文学作品の特性と読みの指導
ごんぎつね」の語りの構造を中心に
中村 哲也
I. ごんぎつね」解釈の動向
新美南吉の「ごんぎつね」は,小学四年生の国 語教材,物語教材,文学教材としてほとんどの教 科書に掲載され,いわば国民的規模で読まれてき た作品である。
ごんぎつね」の教科書への採用は,1956(昭和 31)年,大日本図書からで,今日まですでに半世 紀を経,文字通りの長寿教材,「教科書古典」の 地位を占めている。府川源一郎によれば,教科書 掲載と教科書の採択率との関係から,「ごんぎつ ね」の読者=学習者を割り出すと,1970年以前 にはそれほど多くはなく(三割),70年代に入る や,子どもたちの約七割にまで飛躍的に増加し,
1980年にはついにすべての小学 生 に 読 ま れ る
「国民教材」となった。「ごんぎつね」は,この二 十年間の小学校の国語教育,国語教材において不 動の位置を占めてきたといえるだろう 。
したがって,「ごんぎつね」の先行研究(教材研 究,授業研究等の研究書,研究論文)の類は膨大 である。単独に「ごんぎつね」だけを中心に論じ た研究書としては,北吉郎『新美南吉「ごん狐」
研究』(教育出版センター 1991)をはじめ,府川 源一郎『「ごんぎつね」をめぐる謎』(教育出版 2000),鶴田清司『なぜ日本人は「ごんぎつね」
に惹かれるのか』(明拓出版 2005)があり,教材 研究にかかわる研究書では,西郷竹彦『教師のた めの文芸学入門』(明治図書 1968⎜『西郷竹彦文 芸・教育全集 13』恒文社 1998所収),小松善之 助『教 材「ご ん ぎ つ ね」の 文 法』(明 治 図 書 1988),鶴 田 清 司『「ご ん ぎ つ ね」の 解 釈>と 分析>』(明治図書 1993)などがある。と り わ け,北吉郎,府川源一郎の本では,これまでの先
行研究の整理とともに,綿密な資料収集に基づく 作家・作品・教材の周辺領域についての詳細な研 究がなされ,「ごんぎつね」の研究にこれまでも,
またこれからも資するところの大きい研究書と なっている。
たしかに「ごんぎつね」をめぐる作品論,作品 解釈,国語教育でいう教材研究,教材解釈の動向 は,鈴木啓子がいうように,「戦後日本の文学教 育の歩みを問い直すことにほかならない」 かも しれない。国語教育の現場における文学教材・物 語教材「ごんぎつね」の解釈・ 読み>の変遷に ついては,先の府川の著書に詳しいが,その論述 で興味深いのは,「ごんぎつね」という一個の教 材を通して,戦後の文学教育,教材解釈や読解指 導,国語学習のあり方が,おぼろげにであるが,
浮かび上がってくることである。
特に,70年代に爛熟し,その後,国語の読み の授業を形骸化,画一化していった主 題 指 導,
「主題追究型」の「解釈主義」に関しては,「ごん ぎつね」も例外ではない。1980年代以降,子ど もの読書離れ,国語嫌いのなどの激増が大きく問 題化し,ことにその元凶としてパターン化した読 解指導,主題読み,心情の読み取りの弊害が厳し く批判されるようになっていく。府川は,主題追 究型の読みについて,「もともと,小中 学 校 の 読み>の教育,とりわけ高等学校のそれは,研 究者の研究成果を,やさしくかみ砕いて伝達すれ ばそれでよしとする傾向がないわけではなかっ た。つまり一読しただけでは意味の取りにくい原 典を解読し,ようやく書き手の意図にたどり着く という古典読解の方法を,そのまま国語の 読 み>の授業に持ち込んでいたのである。こうした 授業においては,知識をたくさん持っている教師
による一方的な説明,あるいはそれに基づく「解 釈」の披瀝になってしまいがちだ」 と述べてい る。
そして,80年代から 90年代にかけて,画一的 な読みのあり方を退け,読みの多様性・複数性を 保障し,読者=学習者の読みの活動・経験を重視 した,いわゆる「読者論」が主張され,現場にも 広がっていく。この流れは,近年においても国語 科教育学の研究者の間で活況を呈しており,テキ ストと読者の相互作用や認知心理学による読者の 読みのプロセス分析を機軸とした「読者反応論」
への流れとなっている。
II.新たな解釈の動きと授業づくり
① 教師用指導書」⎜⎜ 光村図書,東京書籍を中 心に (表 2参照)
90年代から現在までの「ごんぎつね」の主題 とその解釈について,光村図書は,「死をもって しか通じ合えなかった心の交流の悲しさ」「心の 交流の難しさと大切さ」といった「死をもって通 じ合えた」ことを強調する解釈となっているが,
他方,東京書籍は,「心を通わせたいと願い,そ のためにとった行為が原因となって,その相手に 殺されてしまう悲しさ」「理解し合うことのでき な い 悲 し さ」(平 成 8・12年)と い う よ う に,
「理解し合うことができない」悲しさ,悲劇に力 点が置かれた解釈となっている。しかし,東京書 籍も平成 14・17年では,それぞれ「死を通して しか理解しあうことができなかった悲しさ」「死 の間際に初めて本当の心が伝わったことを知る。
伝わったときにはもう取り返しのつかない結末を 迎えている二人の悲しさが胸に迫り,分かり合う ことの難しさとそれゆえの喜び悲しみを深く訴え てくる作品」という,「死をもって通じ合えた」
とする光村図書の解釈に重なるものとなってい る。
ただし,ここで注意したいのは,東京書籍の平 成 14年と 17年の指導書には,兵十の視点あるい は視点人物としての兵十を重視した解釈が次のよ うにそれぞれ提起されている。「五章まではごん
の内部に入り込んで語られてきた物語が,六章で は兵十に移っている。このことによって,ごんは 突き放され,「今まさに殺されようとするごん」
の姿が浮かびあがるのである」「ごんのひたむき さへの共感や死んでしまったごんへの同情など,
ごんに対する思いのみにとどまらず,撃ってし まった兵十の驚きややり切れなさなども推し量れ る感受性を育て,それを自己表現に結びつけて人 に伝える意欲をも高めたい」。
つまり,主人公「ごん」に対する感情移入,同 化した読みにとどまらず,それを最終章で切り替 わる兵十の視点から捉えなおし,ゆさぶる 読 み>の方向性が新たに提起されているのである。
しかしながら,ここで問題になるのは(「ごんぎ つね」の引用は『新編新しい国語四年下』(東京 書籍平成 17年)を使用),
ごん,おまえだったのか。いつもく りをくれたのは。」
ごんは,ぐったりと目をつぶったまま,
うなずきました。
と,ごんがうなずいたのは,通じ合えたことを意 味しているのかどうかということである。果たし て指導書等にあるように「死をもって通じ合え た」のか。この今わ際に,ごんと兵十の間で 通 じ合えた」のは,「おっかあが死んでからは,だれ だか知らんが,おれに,くりや松たけなんかを,
毎日,毎日くれるんだよ」という兵十の謎に対す る加助の提示した「神様のしわざ」が否定され,
神様ではなく,ごんだったという事実が判明した 以上のことはでてこない。この場合,通じ合うた めには一番重要な事項,すなわち,くりや松たけ をもっていった「ごんの動機=うなぎのつぐな い」(また,「神様にお礼を言うんじゃあ,引き合 わない」という嘆き・無念さが解消されたこと) については兵十にはもはやごんの死によって永遠 に知りえない。したがって,最終章における視点
人物=兵十の立場からの 読み>に重点を置いた 指導を推し進めていけば,意思疎通の不成立の悲 劇が前景化されごんの独りよがりの思い込み・自 閉性あるいは甘えが引き起こした悲劇とする解釈 が成り立つだろう。
高木まさきは,文学教材の「書き換え」の方法 を使った実践に基づいて,ごんと兵十が最後には 気持ちが通じ合えたか否か,という論点をテーマ 化 し,鋭 い 検 討 を 行って い る。高 木 に よ れ ば,
「ごんぎつね」においては物語を語る視点が基本 的 に は「ご ん」の 側 に あ る た め に,読 み 手 は,
「ごん」の償いの気持ちを共有し,また「死」と 引き替えに何かをもたらすという物語によくある 約束事も作用するため,「通じ合い」の物語(高木 は「ハッピー・エンド」の物語と呼ぶ)をこの作 品に見てしまい,あまりに安易に見慣れた物語の パターンを作品に重ね合わせすぎたのではないか と指摘している 。
そこで,自明化した読みから解放されて,も う一度作品を読み直すために,兵十の視点から 物語を「書き換える」試みをおこなってみる と,改めて,次のことがわかってくるという。
兵十に見えていた「ごん」は,うなぎを逃がし た「ごん」と,固めた栗のそばで兵十に撃たれ て「ぐったりと目をつぶったまま」の「ごん」
でしかない,ということである。兵十に見えて いた「ごん」の姿は,思いの外限られているの だ。そしてそう改めて確認してみると,いくら 栗や松茸などをもってきてくれていたのが「ご ん」だと分かったとしても,分かるのはそこま でで,そこに兵十の「おっかあ」の死に対する
「ごん」の償いの気持が込められていたことな どは,兵十には思いもよらないことだった,と いう読みが浮上してくるのではないか。もしそ う読んでよいならば,「ごん」は死を以てして も,本当に伝えたかったことを兵十には伝えら れなかったということになり,悲劇はいっそう 深いものとなる。むろんこれだけでは「ハッ ピー・エンド」の物語であることを否定するの
は難しいと思うが,少なくとも,主人公「ご ん」に寄り添って語る語りの圧力によって,何 となく前提となり,制度と化してしまった読み (意味・物語)を,「他者」=兵十の視点から見つ め直そうとすることによって,相対化し,読み の可能性を広げることだけはできるように思わ れる
したがって,平成 14年と 17年版の東京書籍教 師用指導書は,相互に矛盾・対立する事項 (「通 じ合えた」ことと「兵十からの視点」)が主題とし て記載されているのである。
ちなみに,高木のいう「ハッピー・エンド」の 物語,指導書等にも見られた 通じ合い」の物語 としての「ごんぎつね」解釈は,実践現場に広く 浸透しており,府川はこの点について,「多くの 実践報告を見ていくと,ごんの思いは兵十に届い たものの,その時はすでに遅かった,と解釈して いる教室が圧倒的に多い 」と指摘している。府 川自身も,高木と同じように,「兵十はごんの思 いの何ほどを理解できたであろうか。ごんの内面 に寄りそって物語を読んできた読み手は,ごんの 反省や,兵十に対するひたむきな接近行動に潜む 感情を十分に知っている。ごんのむくろを抱いた 兵十にごんの心中は伝わるはずはない。兵十に は,自らの孤独感を基盤として兵十と連帯しよう としたごんの思いのすべては,理解しようがない のである。だからこそ「青いけむり」の残像は,
読み手の心の中に長くとどまるのである」という 解釈の立場に立っている。
② 高校における「ごんぎつね」の授業実践 高校国語で「ごんぎつね」を取り上げた興味深 い実践例として定時制高校の教諭丹藤博文(東京 都立神代高校定時制)の実践がある 。
丹藤があえて定時制高校で「ごんぎつね」授業 を行った理由としては,「ごんぎつね」における 他者認識のありようこそ,現代の複雑な後期中等 教育の矛盾を抱えた定時制に通う高校生と無縁で はないと考えたからである。これを受けて,丹藤
は特に,「ごん」から「兵十」へと語り手によっ て視点が転換されるところに着目し,主人公「ご ん」を兵十の視点から相対化するメタレベルの 読み>の学習を行っていく。丹藤の「ごんぎつ ね」の捉え方はかいつまんでまとめると以下の通 りである。
結末部を除いて,この作品に一貫している のはごんぎつねと兵十の認識のずれ」であり,
兵十が鉄砲で撃つまで,ごんは兵十にとって
「ぬすっと狐め」でしかない。しかし,その後,
ごんは兵十の母親が死んだのは,自分のせいだ とひとり合点する。兵十は床について体の弱っ ている母親にうなぎを食べさせようとした。し かし,自分が取ったがためにうなぎを食べるこ ともできずに,母親が死んでいったと思い込 む。テクストの語り手は,結末までけっして兵 十の視点に立たず,この作品の仕組み自体,ご んと兵十の互いに対する認識のずれを際立たせ ている。物語の結末。語り手は,ここではじめ て兵十の視点に立ち,兵十は,ふと顔をあげ と,狐が家の中へ入った。こないだ,うなぎを ぬすみやがったあのごん狐めが,またいたずら をしに来たな。兵十へ視点が切り替わったこと によって,ごんの認識は相対化され,ごんの認 識のずれがよりダイナミックに読者に伝わる。
この視点の転換によって,ごんの兵十に対する 認識の仕方,つまり,ごんは兵十という他者を 自己化してとらえていたという陥穽が露呈す る。他者を他者として,その他者性に目を開く ことなく,兵十を「自分と同じ一人ぼっち」と 認識し,単なる自己の投影物・分身化していた 問題が浮上してくる。視点の転換は,そのよう なごんと兵十の認識のずれを鮮明に前景化させ る。視点の転換によるごんの認識の相対化に よって,読者はごんぎつねという他者を認識す る地平に立てるのである。教材『ごんぎつね』
は,われわれの,他者を自己化してとらえてし まうという認識のおちいりやすい陥穽を示唆し ている。目の前にしている高校生にも十分あて
はまる。自己と共通する部分があるからこそ,
シンパシーを感じ,そうでなければ異質な他者 として排除してしまうという行動は,教室にお いてよく目にする光景である 。
授業後の生徒の感想文>
小学生の頃,「ごんぎつね」を読んで,「ごん はなんてかわいそうなんだろう」と思った。ひ とりぼっで,兵十のためにいろいろとしてあげ たのに,最後にはその兵十に殺されてしまうと いう話が当時の私の心の中で「ごんぎつね」=
「かわいそうな話」として残った。最後にごん をうった兵十を嫌な奴だと思い,私は完全にご んの味方だった。それから十年たった今,改め て「ごんぎつね」を読んで,私は自然に理解で きた兵十の味方に変わっていた。お互いの気持 ちにズレがあり,ずっと平行線で交わることの なかった気持ち。最後の最後でやっと気持ちが 通じ合えたように思えたごんと兵十。ごんは,
たしかに優しい気持ちだと思うけど,思い込み が激しいと思った。自分と同じひとりぼっちに なったと決めっけたり,兵十のお母さんが死ん だのは自分のせいだと思い込んでつぐなったり する。兵十は,せっかくとったうなぎをいたず らされたり,いわし泥棒と間違われたり,栗や まつたけが何者かによって置かれ不思議に思っ たりと,ごんとは全く逆の感情を抱いたとして も無理はない。ごんをうった後,ごんの気持ち に気付いた兵十がかわいそうだと思った。昔読 んだ時とは違い,たしかにごんにかわいそうな 部分もあるけれど,ただごんだけがかわいそう なだけの話ではないように思った。ごんの気持 ちも兵十の気持ちも両方見れるようになった。
自分の気持ちに素直に,一生懸命つくすごんを かわいそうなだけだと思わなくなったり,それ に気付かない兵十の気持ちを理解できるように なったことは,この何年かで私の心の純度が低 くなったからでしょうか。(高田英里奈) 丹藤は,この授業実践を振り返り,次のように考
察している。
高校生の読みでまず特徴的だったのは,かつ て小学生の時読んだ「悲しい話」という印象か ら,もっと「深い」話であり,「悲しい」だけ の話ではないというものである。「思い込み」
に気付いていた。しかし,そこから,感想は二 つに分かれる。一つは,そのような認識のずれ と両者のあいだには埋めようのない距離がある にもかかわらず,ごんの兵十に対する健気な行 為を評価する読みである。あるいは,兵十とい う他者のために,いたずらぎっねから健気に行 動するごんへと変容したことに感動するものも ある。他者のために一生懸命になれるごんを
「素敵」だとする読みは,それはそれで実感の こもった読みであるようにわたしには感じられ た。一方で,「ごんは死んでかわいそうだと思 うけど,実は兵十の方がかわいそうだと思いま した」(松田憲行)といったように,かわいそ うなのは,ごんではなくて兵十の方なのではな いかとする読みもいくつかあった。引用した高 田は,ごんの「思い込み」も兵十にとっては,
「逆の感情」を抱かせるにたるものだったと両 者を等価に見据える視点に立っている。ごんを 他者とする立場に立ったことによるものであろ う。小学校の時,ひたすらごんの視点に立ち,
ごんをかわいそうだとする読みは,言語を実体 化し物語内容の範囲にとどまったものであっ た。十年近くの時間を経ていることもあるだろ うけれども,語り手が視点を転換しごんを相対 化するというメタレベルに立つことによって,
兵十とごんに対する見方を新たに獲得していっ た。高校生たちはかつてかわいそうとしてしか とらえなかったごんを相対化し,そのように呼 んだ自己をも他者化していったのである。
先にも取り上げた「通じ合いの困難さ」やその 大切さをテーマ化する解釈に対して,「ごんぎつ ね」の他者認識の甘さ,他者不在の構造を批判す る見解は,すでに,60年代にも見られたが (資
料表 1参照 ⎜⎜ 特に,大河原,村松の発言にも 注意 ),近年,府川や高木らの国語教育研究者 だけでなく,日本文学研究者の間にも散見される ようになった。たとえば,田中実は,「母をなく した兵十とひとりぼっちのごんとはその寂しさの 内なる形は相似だった。言わば,二人はその点で 分身関係であって他者化されてはいかない永遠の 夢がこの 作品の意志> 」であると述べている。
また,この作品の構造を単刀直入に「独我論的な 閉鎖性」と指弾する 読み>もだされている(鈴 木啓子「『ごんぎつね』をどう読むか」「日本文 学」2004年 8月参照)。
その意味で,丹藤による「ごんぎつね」の授業 実践も,こうした 読み>や解釈の系譜に明確に かわるものといえる(見方をかえれば,「日本文学 協会」に所属する教師・研究者のひとつの傾向と して考えることができるだろう)。
ところで,丹藤の実践での高田英里奈の感想文 を読むと,やや気になるところがある。感想に は,「ごんをうった後,ごんの気持ちに気付いた 兵十がかわいそうだと思った」という文言がある が,いったいこの場合の「ごんの気持ち」とは何 なのかである。中身についてなにも書いていない のでわからない。はたして「栗や松茸を届けたの は神様ではなく,ごんであっこと」がわかっても らえたというレベルか,「うなぎの償い」の気持 ちまで含んで言っているのか。とはいえ,全体と しては,兵十の視点から「ごんの死をもって分か り合えた」という 読み>が記されており,この 場合,授業者丹藤が容易には自己には折りかさな らない他者の他者性への問いを重視しているにも かかわらず,その意に反して,生徒の高田の 読 み>は単にごんから兵十へと かわいそう」の対象 者が交代しただけで,ごんと兵十は「通じ合え た」とする従来の 読み>のままにとどまってい るようにも思える。
II.登場人物による筋立て,読者による筋立て ごんぎつね」の中には,二つの「死」の出来 事が描かれている。ひとつは兵十の「おっかあ=
母」の死であり,もうひとつは,物語の終末にお ける,兵十の火縄銃による「ごん」の死である。
ところで,英国の著名な小説家E・M・フォー スターの人 口 に 膾 炙 し た「ス トーリー」と「プ ロット」の 区 別 が あ る 。そ れ よ れ ば,ス トー リーもプロットも「時間の進行に従って事件や出 来事を語ったもの」にほかならないが,プロット は,なによりも事件や出来事の因果関係に重点が 置かれていると捉える。フォースターは,次のよ うな具体的な例を挙げて説明する。「王様が死に,
それから王妃が死んだ」といえばストーリーだ が,「王様が死に,そして悲しみのために王妃が 死んだ」といえばプロットである。ストーリーな ら「それか ら 」と 問 う が,プ ロット な ら「な ぜ 」と 問 う。こ れ が 根 本 的 な 相 違 な の だ と フォースターは言い切る。そして,哲学者の野家 啓一は,これを人間における経験の時間的構成,
世界制作,さらには科学論・科学哲学とも関連付 けながら人間諸科学固有の説明の原理として「物 語り narrative」「物語り行為」を位置づけなお し,「物語り行為」の大枠を「時間的に離れた複 数の出来事を指示し,それを はじめ⎜中間⎜終 わり>という時間的秩序に沿って筋立てる(plot- ting)言語行為」と特徴づけている 。(野家は,
注において,この点については,心理学者やまだ ようこによる「物語」の定義から示唆を受けたと している。やまだの定義は「2つ以上の出来事 (events)をむすびつけて筋立てる(emplotting) というものである)。
さて,兵十の「おっかあ」の葬列を目撃したそ の晩,穴の中でする「ごん」の反省・後悔は,ひ とつの物語り行為と考えることができる。
兵十のおっかあは,とこについていて,う なぎが食べたいと言ったにちがいない。それ で,兵十がはりきりあみを持ち出したんだ。
ところが,わしがいたずらをして,うなぎを 取ってきてしまった。だから,兵十はおっか あにうなぎを食べさせることができなかっ
た。そのまま,おっかあは,死んじゃったに ちがいない。ああ,うなぎが食べたい,うな ぎ が 食 べ た い と 思 い な が ら,死 ん だ ん だろう。ちょっ,あんないたずらしなけりゃ よかった。」
兵十が,はりきりあみを持ち出して,川で漁をし ていた。それは,病の床に臥せっている母に,う なぎを食べさせるための,目的・意図をもった行 為としてごんは捉えなおす=推察する・筋立て る。読者の背景的先行知識,文化的コンテキスト からすれば,そもそも「うなぎ」は「精のつく」
食べ物として日本人に賞味されてきたもので,病 気で弱っていく母親が「精のつく食べ物=うな ぎ」を口にするのを妨害したことで,母親は衰弱 死したかのような錯覚を覚える筋立てでもある。
小学生はそう読み取るのではないか。しかし,も うひとつは,病臥にあえぐ母にせめておいしいも のをという思い,つまり健康回復への願い,癒し への願いを踏みにじったことへの後悔の念がでて いるとも読める。
文字にして約二百字のこのごんの言葉について は,「ひとりよがり」「自分勝手」「独 断」「恣 意 的」などと評されても仕方がないものがある。か なり強引な当て推量である。「ちがいない」が二 度使われ,強引に自分に言い聞かせるように思い 込もうとしており,「だろう」という言い方も単 純素朴な類推にすぎない。「ごんぎつね」の本文 の中で,読者に向けて指示されている出来事は,
この穴の中のごんの言葉にもあらわされている。
「兵十とはりきりあみ」「ごんのいたずら」「うな ぎと取ってきてしまう」(うなぎをびくから川へ 投げすてようとした)「兵十のおっかあの死」。そ れ以外は,ごんの勝手な物語り行為による筋立て によっている。しかし,この筋立てが,ごんの
「うなぎのつぐない」の行為(兵十の家に栗や松茸 を届ける行為)の意図であり,動機の根幹をなす のである。では,一体,ごんはなぜこんな「強引 な」あるいは「でたらめな」筋立て・物語りをし
たのか。そうまでして何を賭けたのか。何を言い たいのか。何を訴えたかったのか。ある意味で は,ごんは,この物語りに縛られ,この物語を生 き,また,これに生かされ,そして物語に殉じて いったともいえる。
ごんぎつね」は「一」から「六」までの章立 てから なって い る が,一 般 に,「一」か ら「五」
までは「ごん」視点で書かれ,最 終 の「六」で
「兵十」の視点が中心に展開すると見られている (
「六」の中には,「兵十」と「ごん」の視点の微 妙に絡み合う箇所も出てくる。特に,「兵十はか けよって来ました」の一文は,「ごん」の視点と して論議を呼んだ)。しかし,実際,「三」の二段 落目は,語り手が兵十の視点,内面に寄り添い代 弁する書き方,いわゆる「自由間接話法」の表現 となっている(その指標として,「今まで」という ダイクティク=絶対的時間副詞は重要。「兵十」
の「いま・ここ・わたし」という時間的場所的現 在と,語り手・語りの時間との共存,作中人物の 声であると同時に語り手の声でもある「声の二重 性」が見られる。また,「おっかあ」という親族 呼称,「死んでしまっては,もう」といった表現 にも兵十の声に近いものが感じられる )。
兵十が,赤いいどの所で,麦をといでいま した。
兵十は今まで,おっかあと二人きりでまず しいくらしをしていたもので,おっかあが死 んでしまっては,もうひとりぼっちでした。
おれと同じ,ひとりぼっちの兵十か。」
こちらの物置の後ろから見ていたごんはそ う思いました。
語り手は,ここで,ごんの一方的な孤立性・孤 独= ひとりぼっち」と釣り合いをとらせるかの ように,母との死別後の兵十の 孤立性」「孤独」
を読者に示し,また,ごんもそれを認知したとい う構成にしている。孤独なものが,またふたたび
孤独なものを再生産してしまったという加害者意 識と同時に,「孤立性」「孤独」「ひと り ぼっち」
といった共通性を介した「おれと同じ…」,同一 化,同等意識,われわれ性の意識がはっきりと出 て,ここから,まさに うなぎのつぐない」がはじ まるのである。ただし,これ以降は,ごんの視点 に切り替わるので,ごんの側からの一方的でひと りよがりな われわれ>=連帯感にとどまってい る。他方,読者にとっては,ごんと兵十がいつか 孤独なもの同士,心を通い合わせるのではないか という思い・期待を抱かせるところでもある。
ごんぎつね」の最終章「六」。兵十には,ごん の物語り=「うなぎのつぐない」という意図,動 機はわからない。ただ,いつも栗や松茸を届けて くれたのが「ごん」であることがわかっただけで ある。
阿部昇が指摘するように,兵十は,はじめ「あ のごんぎつね」と呼んで,一匹の獣として捉え,
「ぬすみやがった」「ごんぎつねめ」という攻撃的 で吐き棄てるような言葉遣いになっているが,最 後のシーンの「ごん」「お前」(東京書籍の旧版
⎜⎜現行では「おまえ」に改められた)という大 きな呼称の変化に対等な関係が生じたと見る 。 しかし,「ごんよ,なぜ,こんなことをいつもし てくれたのか」と,兵十は,ごんの意図・動機を 問うだろう。兵十の視点から物語を遡れば,「神 様がお前をあわれにおもわっしゃって」という加 助の言葉に当てはめたくなる。「おっかあが死ん で,独りぼっちの俺を,ごんはあわれに思ったの か」と。それでも,「うなぎのつぐない」という ごんのあの物語には届かない。この答えのない問 いを問うことで,兵十は,すでに死者となった
「ごん」の沈黙,その他者性に問われ続けなけれ ばならなくなるだろう。
IV.むすび
ごんぎつね」が,日本人の伝統的な物語構成,
ドラマツルギーとも大きく重なる作品であること は,しばしば指摘されてきた。たとえば,死を もって人間同士の理解・和解が成立するドラマ,
物語は日本に多い。府川は,悪人と見えた人物 が,今わの際に善人に立ち返る浄瑠璃の「もど り」の手法を挙げている 。事実,「ごん」と聞 いてどうしても「義経千本桜 鮨屋の段」の中に 登場する「いがみの権太」を連想する人もいるこ とだろう。身を隠して生きる平維盛一家を生け捕 り鎌倉の討手に引渡し,維盛一家とみせかけて,
自分の女房子どもをも差し出して身代金をせがむ 権太の卑劣さを見かね,父の弥左衛門は,抜いた 刀で権太の腹を突き刺す。「ああ,三千世界に,
子を殺す親というのは俺ばかり,なんというこ と」。すると権太は,維盛一家とみせかけて,自 分の女房子どもを身代わりにして実は助けていた ことを告白して,息を引き取る。父は傷心失意の うちに,妻と別れ,旅立つ。まさに,死をもって 見かけ・外観がはがれ,本質が現れる,日本人の 物語の美学がここにある。
また,ごんと兵十との関係性,ごんのひたむき な兵十に対する「つぐない」の行為を読み解き,
説明する上で,現代の精神医療の最前線,とく に,依存症治療や嗜癖治療の領域で使われる「共 依存」(co‑dependency)観点から,とらえるこ ともできるだろう。兵十の行動や日常生活の些事 に常日頃から密かにしかも執拗に関心を寄せ,兵 十にかげながらつきまとい,いつも兵十にかか わって気を揉んでいるごんの態度や行動は,まさ に「共依存」のそれではないだろうか。ごんはお のれの人生の孤独や空しさを兵十という他者に よって埋め合わせようとしたともいえる。した
がって,「つぐない」とは,兵十とつながるため に仮構された強固な幻想の物語であり,この物語 という紐帯がかあればこそ,兵十とのごんのかか わりは幻想的に担保され続けたのである,ほかで もなく,火なわ銃によってごんが兵十に射殺され るまで。
(2007年 10月 5日受理)
1 府川源一郎『「ごんぎつね」をめぐる謎』(教育出版 2000 pp.110
2 『ごんぎつね』をどう読むか」「日本文学」2004年 8 月 pp.30
3 府川前掲書 pp.149
4 高木まさき「ふたりの犯罪者から ⎜⎜ 人として必要 な言葉の力とは何か」「日本文学」2002年 8月 pp.18 5 同 pp.18‑19
6 前掲府川 pp.123
7 丹藤博文「他者を読む ⎜⎜ 高校生における「ごんぎ つね」の授業」「日本文学」2002年 8月
8 同 pp.55‑57
9 同 pp.59‑60 傍線引用者中村添加 10 同 pp.60
11 田中実「メタプ ロット を 探 る「読 み 方 ・読 ま れ 方」
⎜⎜ 『おにたのぼうし』『ごんぎつね』を対照しなが ら」『文学の力×教材の力』教育出版 2001 pp.22 12 中野康次訳『小説の諸相』みすず書房 1994 13 野家啓一『物語の哲学』岩波現代文庫 2005 pp.326 14 拙著『「出口」論争「冬景色」論争を再考する」明治図
書 1999参照
15 阿部 昇「「読むための方法」についての具体の解明 が鍵である」「教育科学国語教育」2005年 5月 pp.20 16 府川前掲書 pp.175
表 1 教育現場の中の教材「ごんぎつね」の変遷
(府川源一郎『「ごんぎつね」をめぐる謎』を基にして作成)
発言者 内 容 備 考
60年代 萌芽期
大河原忠蔵 兵十が銃を撃つ必然性が,ごん自身のひとりよ がりの思い込みともいうべき解釈から出てきた という「破綻」を持っている。
設定に破綻があるので,現代社会における人間 同士の疎外や分裂の問題に光が当てられない。
教材価値への疑問 イデオロギー文 学による主体変 革人間教育
熊谷孝 現代の子どもの持つ疎外感とは質が違う。現代 の子どもには適合しない。
教材価値への疑問 村松友治 浪花節的に,すれ違いの悲劇」 教材価値への疑問 西郷竹彦 悲劇は「中山さまのお城」があるような封建時
代の出来事であって,「社会的な悲劇」として 描ききれていない。
学習指導論の観点か ら教材の読みを提起 岩沢文雄 「ごんの求愛の歌」
孤独な魂が愛を求めて奏でる,哀切な響きの 美しさ」
ごん」に寄り添い,
作品に同化
ロマンティシズ ム的解釈 70年代
確立期 (主 題 読 み に よる読みの授 業の画一化・
パターン化)
安藤操 誤解 (?)によるつぐない (反省の心と同じ一 人ぼっちの存在をわかってもらうためのひたむ きな行為)がついに死をまねいてしまった一人 ぼっちのごんと兵十の話。そのいじらしさ・あ われさ・悲しさ。
ストーリーにあらわ れ た「こ と が ら」+
作品が思考している 方向=主題
主題指導
蓑手重則 いたずらのつぐないをしようとした孤独なごん ぎつねの善意も,同じ孤独な兵十の心には通じ なかったばかりか,かえってうち殺されてし まったこと(作品の題材形象)は,まことに痛ま しいことである。
・作者の創作体験を 追体験することで主 題 を 正 し く と ら え る。
・作品の題材形象か ら客観的に導く「作 者の意図」=主題
主題指導
小松善之助 ・教師 ⎜⎜ イメージされたものは
生徒 ⎜⎜ 六地蔵さんのかげから景色やおそ う式を見ているごん
教師 ⎜⎜ そうか,ごんの姿もイメージでき たんだね。
児童 ⎜⎜ 目をくるくるさせて,真剣に見て いる。
・想像体験・イメー ジ化を重視する活動
・作品から思い浮か ぶイメージを 広 げ,
文章を読む
・形象読み
・イメージを豊かに する指導
木下重信 (徳 島県郡里小学 校長)
児童 ⎜⎜ ほやきに,兵十はな。「おや」という とるやろ。ほやきんな,この時にな…(絶句し て,すすり泣き,ほかの子どもたちつぎつぎ泣 き出す。参観者も…。間)
教師 ⎜⎜ わかるでぇ びっくりしたん,わか るでぇ …この時のことばはつらいワー。「ご ん,お前だったのか 」
・感動体験
・ 感 動 の る つ ぼ」
になったと報告され ている。
・ 文学教育の極北」
感動の交流
80年代 ・「教育技術の法則化運動」(向山洋一) ・ 感動は教えられない」
・文章分析する道具・技術(視点,人 称,対比)。
・ディベート学習 分析批評 1997年 ・教育課程審議会の「中間まとめ」⎜⎜「文学的な文章の詳細
な読解」の否定
・文学教材偏重への 批判
ゆとり」
生きる力」
自分探し」
1998年 小・中学校学習指導要領」告示 ⎜⎜ 学校五日制 (平 14),時 間数削減を控えた教育内容の「厳選」,スリム化。「話すこと・
聞くこと」「伝え合う力」の登場。「総合的な学習の時間」
・文学教材の削減
・ 話 し こ と ば」教 材の増加
・「ごんぎつね」の学習 ⎜⎜ 本文を読むが,「詳細な読解」は せず,感じたことを伝えるために,影絵,朗読,紙芝居,絵 本,劇など多彩な表現手段の中から表現媒体を選択し,練習を 重ねて発表する。
・時間をかけて深く 読まず,表現活動の 材料にする
表 2 近年の教師用指導書における「ごんぎつね」の主題解釈 平成元年
(1989)
光村図書 民話的舞台を背景に繰り広げられるこの物語は,この世の人間関係 ⎜⎜ 善意の行動が結果とし て相手を傷つけてしまったり,死をもってしか心を通じ合うことができなかったという悲しさ
⎜⎜ を代弁するかのような感じさえ抱かせる。この「死をもってしか通じ合えなかった心の交 流の悲しさ」にも主題を求めることができようが,児童の発達段階としては,「心が通じ合うこ とは簡単なことではない」「それだけに何よりも大切にしなければならないことである」という
「心の交流」に主題を求めたい。
平成 4年 (1992)
光村図書 民話的舞台を背景に繰り広げられるこの物語は,独りぼっちのさみしさをまぎらわすために,
いつもいたずらばかりしていた主人公「ごん」が,自分と同じ独りぼっちになった兵十に,でき る限りの償いをしていくことを軸に展開する。
そんなごんの心情の変容は,読者に手に取るように理解できるが,もう一人の登場人物である 兵十には,まるで通じていない。そこで,兵十によってごんが撃たれるという悲劇的な結末を迎 えるわけである。
物語の構成から「死をもってしか通じ合えなかった心の交流の悲しさ」にも主題を求めること ができるであろう。が,児童の発達段階としては,「心が通じ合うことは簡単なことではない。
それだけに,何よりも大切にしなければならないことである」という「心の交流」に主題を求め ていくことが適切であろう。
平成 8年 (1996)
東京書籍 ごんはかわいそうだ。」というのが,読後の一般的な反応と言ってよいだろう。この物語は,読 み手が感情移入せざるをえない主人公である「小ぎつねのごん」が死ぬことで決着するのであ り,まぎれもなく悲劇だからである。日常的な読書であれば,そのままでもよいのであろうし,
それで外れているとは言えない。
国語科の「読解学習」としてこの作品を読む場合にはどうか。そこでは,例えば「ごんはかわい そうだ。」なら,「なぜ,かわいそうなのか。」という問いから出発して,「物語に書かれている,
…ということ,…ということから,かわいそうだと感じた。」と発表しなければならないだろう。
(中略) 学習を経た結果としては,「心を通わせたいと願い,そのためにとった行為が原因と なって,その相手に殺されてしまう悲しさ」,さらに抽象化するなら「理解し合うことのできな い悲しさ」などに至ることを目指すことになるだろうと考えられる。仮に,その他の「主題」を 立てたとしても,当然それは認められるべきであるが,根拠となる表現を探し,読みを深めてい くという学習の手順は同様である。さらに可能ならば,作者の表現上の工夫を味わったり,「し かけ」に気づいたりすることを考えたい。例えば,(中略) それまでごんの内部に入りこんで語 られてきた物語が,第六章では兵十に移っていることに気づかせようとするものである。このこ とによって,ごんは突き放され,「今まさに殺されようとするごん」の姿が浮かんでくることに なる。
平成 12年 (2000)
東京書籍 ごんはかわいそうだ。」というのが,読後の一般的な反応と言ってよいだろう。この物語は,
読み手が感情移入せざるをえない主人公である「小ぎつねのごん」が死ぬことで決着するのであ り,まぎれもなく悲劇だからである。日常的な読書であれば,そのままでもよいのであろうし,
それで外れているとは言えない。
国語科の「読解学習」としてこの作品を読む場合にはどうか。そこでは,例えば「ごんはかわ いそうだ。」なら,「なぜ,かわいそうなのか。」という問いから出発して,「物語に書かれてい る,…ということ,…ということから,かわいそうだと感じた。」と発表しなければならないだ ろう。(中略) 学習を経た結果としては,「心を通わせたいと願い,そのためにとった行為が原 因となって,その相手に殺されてしまう悲しさ」,さらに抽象化するなら「理解し合うことので きない悲しさ」などに至ることを目指すことになるだろうと考えられる。仮に,その他の「主 題」を立てたとしても,当然それは認められるべきであるが,根拠となる表現を探し,読みを深 めていくという学習の手順は同様である。
平成 14年
(2002) 東京書籍 ごんの兵十を慕う心,それを理解してもらえないつらさ,真相を知った兵十の後悔……。同様 の思いは,誰もが人生で経験することだ。子どもたちも,日常生活で直面したことがあるかもし れない。しかし,一読後の感想は,「ごんがかわいそう」でとまってしまいがちである。兵十に 対するごんの気持ち,ごんに対する兵十の気持ちの変化を,叙述にそって読み深めることを通し て,単にごんに同情するところから,「償いを続けることを通して心のふれ合いを求めたごんの ひたむきさ」や「死を通してしか理解し合うことができなかった悲しさ」を感じとれるようにし たい。そして,心と心のふれ合う喜びと悲しみについて考えたい。
また,表現上の工夫を味わえるようにしたい。「ひがんばなが,赤いきれのように」「青いけむ りが,まだ,つつ口から細く出ていました」など情景描写に色を使った表現に着目する。視点の 変化にも気づきたい。五章まではごんの内部に入り込んで語られてきた物語が,六章では兵十に 移っている。このことによって,ごんは突き放され,「今まさに殺されようとするごん」の姿が 浮かびあがるのである。
平成 17年
(2005) 東京書籍 村外れの山の中に独りぼっちですんでいる小ぎつねのごんは,村に出ていたずらばかりしてい る。あるとき,兵十のとっていた魚やうなぎを逃がしてしまうが,兵十のおっかあの葬列に出会 い,自分の軽率ないたずらを悔い,償いをしようと考える,同じ境遇の兵十への親近感を募ら せ,ひたすら償い続けるごんの姿に兵十は気づかず,家に入ってきたごんを銃で撃ってしまう。
土間に置かれたくりを見つけ,ようやくごんの気持ちに気づいた兵十の言葉に,ごんは目を閉じ たまま頷くのだった。
本教材は,独りぼっちの小ぎつねのごんが,かつて自分が困らせた兵十と心を通わせようと努 力しながらも,通わせ切れない切なさを描いた作品である。ごんは,改心に気づいてもらえず償 い続けた当人の銃弾に倒れ,死の間際に初めて本当の心が伝わったことを知る。伝わったときに はもう取り返しのつかない結末を迎えている二人の悲しさが胸に迫り,分かり合うことの難しさ とそれゆえの喜び悲しみを深く訴えてくる作品である。
言葉に着目した想像力が広がりを見せ,読書力も伸びる時期に,心に響くこの物語と出会うこ とは,読解力を更に豊かにしてくれよう。本教材は,優れた情景描写と細やかで素朴な語り口の 心理描写によって,児童でも物語世界や心情をつかみやすい作品だが,一読後の感想は「ごんが かわいそう。」など,一面的なものにとどまりがちである。じっくり読み深めることを通して,
ごんのひたむきさへの共感や死んでしまったごんへの同情など,ごんに対する思いのみにとどま らず,撃ってしまった兵十の驚きややり切れなさなども推し量れる感受性を育て,それを自己表 現に結びつけて人に伝える意欲をも高めたい。
Literature as teaching material and reading comprehension methods
⎜⎜focusing on narrative structure inʻGongitsuneʼ「ごんぎつね」(新美南吉)
NAKAMURA,Tetsuya
ʻGongitsuneʼhas been one of the most popular literal works as teaching material in postwar Japanese education. In this paper,I will exami ne several studies onʻGongitsuneʼas teaching material surrounding its interpretation,and pres ent the new method(strategy)for reading it focusing on its narrative structure.