• Tidak ada hasil yang ditemukan

PDF 『春と修羅』の読み方(1) - 福島大学

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2024

Membagikan "PDF 『春と修羅』の読み方(1) - 福島大学"

Copied!
6
0
0

Teks penuh

(1)

『春と修羅』の読み方(1)

  一修羅意識の基盤一

高  野  保  夫

1

 宮沢賢治の詩集にはすべて『春と修羅』 (第一 集から第三集まで)という題名がつけられている。

賢治があくまでも『春と修羅』にこだわったのは,

たしかに梅原猛が指摘するように,〈二つの世 界と,それをみつめる二つの心が、彼の詩の主題 であった〉mからだと言えよう。だが,第一詩集『春 と修羅』の詩風を第二・三集がそのまま引き継い でいるわけではなく,彼の詩風は晩年に向かうに

したがって現実的・社会的な傾向を強めていると 見ることができる。

 ところで,賢治のそれぞれの詩集の詩風主題・

思想の問題に入る前に,まず賢治の詩の概略につ いておさえておく必要があろう。

 賢治の詩は制作史的にみた場合 ふつう五期に 分けて考えられる。la

 第一期は詩集「春と修羅』以前。中学時代の短 歌制作時期から大正10年後半の短唱「冬のスケッ チ」制作の時期までである。

 第二期は詩集「春と修羅』時代。大正13年4月 刊行の詩集「春と修羅』所収の詩の制作期で、大 正11年から12年にかけてである。

 第三期は「春と修羅 第二集』時代。昭和2年 1月日付の序文まで付して発刊を予定していたが 未刊となったもので,大正13,14年がそれにあたる。

 第四期は「春と修羅 第三集』時代。第三集と 命名して集録した作品の制作時期で、大正15年か

ら昭和3年のほぼ前半にあたる。

 そして第五期は文語詩制作時代。つまり文語詩 制作を始めた昭和5年頃から没年までの時期であ

る。

 いまここでは,上にあげた制作史の中の第一期 から第二期にあたるところ,すなわち第一詩集『

春と修羅』の誕生の前後に注目をしたい。それは 言いかえれば,賢治の第一詩集の表題ともなった 詩篇「春と修羅」の中の〈おれはひとりの修羅な のだ〉に象徴的にみられる賢治の修羅意職が,「

春と修羅』成立の上でどのような役割をはたした のかという問題を考えることにもなるであろう。

この小論では賢治の修羅意識の背景・基盤を,彼 の20代前半の家業手伝いの生活や法華経との出会 いに求めながら考察をすすめていきたいと思う。

1

 「春と修羅』第一集の中に「修羅」という言葉 が見えるのは, 「春と修羅」, 「東岩手火山」,

「無声慟哭」の三篇の詩と「序」においてである。

三篇の詩はいずれも大正11年の日付をもつもので,

修羅の自覚がこの時期の生活と思想の中ではっき りしてきたことのあらわれでもある。そして同13 年1月の「序」においては, 「修羅」が時間的・

空間的に拡がり宇宙意識の中で把握されてきてい ることがわかるが,その自覚の道筋を時間的に湖 って考えてみようと思う。

 「春と修羅』成立以前に「修羅」という言葉が つかわれるのはたった一度だけで,それは大正9 年の友人保阪嘉内にあてた書簡の中でである。

   いかりがかっと燃えて身体は酒精に入った   様な気がします。机へ座って誰かの物を言ふ   のを思い出しながら急に身体全体で机をなぐ   りつけさうになります。いかりは赤く見えま   す。あまり強いときはいかりの光が滋くなつ   て却って水の様に感ぜられます。遂には真青   に見えます。 (中略)私は殆んど狂人にもな   りさうなこの発作を機械的にその本当の名称   で呼び出し手を合せます。人間の世界の修羅   の成仏。(大9.6〜7)

 この手紙はこの時期の賢治の精神の状態をよく 表現しているが, 「修羅」に限って言えば,自分 の心のいかりの状態を六道の中の一つ,の「修羅」

に見立てている段階にまだとどまっていると見る のがほぼ妥当であろう。小沢俊郎によれば,13〆修 羅」の命名は保阪嘉内から得た可能性があるとい

うが,推測の域は出ないと思われる。

 ところで,〈身体全体でなぐりつけさうになる〉

(2)

感情が,賢治の中に烈しく沸騰してくるのはなぜ なのだろうか。ときにく真青に見え〉るいかりの 本体は何なのであろうか。賢治の内部で烈しく突 き上げるものが,約半年後の大正10年1月の家出 上京の行動を促す要因になっていることは充分考

えられようが,そのいかりの心はどこから来るの であろうか。

 まず第一には,信仰の上で烈しく対立していた 父の存在であろう。 〈兄は父とは人生の根本まで つきつめて論じ,父の真宗の無気力を激しく非難

し,(中略)毎日、毎日、あんまりひどく争うので 母をはじめみんなで心配しました。ほかの親子も 親子というものは,こんなに争うものかと思った りしました。〉㈲と言う妹シゲの言葉が,その辺の 事情をよく物語っていよう。

 父子の対立のきざしは,すでに大正3年の上級 学校への進学についての争いに見られるが,その 時期の言動のすさみには山室静の言うように151 まだ多分に「自恣」がはたらいていたdだが大正8・

9年頃には,賢治のファナティックな法華経信岬 によって対立がいっそう激しいものになっていっ たように思われる。

   私の父はちかごろ毎日申します。「きさま   は世間のこの苦しい中で農林の学校を出なが   ら何のざまだ。何か考へろ。みんなのために   なれ。錦絵なんかを折角ひねくりまわすとは   不届千万。アメリカへ行かうのと考へるとは   不見識の骨頂。きさまはとうとう人生の第一   義を忘れて邪道にふみ入ったを。」お・,邪!道    0,JADO! 0,JADO!私は邪道を行く。

  見よこの邪見者のすがた。学校でならったこ   とはもう糞をくらへ。(大8.8.20前後保阪   あで)

 この時期の賢治が,彼の多くの友人の北米や南 洋への進出を,一種の羨望のまなざしで見ていた

ことは文面の中の〈アメリカへ行かうのと考へる

……rの言葉から読みとれる。質・古着商の店番 を続けなければはらないことへの不満,焦燥感,

絶望感などが賢治の内部で出口を見出せないまま にうず巻いていたと推測されるがそれは大正3年 の父子の争いとは質を異にしている問題であり,

賢治の青春における苦悩の一つの姿と見ることが できよう。栗原 敦が「詩人の宿命」161の中で,

この時期の賢治を先の書簡に触れながら次のよう にとらえていることに注目したい。

   たんに父子の対立という範囲にとどまらな   いで,同時に賢治の内面と社会・世間の価値   観との対立の表現でもあった(中略)賢治が   自分の父や世間に対して抱いた批判意識の拠   りどころは,精神的なもの,すでに固ってい   た彼の倫理感だったようである。 (中略)も   ちろん,自分の批判が現実的な基盤を持たな   いために,父に対しても世間に対してもたわ   ごとにしかならないことは,賢治自身が最も   痛切に感じていたことである。

 賢治が自分の生活を〈暗い〉(成瀬あて書簡)と感 ずるのは,自分の知識や技能を生かした道が見出 せないこと,友人が海外で大いに活躍しているの に対し自分は店番をみじめに続けなければならな いこと,肋膜に冒されて無理がきかないこと,父 や世間への批判の根拠が薄弱であること,信仰を めぐる父との争いは感情的になってしまうこと,

などが幾重にも重なり,自分ではどうにもならな くなっていることのあらわれと思われる。だから 次の書簡のように自分を烈しく責めたりもするの である。

   私はいまや無職,無宿,のならずもの,た   とへおやぢを温泉へ出し私は店を守るとして   も,岩手県平民の籍が私にあるとしても私は   実はならずもの ごろつき さぎし,ねぢけ   もの,うそつき,かたりの隊長,ごまのはひ   の兄弟分(大8.秋保阪あて)

 堀尾青史の略年譜は,大正9年を〈ひきつづき 陰気な家業に従い憂悶は破れんばかりとなる。排 悶の手段は仏教書の精読,浮世絵の蒐集,友への 手紙である。〉171と書き始めているが,大正8年秋 から翌9年にかけての賢治の法華経への打ち込み 方は一途なものがあった。それは先にあげたよう

な自分のいくつかの弱点に対する裏返しでもある。

   モット立チ入ッテ申セバ盛岡以来アナタハ   女デヒドク苦シンデヰラレダセウ。ソノ間私   ハ自分ノ建テタ願デ苦シンデヰマシタ。今日   私ハ改メテコノ願ヲ九識心王大菩薩即チ世界   唯一ノ大導師日蓮大上人ノ御前二棒ゲ奉り新   二大上人ノ御命二従ッテ起居決シテ御違背申   シアゲナイコトヲ祈りマス。

      (大9.7.22保阪あて)

   今度私は/国柱会信行部に入会致しました。

  即ち最早私の身命は/日蓮聖人の御物です。

  従って今や私は/田中智学先生の御命令の中

(3)

  に丈あるのです。謹んで此事を御知らせ致し   恭しくあなたの御帰正を祈り奉ります。

      (大9.12.2保阪あて書簡)

   絶対真理の法体 日蓮大聖人 を無二無三   に信じてその御語の如くに従ふことでこれは   やがて/無虚妄の如来 全知の正編知 殊に   も 無始本覚三身即一の/妙法蓮華経如来即   ち寿量品の釈迦如来の眷属となることであり   ます (大9.12.上旬保阪あて書簡)

   まづは心は兎にもあれ/甲斐の国駒井村の   ある路に立ち/数十人の群の中に/正しく掌   を合せ十度高声に/南無妙法蓮華経/と唱へ   る事です。(大10.1.中旬保阪あて書簡)

 大乗仏教とりわけ法華経に対する賢治の狂信ぶ りは,彼が置かれた境遇と切り離しては考えられ ないことは言うまでもない。排悶の一つは上に見 てきたように保阪への帰依をせまる多くの書簡で あり,もう一つは法華経の行者として立とうとす る決意である。大正10年1月中旬の保阪書簡の中 では前年の秋龍ノロ御法難六百五十年の夜,花巻 町を叫んで歩いたと言っている。家族とりわけ父 の目には賢治のファナティックな行動は苦々しく 映ったに違いない。堀尾の略年譜は〈信仰の念ま すます燃え,父への改宗を迫ったが入れられず,

これ以上の店番にも耐えられず,1月23日家出,

上京する〉と記し,賢治の国柱会への傾倒が,そ の頂点に達したことを伝えている。しかし,賢治 にとっては切実であり,精神的にはかなり追いつ められていたことは想像に難くない。さらに自分 の置かれた絶望的な事態からの必死の飛翔を試み,

法華経行者としての新しい生き方を生きようとし たこともそこに含まれていたように思われる。

   緑よ緑よ燃ゆる熱悩の涯無き沙漠今し清涼   鬱蒼の泉地と変ぜよ 焦慮悶乱憂悲苦悩総て   輝く法悦と変ぜよ。(大10.2.18保阪あて)

 賢治の上京後の生き生きした活動は,年譜その 他が詳しく記しているが,それはそのまま上京以 前の賢治の生活が,いかに悶々としたものであっ たかということの裏返しでもある。

 ところが,彼の願望の象徴であり実践の場でも あった国柱会での活動は,徐々に変質していく。

   二月某日,高知尾智耀より生業をもって大   衆の教えをひろめるのが純正日蓮主義の信仰   であると説かれ,文筆による布教を決意して   猛然と創作に励む。(堀尾「略年譜」)

 創作活動の開始は一方で,賢治の布教活動・伝 導生活の断念を意味するはずであり,そのことは 賢治の信仰生活のあり様を変えずにはおかない。

妹トシの病気による帰郷までの彼のエネルギッシ ュな創作活動は,高知尾の助言を受けての法華経 の世界の自己体現化の表れとも見ることができる が,客観的には国柱会への期待感を弱め,自立的 な歩みを余儀なくされたものといえよう。

 いずれにせよ賢治にとって,国柱会を根拠とし た生活の断念・変質は,飛び出したはずの家に再 び帰ることとあわせて,彼の思いを屈折したもの にしたのであり,そのことは斎藤文一が指摘する ように,一9自分自身を客体化し冷静に見ることを可 能にしたし,さらには,日蓮宗そのものの問い直し

を賢治に要請したはずである。

 賢治の中の修羅意識のめばえは,大9.6〜7 の書簡に見られることは先に触れた通りであるが,

彼が自分の精神状態を「修羅」と名づけることで 自己を相対化する方向へ一歩進んだと判断するこ とはまだ早いように思われる。自分の内部に烈し く沸騰するいかりの正体を見るためには,父との 関係のほかに,もう一つの存在が大きくかかわっ てくる。つまり,友人保阪嘉内である。賢治の修 羅意識の形成にかかわる,いわば第二の要因であ

る。

 賢治と嘉内は,盛岡高等農林時代の友人である。

この二人の関係がより強い糸で結びつけられるよ うになるのは,嘉内の高農退学処分以後である。

嘉内の退学の理由は,賢治たちと一緒に出してい た同人誌「アザリア第5号』に載せた「社会と自 分」の筆禍であると言われる。賢治がこのとき,

親友を案じて身辺を離さなかった『漢和対照 妙 法蓮華経』を贈ったことは,次の書簡に見える。

   保阪嘉内は退学になりました。けれども誰   が退学になりましたか。又退学になりました   かなりませんか。 (中略)南無妙法蓮華経と   一度叫ぶときには世界と我と共に不可思議の   光に包まれるのです。 (中略)どうかどうか   保阪さん すぐに唱へて下さいとは願へない   かもしれません 先づあの赤い経巻は一切衆   生の帰趣である事を幾分なりとも御信じ下さ   れ本気に一品でも御読み下さい。

      (大7。3.20)

(4)

 失意の友への手紙としては,文面からもわかる ようにやや押し付け気味で性急な感情が感じられ る。小沢俊郎も言うようにt9この手紙によって嘉 内の心が幾分なりとも救われたとはどうしても思 えない。そこに若い賢治の,一途で狭い信仰の姿を 見ることができる。

 大正8年から同9年にかけて,賢治が止むなく 家業を手伝っているとき,紆余曲折は多少あった が嘉内は農業人として故郷に根をおろすべく決心 していた。大正8年4月の成瀬あて書簡に見られ るように, 〈暗い生活〉を送っていた賢治にとっ ては,嘉内の存在はまぶしいものであったはずだ。

   あ・私のからだに最適な労働を与へよ。こ   の労働を求めて私は満ニケ年aからb,aか   ら。,つかれはててやっぱりもとのま・です。

  (中略)けれどももし,奇蹟のごとくにまこと   に奇蹟の如く,われは物を求むるの要なくあ   ・物を求める心配がなくなったなら,私は燃   え出す。本当に燃え出して見せる。見せるの   ではなく燃えなければならない。

       (大8.秋嘉内あて)

 賢治の〈本当に燃え出して見せる〉という言葉 は,後年の家出上京,国柱会での熱心な活動で裏 づけることになるが,この時期のこの言葉の背後 には,絶望的な境遇に置かれた賢治の悲痛な叫び のようなものが感じられるのである。

   すべてのものは悪にあらず。善にもあらず。

  われはなし。われはなし。われはなし。われ   はなし。われはなし。すべてはわれにして,

  われと云はる・ものにしてわれにはあらず総   ておのおのなり。 (中略)見よ。このあやし   き蜘蛛の姿。あやしき蜘蛛のすがた。〉

      (大8.8.20前後嘉内あて)

 この手紙は,嘉内が文部省主催の青年団農村指 導者講習会への出席を告げたときの返事として書 かれたものであるが,自分自身をさげすみ,責め る言葉が書簡の中に数多く見られる。猜忌の心も

〈あやしき蜘蛛〉などの言葉に読みとれよう。実 際には嘉内は賢治の忠告を無視して東京の講習会

に参加した。それを知った賢治は,

   あんなに破壊的な私の手紙にも乱れずあな   たの道を進むというあなたにを尊敬します。

  これ丈のことを申し上げたくこの葉書を差し   上げました。(大8.8.30嘉内あて)

と書いておくる。このことばく心ならずも店番を

続ける自分に比べ,嘉内の決然たる態度に引かれ たのであろう。㈹と小沢は読んでいるが,ここでは むしろ,〈賢治の法華経信仰と,嘉内の農村志向と,

ふたりの出会いの初めから潜在していたわかれ道 が,しだいに顕在化してくる〉1111その前兆と受け取 る方が自然であろう。

 このあと二人の身辺には生活上の変化が見られ るが,賢治の法華経への帰依を境に,嘉内に入信 をはたらきかける時期がしばらく続くのである。

それははげしい折伏になったり,哀願になったり

した。

   至心に合掌してわが友保阪嘉内の/帰正を   折り奉る。(大9.12.2)

   どうです,一諸に国柱会に入りませんか。

  一諾に正しい日蓮門下にならうではありませ   んか。 (中略)私が友保阪喜内,私が友保阪   嘉内,我を棄てるな。(大9.12.上旬)

   国柱会に入るのはまあ後にして形丈でい・

  のですから,仕方ないのですから/大聖人御   門下といふ車になって下さい。

      (大10.1.30)

 嘉内も賢治の強い働きかけを受けて入信を決意 したらしいが,結局は村にとどまる道を選んだ。

そして同年夏,賢治は嘉内との再会ののち,彼と の訣別を覚悟の上で悲痛な手紙を送る。

   或はこれが語での御別れかも知れません。

  既に先日言へば言ふ程間違って御互に考へま   した。然し私はそうでない事を祈りまする。

  この願は正しくないかもしれません。(中略)

  保阪さん。この経に帰依して下さい。(中略)

  この経の御名丈をも崇めて下さい。そうでな   かったら私はあなたと一諸に最早一足も行け   ないのです。(大10.7下旬)

 以後二人の文通はほとんど途絶えた。この二人 の別れは,賢治の法華経への性急な求道心から引

き起こされたものと意味づけることができる。自 己の絶対的なものへの信仰を他にも強要した結果,

二人の訣別という事態になり,以前から亀裂をみ せていたものはここで決定的なものになったので ある。創作活動に自己の新しい生き方を求めざる を得なかった国柱会での賢治の屈折した思いは,

友人との決定的な別れとも重なり,賢治の心には 深い孤独感・挫折感・喪失感が残されたのである。

賢治と嘉内の離別の意味について菅原・蒲生たち は,「銀河銀道の夜」の主題と重ねながら次のよう

(5)

に言フ。〔E

   銀河の旅の別れの意味は,単に生者と死者   との別れなのではない。同時にそれは,信じ   るものを別にした着たちの別れ,その悲しみ   をも微妙に暗示する。 (中略)ひとしき願い,

  その上に成り立つ親密な友愛に出発しながら,

  やがて思想と信仰とを異にしてしまった者の   止むなき別れでもあった。

 賢治にいま残された道は,大乗仏教の世界の文 学による体現化としての創作活動と,たった一人 で道づれもなく歩いていかなければならない信仰 の道だけである。賢治にもたらしたこれらの意味 するものは重く深い。友との訣別,国柱会活動の 変質,帰郷といった一連の事態の中で,賢治はお のれの存在についてあらためて考えなければなら なかったであろう。

 これらのことを抜きにして賢治の修羅意識の成 立はあり得ないはずである。自己の内部の修羅的 なものを「修羅」と名づける段階から一歩出て,自 己の存在そのものを相対化し,大きな時間の流れ の中でとらえ得たときはじめて,〈おれはひとりの 修羅なのだ〉という自己規定,自己発見が可能に なったのだと思われる。ただそのような自覚に至 るまで,賢治にはしばらくの時間が必要であった。

v

 「春と修羅』の冒頭の詩篇が起稿されるのは,

突然に家出上京したときからほぼ一年の後である。

その間妹の病気看病の理由で帰郷し,先に触れた ように短唱「冬のスケッチ」が書かれることにな る。賢治にとっての習作の時期である。

 信仰を等しくするはずであった友人嘉内との別 れ,自分一人だけで歩むことを余儀なくされた賢 治が,「春と修羅』の詩篇に托したものは何かを あらためて考えてみる必要があろう。

 「屈折率」 「くらかけの雪」が,賢治の詩人と しての出発点であることは認められるが,それが 境忠一の言うように,q3)〈東京から帰って,童話

を書き,詩形を確立しようとしていた賢治の孤独 な出発をあらわしている〉と安易に受けとるだけ では,賢治の内部世界にそれほど踏みこんだこと にはならないのではないだろうか。「春と修羅』の 作品一つ一つを詳しく読み進めることでそれに答 えることになろうが,いまここでは二,三の詩に 限定してその問いを考えてみることにし,修羅意

識の表れを検討することにする。

 〈七つ森のこっちのひとつが〉で始まる詩「屈 折率」が投げかけている問題は何か。

 この詩の底部には,これから自分一人で歩んで 行かなければならないのだという自覚と進み行く 世界への懐疑と不安が流れているといえよう。こ れから歩こうとしている周囲は明るいが,そこは 水のようにつめたく,しかも巨きい。詩人の胸を よぎるものは巨大なつめたい世界への不安であり 深い懐疑である。未来は手放しで明るい世界では ないし,自分が進もうとしているのは暗い雲の方 向なのだという自覚。それはちょうど法華経の行 者たらんとして自分の胸に暖めていた世界とは様 相を異にする世界である。そうであると自覚した とき詩人は決然とした態度をとるのではなく,な ぜ〈急がなければならないのか〉と自問するのであ

るσ

 したがって「屈折率」の詩人の内部に拡がるも のは,友との別れの悲しさ・哀しさであり,思い 屈した感情であり,再び故郷へ戻った苦い想いな のである。そして暗い雲の方向に足を進める詩人 にみるものは,頼りになるものは誰でもない自分 自身なのだという自覚であるが,その背後には孤 独・絶望・喪失などの感情が流れているし,信仰の あり方に即して言えば,折伏されるべき相手は他 ならぬ自分であるという自覚である。「気圏の成 立」㈲の中で斎藤文一の指摘する通りである。

 『春と修羅』の出発点をこのようにとらえるな ら,不安や懐疑を抱きながら歩むことを自覚した 詩人は,その意識の上でどのような展開をみせる のだろうか。

 〈おれはひとりの修羅なのだ〉と自己を捉えた

「春と修羅」においては,絶望・孤独・喪失など に裏うちされたのとは違った様相が見られる。修 羅の意識についてみるならば,まことの世界と対 比しながらく諸曲〉としての自分への嫌悪,まこ

とのことばを見失った状態に対する忿怒・焦燥・

苦悩などの表れを見ることができよう。〔151この詩 篇「春と修羅」では,自然と心象の〈二重の風景〉

の中で修1羅が意識されている。

 「春と修羅』の中で修羅意識がどのように成立 展開していくかについての考察は,今後の課題と したいが,『春と修羅』の中の一つの詩「蠕虫舞 手」に触れながら修羅意識への示唆を与える次の 文章に注目しておきたい。11日

(6)

   賢治は一介の「ぼうふら」を契機にしてい   たかもしれないが,彼が作品に描いたものは,

  想像上の,いのちあるものの苦しみの姿であ   る。 (中略) 「一見美しく見えるいのちある   ものの,その太古以釆の苦しみの姿」を主題   として提示したものである。

 以上, 『春と修羅』の修羅意識の成立の背景・

基盤を,賢治の信仰や友人との挫折体験とのかか わりで考察してきたが,その修羅意識が,どのよ うな展開を見せるかについてはあらためて考えて みることにしたい。       (1978−9)

   文   献

(1)梅原 猛「地獄の思想」 (1967)中央公論社P208

(2)奥田弘「国文学20巻5号」(1975)学燈社P128

(3)小沢俊郎「日本文学研究資料叢書高村光太郎・宮沢賢  治」 (1973)有精堂P206

(4)堀尾青史「年譜宮沢賢治」 (1966)図書新聞社P86

15)山室静「文芸読本宮沢賢治」(1977)河出書房新社  P30

(61栗原敦「言語と文芸第83号」(1976)桜楓社P111

(7)堀尾青史「文芸読本宮沢賢治」

18)斎藤文一「ユリイカ第9巻第10号」 (1977)膏土社,

 P162

19)小沢俊郎 前掲書 P201 1101小沢俊郎 前掲書 P203

111)菅原千恵子・蒲生芳郎「文学第40巻第8号」 (1972)

 岩波書店P40

(12)菅原・蒲生 前掲書P32

(13)境忠一「評伝宮沢賢治」(1968)桜楓社,P150

(1の 斎藤文一 前掲書 P164

(15)恩田逸夫「日本近代文学大系36高村光太郎・宮沢賢治」

 (1971)角川書店P249〜250

(16)菅野 宏「教育科学国語教育251号」 (1978)明治図

 書P10

How to Appreciate HARU TO SHURA(1)

     ミA Basis o壬SHURA Conscious6ess

Yasuo Takano

 SHURA Consciousness by Kenji Miyazawa is usually thought to be related with a world view in Buddihism and consisted of anguish, sorrow, irritation, anger and the like.

 The subject of this paper is to explain that his SHURA Consciousness is inseparable

from  his  belief and  setback  in  life.

 As a basis of his SHURA Consciousness, we will be able to point out the fonow

−ing facts:

 (1) His SHURA Consciousness comes from his hopeless future and Hokke−Kyo.

 (2) His painful experience  Zasetsu  compelled him to change his way of life and     belief.

 (3) He realized that he was only a trifling existence in the universe.

Referensi

Dokumen terkait

経営科学 第6回 6-1 2.2 種々のモデル これまで扱ってきたDEAで各事業体の効率と優位集合は分かりましたが、ここではその 他の機能について説明します。以下の分析実行画面を見て下さい。 図1 分析実行画面 オプションのところで、立ち上げた最初は「優位集合」のところだけにチェックが付いてい

「人魚」の実像考 民間伝承の中の「妖精」の正体について 九頭見 和 夫 I.は じ め に その体形が人間と魚との合体といわれる想像上 の動物である「人魚」は,古今東西を問わず様々 な文献に登場する。例えば,19世紀以降では,ア ンデルセンの童話「人魚姫」や太宰治の小説「人 魚の海」(1944年,『新釈諸国噺』所収)のような

軽総3〉 難文繍 難論灘 松川事件とは何か 一福島大学松擁資料を素材として一 伊 部 正 之 玉.はじめに 欝鱒年8肩に癌農桑下で発生した縫翅事件は, た1んなる一地方での 薙箪転覆事件にとどまらず, 戦後史のその後の展醗に重大な影響を与える一大 事件として,今謎なおさまざまに取箸上げられて いる。 さて.その松撰事件の璽場にほど遍い纏島大学

商学論集 箒鉦巻薦垂馨 欝欝年3月 【翻 訳1 日本のなかのローマ字 ユルゲン・ツイーグラー 神 子 博 昭 訳 は じ め に 文字は藤本では聾鍵紀に使われだし,それ以来工夫が重ねられてきた。まず中国の文字が賎・ま だ字のない饗本に移植され,・一重絶縁どかけて曇本誌の必要に応じ手を換えられていった縮むでぎ

48 福島盆地における土地利用 ♪ 一耕地作物の分布を主として一 渡 辺 四 郎 序. 3.地 形. b.環境としての都市的要素・ 1.耕 地. 鵠.水田. b.畑、 2.水田利用. 岱.水稻作. b水田裏作。 3.畑地利用. 巳.作物分布. b・園芸作物 4.むすび. 一地蚊区分一 序, 福島盆地の土地利用につのて講述し・それ

戦筆孝習における触書と被害の薮華寿 欝 戦争学習における加害と被害の扱い方 古俣智洋幅島大学大学駝教育学醗究科) 臼 井 嘉 一(娃会科教育〉 戦後灘奪以上経遍した今響でさえ戦争をめぐる様々な擬題が残っている。しかし,現在の若者慧戦争を退去の 塞来事としてとらえ,戦争羅題に麟して「ひとごと」のように考えたむ・無麗心である繧露揮ある。さらに・撫

138 福島大学教育学部論集第22号 1970−11 宋代応報説話の一性格 小 川 陽 は じ め に 中国近世の戯曲や小説には,因果応報・輪廻転 生の思想に支えられた宿命論的世界観が色こくた だよっている. 「万般皆是命,半点不由人一よ ろずみなさだめ,いささかもままならぬ」と口ぐ せのようにいわれ.人間は自己の意志を越えた運

― 58 ― まず全24項目に対して探索的因子分析(最尤法,プロマックス回転)を行い,「1つも高負荷5 となる因子がない項目」や「複数因子に対して高負荷となる項目」を1つ除去しては,再度探索的 因子分析を行うという作業を繰り返す。最終的に,「初期の固有値が1以上となる因子数」,「すべ