10月1~2日 三田市加茂 天満神社 稲取神事 加茂神社と神事の由来
神皇第10代崇神天皇の御宇天変地異起りて五穀稔らず各地に反乱相続き悪病流行す為に人民の死者限り無し。天 皇深く憂い給い卜部の言を用い国津神の怒りと祟りを鎮め人民の災禍を救わんと勅して山城に加茂の神を勧請して 畿内の要地国境等にわ別霊を配し大神の子孫出雲・種族を多く祝部並び神戸に但し弘く篤く祭らしめ国家安寧を祈 願し給えば漸く国内安定す。当地に加茂別雷神(火国主の神子火雷天神と称す)を祭らしめ大神郷(地名)と号し 25戸の神戸祝部を付属し給う。大和朝廷西北の鎮播丹防備の要点たり。神々奉仕する神戸等朝廷の保護を得て大に 栄え摂社を奉じて東末西末内神西野上等の村落を開拓す。旱魃事には是等摂社を集めて雨を乞い五穀の豊穣を祈る。
大祭を行うを例とせり。然るにその後国境警備の物部の武士並に大和系の種族多く来り住みて先住出雲族との対立 激し領地領地食糧即ち稲の争い絶えざりき其の後両族多く同化して和親成り平和を悦び酒を汲み交して往昔稲と争 いし当時を忍びて稲曳樽曳の神事と一族の宮を親子とし天孫系の神社を敬いたる数多の伝説を現今に遺し居れり。
猶人皇第64代円融天皇の天文2年京都北野より、天満宮を勧請して、摂社に祀る。九鬼候三田に封せられて神社の 調査行われたる際に領主の*を迎えて此神を申告せしより、本社共に天満宮と呼称するに至れり。茲に神の古事を 探ね其の神徳を慕い敬いて二柱の神を併祀して、加茂神社と号す。
1日午後5時頃、三田天神の天満神社を辞して、途中から車を呼んで、加茂へ行く。加茂の天満神社の宵祭は午後 8時から始められるのである。加茂の天満神社は宵提灯が飾ってあるだけで、まだひっそりしていた。そこで宮総代 の 1 人、西川さんの家を訪ねる。まだ充分時間があるので、そこで夕食をして、ゆっくり西川さんから行事の次第 を聞いた。
天満神社の神殿はあまり大きくないが可なり立派な春日造りの神殿で、それに拝殿共々大きな覆屋をつくりこれ ももとは萱葺であったのを近年その上からトタンを被せてある。
この覆屋の右壁面に前掲の「加茂神社と神事の由来」が板に墨書されているがこれは現在区長をしている和田さ んという人のお父さん(80才現在)が書いたものという。和田さんは聞くところによると京都大学の学者やその他 当地を訪問した人々の話を総合し古来の口伝えに*付して書いたものという。現に境内に摂社として加茂社は祀ら れているが、天満神社という名称は恐らくその由来にある通り九鬼藩主の調査のときこれに迎合して付けたもので あろうことは三田市天神を始めこの周辺に見られる所である。とにかく、加茂に祀られている神は非常に子沢山で あった。そのため神様は子供を養い切れずに、時々他人の田から稲を盗んで来てはその糧にしていたのを百姓達に 発見されて、百姓達は盗まれた稲を奪い返すため常に争いが絶えなかった。*れをあるとき仲直りする集会があっ て、そこで酒宴が行われたらしい。この伝説に関連した神事が宵宮に行われる。唯不明な点はこの神事から伝説が 生じたものか、或いは伝説から神事が現在の形態の発生を促したものかという点である。
現在加茂の天満神社社殿の左側に摂社として加茂神社が祀られており、他に境内には戎神社、更にその他多くの 神々が摂社として祀られているが、これ等を総称して、本殿に対して小宮様と呼んでいる。
はっきりと宮座としての特別の組織はないようであるが、氏子総代の外に「宮総代」と称する役が 3 人ある。天 満神社の神事一切をこの3人が執行するが、その下に扇屋(世話人)が4人ある。
宮総代は祭日当日は裃、袴であった。これは20年前頃までは宮総代となったものは誰でも自前で自分の衣装を新 調したというが現在は普通の着物に袴をつける。その他諸役人が可なり大勢いるが、何れも青年。神輿舁ぎの役、
壇尻曳の役であるが、これ等の諸役人は宵宮にはまた、樽舁ぎ役4人、稲取りの役2人を兼ね、以上6人以下は何 れも「百姓」といって、稲取りの押えつけ又樽を奪って来て割る役に廻る。この外宵宮の祭典に昇段するものに踊 る4人がある。何れも少年小学校5年生位、これは前年乗り子を勤めたものがなる。乗り子については後で述べる。
踊り子4人のうち2人は太鼓、2人は鏡を持つ。鏡というのは鏡餅のこと。
まづ服装、踊り子 4 人は鶴亀の模様を染抜いた紺の素袍、着抜の袴、侍烏帽子を被り、烏帽子の後の光っている 所に長さ80㎝位の大きな幣垂をたらす。うち2人は太鼓(締太鼓径35㎝)を持つ。太鼓は身につけないで昇段し たときは自分の座の前に縦に置く。撥は短かい桐の木のもの1ヶ、太鼓の締結の間に挟む。
他の2人は鏡餅を捧げる役。これは神前に祭典の前から供えてある。竹ヘゴを網代に編んだ径25㎝位の篭に桧葉 を敷き、鏡餅を1ヶを入れてある。篭は上部は竹ヘゴを絞らずに開いたまゝである。
樽。径50㎝位の手樽、竹の箍をはめ樽板の厚さ1㎝位の頑丈なもの手をつけてあって手の上に穴をあけて担い棒 を通すようにしてある。2ヶ。これも早くから神前に置く。
稲荷。祭典に先立ち馬場の石段の傍で、青年即ち稲とりと百姓が一しょになってつくる。まづ稲穂3本を1把と し24把を1束としたものをしっかり括り、更にこれを担い棒の先に括り付けるのである。
この稲穂は座頭の宮総代が準備する
これを担い棒の両端につけるから1荷48杷となる。これを2荷造る。出来上ったものは神前に供へておく。
宵宮の祭典があって、一同は 1 度、長床に引あげて、宵宮の座につく。この座では踊り子が盃の酌をして廻る。
春は決ってないらしい。枝豆がつく。その頃から暗い境内へ追々村人が松の芯の松明木を持って集って来るが、座 が終ると村巡りの行列となる。その前に世話人の1人が1本の松明に神前の灯(ローソク)から火を移し、これを 境内に持出すと、銘々がその灯を分ち合って急に境内は明るくなる。
(宵宮の長床の坐順)
行列の順序。
金幣←銀幣←宮司←宮総代←座頭世話人2名(それぞれ松明を持つ)←踊子4人(2列に並び前の2人は太鼓を 左手に捧げるように持ち、後の2人は鏡を捧持する)←樽荷負い4人(前後に1列に並び、前棒も後棒も片手 に松明を持つ)←稲取り2人、(1列に並び夫々稲荷棒を振分けに舁ぐ。松明を持たない)
この行列は左右に数人の松明持が付添うて、神社の横の道から、神社を出て、村内を 1 廻りして神社の馬場先の 石鳥居の所へ現われる。その間に百姓役になった青年と 2 人の世話人は行列に加わらず、神社の正面石段を下って 馬場道を下り石段と馬場先の石鳥居との中間にある「三つ芝」という所(もと松並木のうち一段大きな松があった が今は枯れた)まで直行すると、道を開いて両側、松の根元に屯し「エイトー」「エイトー」と掛声をあげる。
行列は石鳥居の所で踊り子の餅と太鼓が入れ替り、太鼓が後になって、今までの歩調で馬場を進む。但し、座頭 の世話人2名と樽荷負い及び稲取りは、石鳥居の所で立止まって合図を待つ。先の行列が踊子の打つ太鼓の音で静々 と進んで石段の所まで行くと、石段の中途で立止まり振返って樽と稲を持ち、合図の松明を振る。その頃になると 百姓共は松明を振りエットーエットーと仲々喧噪しい。その中を樽担ぎは松明を振りながら、走って通り抜ける。
樽が石段の所へ達着すると再び松明が振られる。そのとき2人の稲取りは10㎝程間隔を置いて、走り出す。所がこ のとき三ツ芝に屯ろしていた百姓は踊り出て稲取りをつかまえ、多勢で荷の稲を奪い返そうとする。稲取役はこれ を奪われまいとして、荷負い棒にしがみついて、大困乱となる。松明が飛びかい、転ぶものがあったりして揉合い は暫くつづく。2ヶ所の奪い合いが一と所にかたまると危いので世話人が声をからして2つの揉合いを離そうとする。
稲穂が荷負棒から抜けると荷負棒だけになるが、頑丈に括りつけてあるので仲々抜取れず、結局揉合いの頃合を 見計って、世話人がストップを掛けると、稲取りは担いだまゝ神殿へ走り込むのである。
稲穂を奪はれた年は凶作、無事拝殿へ納まった年は豊作という。
百姓は燃え残りの松明を持ってその後神殿右側の小宮様の前の広場に集り、そこで松明を 1 ヶ所に集めて大焚火 を育てる。
そのとき樽担ぎの 1 人が荷負い棒から抜取った樽を焚火の前面の広場に持出すが、この樽を樹の根や岩角にぶっ
つけて樽を割ろうとする1団と、これを阻止しようとする1団とに分れて樽を取合う。この樽割にはルールがある らしい。最初の1つは揉合った末割ってしまって、箍も樽木も焚火に投込んでしまう。
所が樽が頑丈に出来上っていたせいか或ひは揉合う青年の力のバランスが悪かったのか仲々割れないので肝を立 てた1人で樽を横ざまに石の角にぶっつけて割ってしまったので、ルールによる後の1つは揉合った末割らずにそ れを神前へ返すことになっている方も大ぜいで横ざまに石にづっつけるとこれも案に相違して難なく割れてしまっ た。
仕方なくこれも焚火に放込んで行事は終ったのである。終ったのは夜10時を過ぎていた。
取材に来ていた神戸新聞の車に便乗させて貰って、六甲トンネル越阪急六甲まで送って貰った。