・﹁開展された価値形態﹂を構成するところの白あ商・濯ついての単純盆値襲現を示す諸等式のそ
れぞれが・﹁同一の等式︹関係︺釜の関奪喜んでいる﹂とされている点にある.穿←.畠藝墨津
料というイ〒ルで結ばれ奪式関係に薄る左辺と右辺との意味の相違を充分髪膚するならば︑そうはいえな
いであろう・あ価値等式関係において︑左辺緩かれた商品の果す役割と︑右辺に置かれた商品の果す役割とは︑ ち本質的に異なっているの募る.左辺に置かれた商品書票︑右辺に置かれた商品の使用価値幕対的髪現され
る・左辺の曹罪それの橿碧辺の商品の使用価値裏現葛.森陰値襲現される左辺の商品叢わち相対
的価値形態に立つ商品は︑能動的な役割を果し︑隷書値襲現される右辺の商品漆わち等価形態の商品は︑た
んに価値表現の材料として受動的な役割を果させられているにすぎない︒それにもかかわらず︑右辺の商口叩はその自
然的形態のままで左辺の商品にとっての﹁価値姿態﹂となり︑かくして﹁価値物﹂としての形態規定を与えられるこ
とになること︑すでに小論第一節において価値表現に固有の﹁廻り途﹂の論理を明らかにした際に述べたごとくであ
るが︑しかし︑右辺の商品自身の価値は︑この価値関係においては︑決して表現されはしない︒卜︒Oせ一︑r︑e圓郵含
一襲e旨兇という価値等式関係においては︑亜麻布の.価値のみが表現されるのであって︑上衣の価値は表現されえ
ない︒上衣の価値が亜麻布で表現されるためには酒この等式関係とは逆の等式関係が展開されなければならない︒8
す5目暴ユ蓉露という等式関係と墨黒零弩←畠蓄という等式関係とは決して同じ等式
関係なのではなく感2慰ρ露陰暴君箋関係なのである.前者の等式関係が後者のそれを当黎ら
七三 一価値形態論と交換過程論ー
!論 文一■ 七四
﹁含んでいる﹂とすることはできない︒ 8寸ーセe圏覇掛一曲eh兇という等式関係は︑ ﹁上衣は価値として亜
麻布と等しく︑一着の上衣はいつでも20ヤールの亜麻布と交換できる﹂ということを表現しているのであって︑その
逆に︑ ﹁亜麻布は価値として上衣と等しく︑20ヤールの亜麻布はいつでも一着の上衣と交換できる﹂ということを表
ヤ も現しているのではない︒だからこそまた︑この等式関係において上衣は亜麻布に対して﹁価値物﹂としての意義を
え︑かかるものとしての上衣と関係することによって亜麻布の価値が表現されるのである︒こうした﹁廻り途﹂を通
じてはじめて︑亜麻布の価値が表現される︒亜麻布が自分で自分に﹁価値物﹂としての形態規定を与えることはでき
ない︒ここに︑商品の価値の相対的表現に固有の論理があるのだ︒1価値等式関係における左辺の相対的価値形態
と右辺の等価形態との対立関係を明確に把握し︑且つ価値表現に固有のこの﹁廻り途﹂の論理を明確に理解するなら
ば︑ 8寸i㌧マe目無奇日一鱒e旨掛という等式関係が︑その逆の関係一端e旨爆n卜oO寸1﹂マe鼠覇奇を︑そのう
ちに﹁含んでいる﹂ということは︑決していえないであろう︒後者の等式関係においては︑前者の場合とは逆に︑亜
麻布が上衣に対する﹁直接的な交換可能性の形態﹂をうることとなるが︑しかしその等式関係においては︑上衣の価
値のみが表現され︑亜麻布の価値は表現されるのではない︒
元来︑8寸−語e騒覇書目H鵡e卜居という等式関係は︑亜麻布商品の所有者が﹁上衣一着とならば亜麻布20ヤ
ールを交換してもよい﹂といっていることを表現しているにすぎないのであって︑それは全く亜麻布所有者にとって
の私事にすぎず︑亜麻布所有者がそういっているからといって︑上衣の所有者がそれに応じなければならないという
理由は全くない︒上衣の所有者はその商品を亜麻布と交換することを望まないかもしれず︑仮りに亜麻布と交換しよ
うとする場合には︐20ヤールでは不足だとするかもしれない︒要するに︑boO寸ーヤe圓罪き一鶴e旨卦という亜
麻布にとっての価値表現の関係は︑2・ヤールの亜麻布が必ず暑の上衣と交換されるということを表現してはおら
ず二蓉−翼目挙←婁藝という逆の価値表現の関係を当黎ら予定してはいないのである.
註価値形態論においξ・左辺の商品の商品所薯は妻上露汽ていると汽酵れ婆らないという︑宇野教授の主張 の本来のねらいはどの点の箋器っ蓉と馨れる.だが︑上衣が亜麻布の等価に置かれ軸﹂のは︑上衣が亜麻布所有者の
欲望の対象であるからだが・か−して等価形獲馨裂上衣という商品の箆価僖よって︑如何にして亜麻布商品の価値
が表現されうるかの・その固有の蓬は︑そのこ畠よって翁らか讐れえないであろう.1宇野説の詳細については︑
河出書房刊﹃資本論研究﹄のほか︑同氏著﹃価値論﹄および﹃価値論の研究﹄冷血参照されたい︒
単純な価値表現形態についていえをとは︑﹁笙形態の諸等式の総和﹂たる.﹁盟嚢猛値表現の形態﹂に
ついても・そのままいえる・だから︑マルクスが前掲の叙述髭いて下記のように述べているのは︑前述の論拠から
して妥当ではないと考えられる・一﹁実際︑もし或る人が︑彼の亜麻布を他の多くの諸曹翌父換し︑従って︑そ
れの価値を他の琢の諸商品護現する与れば︑その場合緩必然箆︑他の多くの商品所著たちも建︑彼等
の諸曹嬰亜麻布と交換し・従って︑彼等の種あ商品の諸価値塞麻布という同じ第三の商品裏現替るをえな
い・﹂亜麻布の所薯がその商蓼他の多くの諸商品と交響ようとし︑かくして亜麻布の価値を他の一聯の諸商品
で表現するからといって・そ詮応じて︑他の多くの商品所著たちもまた︑彼等の諸商暑亜麻布と交換し︑した
がぞ・彼等の種あ商品の諸価箏亜麻布という同じ箏一の商品裏現しなければ馨ない︑という理由は全くな
い・弩←e塁尋暴淳嶺窪延︒き蕎導摩・雫囎︾といっ董麻布の他の諸商品髪畠
展された価値表現の形態は︑亜麻布所有者および亜麻布商品髪・ての全くの私事として成立すを身すぎないの 七五 一価値形態論と交換過程論ー
!論 文− 七六
であって︑他の商品所有者および商品のあずかり知るところではない︒他のそれぞれの商品所有者もまた︑右の亜麻
ヨ ち ち じ う ヤ も ヤ ヤ ヨ ヤ布所有者の私事とは無関係にそれとは異なる開展された価値表現の形態を︑自己の商品について展開するであろう︒
もし前掲の叙述でマルクスの云うように︑8寸1﹂マe圓郵含U一銚eh財翫びつ翼115施Vてe鷺母ぴっ算H蜷︾
という︑亜麻布にとっての開展された価値表現の形態を構成する価値表現の系列のうちに︑ ﹁事実上すでに︑逆の関
係が含まれている﹂とするならば︑開展された価値形態はあらゆる商品について同時に成立しうるのであるから︑あ
らゆる商品が同時に﹁一般的な等価形態﹂に立ちうることになり︑あらゆる商品が同時に﹁価値物﹂として他のすべ
ての商品に対する﹁直接的な交換可能性の形態﹂をうることとなる︒かくては︑ ﹁貨幣﹂は︑せいぜいのところ︑
﹁交換の不便﹂をとり除くための便宜的な手段にすぎないこととなる︒だが︑各個の商品がそれぞれに展開しまた展
開せざるをえない﹁開展された価値形態﹂が﹁逆の関係﹂を含みえないこと︑各個の商品にとっての・相互に異なる モ.開展された諸価値表現をひつくり返した形態が︑同時的には成立しえないこと︑すなわち︑すべての商品が同時に
﹁一般的等価物﹂となり︑他のすべての商品に対して﹁価値物﹂たることはできないこと︑そこにこそ︑諸商品の全
面的な交換関係に固有の形態的矛盾と困難があるのである︒この矛盾は︑それに独自の﹁運動形態﹂をうることはで
きるが︑商品生産の基礎上では決して解決・解消されることはできない︒まさしく︑商品︵生産物の商品形態︶に内
ヨ う ヤ セ在的なこの矛眉が︑その﹁運動形態﹂をうるものとして︑ ﹁貨幣﹂の成立の必然性が論証されなければならないので
ある︒前掲の﹃資本論﹄における第二形態から第三形態への移行に関する論述は︑むしろこの矛盾の所在を不明確な
らしめるものというべきではなかろうか︒諸商品の全面的・相互的な交換関係において生ずるこの形態的矛盾そのも
のの本格的な展開は︑交換過程論においてなさるべきであろう︒だが︑価値形態論においても︑それに固有の方法的
視角から︑それへの布石が置かれるのでなければならない︒
の論点について重要な示唆を与えているものとおもわれる︒ その意味で︑ ﹃資本論﹄初版のいわゆる﹁形態四﹂はこ
初版の﹁形態四﹂をみる前に︑当面の問題に関連すると蟹れる﹃経済学批判﹄髭ける麦蓼検討して誓う.
﹃経済学批判﹄においては︑のちの﹃資本論﹄露けるように価値形態論と山父換過程論とが明穫区別斐論じら
れることなく︑とくに価値形態論は未だ極めて不明確なものにおわっているのであるが︑その価値形態論に該当する
叙述の終りの方に︑左記のような注目すべき一文節がある︒一
すなわち・開展れた価値表現の形態を掲げて︑﹁−−だが︑蕎品がかようにその交換価値を他のすべての商品
の使用価値で度量するもの与れば︑逆福のすべての商品の交換価値は︑すべての他の商品の使用価値でみずから
︵の交換価値︺を度量するところの・この一商品の使用価値でみずからを度量するのである﹂︹﹃経済学批判﹄インスティ
トゥト版︑二五頁︒宇高訳四九頁︒角括孤内は引用者による補足︒︺と述べてのち︑この論述tそれはさきにみた﹃資本
論﹄に善.る箋形繋峯三形態への移行を説明する論理と全く同様であること旨意されたい一を前提して︑
さらに次ぎのような論述が展開されている︒!
﹁⁝対象化され亙般舞働時間としての各赤曹躍︑その交換価値をば︑順次に他のすべての商品の使
用価値の一雰量裏現し︑かつ他のすべての商品の交換価値は︑逆に︑この排他的な一商品の使用価値でみずか
らを度量する・だが交換価値としては︑各赤曹叩は︑他のすべての商品の交換価値の共通の尺度として役⊥並2
の排他的商曇ある乞もに・他方では・各あ他の商品がそれら多数の諸蔦の全範囲直接にその交換橿を
七七 −価値形態論と交換過程論・1一諭 文− 七八
表示するところの︑その多数の諸商品のうちの一つにすぎない︒﹂︹同上︑二五−六頁︒訳四九頁︒傍点は引用者︒︺
いくらか難解な文章であるから︑念のために原文をも掲げておこう︒
こ−−−査Φ壽お勾一籌︒蓉頒︒房什ぎα=身g凝︒ヨ魯︒︾量一け豊江卜σのω寓目昌︒ろ惹旨§巴Hの︒馨一§
卜吾①律ω器Fα旨︒葬一ぼΦo↓鋤臣9≦Φ旨α理知︒ぎ︒昌8げ山房ぎσ雷獣日g8昌ρ舞舞山鼠8pαROo耳oo8房・
≦o誹︒巴一霞oo目鼻︒口薯費⑦旨︑⊆口α島︒↓90臣︒び毛R8巴一段国β警︒口毛畦︒昌ヨ︒器①コω一〇げロ目的︒犀︒ぼけぎα①ヨ
Ooσ冨8房毛①旨島︒の段︒一口雪雲ωω〇三一〇聖一9雪≦畦ρ≧の↓山房3妻︒耳㊤σRδ什﹂ao≦巽︒の︒名︒プ一象①
魯g誘︒言︒窪︒ぎミ︒︒﹃︒喜①巴ω鵯馨一暴馨ω寓昌量↓霧︒毫象g一一︒君民︒言誤おα善計三︒
ω一〇口⇒αRの︒律ωpβ弓︒ぎ¢αo弓≦o一〇コ薯弩︒一二ωぎαo希pOo器日日ヨ犀器δ甘αoo﹂pα﹃oぞく震︒壁お昌↓ロ拐07−
類O旨¢昌H口許けO一σ山﹃α薗唇ωけ〇一一軋︑
かような価値表現の形態は︑成立可能であろうか? 各商品はその価値を他のすべての諸商品の使用価値によって
表現し︑逆に後者は前者の使用価値によってそれらの諸価値を表現する︒したがって︑各商品は︑他のすべての諸商
品に対して一般的等価形態に立つと同時に︑各商品は他の諸商品の開展された価値表現における特殊的等価形態とし・
ての意義をもつ︒こうした相互的・全面的な価値表現の関係は︑成立可能であろうか? 価値形態論が未成熟な﹃経
済学批判﹄においては︑価値等式関係における相対的価値形態と等価形態との対立関係が未だ明確にされていないた
め︑あたかも右のような価値の表現形態が成立可能であるかのような論述がなされているのだが︑ ﹃資本論﹂におけ
る価値形態論によって右の点を明確に理解するならば︑答えは当然否定的でなければならないであろう︒ ﹃資本論﹄
初版の﹁形態四﹂は︑まさしくこの点についての問題の所在を指摘したものとして︑注目に値する︒
﹃資本論﹄の初版本においては︑﹁価値形態論﹂が本文と附録とに二重に叙述されているのであるが︑その本文にお
ける価値形態論は︑現行の﹃資本論﹄とは異なった独特な展開方法がとられている︒すなわち︑単純な価値形態.開
展された価値形態・一般的価値形態と︑商品価値の相対的な表現形態の発展過程が︵表現においては若干の差異はあ
るが︑内容的には大体現行の﹁資本論﹄におけると同様に︶たどられたのち︑一般的価値形態の後に﹁形態四﹂とし
て特異な議論が展開され︑ ﹁貨幣形態﹂の成立に及ぶことなく︑この﹁形態四﹂で価値形態論が閉ぢられている︒そ
うした独特な構成がとられている︒その﹁形態四﹂とは︑亜麻布・上衣・コーヒー.茶等々の諸商品が左辺に立つと
ころのそれぞれの開展された相対的価値諸表現を示す諸等式を並記し︑それらを顛倒した価値諸等式が同時的に成立
することは不可能であることを示したものである︒念のため︑その﹁形態四﹂に関する叙述の全文を引用しておく︒
﹁形態四8寸−寺e囲覇奇nH落eh掛びびつ舜貸陣euIぽ1翫びつ舜U魁陣O楽翫びぐノ舜娩曄e黎翫びぐノ箕牡樋陣
eこノ澱翫びぐノ㌶媛寿
一聲e卜居boOぐ1這e囲勢奇翫びつ雫鮎Hミ曄eu1ぼ1翫びぐノ翼壁曲e嶺翫びぐノ舜論蜘e聾極ぴぐ.舜U随陣
e≧!矯飾ぴぐノ舜嬢寿
ミ曄euIぽ一8ぐーモe園離合びびつ舜U一落e卜居びびぐノ舜Hミ釦e途蹄δぐノ貫目聴路e黎翫びσ舜U随陣
鳥︾こノ燈びびぐ∠舛盛年
ミ蹄e暴鑛寿
−価値形態論と交換過程論1 . 七九
一論 文一 八○
だが︑これらの諸等式をそれぞれ顛倒すれば︑一般的等価物としての上衣・コーヒー・茶等々が生じ︑したがっ
で︑すべての他の諸商品の一般的な相対的価値形態としての︑上衣・茶・等々による価値表現が生ずる︒一般的等
価形態は︑つねにただ︑すべての他の諸商品への対立において一商品のみが受取るのであるが︑しかしそれは︑す
べての他の諸商品に対立する商品ならばどれでもが受取る︒だがもし︑どの商品もがそれ自身の自然的形態を︑す
べての他の諸商品に対して一般的等価形態として対立せしめるとすれば︑すべての諸商品がすべての諸商品を一般
的等価形態から排除することになり︑したがってまた自分自身をそれらの価値の大いさの社会的に妥当な表示から
排除することになる︒﹂︹﹃資本論﹄初版 六四一五頁︒︺
右の初版の﹁形態四﹂の論旨は︑結局︑さきに筆者が強調したことと同様のことに帰着する︒第三の一般的価値形
態を第二の開展された価値形態を簡単に顛倒することによって︑一すなわち︑さきにみた現行﹃資本論﹄における
と同様に︑第二形態を構成する第一形態の諸等式が﹁逆の関連をも含んでいる﹂とすることによって︑1導き出し
た初版のマルクスは︑ここで︑筆者が指摘したのと全く同様の問題に直面しているのである︒開展された価値表現の
形態は︑亜麻布・上衣・コーヒー・茶等々の諸商品について︑同時的に成立する︒亜麻布の開展された価値形態を構
成する第一形態の諸等式が﹁逆の関連をも含んでいる﹂とすることができるならば︑同様のことが亜麻布以外の上衣
.カーヒー.茶等々の諸商品の第二形態に関してもいわれなければならず︑かくして︑各商品の第二形態を﹁顛倒﹂
した形態が同時的に成立しえなければならないはずである︒だが︑一般的等価形態にはどの商品でも立ちうるが︑ど
れか一つの商品のみが立ちうるのであるから︑どの商品もが一般的等価形態に立とうとするならば︑ ﹁すべての諸商
品がすべての諸商品を一般的等価形態から排除する﹂ことになり︑かくして︑社会的に妥当な・一般的統一的な価
値表現の関係は成立しえないことになる︒したがってまた︑諸商品の交換も不可能となる︒すべての商品がそれぞれ
に展開しまた展開せざるをえない﹁開展された価値形態﹂を顛倒した形態が同時的には成立しえないこと︑すべての
商品が同時に他のすべての諸商品に対する﹁一般的等価物﹂たりえないことをあらわしている初版の﹁形態四﹂は︑
諸商品の全面的・相互的な交換関係において生ずる形態的矛盾を︑価値形態論の視角から︑第二形態から第三形態へ
の移行に関する反省規定として︑表示したものにほかならない︒ ﹁形態四﹂が表示しているこのことからまた︑筆者
はさらに遡って︑価値形態の発展過程の展開方法として︑ ︵さきに関説した﹃経済学批判﹄以来現行の﹃資本論﹄に
まで持ちこされている︶第二形態から第三形態への移行規定に疑問をもたざるをえないのであるが︑初版本文におけ
るマルクス自身は︑如何なる意図をもって﹁一般的価値形態﹂の後にこの﹁形態四﹂を提示し︑また如何なる含みを
もって﹁貨幣形態﹂の成立に及ぶことなくこの﹁形態四﹂で価値形態論を閉ぢたのであろうか︒左記の初版本文にお
ける価値形態論の結びの叙述が︑この点の解釈についてなにほどかの手がかりを与えている︒
﹁⁝⁝商品の分析が示したものは︑断品称鰹一般としてのこれらの︹価値表現の︺諸形態であった︒だからまた︑ ヨ セ それらの諸形態は︑商品Aが﹁0形態規定にあるとすれば︑商品B︑C︑等々は商品Aに対立して他の形態規定を
とるというように︑対立静になってさえいれば︑どの商品にも属するのである︒だが︑決定的に重要なことは︑価 う ゐ ヤ じ 値豚饅と価値卦体と価値のか⁝ぎとの間の内的・必然的な連繋を発見することであった︒すなわち︑観念的に表現
すれば︑価値瓢節が価値概念から発生するということを証明することであった︒﹂︹﹃資本論﹄初版 六五一六頁︒︺
右の引用文の前段の叙述は︑■初版本文の価値形態論において﹁一般的価値形態﹂の後に﹁形態四﹂がおかれ︑また
﹁貨幣形態﹂の成立に及ぶことなくその﹁形態四﹂をもって価値形態論が打切られて炉ることについて若干の暗示を
−価値形態論と交換過程論i 八一
一論 文一 八二
あたえ︑また後段の叙述は︑価値形態論の主題とその方法的抽象性を確認したものと解することができよう︒だが︑
どの商品が一般的等価形態におかれ︑また如何なる特定の商品に一般的等価形態が﹁究極的に癒着﹂することになる
かという問題と︑そもそも如何にして諸商品の価値の一般的・統一的な表現形態が成立可能かという問題とは︑おの
ずから別個の問題であり︑ ﹁形態四﹂が表現している困難は︑本質的に︑後者の問題に関連する︒すくなくも︑次元
を異にする前者の問題への︵交換の具体的過程が与える︶解答によって︑その困難が解決されるとすることはできな
い︒価値形態論の主題は︑﹁観念的に表現すれば﹂︵或いはヘーゲル流に云えば︶︑﹁価値形態が価値概念から発生する
ということを証明すること﹂にある︒すなわち︑価値概念に適合した価値形態が成立してくる︑その順次的な価値形
態の発展過程を︑ ﹁商品分析﹂の方法的視角から論理的・抽象的に展開するにある︒だが︑論理的・抽象的な展開で
あるからといって︑第二形態を構成する第一形態の諸等式が﹁逆の関連﹂を含むとすることによって︑第二形態を簡
単にひつくり返して第三形態をうるという方法が正当化されるわけではないであろう︒﹁形態四﹂が提示した困難
は︑遡及して﹁一般的価値形態﹂の成立に関するこの移行規定の再検討を要求していたのではなかろうか︒クーゲル
マンの勧めに従って﹁ヨリ講義風﹂に書かれた初版本の﹁附録﹂においては右の移行規定はそのままに︑逆に﹁形態
四﹂が姿を消して﹁貨幣形態﹂がそれにとって代り︑そして︑第二版以後の﹃資本論﹄においては︑この﹁附録﹂の
叙述方法が踏襲されているのである︒初版本文の叙述方法がヨリ適当だというのではないが︑しかし﹁形態四﹂が提
起していた問題が簡単に見逃がされてよいということはない︒価値形態論に固有の方法的抽象性のもとにおいても︑
ヤ ヤ セ ヤ第二形態から第三形態への移行には本質的な困難がよこたわることが明記さるべきであり︑すくなくとも︑第二形態
を構成する第一形態の諸等式が﹁事実上すでに逆の関連を含む﹂のだとし︑それを根拠として第二形態を簡単に顛倒
ヤ む セ む む ち
することによって第三形察えられる与をと猛当でない.第一形磐遵し猛値表現の関係震立するとす 馨篁形態讐読てい倉本要欠陥が議され︑諸商品猛値概念撮合した価値形態をうることとなる
が・その価値形態の転遷は︑︵後に﹁交慧程論﹂響いてヨリ具体的髪調ぜらるべき︶本質的な困難ある︑と
いうように・価値形態論垢いて︑その移行は説明さるべき霞なかろうか.価値形態の護は︑価値表現に固有の
論理に制約されるものとして展開されねばならぬのである奮︑価値形態論の方法的抽象性のもと繕いても︑その
移行の困難の指摘はなされうるし︑またなされなければならない.価値形態論が未成摯あ.た﹃経済学批判﹄以来.
の移行規定がそのまま現行の﹃資本論﹄にまで持ちこされてきていることに︑筆者は疑問なきをえないのである︒
四
さて︑前節において筆者は︑現行﹃資本論﹄の価値形態論における第二形態から第三形態への移行に関する論述の
検討を通じて・その移循は露寒暴があり︑それが重要視さるべきとを指摘した.﹃資本論易版本文のい
わゆる﹁形態四﹂は︑ この問題の所在を︑価値形態論の視角から一いわば︑第二形態から第三形態への移行に関
する反省規定として一・表示したものにほかならない︒初版本文の﹁形態四﹂によって提起され︵第二形態から第三
形態への移行規定の再検討を要求し︶ていたこの問題は︑﹃資本論﹄第一巻第一篇の第二章交換過程論に入るや︑本格的
に︑そしてヨリ具体的に︑商品に内在的な矛盾がその運動形態をうるものとしての.商品と貨幣とへの商品の二重化
の必然性を根拠づけるべき主題として︑あらためて前面に立ち現われてくる︒
第三節﹃橿形態﹄をもそのうち警むところの︑笙篇の第一章﹃商品﹄響いては︑商品は︑﹁分析窪︑あ 八三 −価値形態論と交換過程論1
1論 文一 八四
るときは使用価値の観点のもとで︑またあるときは交換価値の観点のもとで﹂︑﹁そのつど一面的に考察﹂されてきた
のであるが︑第二章﹃交換過程﹂においては︑すべての商品が︑使用価値と価値との統一体として︑かかるものとし
て他の諸商品との全面的な交換関係にあるものとして︑現われる︒ここではじめて︑商品の二要因たる使用価値と価
も セ ち値とが︑相互に矛盾し対立する要因であることがあらわとなり︑また︑商品は︑この使用価値と価値という﹁二つの
対立物の直接的な統一﹂であり︑したがってまた︑ ﹁直接的な矛盾﹂であることが︑明らかとなる︒そういうものと
しての﹁諸商品相互の現実的な関係﹂がすなわち﹁交換過程﹂にほかならず︑すべての商品がその運動態において相
互的.全面的に関係しあうこの過程において︑対立物の﹁直接的な統一﹂としての商品の﹁矛盾﹂は︑ ﹁みずからを
展開せざるをえない﹂︹﹃資本論﹄初版八五頁︒﹃経済学批判﹄二七−八頁︒宇高訳五二頁︒︺ この︑商品に内的な矛盾の
展開が︑いわゆる﹁全面的交換︵外化︶の矛盾﹂である︒諸商品が各個に展開しまた展開せざるをえない﹁開展され
た価値形態﹂から諸商品の価値の統一的な表現形態たる﹁一般的価値形態﹂への移行の困難の問題は︑第二章の交換
過程論において︑ ﹁全面的交換の矛盾﹂として︑ヨリ具体的にあらわれるのである︒
商品の﹁自然的形態﹂とは区別されたものとしての﹁価値の現象形態﹂を明らかにすることを課題とする価値形態
論においても︑分析の対象たる商品そのものは︑本来︑使用価値と価値との統一体にほかならないのであるが︑しか
しそこでは︑ある商品の価値が如何にして他の商品の使用価値によって表現されうるかという問題が固有のテーマな
のであり︑価値等式関係の主体たる左辺の商品の価値のみが一それが如何にして現象しうるかという観点から1
問題とされているのであって︑右辺の商品は客体として︑その使用価値が左辺の商品の価値表現の材料たる役割を果
させられているにすぎない︒それにもかかわらず︑価値表現に固有の﹁廻り途﹂の論理によって︑右辺の商品の使用
価値が左辺の商品にとってそのまま価値としての意義をもち︑かくして︑右辺の商品は﹁価値物≦o博α営の﹂として
現われ︑かかるものとしての右辺の商品との関係を通じてはじめて左辺の商品の﹁価値存在≦①旨需ぼ﹂が現出しう
ること︑すでに小論の第一節においてみたごとくであるが︑しかし︑右辺の商品に﹁価値物﹂たる形態規定を与えた
のは︑価値関係の本来の主体たる左辺の商品にほかならない︒それゆえにまた︑価値形態論においても商品所有者が
事実上想定されているのだとするとしても︑それは左辺の商品についてのみいえることであって︑右辺の商品につい
てはそうではない︒これに対して︑交換過程論においては︑すべての商品が同時に︑一他の一切の諸商品を価値関
係の客体とするところの︑しかも他の一切の諸商品に対して自己を一般的な﹁価値物﹂として妥当せしめようとする
ところの一唯一的な主体たらんとしてあらわれ︑かかるものとして相互に他を排除する矛盾した関係を展開する︒
それに応じて︑各商品所有者もまた︑すべて同格に︑その全き意味において︑しかしまた︵後にみるように︶︑相互
に矛盾する欲求をもつものとして︑登場する︒諸商品相互の現実的な関係としてのこの交換過程において︑第二の価
値形態︵それはすべての商品について同時的に成立しうる︶から一それを顛倒しその主客を入替えたものとしての1
第三の価値形態への移行の困難の問題が︑すなわら﹃資本論﹄初版の﹁形態四﹂が提起していたあの問題が︑本格的
に︑諸商品相互の直接的交換の不可能の問題として︑登場してくるのである︒
﹃資本論﹄第一編第二章の叙述を辿って︑交換過程の矛盾を展開してみよう︒−
商品の使用価値は﹁他人のための使用価値﹂であって︑その所有者にとっては︑それは︑ ﹁交換価値の担い手﹂と
しての︑ ﹁交換手段﹂としての︑使用価値のみをもっている︒すべての商品は︑その所有者にとっては非使用価値で
あり︑その非所有者にとっての使用価値である︒だから︑それらは︑使用価値として自らを実現しうるためには︑相
−価値形態論と交換過程論− 八五
1論 文− 八六
互に全面的に持ち手を変換し合わなければならない︒この持ち手変換は商品の交換にほかならないのだが︑交換がお
こなわれるためには︑諸商品は︑価値として相互に等置され︑価値としてみずからを実現しえなければならない︒し
かるに︑諸商品が価値としてみずからを実現しうるためには︑その前提として︑それが使用価値たることが立証され
なければならない︒商品は他人にとって使用価値でなければ価値でもありえないが︑それが他人にとっての使用価値
であるということは︑交換による使用価値としての譲渡によってのみ実証されうる︒諸商品の価値としての等置と実
現は使用価値止しての不等置︵区別︶と実現を前提し︑且つ後者はまた前者を前提する︒かくして︑ ﹁一方の解決が
他方の解決を前提することによって問題の悪循環があらわれるばかりでなく︑一つの条件の充足がその正反対の条件
の充足と直接に結びついていることによって︑相矛盾する諸要求の一全体があらわれることになる︒﹂︹﹃経済学批判﹄
三〇頁︑宇高訳 五六頁︒︺
交換過程における商品の使用価値としての実現と価値としての実現の間のこの矛盾を︑商品所有者の欲求に即して
いえば︑商品所有者は誰でも︑自分の欲望を充たす使用価値をもつ他の商品と引換えにのみ自分の商品を譲渡しよう
と欲し︑しかも︑他方において彼は︑自分の商品を価値として実現しようと欲する︒︑すなわち︑同価値をもつ彼の好
むどの他商品とでも一彼自身の商品がその他商品の所有者にとって使用価値をもつと否とにかかわらず一交換し ち もようと欲する︒だが︑交換過程にあるどの商品所有者も全く同じ欲求をもつのであるから︑各商品所有者のもっこの
欲求は︑相互に他を排除するところの相矛盾する欲求たらざるをえず︑交換はおこなわれえない︒
交換過程の矛盾をこのように論述してきてマルクスは︑ ﹁もっと立入って考察してみると﹂として︑さらに左記の
ように議論を展開している︒−
ヨ ヤ ち ヤ ﹁もっと立入って考察してみると︑どの商品所有者にとっても︑他人の商品はいずれも︑自己の商品の特殊的等 ヤ じ セ ヤ ち価たる意義をもち︑それゆえに︑自己の商品は︑他のすべての商品の一般的等価たる意義をもつ︒だが︑すべての
商品所有者が跡ぴことをやるのだから︑どの商品も一般的等価ではなく︑したがってまた諸商品は︑よってもって
それらが諸価値として等置され︑且つもろもろの価値の大いさとして比較されあうところの︑一般的な相対的価値
形態はもたないわけである︒だからそれらは︑総じて︑諸商品として対応しあうのではなくて︑ただ諸生産物ある
いは諸使用価値として対応しあうにすぎない︒﹂︹﹃資本論﹄第一巻九二頁︒傍点は原文イタリック︒︺
﹁全面的交換︵外化︶の矛盾﹂を定式化した右のマルクスの論述は︑微細に検討される必要がある︒ ﹁他人の商品は
いずれも︑自己の商品の特殊的等価たる意義をもつ﹂ということは︑自己の商品が左辺に立つところの.自己の商品
についての﹁開展された価値形態﹂ ︵第二形態︶の展開を意味し︑これに対して︑﹁自己の商品が︑他のすべての商品
の一般的等価たる意義をもつ﹂ということは︑右の﹁開展された価値形態﹂がひつくりかえって︑自己の商品が右辺
に立つところの・﹁一般的価値形態﹂ ︵第三形態︶の成立を意味する︒この二つの命題は︑全く正反対の.本質的に相
異なった価値等式関係を︑それぞれの内容とする︒右のマルクスの論述を検討するにあたって︑この点を先ず明確に
とらえておく必要がある︒だが︑この点を明確にすると︑右の二つの︑互に正反対の価値等式関係を内容とす渇命題
が︑﹁それゆえに︵盆﹃R︶﹂という言葉によって直接に結び合わされ︑あたかもこの二つの命題が同義であるかのよ ヨ レうな︑あるいは︑後者の命題が前者の命題からおのずから導き出されてくるかのような︑右の叙述が背理を意味する
ことが明らかとなる︒商品所有者の欲求を﹁もっと立入って考察してみると﹂︑この背理に帰着する︒交換過程にあ
るすべての商品所有者が︑この背理を欲求し︑この背理を行為しようとするところに問題がある︒すべての商品所有
−価値形態論と交換過程論一 八七
一論 文− 八八
者が同時に︑自己の商品について︑ ﹁他人の商品はいずれも︑自己の商品の特殊的等価たる意義をもつ﹂ところの
﹁開展された価値形態﹂を展開することは可能であるが︑その逆の価値等式関係が同時に成立することはできない︒
すなわち︑すべての商品が同時に他のすべての諸商品に対する﹁一般的等価﹂たることはできない︒小論の第三節に
おいて筆者が︑ ﹁資本論﹄の価値形態論における第二形態から第三形態への移行に関する叙述方法に強い疑問を表明
し︑第二形態を構成する単純な価値諸表現の系列が﹁逆の関聯を事実上すでに含む﹂とすることによって︑第二形態
を簡単にひっくりかえして第三形態がえられるとすることはできないことを強調したのは︑この背理を背理として明
確ならしめるためであった︒もし︑第二形態を構成する単純な価値諸表現の系列が﹁逆の関聯を事実上すでに含む﹂
とすることができるならば︑各商品所有者にとって︑この背理は背理ではなくなる︒もとより︑各商品所有者の主観に
おいては︑この背理は背理として意識されはしない︒その反対に︑各商品所有者は︑それぞれ自己の商品について展開
しうる第二形態を構成する単純な価値諸表現の諸等式が﹁事実上すでに逆の関聯を含む﹂ものとして︑行為しようと
む ね モ ち モ ヤ ヨ む欲する︒だが︑それゆえにこそ︑すべての商品所有者が他のすべての商品所有者の商品を﹁一般的等価﹂の位置から
排除し︑一般的・統一的な価値表現関係を成立せしめず︑交換は不可能となるのである︒﹃資本論﹂の価値形態論にお
ける第二形態から第三形態への移行規定をそのままに容認し︑それをそのまま﹁全面的交換の矛盾﹂にもちこんで問
題を理解しようとするならば︑それは︑個々の商品所有者の主観的な表象に即して問題を把握することを意味し︑それ
らの商品所有者とともに意図に反した結果についてたんに﹁当惑﹂せざるをえないであろう︒あるいは︑その﹁当惑﹂
を理論的に表現しようとする場合も︑﹃資本論﹄初版の﹁形態四﹂におけるような︑第二形態から第三形態への移行に
関する反省規定としての表現にとどまらざるをえないのではなかろうか︒第二形態から第三形態への移行規定をその
まま容認したうえおそうし簡題把握は︑﹁全面的交換の矛盾﹂の把握もては︑たんに形式的.論理的であるに
すぎない・−第二形磐構成する単純猛値諸表現の系列が﹁事実上す芝逆の関聯を含﹂んでいるとすをとは
で惑いのである・﹁他人の商品はいずれも︑自己の商品の特殊的等価たる嚢をもつ﹂ということと︑﹁皇の商
品が・他のすべての商品の一般的等鱈る嚢をもつ﹂ということとを︑﹁それゆえに﹂として直接に結びつけてと
らえるのは︑個西の商品所有者の主観的な表象に即しての問題把握にすぎない︒個々の商品所有者が︑事態をそのよ
う簑象し・背理薮求し墓を行為しよ・つ与る差ろ髪そ︑交慧程の矛盾があるのである.﹁全面的交換の
矛盾﹂に関するさきのマルクスの論述は︑そうし各意のものとして理蟹るべきでは蒙ろうゆ.そう解した場合
にのみ・その叙述は・交慧程の矛盾を明らか写るあεて合理的誇る嘉もわれる.前節において筆者が︑
﹃資本論﹄に薄る第二形態から第三形態への移行規定纂な是執黎検討を加え︑その移行によこたわる本質的
な困難を明確に把握すべきであることを強調したのは︑この点を明らかにする意図をもってであった︒
交換過程に登場するすべての曹塀薯が︑同時に︑それぞれ自己の曹麗ついて展開しえ︑また展開するところ
の・開展された価値等式関係において︑ ﹁他人の商品はいずれも︑自己の商品の特殊的等価たる意義をもつ﹂のであ
るが・それらの価値等式関係塞いては︑自己の商品砦・ての﹁特殊的等価﹂たる他人の諸商品は︑皇の曹膠 ヨ む
対してそれぞ急縁霜融であるが︑自己の商品は他人の諸商煙対し直接に交換可能詮ない.各商.叩所有
者にとって・皇の曹累他人の諸曹躍対し直接に交換可能となり︑かくして︑皇の商暑それと同価値の彼
の好むどの他商品とでも交換することができるためには︑すなわち︑さきにみた商品所有者の行為的欲求が充たされ
るためには︑それらの開展された価値等式関係をひつくり返した形態が成立しうるのでなければならない︒だが︑す
八九 一価値形態論と交換過程論1︐