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船上における不正と管理
はじめに
歴史学の近年の傾向を見た時,これまでのよ うに陸上で展開された様々な事象を分析する歴 史学,換言すれば「陸の歴史」と表現できるこ れまでの歴史学の姿に偏らず,新たに海あるい は大河を介して繰り広げられた歴史, つまり
「海の歴史」の観点を加味することにより,歴 史学に新たな視座を提供する試みが加速してい ると言える。こうした動きは,アナール学派の 代表的な研究者であったブローデルが地中海世 界の変化を描き出した大著『地中海 』1 )を刊行 したことを端緒として歴史学者の間に浸透し た。ブローデルによる「地中海世界」観を嚆矢 とした様々な研究成果は,地中海の分析にとど まらず, 北大西洋やインド洋など世界各地の
「海の歴史」が描き出されることを促進し,現 在では海域史や海事史は歴史学の重要な柱のひ とつと言える分野になった。そうした世界的な
1 ) フェルナン・ブローデル『地中海』1 ~ 5 (浜名優 美訳),藤原書店,1991-1995年.(Braudel, Fernand, La Méditerranée et le monde méditerranéen à l’époque de Philippe II, 1949)
歴史学の流れは,少し遅れて日本の歴史学会に も影響を及ぼすようになり,現在では多くの研 究者が自らの研究に取り組みながら様々な形で 発展し続けている2 )。
2 ) アトランティ ック・ ヒストリーの第一人者である ベイリンの著作は和訳版が刊行されるまでに時間 は長くかからなかった。バーナード・ベイリン『ア トランティック・ヒストリー』(和田光弘,森丈夫 訳)名 古 屋 大 学 出 版 会,2007(Bailyn, Bernard, Atlantic History: Concept and Contours, Harvard University Press, 2005.);また,奴隷貿易の「現場」
たる奴隷船の上ではどのような人たちがどのよう に奴隷貿易業務を遂行し, またその犠牲となった のかを詳細に明らかにしたレディカーの研究も,
近年和訳版が刊行された。 マーカス・ レディカー
『奴隷船の歴史 』 みすず書房,2016年(Rediker, Marcus, The Slave Ship: A Human History, Viking, 2007.); そのほか, フランス船舶の海事活 動に関する研究としては, 国内最大の奴隷貿易港 であっ たナントの「船舶艤装申告書」を利用し,
史料の欠落を理由として研究史から抜け落ちてい た18世期前半におけるナントの海運業の特質を実 証的に明らかにした大峰真理「18世紀前半フラン ス・ ナントの海運業: 史料「船舶艤装申告書 」 を 手掛かりに」『社会経済史学』第79巻第 1 号,2013 年,63-83頁;海からの視点を加え,ウォーラース テインの近代世界システムを捉え直した玉木俊明
『海洋帝国興隆史:ヨーロッパ・海・近代世界シス テム』講談社,2014年;海と共に生きる様々 な キーワード
王立アフリカ会社(Royal African Company),奴隷船(slave ship),エージェンシー問題(Agency problem),機会主義的行動(opportunistic behavior),大西洋経済(Atlantic economy)
《論 文》
船上における不正と管理
―17世紀イギリス王立アフリカ会社の奴隷船の事例から―
長 澤 勢理香
Agency problems onboard slave ships of the Royal African Company SERIKA NAGASAWA
た奴隷船とその船長の行動に焦点を当てる。
RACは, その前身となる王立アフリカ冒険 商人会社(the Company of Royal Adventurers Trading to Africa) が1667年に破産したのち,
1672年に新たな王室特許状が与えられて設立さ れたアフリカ貿易の独占権を持った組織であ る。イギリス史上初めて本格的に継続した奴隷 貿易事業を進めたRACは, 喜望峰以西におけ るアフリカ貿易に従事し,その貿易の中心は奴 隷貿易であった。組織の本部はロンドンに置か れ,遠く大西洋上では貿易を遂行する実務者た ちに大きく依存せざるを得なかった。したがっ てロンドン本部にとっては,現場の実務者をど のように管理あるいは自由を認めるかが経営 上,大きなテーマであった。とくに奴隷船上で 展開した本部による管理と,船長をはじめとし た乗組員たちの目論見は,「海の歴史」そのも のであった。こうした「海の歴史」を,一次史 料を駆使して検討することが本稿の主たる目的 である。
イギリスの海外貿易が質的にも量的にも大き く変化した17世紀以降,長距離貿易と世界市場 の形成は「帝国」の成長の原動力であった。そ れまでイギリスの貿易の多くを占めていた大陸 ヨーロッパ諸国との近距離貿易は次第にその比 率を下げ,新世界地域との遠距離貿易を中心と した構造に変化した4 )。 本稿で取り扱うRAC は,間違いなくその渦中にあった経済主体のひ とつであった。
こうした役割を担っていたRACについては,
Davies(1957),Galenson(1986),Pettigrew
(2013) などにより, それまで断片的にしか理 解されてこなかった同社の全体像が徐々に明ら かにされてきた5 )。 他方, 組織全体の隅々ま
4 )Davis, R., “English Foreign Trade, 1660-1700”, The Economic History Review, Vol.7, Issue2, 1954, pp.150-166; id., “English Foreign Trade, 1700-1774,”
ibid., Vol.15, No.2, 1962, pp.285-303; id., The Industrial Revolution and British Overseas Trade, Leicester University Press, 1979.
5 )Davies, K. G., The Royal African Company, New その中でもとくに近年の日本で「海の歴史 」
の世界を鋭く分析している研究者として金澤周 作氏を挙げることができる。
金澤氏はイギリス史の 3 つの「二重性」を超 える可能性として「海の歴史」の効用を指摘し ている3 )が, ここで言う二重性とはすなわち,
「微視的/巨視的,陸的/海的,強い/弱い」と いった 3 つの対極的な視点から語る歴史像であ る。すなわち,伝統的にイギリス史は「国ある いは帝国という枠組みで, 陸地を中心とした,
勝利の物語」として語られてきたというのだ。
そして歴史学におけるこれらの二重性による分 断を乗り越えるために,海の歴史は有効だとい う。なぜなら,海というテーマこそ,二重性の 両端に見出すことができるものだからである。
このことは,イギリスの大西洋貿易の成長の礎 を築いた奴隷貿易についても同様であろう。大 西洋というきわめてグローバルな枠組みにおい て,ローカルという以上に局所的で閉鎖的な船 上で何が起こっていたかを描き出せるところ に,新たな可能性を見ることができる。
このような背景のもと,本稿ではイギリス王 立アフリカ会社(the Royal African Company of England, 以下RAC) の奴隷貿易に従事し
人々,とくに船にまつわる人々を「海民 」として 彼らが「海のリテラシー」 を身につける過程を明 らかにすることで, 経済史だけでなく文化史的な 視点からアトランティ ック・ヒストリーを捉えた 田中きく代, 阿河雄二郎, 金澤周作編『海のリテ ラシー:北大西洋海域の「海民」の世界史』創元 社,2016年;ボストン船の貿易構造や貿易を担う 船乗り当人たちを取り巻く環境の実態を経済的,
社会的,文化的な視点から掘り起こした笠井俊和
『船乗りがつなぐ大西洋世界:英領植民地ボストン の船員と貿易の社会史』晃洋書房,2017年;レディ カーが「移動する監獄」 とも形容した奴隷船を主 題とし, 大西洋奴隷貿易の始まりから廃止, そし て現代にいたるまでの歴史を捉え直し, 資本主義 の一側面を明らかにした布留川正博『奴隷船の世 界史 』 岩波書店,2019年など日本でも海にまつわ る研究書の刊行が相次いだ。
3 ) 金澤周作編『海のイギリス史: 闘争と共生の世界 史』昭和堂,2013年,5-16頁.
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船上における不正と管理
ドン本部の指示よりも自身の利益を優先させる 行動をとると, エージェンシー理論では考え る。この考えのもと,船長が引き起こしたとさ れる船上での不正行為の実際の事例を検討した い。 まず,RACの奴隷貿易および奴隷船の船 長の労働条件と置かれていた環境を概観し,次 にエージェンシー理論にもとづいてRAC組織 について考える。そして最後に,奴隷船内で起 こった実際の不正行為の事例をもとに,RAC が直面した困難を考察する。
その結果として,イギリスの「海の歴史」像 にRACの事例から新たな一側面を加えたい。
2 .RACの奴隷貿易と船長
ここでは,RACによる奴隷貿易の構造や規 模について概観したのち,船長の待遇や置かれ ていた状況を考えてみたい。
現在公開されている奴隷貿易データベース
(Transatlantic Slave Trade Database)6 )には,
RACをオーナーとして1668~1731年までの間 に行われた奴隷貿易航海の情報が,少なくとも 653件収められている。図 1 はそれら653件の年 次航海数の推移を示している。 名誉革命で ジェ ームズ 2 世が追放されて以降,RACの貿 易独占権は揺らぎ始め, グラフが示すように 1690年代には航海数が減少した。 輸出額の10 パーセントをRACに納めることで個人商人の 合法的アフリカ貿易参入を可能としたいわゆる 10パーセント法が1698年から1712年まで続き,
その間はわずかにRAC船の航海数が回復した。
一見すると独占貿易体制が部分的に崩壊したこ とになり,RACの航海数は急落してもおかし
6 )Transatlantic Slave Trade Database(https://
www.slavevoyages.org);大西洋奴隷貿易の全体像 を把握するために非常に有用なデータベースがオ ンラインで公開されている。 布留川正博氏はこの データベースプロジェクトの成り立ちを整理し,
その歴史的意義を明らかにした。 布留川正博「大 西洋奴隷貿易の新データベースの歴史的意義」『同 志社商学』第66巻第 6 号,2015年,1,073-1,090頁.
では未だ議論が十分になされてきたとは言い難 い。 上述のようにロンドンにはRACの意思決 定機関があり,これは様々な事案が株主総会や 理事会で議論された組織本部であった。これに 対して,奴隷の調達地である西アフリカ沿岸部 や奴隷の販売地である西インド諸島に置かれた RACのファクターあるいはエージェントと呼 ばれる取引人,加えて本稿が焦点を当てる奴隷 船の船長は,組織本部からの指示を実行する代 理人として理解できる。 これらの代理人たる 人々が,本部からの指示に従って奴隷貿易のい わば実務を行なっ ていたのにもかかわらず,
RACの組織的なネットワークや仕組みについ ての研究はいまだ発展途上である。そこで本稿 では, エージェンシー理論の観点から,RAC 奴隷貿易の大西洋を横断する人的ネットワーク の状況と管理について論じる。
組織の中では情報の非対称性や利害の不一致 が発生することはよく知られている。遠隔地間 の情報伝達や業務報告にタイムラグが生じてい た近代の長距離貿易において,RAC本部と現 場で航海中の船長の間には情報量に圧倒的な格 差が見られたことは想像に難くない。そのよう な環境では組織の代理人(エージェント)たる 船長は,その依頼人(プリンシパル)たるロン
York: Longmans, Green and Company, 1999 (1957);
Galenson, D. W., Traders, Planters, and Slaves:
Market Behavior in Early English America, Cambridge: Cambridge University Press, 2002 (1986); Pettigrew, William A., Freedom’s Debt: The Royal African Company and the Politics of the Atlantic Slave Trade, 1672-1752, Chapel Hill:
University of North Carolina Press, 2013; また,
Wagnerは,東インド会社(the East India Company),
ロシア会社(the Russian Company),レヴァント 会社(the Levant Company),ハドソン湾会社(the Hudsonʼs Bay Company),およびRACを政治経済 的な側面から議論し, これまで近代の特許会社に 関する研究は個別に議論されてきた近代イギリス の特許会社を俯瞰して比較することで, 特許会社 の 意 義 を 再 検 討 し た。Michael Wagner, The English Chartered Trading Companies, 1688- 1763: Guns, Money and Lawyers, Routledge, 2018.
社所有船ではなくチャーター船であった。たと えば,1680~85年の間にイングランドを出た同 社の165隻の船のうち, 4 分の 3 は借り受けた ものだということがわかっている。RACが所 有したのは,奴隷船が西アフリカ沿岸に到着し てから現地で奴隷を積み込む際に利用された ボートなどを含む小型船舶が中心であった。し かしこのようなRACの船舶チャ ーターは, 必 ずしも効率的な資金配分のために選択されてい たとは言えないようである。実際,1689年まで のRACは船舶購入資金の借入には困っていな かった。しかし会社の支配人たちが私服を肥や すため,チャーターを故意に選択していたとデ イヴィスは述べている。1672年から1689年の間 の理事会議事録で言及された174隻のチャ ー ター船舶の150人の貸主のうち, 少なくとも40 人はRACの株主あるいは社員であったことが わかっている。RACの規則では, たとえ船の 貸主が組織内部の人間であろうと,貸主はイン グランドからRACが輸出する積荷から利潤を 得られる手筈になっていた。通常,その利潤は 大きかったとされ,1686年の記録では純利益の
3 割前後であった。8 )
8 )Davies, op. cit., 1999 (1957), pp.194-197; Zahedieh, Nuala, The Capital and the Colonies: London and the Atlantic Economy, 1660-1700, Cambridge くないように思われる。それにもかかわらず航
海数が一時的に回復しているのは,非合法的に アフリカ奴隷貿易を行なっていたインターロー パーと呼ばれる,組織外のもぐり商人たちに対 する対策の負担が軽くなったことが影響したと 考えられる。しかしその後,1720年代初頭に一 時的に航海数が増加するのを除いてRACによ る奴隷貿易の航海はごくわずかになり,1731年 の奴隷貿易航海を最後に,RACのアフリカ貿 易はその対象を金と象牙に集中させていくこと になった。
さて,船長たちはどのような船に乗り,どの ような航海ルートを航行したのだろうか。19世 紀末から20世紀初頭に蒸気船に取って代わられ るまで, 帆船が海上輸送の主役であり続けた。
本稿が扱うRAC時代のイギリス奴隷貿易もそ の例外ではない。RACの通信書簡や記録から 推測すると,17世紀の第 4 四半世紀にはRAC は奴隷貿易にシップ,ブリッグ,スクーナー,
ブリガンティンといった型7 )の船舶を利用し ていたことがわかる。
RACの貿易で用いられた船舶の多くは, 会
7 ) 帆船の型名については, 以下に図とともに解説が ある。 田中きく代, 阿河雄二郎, 金澤周作編, 前 掲書,2016年,209-211頁; 平凡社『新版・ 世界史 モノ辞典』,2017年,62-69頁.
図 1 RAC船による奴隷貿易航海件数の推移
0
10 20 30 40 50
166 8 167 1 167 4 167 7 168 0 168 3 168 6 168 9 169 2 169 5 169 8 170 1 170 4 170 7 171 0 171 3 171 6 171 9 172 2 172 5 172 8 173 1
(出所)Transatlantic Slave Trade Database(https://www.slavevoyages.org)より筆者が作成。
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船上における不正と管理
く空荷で本国に帰還する奴隷船が多く見られ た。特に1680年代はロンドンにおける植民地物 産11)の価格が極めて低く,RACはバルバドス 島を中心に為替手形で受取ることを好んでいた ようだ。しかし,為替手形による支払いの傾向 は1690年代以降,RACの貿易では次第に見ら れなくなった。奴隷の買い手である西インド諸 島のプランター側から見ても,作物の次の収穫 期まで奴隷購入代金の支払いに首が回らないこ とが多く,こうした理由から,このルートの船 は西インド諸島に奴隷を運んだ時点で貿易を終 えたのである。12)
3 つ目のルートは西インド諸島とロンドンの 往復である。前述の 2 つ目のルートの船が植民 地物産を満載して帰路につくことができなかっ たのに対して,それらの物産を補完的に本国に 運んだのがこのルートである。 積載量は少な く,特にフランスと戦争が始まると拿捕に対し て用心深くなるのか,さらに少なくなった。13)
そして 4 つ目のルートは,ロンドン,西アフ リカ,西インド諸島,そして植民地物産を積ん4 4 4 4 4 4 4 4 で4ロンドンに戻る完全な三角貿易である。上記 の 3 つ目のルートの輸送が戦時に低調になる と,完全な三角貿易のルートが増加した。加え て,それまで低調であった砂糖価格が急騰した ことも,1689年以降にこのルートを行くRAC 船の増加をもたらした要因のひとつである。14)
最後は西インド諸島とアフリカの間の往復 ルートである。 初期のRAC船にはあまり見ら れなかったルートであるが,それでも小型の帆 船で時々ガンビアとバルバドスを往復すること はあったようだ。ガンビアからは奴隷が,そし 11)その多くが砂糖を占めていたが,そのほかに生姜,
棉花,インディゴが西インド諸島の特産品であっ た。
12)Davies, op. cit., 1999 (1957), pp.186-188.
13)Ibid., pp.188-189;RACによる植民地物産輸送の積 載量が少なかった一方で,RACの解散以降18世紀 中頃から急増した植民地物産貿易で用いられた砂 糖専用船は, むしろイギリス国内の砂糖需要の高 まりに合わせて大型化した。
14)Ibid., pp.189-190.
チャーター船が多くを占めたこれらの船舶の 平均サイズは1680年代で147トン,1691年から 1713年の間には186トンと大きくなった。 これ は1680年代には100トン以下の小型船と400トン 以上の大型船が占める割合がそれぞれ28パーセ ントと 4 パーセントであったのに対して,1691 年から1713年の間には20パーセントと 7 パーセ ントというように,全体的に大型化の傾向が見 られたことに起因する。9 )船舶購入資金が圧迫 しはじめたことから, 全体的に大型のチャ ー ター船を用いるようになったと考えるのが妥当 だろう。
ところで,イギリスのアフリカ貿易に従事し た船の航海ルートとして一番よく知られている のは三角貿易であろう。大西洋を三角形に航行 する三角貿易であるが,この三角形の 3 つの辺 の組み合わせによって, 実際のRACの貿易の ルートは 5 つに分けることができる。 1 つ目は ロンドンと西アフリカの間を往復するルートで ある。 当時の重要なアフリカ物産である象牙,
蜜蝋,染料木,獣皮,樹脂などが輸入された。
時代を通して,RACが携わった貿易全体と比 べると,このルートを使った貿易の規模はごく わずかであった。10)
2 つ目は,ロンドンから西アフリカを経由し て西インド諸島へ向かうルートである。 この ルートは,RACによる航海の大部分を占めた。
三角貿易という言葉が示すように,船はロンド ンを出発した後,西アフリカ沿岸でヨーロッパ 製の輸出用製品とアフリカ人奴隷をバーター取 引し,西インド諸島に着くとそこで奴隷を販売 した。ただし1689年までは,奴隷の売上代金を 為替手形や外国硬貨で受け取ることで西インド 諸島で貿易を終わらせ,そこから本国に至る三 角貿易の第 3 辺は植民地物産を輸入することな
University Press, 2010, pp.118, 148-149.
9 )Davies, op. cit., 1999 (1957), pp.192-194; Klein, Herbert S., The Middle Passage: Comparative Studies in the Atlantic Slave Trade, Princeton University Press, 1978, pp.158-159.
10)Davies, op. cit., 1999 (1957), pp.185-186.
奴隷は,市場価格で自由に売却することができ た。
そのほか,RACの貿易に従事する船長には,
イ ギ リ ス 東 イ ン ド 会 社(the East India Company) でも認められていたのと同様に私 貿易の権利が1674年に認められた。しかし,た ちまち職権の濫用が相次いだため,翌年には西 アフリカの主要奴隷調達地であった黄金海岸と ベニン湾を行く船において,船長個人の勘定に よる物資の積載は禁止された。そして社員に認 められていたこの私貿易制度は,1680年に全体 でも完全に終わりを告げた。18)
以上のように,RAC船の船長はRACの勘定 で入手した奴隷のうち一部を特権として私有お よび売却することができた一方で,個人の利潤 を追求する手段として一時的に認められていた 私貿易に関してはその権利を制限された。彼ら にとって,月給以外で合法的に収入を増やすこ とができる機会は,荷揚げした奴隷の人数に応 じて歩合で支給された船長特権の奴隷だけに なったのである。しかし,その方法での取り分 は荷揚げした奴隷の 2 パーセント弱となり,簡 単に増やせるものではない。そこで,個人の利 潤を増やすために残された現実的な方法が,不 正行為によって私服を肥やす方法である。つま り,RAC本部と現場で航海中の船長の間にあっ た情報格差を利用して,船長が自身の利益を優 先させるエージェンシー問題が起こるのであ る。この問題を考えるべく,次章では彼ら船長 とRACのロンドン本部との関係をエージェン シー理論の視点から検討する。
3 .RACとエージェンシー理論 本章ではエージェンシー理論にもとづいて,
ロンドンのRAC本部と奴隷貿易を実際に遂行 していた船長との組織内における関係に焦点を 当てる。RACの船長は航海が始まると航行中 に限らず,奴隷調達や販売のために西アフリカ 18)Davies, op. cit., 1999 (1957), pp.109-111.
てバルバドスからは砂糖生産の副産物であるラ ム酒がそれぞれ輸出された。1680年代末にアフ リカでのラム酒需要が増加したことや,戦時に はイギリス海域で拿捕の危険が増す一方で西イ ンド諸島付近ではその心配が少なかったことな どが,後にこのルートの貿易を後押しすること になった。15)
以上のような 5 つのルートのうち,本稿が焦 点を当てるのは 2 つ目および 4 つ目のルートに 含まれる奴隷貿易である。本国を出た奴隷船が 西アフリカで奴隷を積み込み,そこから新世界 に向けて大西洋を横断する,いわゆる三角貿易 の第 2 辺にあたる部分はミドルパッセージ(中 間航路)と呼ばれている。奴隷に対する劣悪な 扱いや病気の蔓延, 奴隷による船上での反乱,
難破,そしてそれらに由来した奴隷や乗組員の 死亡率の高さ,また敵国船に拿捕される危険性 から,RACの独占貿易時代もその後の自由化 後もミドルパッセージは変わらず恐怖の対象で あった。これは絶望のあまり自殺を試みる者ま で現れた奴隷だけでなく, 船長, 船上ファク ター,航海士,船医や一般の船員からなる乗組 員にとっても同様のことであった。
他方,船長にとってミドルパッセージは追加 的に報酬を得る機会でもあった。RACの奴隷 貿易に従事する船長の賃金のうち一部,すなわ ち給与の 4 分の 1 から 3 分の 2 が「現物支給 」 方式で支払われた。奴隷が西インド諸島に届け られた時点で,輸送人数に応じた船長特権とし て奴隷(privilege slave) を与えられたのであ る。16)荷揚げした奴隷100人に対して 2 人の奴隷 が船長の取り分として許され,それらの奴隷に は船長所有だと区別できるように目印として焼 印が押された17)。これらの船長特権で得られた
15)Ibid., pp.190-191.
16)Hatfield, April Lee, Atlantic Virginia: Intercolonial Relations in the Seventeenth Century, University of Pennsylvania Press, 2003, p.148.
17)Hugh Thomas, The Slave Trade: The History of the Atlantic Slave Trade 1440-1780, Simon &
Schuster Paperbacks, 1997, p.307.
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船上における不正と管理
しまう。エージェンシー理論は,金銭的インセ ンティブなどの外発的な動機付けを使いながら エージェントを管理する制度を講じて非効率性 を抑制しようとする考え方である。
エージェンシー理論を踏まえてRACの組織 構成を捉えてみると,利害関係者同士が形成す るプリンシパル=エージェント関係は図 2 が示 すとおり,以下の 3 つだと考えることができ る。 すなわち,ロンドンのRAC本部とそれぞ れ(1)西アフリカのエージェント,(2)西イ ンド諸島のエージェント,(3)航海中の奴隷船 の船長,との関係である。広大な大西洋におけ る長距離貿易において, ロンドンのRAC本部 は遠隔地に配置した社員たちとの関係に潜在的 にエージェンシー問題を抱えていた。
上記の 3 つのプリンシパル=エージェント関 係の中でも,Carlos(1994)20)は(1)西アフリ カのエージェントとロンドン本部の間のプリン シパル=エージェント関係に焦点を当て,西ア フリカにおけるRAC駐在員の機会主義的行動
20)Carlos, Ann M., “Bonding and the Agency Problem: Evidence from the Royal African Company, 1672-1691,” Explorations in Economic History, Vol.31, No.3, 1994, pp.313-335.
沿岸部や西インド諸島に滞在している間でさえ も,本部から逐次指令を受け,同時に本部に対 する報告が義務付けられていた。組織の利潤を 最大化させるための行動をとるべき立場にあっ た船長には,本来であれば緊密な報告や連絡が 求められる。しかし当時の西アフリカや西イン ド諸島および大西洋上とイギリス本国間唯一の 通信手段であった手紙は,目的地に向かう他の 船舶に託される形態をとっており,例えば本国 からジャマイカへの到着までには 2 か月ほどを 要した。そればかりか,遭難や敵国船による拿 捕のようなリスクに絶えずさらされていた時代 では,無事に手紙が届かないこともあった。そ のため,しばしばRAC本部と船長やその他の駐 在員との間の手紙のやり取りでは,念のために 前回送った手紙の日付を記述したうえで,その 手紙の写しを同封する習慣があった。このよう に,当時の長距離貿易の情報伝達には,本質的 に大幅なタイムラグや不確実性が伴い,その結 果としてロンドン本部と奴隷貿易の現場である 奴隷船上では情報量に大きな格差が存在した。
このような情報の非対称性が組織の非効率性 を生み出すという考えが,Jensen & Meckling
(1976)19)によって主張されたエージェンシー理 論である。この理論は,人間は自己の効用を最 大化させるために行動する利己的な「エコノ ミック・マン」であるという考えに立ち,組織 内の人間関係をプリンシパル=エージェント関 係(依頼人と代理人の契約関係)として考え る。 ここで問題となるのは, プリンシパルと エージェントの間の利害の不一致と, 両者が 持っている情報の非対称性である。エージェン トはプリンシパルの効用,すなわち組織の利潤 より,エージェント本人の個人的な利潤を優先 して機会主義的行動をとることがある。その結 果,組織全体としては非効率的な選択になって
19)Jensen, Michael C. & William H. Meckling,
“Theory of the Firm: Managerial Behavior, Agency Costs and Ownership Structure,” Journal of Financial Economics, No.3, 1976, pp.305-360.
図 2 RACの長距離貿易に見出されるプリンシパル
=エージェント関係
0
10 20 30 40 50
166 8 167 1 167 4 167 7 168 0 168 3 168 6 168 9 169 2 169 5 169 8 170 1 170 4 170 7 171 0 171 3 171 6 171 9 172 2 172 5 172 8 173 1
(出所)著者作成。
および(2)の人々と,船長の置かれている状 況で決定的に異なるのは,場所である。RAC が西アフリカに設置した砦や商館を拠点として 駐在した(1),あるいは西インド諸島に住みな がら奴隷の販売会を組織した(2) のエージェ ン ト た ち が 現 地 に 定 住 し て い た の に 対 し,
RACの船長は航海ごとに組織される貿易事業 に従事し, 1 つの航海が終わるまでは一か所に 定住することがなかった。 この点で船長たち は,RACの本部から見れば定住するエージェ ントたちよりも遥かに行動の把握や管理が難し い存在であったと考えられる。
では,管理が難しい船長たちの潜在的な機会 主義的行動を防ぐためには,RACは実際には どのような仕組みを事前に講じていたのだろう か。そのひとつが宣誓であろう。RACには,
入社時にすべてのメンバーが宣誓しなければな らないルールがあった。船長向け,ファクター 向け,記録官向け,経理担当者向けというよう に,その宣誓書の文面は少しずつ異なってはい るが, その内容は概ねRACに対する忠誠を誓 うものになっている。本稿が取り扱う事例より 少し後の記録ではあるが,現存する船長向け宣 誓書の文面は以下のようになっている。
我らが君主ウィリアム王[ 3 世]とその後 継者に対し,善良かつ誠実でいること。そ して常にイギリス王立アフリカ会社とその 後継に対し, 従順・誠実・忠実であるこ と。いかなる時も,現在航海中ないしは同 社に従事する限り,同社または同社の理事 会の許可なく,同社の特許が制限する取引 を直接・間接を問わず,自分自身及び他者 が自分の[個人的な利益の]ために行わな いこと。また,直接・間接を問わずそのよ うな取引をする人物に気づいた際には,直 ちに同社の理事会と在外ファクターに届け 出ること。アフリカ貿易法23)に反して取引
23)1697年のAn Act to Settle the Trade to Africa,前 述のいわゆる10パーセント法のことを指している。
翌年に発効した。
が,RACの経営難と崩壊の引き金となってい たかを実証的に検討した。RACの破綻問題は これまでにも研究者の関心を惹きつけてきた が21),エージェンシー問題の側面から実態解明 に挑んだ最初の研究だという意味で,カルロス の研究は画期的であった。 彼女は,RAC本部 はできうる範囲で効果的にエージェントを管理 できていたと結論づけている。効率賃金理論に もとづいた高水準の給与,不正行為を働いた場 合に没収される保証金制度など,一定の効果を 上げる制度が講じられており,これらが西アフ リカ現地におけるモラルハザードを和らげる役 割を果たしていた。 このことによりRACの経 営失敗は彼らの不正行為によって引き起こされ たとは言いがたい。
カルロスの研究では 3 つのプリンシパル=
エージェント関係のうち解明されたのが一部分 であることから,拙稿では(2)西インド諸島 のエージェントとロンドン本部の間のプリンシ パル=エージェント関係を取り扱った22)。17世 紀のバルバドス在住RACエージェント, エド ウィン・スティード(Edwyn Stede)およびベ ンジャミン・スカット(Benjamin Skutt)とロ ンドン本部との書簡のやり取りから,エージェ ントによる帳簿改竄および横領の疑惑とその事 件の顛末を追った。その結果,信頼に欠けた関 係のまま後任のエージェントを巻き込み,長期 間にわたって過去の勘定書の精査や検討が続く という,明らかなエージェンシー・コストが発 生していたことがわかった。
これまでに,上記の研究により 2 つのプリン シパル=エージェント関係とそこに横たわる エージェンシー問題が検討された。最後に残さ れたのが本稿が対象とする(3) 航海中の奴隷 船の船長とロンドン本部との関係である。(1)
21) Davies, op. cit., 1999 (1957); Galenson, op. cit., 2002 (1986).
22)長澤勢理香「イギリス王立アフリカ会社とエージェ ンシー問題:本部とバルバドスエージェントの関 係を中心に」『経済学論叢』(同志社大学),2020年,
389-420頁.
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船上における不正と管理
諸島に到着する時にかけて,船上では乗組員た ちによる相互監視が有効な手段だと考えられて いたようだ。モーニングスター号(the Morning Starr)25)の勘定書には最初のページに但し書き があり,相互監視の仕組みを知る手掛かりにな る。この但し書きによれば,同船を担当する監 督官兼船上ファクターのケイレブ・チャールト ン(Caleb Charlton) と船長のベンジャミン・
デイル(Benjamin Daile)の各々が同じ帳簿を 1 冊ずつ保管し,これは船の行動が会社の指示 に従っているのかを確認するための証拠書類と なった。最低でも週に一回は両人の確認の元お 互いのサインがなされ,奴隷の死亡や本部の指 示を反映して矛盾点がないかが確認された。26)
そのほか,RACの奴隷船が西インド諸島に 到着すると現地在住のRACエージェントが波 止場に待機しており,必ず船内の検査と奴隷の 人数や象牙の数などが確認されるのが慣しと なっていた。これは帳簿や航海日誌の内容と実 際の積荷に矛盾がないか,密輸がないかを確認 するためであったと同時に,RACのメンバー ではないインターローパーが密輸をしないか見 張るためでもあった。27)
以上のように,RAC本部は不正行為の抑止 と直接的な摘発の両方の側面から奴隷船内部を 管理しようとしていた。結局これらの抑止的対 策もむなしく,いくつもの不正行為が試みられ た一方で,この対策によって明るみになった不 正行為もあった。以下,1678年から1680年まで にバルバドス在住RACエージェントによって 報告された船上における不正行為を事例に,
RACが直面していたエー ジェ ンシー 問題と
25)Voyage ID: 9939, Transatlantic Slave Trade Database.
26)the Morning Starr Accounts of C. Charlton, 9th July 1678, T70/1214.
27)Davies, K. G., op. cit., 1957, 1999, pp.295-296;
Carlos, Ann M., “Agent Opportunism and the Role of Company Culture: The Hudsonʼs Bay and Royal African Company Compared,” Business and Economic history, 2nd Series, Vol.2, 1991, p.147.
する人物を援助・支援しないこと。役員・
ファクター・ その他どのような人物であ れ,そのような[上記のような]取引をす でに行った,あるいは行う人物,またその ような取引を支援・黙認・共謀する人物,
同社の商品の取り替え・ 不利益になる行 為,直接・間接を問わず同社の損失となる いかなることでもを行う人物については,
同社の理事会に直ちに届け出ること。以上 を宣誓する。神に誓う。24)
このような宣誓による事前対策は,確かに船 長の機会主義的行動を思いとどまらせる機能が あったかもしれない。しかし,宣誓はインセン ティブや強制力を伴うというより,どちらかと いえば教育的な側面が強い努力義務の類であ る。個人の努力量は外側からは直接計測するこ とができないため,その効果を確認することも できない。結局のところ,当の本人に強く働き かける対策としては今ひとつ決定力に欠けてい た。
では, 次章では実際に報告されたRACの船 長による不正行為の事例を確認し,RACの大 西洋人的ネットワークの構造自体が原因で機会 主義的行動が頻発していたことを検討する。
4 .RAC本部と船長の関係:通信書簡から この章ではまず,RAC本部が目の届かない 奴隷船内を管理するために講じていたチェック 機能について検討したのち,1678年~1680年に かけて報告された奴隷船上の 3 つの不正行為の 事例から, 当時のRAC船におけるエージェン シー問題を考察したい。
前章ではRACがロンドン本部の目が届かな い船上での機会主義的行動を抑制するために事 前対策として宣誓制度を取り入れていたことが わかった。しかし,宣誓に強い抑止力があると は考えづらい。実際には西アフリカ現地で,ま たミドルパッセージの洋上で,そして西インド 24)T70/1506, Forms of Oaths, dates unknown.
4 . 1 . ゴールデンリヨン号の事例
1678年にスティードとガスコインが,ゴール デンリヨン号(the Golden Lyon)30)のウィリア ム・ウィルキンズ船長(William Wilkins) に よる不正行為をRAC本部に報告した事例を見 てみよう。 報告によると, 西アフリカのケー プ・コーストからバルバドスに立ち寄ったゴー ルデンリヨン号は,より良い奴隷売却先を求め てネヴィスへ向かった。船がバルバドスを発っ た後,同地では秘密裏に同船の奴隷が販売され たという噂が出てきた。 全貌は掴めないもの の,60人とも70人とも言われる密売された奴隷 の う ち,10人 は ト ビ ー・フ リ ア 船 長(Toby Freere) に購入されたという。 フリア船長は ジェームズ・タガート(James Taggart)なる 人物に為替手形で奴隷の代金を支払った。この タガートは,フリア船長とウィルキンズ船長の 間のブローカーだったと目されている。フリア 船長はウィルキンズ船長や他の乗組員のことを 知らないようであった。フリア船長が告白する ところによると,彼の隣人もタガート経由で 8 人,ジョン・ハレット(John Hallett)という 人物はウィルキンズ船長から直接24~25人を購 入し,これらの奴隷は全て(健康で若い)価値 の高い奴隷であったという。ゴールデンリヨン 号がバルバドスを出発したその夜に,タガート とハレッ トに奴隷が届けられたようだ。 ス ティ ードらRACエージェントは, 会社が損害 に対する賠償金を得られるよう全力で情報を得 るように努めると宣言し, ネヴィ スのRAC エージェントにもこの件について報告する手紙 を出した。31)
バルバドスのRACエージェントから報告を 受けたネヴィスではその後どうなったのだろう か。 ネヴィスのRACエージェントが本部に報 告したところによると,ゴールデンリヨン号の
30)Voyage ID: 9938, Transatlantic Slave Trade Database.
31)Edwyn Stede and Stephen Gascoigne to RAC, 30th October 1678, T/70, fol.1.
RAC本部の管理の実効力を考察する。
この章で主に使用する史料は,RAC関連文 書の中では最大の情報量を誇るT70シリーズ
( イ ギ リ ス 国 立 公 文 書 館,The National Archives)28)に収められているレターブックで ある。RAC本部に宛てた,あるいはRAC本部 から出された手紙の本文がロンドン本部の記録 官によって書き写され, その大量の記録がレ ターブックとして保存されている。本稿の分析 対象期間にRACのバルバドスエージェントを 務めていた前述のエドウィン・スティードとス ティーヴン・ガスコイン(Stephen Gascoigne)
がロンドン本部に宛てた手紙の記録から,船上 でいかにして機会主義的な行動が試みられてい たのかをうかがい知ることができるだろう。ス ティ ードは20年以上RACのエージェントを務 め, バルバドスの憲兵司令官, 副長官, 税関 長,評議員,次官などを務め,本稿の分析対象 時期よりすこし後の1685年から90年までバルバ ドス副総督を経験した著名な人物だった。一方 のガスコインはバルバドスの名家の一員であ り, エドウィン・ スティ ードの義理の兄弟で あった29)。
28)T70シリーズは,RACの前身であるアフリカ冒険 商人会社の時代から,後身であるアフリカ商人会 社(Company of Merchants trading to Africa)の 解散後の時代まで, すなわち1660年から1833年ま での会社に関連する手書き文書から成る。本稿で 使用した船長や在外エージェントとの通信のほか にも, 法律関係, 航海日誌, 勘定書, 関税書類,
船長への指示書, 雇用に関する書類など, 多岐に わたる文書が収められている。 紛失, 経年劣化の ための破損, またイレギュラーな分類も見られる ため, 利用に注意が必要な文書でもある。 とくに 日付の問題は頻繁に見られる。 ユリウス暦とグレ ゴリオ暦が併用されている記述が散見され, また 書き写し手によって規則性も変わってくるため,
文書解読には注意が必要となる。 本稿では混乱を 避けるため, 本文の記述をグレゴリオ暦で統一す る。
29)Aitken, George A., The Life of Richard Steele, Haskell House Publishers, 1968 (1889), p.137.
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船上における不正と管理
ぞれ 1 冊ずつ帳簿を保管し,相互に記録に責任 を持つというRACのルールに反している。 さ らに,RACの勘定で購入された奴隷114人のう ち30人余りが船長のものとされていたこともわ かった。加えて,この30人余りの奴隷の航海中 の食糧や世話をする船員の賃金がRACの支出 であったことは,会社資産の私的流用にほかな らない。トッドがスティ ードらRACエージェ ントに帳簿を渡してすぐ, ペッパレル船長は エージェントの事務所を訪ねてトッドから帳簿 が渡されなかったのかをさぐったが, すでに トッドがペッパレル船長の行動について説明し た後であった。
4 . 3 . マリーゴールド号の事例
プロヴィデンス号の不正行為は船長が単独で 企て, 船長の独裁に反感を持った船上ファク ター がRACエー ジェ ントに報告した事例で あったが,次に紹介する事例は船長や船上ファ クター を含む複数人が共謀した事件である。
1679年 5 月にバルバドスに到着したマリーゴー ルド号(the Marigold)35)の船上ファクターで あるフォウラー(Fowler) なる人物に対し,
スティードとガスコインは禁止されている私貿 易について尋ねた。これに対し,フォウラーは 自身満々に,「報告された118人以上の奴隷は船 上におらず, 死亡した奴隷数の記録も事実で,
さらにひとりひとりの死と甲板から海に投げら れるのをこの目で見てきた。」と答えた。118人 とされる生き残った奴隷の数字は,マリーゴー ルド号の船長であるランバート・ピー チー
(Lambert Peachy)が署名した他の勘定書でも 同様に書かれていたようだ。スティードたちが 続けてフォウラーに聞き取りをしていると,用 心深いフォウラーがRACから支払われる賃金 が少ないなどと言ってRACを騙すような表現 をうっかり口走った。フォウラーが信用ならな いため,彼が所持する日誌と奴隷の購入数およ
35)Voyage ID: 15060, Transatlantic Slave Trade Database.
奴隷の販売が停止されてウィルキンズ船長もネ ヴィスに足留めされていたなか,なんと船長は 特別裁判所で裁判を開くようにリーワード諸島 の総督に嘆願し,受け入れられたのである。バ ルバドスからの証拠にもネヴィス現地での証拠 にも欠けるため,裁判は終わった。不正行為の さらなる証拠が出てきたら新しく裁判を始める ことができるとされた。32)
バルバドスでは奴隷の購入者当人たちの証言 があったにもかかわらず,他島では証拠不十分 となったのである。これは,本来なら船長自身 が証拠を提示して身の潔白を証明しなければな らないところが, 実際にはRAC本部のために 行動するエージェントたちの方が目の前に証拠 を突きつけなければならない状況であったこと を示唆している。
4 . 2 . プロヴィデンス号の事例
ゴールデンリヨン号では船長が外部のブロー カーを通じて奴隷を横流ししていた私貿易の事 例であるが,航海中の船内において船長は単独 で帳簿上の数字を超過していた奴隷をどのよう に隠したのであろうか。1680年 4 月にバルバドス に到着したプロヴィデンス号(the Providence)33)
の事例は,超過人数の奴隷を単独で管理しよう とした船長が強権を振るったために密告された ケースである。 バルバドスに到着の際, プロ ヴィデンス号の船上ファクターであるトッド
(Todd)は,ニコラス・ペッパレル船長(Nicholas Pepperell) の船上での振る舞いについてス ティードとガスコインに報告した34)。それによ れば,トッドや他の乗組員たちに対するペッパ レル船長の態度が終始非人道的で,しかもトッ ドが日誌や帳簿などの類を所持することを禁じ たという。これは船長と船上ファクターがそれ
32)William Freeman, Henry Carpenter and Robert Helmes to RAC, 3rd January 1678/9, T70/1, fol.8-9.
33)Voyage ID: 9962, Transatlantic Slave Trade Database.
34)Edwyn Stede and Stephen Gascoigne to RAC, 20th April 1680, T70/1, fol.48-49.
づいていながら,なぜ我々に知らせなかったの か 」 と尋ねた。 これに対してフォウラーは,
「朝早くに伝えに行こうかと思ったが, ピー チー船長が引き止めた」,また,「知らせなけれ ばならないとは思わなかった」などと言い訳し た。38)
船上ファクターのフォウラーがはぐらかして いることは明らかだが,フォウラーの話だけで は船長やその他の人々が関わっていたのかどう かがはっきりしなかった。しかし翌月になって 新たな証言が一般船員から聞こえてきた。いわ く,マリーゴールド号の船内で,船員のウィリ アム・ロングストン(William Longstone) と その他の船員たちは,フォウラーから「奴隷の 数を数えるのは私の業務であって,お前たちの 業務ではない」と怒られたという39)。さらにそ の翌月になって,バルバドス在住のある人物が スティードたちに証言したところによれば,そ の人物のところにマリーゴールド号の航海士で あるウィ リアム・ホワイト(William White)
がやって来て,奴隷59人を販売しようとしたと いう40)。59人の内訳は,14人がピーチー船長の,
残りの45人が船上ファクターのフォウラー,航 海士のホワイト,砲手のジョン・ハント(John Hunt)41)たちの所有であった。
このマリーゴールド号の 4 人による不正行為 は,RACの勘定で購入した奴隷の死亡率をご まかして過剰に死者が出たことにし,帳簿上の 数字との差をつくり出して密売しようとしたと いう点で虚偽報告と横領にあたるだろう。記録 数より超過していた奴隷については,最終的に スティードたちがピーチー船長に船荷証券に署 名させ, ネヴィスに移動してRACの勘定で売
38)Ibid.
39)Edwyn Stede and Stephen Gascoigne to RAC, 10th June 1679, T70/1, fol.23-24.
40)Edwyn Stede and Stephen Gascoigne to RAC, 12th July 1679, T70/1, fol.25
41)Edwyn Stede and Stephen Gascoigne to RAC, 10th June 1679, T70/1, fol.23-24.
び死亡数が書かれた帳簿をスティードたちが確 認したところ, やはり数字に矛盾はなかった。
これはピーチー船長が所持した帳簿とも付合し た。ところが,船医が記録していた死亡数と比 べると,フォウラーとピーチー船長の帳簿には 死亡数が過大に記録されていたのである。彼ら は西アフリカのカラバルで293人の奴隷を購入 してミドルパッセージで何人もの奴隷を失いな がら, バルバドスについたのは118人だと言っ ていた。しかしスティードとガスコインが実際 に船内を捜査すると180人余りの奴隷が見つ かった。このことについて彼らがフォウラーに 問い詰めると,これについては何も知らず,ど うやって記録以上の奴隷が入り込んだのか,ま た,誰の所有奴隷かもわからないと言って関与 を否定したという。36)
その後,スティ ードやガスコインに対して フォウラーは,この件についてどう説明したの だろうか。その日の夜にフォ ウラー がRAC エージェントの事務所に来て,「実は朝早くに 奴隷の人数を数えたところ,RACの勘定で買 い入れた以上の人数がいることがわかった。そ れらの奴隷がどういう経緯で船にいたのかわか らない。」と釈明した。それに対してスティー ドたちが「航海中,奴隷の人数を数えて実際に 記録しているのに, なぜその時にはわからな かったのか?」と問うと,フォウラーは「航海 中,私はずっと大病を患っており,奴隷の人数 を数えられなかった。」と答えた。この答えは,
死亡した奴隷が毎回海へ投げ入れらる様子まで その目で確認していたと言っていたことと矛盾 している。37)
フォウラーや船長がRACから自己勘定によ る私貿易をもちろん許されていなかったことを 確認したのち,スティードたちはフォウラーに
「我々が船内で奴隷数を勘定する前, 記録され ているより多くの奴隷がいたことに朝早くに気
36)Edwyn Stede and Stephen Gascoigne to RAC, 24th May 1679, T70/1, fol.19-22.
37)Ibid.
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船上における不正と管理
う。
船長や船上ファクターをはじめとした乗組員 たちの中には,恐ろしいミドルパッセージに耐 えて乗り越えると同時に,帳簿の虚偽報告や超 過奴隷の隠蔽に勤しむ者がいたことがわかっ た。マリーゴールド号の船上ファクターである フォウラーがこぼしたように,賃金が釣り合わ ないほど業務が過酷であったことも,乗組員に よる不正行為を後押ししていた。また,本稿が 分析対象とした時期はRACによる貿易の独占 が維持されていた時期であり,プランテーショ ンでは奴隷に対する需要が高かったことも,不 正行為を促進した要因のひとつであった。
このように多々試みられていた不正行為に対 して,奴隷船内を検査してその結果をロンドン 本部に報告したのは西インド諸島在住のRAC エージェントたちであった。本稿で明らかにし た限りでは, 彼らはRAC本部に代わって, 組 織の利益にかなうように行動していた。ところ が,第 4 章でも名前があがったバルバドスのエ ドウィン・スティードは,本稿が取り扱った分 析時期から10年ほど経ったころ,今度は自身が 帳簿改竄疑惑や横領疑惑を引き起こすことにな る。 結局, 数年間にわたってRAC本部との間 で対立し, 最終的には1693年に追放されてし まった44)。 このことをふまえると,RACは常 時エージェンシー問題に直面し,多くの時間と 手間をかけてこれに対処しようとしていたので あるが,結局エージェンシー・コストを克服す ることができなかったと言えよう。
最後に,冒頭で示した「海の歴史」の視座か ら, 本稿で明らかにした事柄を捉え直したい。
大西洋という開かれた巨大な舞台上において,
外部から直接監視することがきわめて難しい閉 鎖空間であった奴隷船の内部では,船長や乗組 員たちによる不正行為が発生していた。組織内 におけるこのような海での企てに対して,イギ リスが覇権の獲得を目指すなかで長距離貿易に よって国家の利害を代表していたRAC本部は 44) 長澤勢理香,前掲論文,2020年,389-420頁.
却することとした42)。 5 .むすび
本稿で検討したように,17世紀のRACの奴 隷船上では絶えず数のごまかしや禁じられてい た私貿易が横行していた。このような機会主義 的行動を防止するため,船には船上ファクター がおり,また航海中は奴隷人数の確認と乗組員 による帳簿の確認と署名が義務付けられ,さら に船が西インド諸島に到着する際には現地の RACエージェントが奴隷人数の確認をして帳 簿の数字と突き合わせ,密貿易や横領を摘発す る仕組みが講じられていた。それにもかかわら ず船上では相互監視が機能しないばかりか,一 緒になって不正に手を染める事例まで確認でき た。完全に外からは見えないミドルパッセージ の間,RAC本部による奴隷船内のチェック機 能は完全ではなく,結局は本人たちの「エコノ ミック・マン」的側面が強く出ると不正行為が 起こりやすい環境であったといえよう。
一 方,Davis, Schoorman & Donaldson (1997)43)がエージェンシー理論とは別の視点か ら組織内部の関係を定義したスチュワードシッ プ理論にもとづいて考えてみると,もし船長や 乗組員が自己の利益よりも組織の利益を優先す ることで高い効用を得るとされる「スチュワー ド」であれば,目先の金銭的利益のために組織 を裏切って不正に手を染めることはなかっただ ろう。 しかし,RACの代理人として西アフリ カや西インド諸島に定住したファクターやエー ジェントと異なり,奴隷船は航海ごとに組織し て解散する冒険プロジェクト的な側面が強い。
この点において,彼らにとっては組織に忠誠心 を持つことは,遥かに難しいことであっただろ
42)Edwyn Stede and Stephen Gascoigne to RAC, 24th May 1679, T70/1, fol.19-22.
43)Donaldson, Lex & James H. Davis, “Stewardship Theory or Agency Theory: CEO Governance and Shareholder Returns,” Australian Journal of Management, No.16, 1991, pp.49-65.
る軸足を置いて再評価することは,今後の歴史 学研究の発展においても重要な意味をもつだろ う。
* 本研究はJSPS科学研究費(科研費)JP17K 13775の助成を受けたものである。
いわば「陸の歴史 」 の範疇として考えられる が,その陸からの管理が海での企てに対して効 果的に働くことはなかったのである。陸からの 視点だけでは理解することが難しいRACの姿 を, 陸と海をつなぐ意義を明らかにしたうえ で,そのなかでもとくに「海の歴史」観に主た