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11 月 27 日 豊前市横武町山ノ内 嘯吹八幡宮 山人走り

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11月27日 豊前市横武町山ノ内 嘯吹八幡宮 山人走り 嘯吹八幡大明神、祭神

現在の神主役は羽山氏、伝来の由緒によれば嘯吹八幡はもと年越(としご)の坂にあった祠を宝縁の地へ移した という。宝縁の地とは現在嘯吹八幡のある地点から、求菩提県道に沿へて西へ次の下河内部落の一端にある須佐神 社の地であるらしい。須佐神社の境内には福岡県の天然物記念に指定されている大楠がある。この大楠の案内板に ある所を見ても仁寿2年(851)羽山家の祖、羽筈山吉武が祠をこゝに移し始め八幡宮と唱えた神社が現在の須佐神 社であるという。大楠はそのとき樹植えをしたものらしいという。羽山宮司に尋ねても宇佐八幡とは無関係らしく、

江戸中期の上毛郡神社調書を見ても、羽山氏が支配している同地方の神名は、山の神のように思われる。

須佐神社から現在の山ノ内にある嘯吹八幡に移したのは約600年程前という。

羽山氏の外に嘯吹八幡の祭祀に関与する屋敷を次官(ヂガン)さんという。次官さんの屋はもと26軒あったらし い。現在は次第に減少して合原に7軒、山ノ内に6軒、計13軒が残っているだけである。一統の座と見てよい。2 座に分れていて、合原の座と山ノ内の座である。氏神様の嘯吹八幡を氏子に代って 1 年間お守りすることをこの 2 座で引受け、その座替をする日が11月27日である。当番の家を座主という。

山内の座主と合原の座主と行事の進め方が稍違う。始めから違うのか、それぞれ部落ごとに事情が違うので簡略 化される手順の違いからであるがその実は一寸不明。

神社が山ノ内にあるので自然祭典の集合も山ノ内の人の方が早くその人々から聞いたことが主となるので、後に 合原の人々に聞いたので、その違いもあるようである。

もとは7日前から、的場の池に飛込んで座員全部がミソギをしたが今はやらぬ。26日山内の方の座主は塩垢離を して狭間の部落へ大根を引きに行く。塩垢離は実際海岸へ行くのではない。大根を引きに家を出るのが丁度満潮時 刻を見計って出るのである。今年は27日早朝に出た。大根は丁度八幡様のある所から南の方にある小川を横切って 向う側の壇畑になっている所へ行って引く。誰の畑から引いてもよい。畑をつくっている者は、自分の畑の大根を 引いて下さるようにと木蔭に隠れて願っている。

座主は勝手にその辺の大根を引いて、引いた所に御幣をたてゝ帰る。畑の持主は自分の畑に御幣が立っていると 大根が3倍になって収穫があると喜ぶ。

神官の部屋に通されて午前10時の祭典の時刻に座の人達が集って来る間、神社所蔵の古文書や古地図を見せて貰 った。古地図にはこの株座の一統が現在居る屋敷の場所、及び今はいないが且て居た屋敷の跡が記入されていた。

羽山さんの序の話ということで見せて貰ったのに今年、経読岳に巡遊道路が開設されて俗称茶屋清水という所に ある山中の湧水地に水神が祀ってあって、その附近は整備することになったが、そのときその祠のある所から 5 ヶ の石片が出た。この石片は 1つは御供盛の台石、他の4ヶは農具を象ったもののようであるので持って帰って摂社 の祠の中に蔵めてあるという。これを見せて貰った。玄武岩と思われる何れも可なり大きな石片で、明かにスキ、

クワ、カマ等の形に人工的に加工されたもののようである。果して何時の時代のものか現在の私には不明。

10時半頃から神殿で祭典が始まる。祭壇するものは座員の13名と羽山神官のみ。座員はいつれも三階菱の紋のつ いた黒の羽織に浅葱の袴。昔は裃であったという。当時は病気等不参のものがあけて座員は10名。1列に神前の方 に向って並ぶが左の方5名は山ノ内、石の方5名は合原、中央の2人はそれぞれ山ノ内及び合原の座主で、この 2 人は菰を敷いて坐る。また座主のすぐ隣の座につくものは、それぞれ来年の座主となるものでこの神前の儀式はい はば座渡しの儀式である。

神官による祭典があって祝詞が終ると、次の祝詞は座員全員が唱和する。

次いで座主から座を受けるものへ盃の儀が行われる。清酒(スミザケ)次いで白酒の盃のとりかわしがあり、座 主から榊の杖と竹の幣串の御幣を渡すのであるが、そのとき座主を受けるものは羽織の右袖を脱ぐ。もとは裃の右 を脱いだという。

神前の階を降って直ちに山人走りの次第に移るのであるが、もとはこの山人(ヤマト)走りの役は座受の家の戸 主ではなく長男(世襲)がその役に当ったというが、現在では簡略化されたとの学校へ行く関係で、座受の家主が 神前で、そのまゝ、山人走りの仕度をする。この支度は山ノ内と合原とで少し違うのである。

山ノ内の新座主は羽織の袖も元の通りに直して榊と御幣を両手に持っただけである。合原の新座主は羽織の上か ら腰に注連縄を巻き、腰に山刀をさす。この山刀は刀の所を縄で巻き、幣紙をつけてある。下駄を穿いて神庭に 2 人並んで立つが、もとは草鞋ばきであったという。

他の座員も新座主 2人をとりまいて庭に降り立ち、そこで神官の掛声により新座主 2人は一目散に走り出すので ある。即ち、御幣を捧持して、それぞれ、山ノ内、合原部落の自分の家まで走って行く。これは神迎えの儀式のよ うである。新座主の家では予め正門を開き玄関から正座敷まで菰を敷きつめて山人を向える。家へ走り帰った山人 は草鞋のまゝ座敷に上り座敷正式の菰の座に坐る。もとはこの山人役が長男であったので、その父親である新座主 の方は山人が走り出したあと他の座員と共にそれぞれの部落に帰り、案内して自分の家に招き山人を正面に座員一 同座敷の座についたとき、新座主は改めて山人の方を向いて来年 1 年間間違いなく宮の行事を勤めさせて頂きます と挨拶する。この挨拶が済むまで山人は神社で山人走りのスタートを切ってから家に着いてあとも決して口を効い てはならないという。所が今はこの山人走りの役を戸主がやるので申し訳に神社の境内を一寸走る丈けで鳥居を出 ると、2人仲よく話しながら、藁積の田中の道を歩いて辻で分れて、自分の村へ帰るのである。

残った座員達も社務所で、もう1度御神酒をいただいて、やをら三々五々自分の村へ帰る。

村へ帰っての「挨拶」は山ノ内では極簡単になってしまっているようである。新座主が亭主役になって正座の菰

(2)

につき盃を廻す。盃は現在は普通の猪口、普通の御馳走である。

新座主は 12月31日のお通夜から宮行事を勤めることになるという。合原ではもう少し旧態を残しているようで ある。合河の山人が斧をさして帰るのは、年越峠から祠を移したとき、道を伐開いた先導を合原のものがしたと伝 える。

新座主の宿では座員 3 人づゝが対面して菰の座につき今日までの座主のものが横座について審判役をつとめる。

正面の3人新座主、次の来年の座主、翌々年の座主の順の3人、下座の3人は更にその次の順に坐る。そこでお酒 盛がある。もとは座で盃があった。親椀、菓子椀といって親碗は井鉢程の大きさであった。まづ親椀を出す。それ ぞれ 3 杯は飲まねばならなかった。上下の座で飲合いをやった座主が見とどけ役で、勝った方が次の年の穐がよい といわれた。

今はそれ程飲むものが居なくなって中央に親碗に酒を充たしたのを置いて、順々に猪口でその酒を掏うて飲む。

また肴は盛膳といって中央に大皿を盛って、座員は1つの皿から銘が分け合って頂く。次官座という。

嘯吹八幡神社所蔵の「郷社嘯吹八幡神社由緒」文書は恐らく明治初年のものと思われるが、それによっても大略 のことは同じ伝説から出ている。羽筈山吉武というのはこの地方の豪族であったらしく、初めは屋敷神として貴船 社を祀っていたがある夜夢に弓矢を帯びた老翁が現われて八幡大神なることを告げ斎き祀れと神託があり、西南の 嶺に光明が車輪の如く現われたので夢さめて村人とその嶺のあたりを探し求めて霊地を見つけ、これを移したのが 現在の須賀社だとある。

寛平2年(890)に神主吉重のとき頓宮を送り神幸祭をやったがそのときの行粧総員250人に及び「丈余の大幣を 次官当頭の昔が捧持した」とあるから、祭員として次官当頭の別は早くからあったものらしい。

文治元年(1185)宇都宮大和守信房が豊前国主となるに及んで八幡信仰を保護し後代々の国主の保護を受けたら しいが永禄 5 年(1582)豊後大友の家臣田原紹忍が切支丹に帰依し、国中の神社仏寺を破却したとき、上毛郡黒土 村の矢幡八幡宮の広大な社殿も終に焦土となったが、そのとき勢に乗じて山内八幡宮も焼払わんとした。所が山内 八幡宮には伝来霊異の鬼面があり、社家、次官等が相計って、この鬼面を神域の老松の枝にかけ、矢幡八幡宮の方 へ向くように掛けた。所が大友勢が矢幡からこれを遠望すると身丈数丈の赤鬼が巨眼をかがやかし、口より炎を吹 いているので大友勢は恐れて進まず、山内八幡宮は無事であったという。(この鬼面が現在社蔵されている)。 山内村の次官は15人。このうち、中野、鬼木、林河、大門、神木、前田の6家が残っている。

下河内の次官は12人。*末、長谷川、津留、友真、三住、為国、石丸、大木、江原、今住、市江、松田は宇都宮 譜代の郎従である。文治年中、大和守信房が当国を拝仕したとき、神社を組織化し、祭儀を定めたとき次官の制を 置いたという。

以上の由緒書の外に寛政11年「抱持之社書上帳」がある。

(表紙)

九刕豊前 寛政十一年上毛郡三毛門 抱持之社書上帳 手永 山内 村祠宮初巳 山内村社司山河 未四月廿六日内正 初山河内

大河内上毛郡一、山王宮祭神三座大巳貴命国常立尊惶根尊一、神殿建立但元禄十三壬午歳古伝之説ニ人皇六十一代朱雀天皇天慶四年西海三凶賊藤純友誅伐之時当国之目代大将軍之依帰江脅吉之社之内大宮ニ宮三宮奉勧請尊致丹誠之精祈祷朝敵伏誅御開陳之節報賽有之奉幣事申伝候一、神事祭礼但十月初申之日神膳神酒ヲ備御祈祷祓祝詞執行仕候前後湯立神楽執行仕候。六月十三日汐汲、岩戸神楽執行仕候。次子供楽ヲ修行仕候。

岩屋村一、山神社祭神一座大山祇命一、神殿建立。但延宝七巳未年御鎮座時代不分明一、神事祭礼但九月十六日神膳神酒ヲ備祓祝詞執行前夜岩戸神楽執行仕候。

篠明村一、牛頭天皇社祭神二座大山祇命素盞鳴尊一、神殿建立但元禄十丁丑年建立大山祇命御鎮座不分明文禄四乙未年疫病流行ス神主筈山吉勝、宮村民山神社ニ素盞鳴尊ヲ奉勧請一、神事祭礼但九月十四日神供神酒ヲ備御祈祷、祓神楽執行仕候六月十四日岩戸神楽執行楽打候事隔年仕候

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鳥井畑一、山神社祭神一座 大山祇命但宝永元乙酉年建立明徳三壬申年大早及三月依之宇都宮氏是所ニ山神大山祇命ヲ祭祈雨ヲ一、神事祭礼但九月九日、十一月十四日、神供神酒ヲ備、御祈祷祓神祝詞執行仕候三月廿一日毎年春祭岩戸神楽執行仕候右之通り相改書付差上申候、以上 上毛郡祝官午ノ十月 初山因陽御領中諸神社神号祀所之神々本社抱持之社共并其社之伝記旧例之祭礼且神前勤方之次第、氏子之村社領高右之帳面宝暦十辰年茂御調らへ候。仰出尚亦其後相改候分も有之候ニ付之分共委敷相記印形付帳面ヲ以五月十八日迄其郡大社之神祇取集先調らへ之上差出有之候。一祭礼執行之儀者昔古より相極、其余願解等ニ而臨時執行之節ハ其度ニ願出兎之上執行之儀勿論ニ候処近来定式同書ニ相心得、無願執行之族も有之*哉ニ相聞不相済事ニ候以来本社抱持之末社共旧例之外者都度願出之上執行ス有之候一郷郡方役筋より被仰付候。御祈祷筋之儀者執行以前差向候筋者以書申届出ニ申候問合有之候ハヽ出之上届ニ有之候事一、定式之祭礼ハ執行相済候上届出ニ有之候尤定式たり共日を相違致し候ハヽ執行之儀前以届出て有之、但末社之分ハ届出不及候右之趣此度被仰渡候条早々順違之上銘々承知之趣承届て被申*候、以上。未四月寺社方役所此度諸社神社取之神々鎮在以来畧伝記御改ニ付別紙之通り被仰出承知有之来月十五日限り長谷川備前之宅方にて被相集候此段御達為申入如対ニ御座候、恐惶謹言四月廿三日 小川平内定行 桟有伴右江門信上毛郡惣社家中 覚許状戴候宮之神号之上ニ出上候事継目上京之節次官等相ニ候分神号 共ニ書付差出一の被候事部屋住テ継目相済候面々是又右同断の事未四月 初山河内写寛政十一年 巳未四月廿六日 初山河内扣

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