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PDF 14056097 08三宅 縦 - 福島大学

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(1)

︵二九︶

会 津 領 主 加 藤 明 成 改 易 を め ぐ る 諸 認 識 三   宅   正   浩

はじめに

  寛永二〇年︵一六四三︶五月︑幕府は︑会津若松四〇万石の領主加藤明成が病気を理由に領地返上を申し出たことを受けてその領地を没収︵改易︶した︒その原因をめぐって︑例えば新井白石の﹃藩翰譜﹄のように︑堀主水事件︵※加藤明成の家臣堀主水が︑加藤家を出奔した後幕府に訴訟し︑寛永一八年に堀主水の敗訴で決着した事件︒いわゆる会津騒動︒︶との関わりが近世以来指摘されてきている︒

  近代以降の日本史研究の分野においても︑戦前に斎木雪村氏が︑四〇万石に代えても堀主水を処罰したいと明成が幕府に申し出ていたことが原因であると述べ

いても堀主水事件を領地没収の主因として扱ってきている ︑現在に至るまで︑事典類や自治体史等にお 1

るいは原因の一つとする説も多い 津若松城の無断修築や︑苛政による百姓逃散等を︑領地没収の主因あ ︒一方︑会 2

されている状況である︒ 松城無断修築説︑C領内苛政説︑の三説を中心に︑諸説が様々に主張 ︒現状︑A堀主水事件説︑B会津若 3

  ところが︑史料的制約もあり︑ABCのいずれの説も︑後世の二次史料を参考としながら類推されているのみであって︑まったくといってよいほど実証作業はなされていない︒特にBについては︑明成による会津若松城の修築が本当に幕府に無断で行われたものであったかどうかすら史料的に実証されていない問題がある︒

  加えて︑これまでの諸研究の最も大きな問題は︑病気による領地返 上という﹁公式理由﹂を︑表面上の理由であって真の理由ではないと決めてかかっている先入観にあると考える︒

  笠谷和比古氏は︑大名改易の決定過程について︑秘密主義ではなく諸大名への事情説明を積極的に行って合意を取り付けていたことを解明した︒そして︑大名改易が幕府の既定の方針の実現としてある見方を問題視し︑大名統制における幕府の恣意性を否定している

る︒ みないのではなく︑むしろ積極的に評価しつつ検討していく必要があ 加藤明成改易の事情についても︑﹁公式理由﹂を表面上の理由として顧 ︒すなわち︑ 4

  そこで本稿では︑幕府の事情説明によるところの加藤明成改易過程を︑幕府側の記録に諸大名家の一次史料を組み合わせて分析して復元し︑その上で︑領地没収の原因をどう考えていくべきなのかについて︑従来の諸説の妥当性を考察しつつ︑見通しを述べることにする︒

一  加藤明成改易に至る過程   寛永二〇年︵一六四三︶五月二日︑領地没収の旨が加藤明成に伝えられ︑諸大名に対するその事情説明が翌三日に江戸城において行われた︒この三日の事情説明がいかなる内容であったのか︑複数の史料をつきあわせて復元していく︒

  まず︑幕府側の記録である﹁寛永録

りである ﹂に記されている内容は次の通 5

6

(2)

︵三〇︶    一︑加藤式部少輔事︑日頃病者ニ付而︑大地之仕置等不罷成之間︑会津領差上度旨︑達而訴訟ニ付而︑色々御穿鑿之処︑以誓詞右申上之趣無相違之由重而就令言上︑望之通り被仰付︑雖然父左馬助御奉公達テ茂仕ニ付而︑名字為相続被思召︑式部少輔嫡男内蔵助︑於石見之国壱万石被下之︑御目見御奉公茂可仕︑式部少輔者彼知行所令在住︑病気可致養生之旨也

  この内容は︑在江戸の国持大名二二名と譜代八名に伝達されたと記載されている︒

  次に︑この事情説明を受けた諸大名が記した史料として︑鍋島勝茂︵肥前佐賀三五万七千石︶・山内忠義︵土佐高知二〇万石︶・池田光政︵備前岡山三一万五千石︶のものを紹介する︒いずれも同じ内容を伝えているが︑内容の詳細さには若干の差異がある︒順に掲げる︒・﹁鍋島勝茂書状

7

   一︑昨日︑松平伊豆守殿より以御奉書被仰聞候ハ︑御用之儀候条︑

  御城罷出候様ニと御触付而︑諸大名不残登  城申候処︑御三人之御老中井伊掃部頭殿・土井大炊頭殿・酒井讃岐守殿・堀田加賀守殿︑其外各同座ニ而被仰渡候ハ︑加藤式部儀︑去年時分より御侘言申上候ハ︑其見病身之儀候故︑御奉公難成候条︑御知行之儀差上ケ申度由︑御老中迄数度被申上候付而︑被加御異見候へ共︑無承引︑当年東国衆  御暇前之儀候条︑当三月ニ右之段達而御老中へ申上︑別ニ存候子細も無之︑病者故如此申上候通誓紙を以被申上候付而︑其段被成  御上聞候へハ︑親ニ候左馬助︑関ヶ原ニ而致御奉公候付而御心安被  思召上︑会津へ被遣置候︑就其式部儀も御懇ニ被  思召上候処︑未年も寄不申ニ病者故御奉公不罷成由申上︑殊ニ家中ニも人無之故ニ候条︑会津之儀被召上候︑さ候て子ニ候内蔵助へ石見ニ而一万石被為拝領候条︑せかれ儀者御奉公申上︑名字を残申候様ニと被仰出候︑此段何もへ御聞セ被成候由被仰渡候︑式部儀も︑息内蔵助と一 所ニ石見へ可罷有由候・﹁山内忠義書状

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   一︑去三日朝︑御用之儀候間昼時分登  城可仕候由松平伊豆殿ノ奉書を以諸大名共へ就御触︑令出仕候処ニ︑ 上様ハ御表へ不被為  成︑御老中不残御出︑酒井讃岐殿・松平伊豆殿御両人を以被  仰出候ハ︑加藤左馬助事︑先年治部少輔逆心之砌就致忠功︑従権現様於与州御加増被遣︑其後従  台徳院様会津へ被遣候︑其筋目故︑左馬助跡職無相違式部少輔ニ被仰付候︑然処︑病者ニ罷成御奉公難成候間知行可令上表よし︑去年七月より訴訟︑其上重而七ヶ条之御誓紙御理申上候条︑無是非会津を被召上候︑世悴内蔵佐ニ於石見国御知行一万石被下候条︑内蔵佐ニハ尚々御奉公ニも罷出︑又者右之知行を以式部少輔を養候へとの  上意・﹁池田光政日記

9

   一︑御城へ諸大名被召上︑讃岐・伊豆両人シテ被仰聞候ハ︑加藤式部病者罷成︑其上仕置能可仕と主心ニ不存候条︑是非あいづ被召上可被下旨︑去七月より何もへ被申候へ共︑何も不申上︑三月十六七日比ニ御耳ニ立申候︑上意ニ︑左馬介関ヶ原ノ刻御加増被下︑其後相国様会津へ被遣︑其後左馬跡式部ニ被下候︑二三年已前家来申分候刻も︑式部りうんに被仰付候ニ︑年はいと申きつと御奉公可仕処ニ︑右之申分御ふしんニ被思召候由︑此中御せんさく被成候︑主きつと仕置仕︑御用ニ立可申と不存︑其上病者故気力も無之︑左候共家老ニ成共しかと仕たる者も候ハヽ可申付候へ共︑其も無御座候上ハ︑過分之御知行被下罷在候事︑盗人と存候︑此外別儀無之由せいしヲ仕上ケ申候︑此上ハ主申次第にと上意にて︑石見ニてせかれ内蔵介ニ一万石被下候︑式部ハ内蔵介知行所ニて養性仕候へ︑又内蔵介ハ折々御目見へにも罷出候へと被仰付候︑弟民部せかれ二本松被召上︑関

(3)

︵三一︶ 東ニて少御知行被下由︑此旨何もへ申聞候へと上意ニ候由被仰渡候︑掃部・大炊・かゝ・豊後・つしま其座ニ被居候   これら幕府側の記録および江戸城での事情説明を直接聞いた当事者︵鍋島・山内・池田︶の記録をつき合わせていくと︑詳細は煩雑となるので略すが︑結論のみを述べると︑問題となるような大きな齟齬はない︒そこで︑これらの史料に基づいて寛永二〇年五月三日の事情説明に至る経過を時系列に沿って整理すると︑次の通りとなる︒

  ①寛永一九年︵一六四二︶七月に加藤明成が老中に対して会津領返上を訴訟した︒②老中は家光に言上することなく明成を慰留したが明成は拒否︵﹁被加御異見候へ共︑無承引﹂鍋島勝茂書状︶︶した︒③翌年三月︑明成は誓紙を提出して再び領地返上を訴訟した︵﹁重而七ヶ条之御誓紙御理申上候﹂山内忠義書状︶︒その誓紙の内容は︑病気で気力がなく政務を執れない︑家老に適任者がおらず任せられない︑このまま領地を保有するのは家光に対して盗人同然である︑というものであった︵池田光政日記︶︒④③と前後して明成の訴訟が将軍家光の耳に入り︑家光が領地没収を決断した︒⑤会津領没収が五月二日に明成に伝達され︑三日に諸大名に対して江戸城で事情説明があった︒

  さて︑もしも︑明成に落度があって幕府が改易を企図し︑明成からの領知返上という形式を︵強制的もしくは半強制的に︶とらせたとするならば︑この事情説明は虚偽であったことになる︒

  笠谷和比古氏は︑この事情説明について︑﹁この自発的な領地返上という異様な事態に対して︑諸大名の疑念と動揺を鎮め︑幕府として領地収公の処置が如何ともしがたいものであったことについての弁明であり︑諸大名の了解を取り付けようとした行為であったと解釈するほかない を示す一次史料は存在しない︒ ﹂と述べている︒実際︑この事情説明の内容が虚偽であること 10

  幕府の事情説明と矛盾する史料としては︑﹁会津鑑

譜﹂に︑﹁或る記に曰く﹂として︑次のような文書が載せられている︒ ﹂所収の﹁加藤家 11      御改易御穿鑿之條々

   一︑於分国新関立事︑無其謂︑第一也    一︑家来吉利支丹多有之︑不穿鑿令訴舎事    一︑諸侍召使様為一人不致不足者無之事︑且対公儀不忠之事    一︑越後銀山出来候処︑号分国無故出入之事    一︑堀主水正数年進諫言処︑不承引︑剰依為罪科︑立遁鎌倉御所令蟄居︑至彼徒類令死罪︑不其耳︑鎌倉討手指遣︑理不尽令戒捕事︑右大将以来無其例事

   右悪逆︑一而咎因不可遁︑改易被仰付︑為堪忍分於石州一万石被遣者也      寛永二十癸未五月二日   ﹃会津若松史

あることは明白である︒ 幕府が自らの裁許を否定するものとなっていることからも︑偽文書で ている︵池田光政日記︶︒したがって︑この﹁御改易御穿鑿之條々﹂は は幕府である︒そのことは︑諸大名への改易事情説明の中でも言及し したことを咎めているが︑堀主水の訴えを退けてその処罰を命じたの 文書としては不自然である︒その上︑五ヶ条目で堀主水一類を死罪に 信憑性に疑問を呈しているが︑そもそも文章表現的にも当時の幕府の ﹄において小林清治氏がこの文書の内容を検討してその 12

  明成が領地を返上した経緯については︑確認できる史料から得られる情報の範囲では︑幕府の事情説明の通りと考えるしかない︒幕府側が明成改易を企図して︑明成に領地返上させた形跡が認められない以上︑まずは幕府の事情説明の内容を前提にして︑明成改易の背景・事由を考察していくべきであろう︒

  ただし︑﹁御改易御穿鑿之條々﹂は︑近世期にすでにある程度流布していたらしい︒例えば︑近世後期に米沢上杉家において編纂された﹁定勝公御年譜

をめぐり︑様々な憶測がなされたことを示唆している︒ ﹂に︑ほぼ同文の文書が載せられている︒明成の領地返上 13

(4)

︵三二︶ 二  加藤明成の立場と主張   加藤明成改易の背景・事由を考える前提として︑まずは︑領地返上以前の将軍家光と加藤明成の関係を押さえておく︒実は︑明成は家光のお気に入りであったことが確認でき︑少なくとも家光が明成を改易しようとしたとは考えにくいのである︒野口朋隆氏は︑加藤明成が家光の御咄衆として江戸城へ出仕していたことを述べ︑明成が﹁将軍権力に極めて近い大名﹂であったと指摘している

14

  領地返上以前の明成と家光の関係を確認するため︑﹃江戸幕府日記

からの特別待遇の事例をいくつか抽出していく︒ から︑寛永一七年︵一六四〇︶四月の江戸参府後の明成に対する家光 ﹄ 15

  明成は︑同年五月一四日︑家光が紀伊徳川頼宣邸に御成した際に三家や前田光高・毛利秀元と共に数寄屋での相伴にあずかっている︒同年九月一五日には︑品川に御成した家光の供をし︑再び三家らと共に茶屋での相伴にあずかった︒

  翌寛永一八年︵一六四一︶︑三月に堀主水が幕府に訴訟をおこして審議・裁決があったが︑それ以降も家光からの厚遇は変わっていない︒四月二五日に江戸城において勅使接待のための能が催されたが︑明成は毛利秀元と共に︑譜代大名に加えてその場に招かれている︒六月一四日にも︑譜代・毛利秀元と共に明成は知恩院門跡の﹁法問聴聞﹂に同席した︒

  翌寛永一九年︵一六四二︶にも︑九月一六日︑明成は三家・前田光高らと共に登城し︑増上寺での﹁万部御経﹂が完了した祝いを述べるなど︑家光からの特別待遇は変わっていない︒

  このように︑加藤明成は︑しばしば三家や加賀前田家と共に家光からの特別待遇を受けており︑同じく特別待遇を受けていた毛利秀元と同じく家光から厚遇されていたことが確認できるのである︒

  では︑明成自身は︑自己の立場をどう認識していたのであろうか︒ 次に示すのは︑加藤家に伝来した文書

の一部である︒ 16

   一︑祝言相極り︑式部少輔拾壱ニ罷成候年︑左馬助召つれ大坂へ罷越︑目見をいたさせ︑大坂より伏見へ罷上り︑式部少輔ニ付置候寺川久右衛門︑私せかれにて候へ共︑二人を指置左馬助申候ハ︑主儀ハ太閤御取立之紛無御座候︑其方儀ハ上様之御つめのはしもよこし候間︑秀頼御目見前後唯今初ニ而候︑此已後大坂之地へ船をも付申間敷候︑直ニなから川より可罷上候︑殊ニ大坂ニ居候衆より書状之取かわしも致間敷候と申ニ付而︑大坂御陣之御供ニ参候迄ニ御座候︑其段大坂ニ居申者共ニ御尋可被成候︑万事上様をハ大事ニ奉存候式部少輔儀ハ︑世間之取沙汰御耳ニ悪敷立候ヘハ︑不届者と御上意も可有御座候︑又︑御取立之式部少義ニ而御座候間︑所をも上ケ候ハヽ︑万事仕置等御前ニ御沙汰も可有御座候間︑責而御目不違候様ニと奉存︑か様ニ罷成候︑又忰内蔵助儀者︑御旗本ニ被為置︑左馬助孫ニ而御座候間︑何様ニも被仰付被召仕被下候ハヽ︑誠ニ可申上様も無御座候︑右申上通被存候衆も可有御座候︑偽りを申上候ハヽ︑何様ニも可被仰付候 記載され︑引用部分に続く︒ の上意があり︑嘉明の子︵明成︶を家康の婿とする旨が伝えられたと 康から嘉明に﹁御代続候間ハ左馬助子孫ニ被為対悪敷被成間敷候﹂と たかを強調している︒そして︑関ヶ原合戦の翌年に伏見城において家 家康に対する忠功を詳述しており︑家康の勝利にいかに嘉明が貢献し 文書全体の大部分では︑関ヶ原合戦の際の加藤嘉明の活躍︑特に徳川 する︒かなり長文の文書であり︑引用したのはその最後の部分となる︒ と呼んでいることなどから︑加藤明成が記したものであることが判明 宛先・年月日を欠くが︑文中で﹁忰内蔵助﹂と︑内蔵助=加藤明友を﹁忰﹂   ﹁覚﹂で始まるこの文書︵以下︑﹁加藤明成覚書﹂とする︶は︑差出・

  引用部分では︑一一歳の明成が嘉明に連れられて大坂城で豊臣秀頼

(5)

︵三三︶ に目見した後は︑嘉明の命によって大坂方とは縁を絶ち︑徳川将軍に忠義を尽くしてきたことを述べ︑﹁上様﹂=家光を大事に思う明成としては︑﹁世間之取沙汰﹂が家光の耳に入れば明成が家光から叱られるかもしれず︑家光に取り立てられた明成としては︑領地を返上して家光に支配してもらうことによって︑︵明成を取り立てた家光の︶眼鏡違いにならないようにしたいと述べている︒そして︑嘉明の孫である息子明友は︑家光の側に置いて召し仕ってもらいたいと願い︑以上述べたことに偽りはないと結んでいる︒

  以上の内容から考えて︑﹁加藤明成覚書﹂は︑明成が幕府に対して領地返上を申し出た寛永一九年から翌二〇年︵一六四三︶の改易に至る過程において︑明成が幕府に提出した文書の下書き又は控えと考えられる︒﹁か様ニ罷成候﹂と︑すでに領地返上は申し出た後と読める表現があり︑最初に領地返上を申し出た際のものではなく︑その後の幕府との交渉中のものであろう︒この文書の内容からは︑幕府の事情説明の通り︑領地返上を申し出た明成に対して︑幕府は思いとどまるように慰留していたことが推測できる︒それに対して明成が︑父嘉明の忠功を強調しつつ︑家光のためを思って領地返上を申し出ていることを再度言上したのである︒

  ここまで述べてきた領地返上以前の家光と明成の関係︑明成の主張からは︑幕府が明成に領地返上を促した︵強制力をはたらかせた︶ふしはうかがえない︒やはり︑明成の領地返上の申し出は︑明成が自発的に行ったと考えるのが妥当であろう︒

  では︑明成が自発的に領地返上を申し出た理由は何であったのか︒幕府の事情説明によれば︑明成が病気で気力がなく政務を執れず︑家老に任せられる人物もいないからとされている︒

  明成が領地返上を申し出た寛永一九年に病気であったことを示す史料は管見の限り見当たらない︒ただ︑明成が寛永一七年に江戸に参府して以降︑寛永二〇年の改易まで一度も国元会津に帰国していない事 実

病気が理由であった可能性は高いのではなかろうか︒ いた︒それにもかかわらず︑明成は江戸に在府し続けていたのである︒ 饉︶︑諸大名は幕府からの指示もあって帰国して飢饉対策に取り組んで 寛永一九年から翌二〇年にかけては全国的に飢饉状況にあり︵寛永飢 は︑明成が病気であったことを示しているのかもしれない︒この間︑ 17

  明成が︑政務を任せられる家老がいないと主張したとされる点についてはどうであろうか︒これまた直接的な証拠を示す史料は見当たらないのであるが︑明成と重臣の関係が動揺していたことは堀主水事件が象徴しており︑その動揺が事件落着後も継続していた可能性はあろう︒明成の領地返上が堀主水の処罰と領地を引き替えにしたものであるという俗説は否定されるべきであろうが︑堀主水事件が象徴するような加藤家における君臣関係の動揺が︑領地返上の一つの理由であったのかもしれない︒今後︑史料の発掘によるさらなる考証が必要であろう︒

三  加藤明成領地返上行為に対する諸認識   前章で紹介した﹁加藤明成覚書﹂では︑領地返上の理由として︑﹁世間之取沙汰﹂が家光の耳に入って明成が﹁不届者﹂とされたのでは︑明成を取り立てた家光の眼鏡違いということになり家光に迷惑がかかるから︑と述べられていた︒実際に明成の評判が悪かったのかどうかは未詳であるが︑明成は世間の評判を気にしていたようである︒このことに関連して次のような史料

がある︵※便宜上︑丸数字を付した︶︒ 18

  

  ︵尚々書略︶   ①一筆言上仕候︑私儀今月二日ニ罷上り候︑御前様石見より爰許へ御越被成候儀︑誠ニ目出度奉存候︑私儀十方無御座候ニ付而︑自然石見ニ御父子様なから御座被成儀も可有御座かと奉存候而︑是のミ迷惑ニ存候へ者︑御上り被成候儀︑目出度御事ニ奉存候

(6)

︵三四︶   ②一︑若松御上ケ被成候刻︑私罷上罷帰候節︑路次にて恒川又右衛門ニ私申候ハ︑式部少様ハ所をも御上ケ被成候︑御前様ハ御如在無御座候間︑若爰元ニ無御座︑式部少様と御一所ニ何方へも被遣候ハヽ︑権現様・台徳院様︑左馬助様御忠節之段私存仕候間︑私壱人罷出︑上様へ御目安ヲ上ケ︑何様ニも可相果と存候間︑其段又右衛門聞置候へと両度迄路次にて蒙御勘当申なうも御座候へ︑右之通ニ申聞置候間︑定而忘申間敷と奉存候

  

  ︵中略︶   ③一︑私儀︑爰元早々罷上り度存候へ共︑せかれおい共捨罷上り候も不便ニ奉存︑右之仕合ニ御座候︑又御前様御上洛之究りも承届可罷上と奉存︑たゝ今まて逗留仕候︑万事被懸御心御せひ不被成様ニ御奉公被成候様ニと︑乍恐御尤ニ奉存候︑世間之取沙汰も式部少様御仕置御家中の御あてかいもよく御座候由︑取沙汰御座候︑御殿中にても右之通御沙汰御座候ニ付て︑何より以目出度奉存候

  ④一︑八ら様御事︑︵中略︶御前様御はたもとニ御座被成候ハヽ︑以来何共可被成候間︑此御ひめ様御捨不被成候様ニ御分別御極候様ニと奉存候︑此御子様悪敷被為成候へ者と存仕︑涙ヲなかし申上候間︑御分別御肝要ニ奉存候︑御前様御噂も一段と御殿中にてもよく御取沙汰御座候由承候間︑先以目出度奉存候︑此等旨趣御披露所仰候︑恐々謹言守岡閑栖      十月二日︵花押︶     毛利九郎兵衛殿

  加藤明成の重臣であった守岡閑栖︵主馬︶が︑同じく加藤家家臣の毛利九郎兵衛に宛てた書状である︒毛利九郎兵衛は︑改易前には明成の嫡男明友付きであり︑改易後も明友に仕えて江戸または石見にいたと思われる︒この書状に年代記載はないが︑冒頭の①の部分で︑﹁御前 様﹂が石見より﹁爰許﹂へ来るとあり︑もしや石見国に﹁御父子様﹂︵明成と明友︶が共に居続けるのではないかと案じていたがそうではなくめでたいと述べている︒文脈から︑﹁御前様﹂=明友であり︑﹁爰許﹂=江戸であると判断できる︒明友は︑寛永二〇年︵一六四三︶六月一二日に初めて石見国への暇を賜り

戸にいたことが確認できる ︑石見国へ赴いたが︑翌年四月には江 19

代比定でき︑改易から五ヶ月後に記されたものということになる︒ ︒したがって︑この書状は寛永二〇年に年 20

  ②の部分は︑守岡と恒川又右衛門が寛永二〇年四月一六日に明成の招請に応じて江戸に赴き︑同月二八日に会津に帰国した

され︑国元の重臣たちには事後に伝えた可能性を示唆している︒ 恒川に語ったとする︒明成の領地返上申し出は︑江戸の明成主導でな 馬助﹂︶の家康・秀忠に対する忠功を幕府に訴える決意を帰国の道中で 明友も明成と共に江戸から追放されるようなことがあれば︑嘉明︵﹁左 べている︒江戸において明成から領地返上の件を聞かされた守岡が︑ 際のことを述 21

  ③の部分の後半では︑守岡が﹁世間之取沙汰﹂について述べており︑明成︵﹁式部少﹂︶の仕置や家中への宛行について︑世間の評判はよい︵悪くない︶ことを伝え︑江戸城内での評判も同様であると述べている︒加藤家家臣が世間の評判を気にしていたことがわかり︑世間の評判を気にして領地返上を申し出たとする明成の主張と共通していることは︑非常に興味深い︒加藤家側に︑領内支配と家中統制に関して世間の評判を気にするような実情なりがあったのか︑それとも実際に加藤家にとって芳しくない噂が流れた事実があるのか︒領地返上の理由との関連が推測される︒

  ④の部分の末尾においても︑江戸城中における明友の噂がよいことを述べており︑③の部分と合わせて︑加藤家としては︑改易後の評判が非常に気がかりであったことが確認できる︒

  それでは︑実際︑加藤明成の領地返上申し出を受けた改易は︑諸大名たちにはどのように受け取られたのか︒

(7)

︵三五︶   まず︑改易の事情説明を聞いた鍋島勝茂は︑﹁式部気替にても候ハん哉︑苦々敷儀と下々批判尤候 申候哉︑天罰人罰共ニ相あたり候や︑ためしすくなき事ニ候 被召仕候家来之者共迷惑ニ及はせ被申候哉と諸人申事ニ候︑気違と可 義は︑﹁式少輔事︑何たる分別にて右之通御訴訟被申上︑子息又者久々 いることに同意を示している︒また︑同じく事情説明を聞いた山内忠 成︵﹁式部﹂︶の心境を訝しみ︑明成の領地返上行為を世間が批判して ﹂と述べている︒領地返上を申し出た明 22

少ないことだと結ぶ︒ 罰人罰﹂があたったのか︑と勝茂同様訝しみ︑このような行為は例が いることを述べ︑忠義は︑明成の行為に対して︑気が違ったのか︑﹁天 息や家臣たちに迷惑をかけることになったのかと世間の人々が噂して ている︒いったい何を考えて明成︵﹁式少輔﹂︶が領地返上に及び︑子 ﹂と述べ 23

  明成の領地返上行為が当時の常識を大きく外れた行為であり︑そのために世の人々が︑その事情を様々に訝しんだことが判明する︒当時︑例えば細川光尚︵肥後熊本五四万石︶が慶安二年︵一六四九︶の死去に際して跡継ぎが幼いことを理由に領地返上を申し出た例などはあるが︑明成の場合は︑自身は壮年であり︑世子明友も成人して幕府から認定済みであり︑そのような状況で領地返上を申し出たことが︑多くの人々同様︑鍋島勝茂や山内忠義にとっても信じがたいことだったのだろう︒

  こうした事情だったからこそ︑笠谷氏も指摘するように︑諸大名の同意を取り付けるための幕府の改易事情説明は詳細を極めたものになったと理解できる︒

  しかしながら︑それでもなお︑明成の常識外れの領地返上申し出をうけた改易は︑諸大名を驚かせ︑世間に様々な憶測を呼び︑それを加藤家側も気にする状況が生まれていたのである︒このあたりに﹁御改易御穿鑿之條々﹂のような偽文書が出回る素地があったといえよう︒ おわりに

  ここまで︑限られた史料をもとに加藤明成の改易事情を考察してきた︒これまで述べてきた内容をふまえ︑はじめに紹介した現在多く主張されている明成改易の理由について再検討を加えていく︒

  まず︑A堀主水事件説について︑堀主水の処罰と引き替えに領地を返上したという俗説は︑事件から二年を経て改易となったことからも従来から疑問が呈せられてきたが︑これまで考察してきた通り︑堀主水事件と領地返上の直接的な関係を示す痕跡はまったくない︒むしろ︑明成改易後に両者が結びつけられて流布するようになったのだろう︒

  もっとも︑堀主水事件が象徴するような加藤家における君臣関係の動揺が︑明成領地返上の理由の一つであった可能性は残る︒このことを今後明確に区別して認識しつつ考えていく必要があろう︒

  次に︑B会津若松城無断修築説については︑本稿で述べてきたように明成の領地返上を幕府側が促したふしはなく︑無断修築が咎められた︑あるいは問題化した事実は確認できない︒この説は明らかな誤りである︒そもそも本当に明成の会津若松城修築が幕府に無断で行われたのかどうかを確かな史料を用いて検証することも今後の課題となろう︒

  最後に︑C領内苛政説について︑これまた幕府と加藤家の間で領内苛政が問題化した形跡は認められない︒先述したように寛永十七年︵一六四〇︶以降︑明成は江戸に在府し続けていて国元に帰国していない︒苛政が事実であったとしても明成が直接主導したものではないし︑苛政が幕府に咎められた事実も確認できない︒

  ただし︑明成は病気で領内支配ができないことを領地返上の理由として述べており︑寛永飢饉の最中︑加藤家の領内支配が上手くいっていなかった可能性は残る︒さらにその領内支配の動揺が世間の噂となっていた可能性もある︒それが︑明成が自発的に領地返上を申し出た理

(8)

︵三六︶

由の一つと考えられるかもしれない︒

  以上のように︑これまでの諸研究で主張されてきた明成改易の理由については︑ほとんどが否定ないし修正されるべきというのが本稿の結論である︒加藤明成改易は︑明成の自発的な領地返上申し出によるものと考えるべきである︒そして︑その領地返上申し出の背景としては︑明成の病気︑家臣の︵明成の認識によるところの︶人材不足︑そして世間の評判への懸念︑があったと考える︒ただ︑明成改易の真相解明をこれ以上深めることは史料的に難しいと思われるし︑そこに大きな学問的意義があるとも思えない︒

  むしろ︑明成改易の理由をめぐって様々な諸説が︑改易直後から偽文書の創作も含めて流布し︑近世中期以降の認識や近代史学に与えた影響の大きさこそが︑注目に値するだろう︒この問題は︑明成改易の真相解明以上に︑重要なのではなかろうか︒︵二〇一四年十月八日受理︶

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(9)

︵三七︶

Views on the Confiscation of the Aizu Territory from the Feudal Lord Akinari Kato

MIYAKE Masahiro

In 1643, feudal lord of Aizu Akinari Kato forfeited his territory. This depends on Akinari’s proposal of return the territory and is not what the Shogunate aimed at. However, after the confiscation of the territory, too many views on this reason conflicted with each other. Therefore, it is necessary to think about the influ- ence of this case on the basis of a clear understanding of a historical fact.

Referensi

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