【 論 文 】
『資本論』における,再生産と貨幣取扱業・信用業 との関係について
── 『資本論』成立史の観点から ──
大 竹 篤
目次
1. 問題の所在 2. 貨幣取扱業と信用業
── 『資本論』第3部第4篇,第5篇の成立と,『資本論』第2部 ──
3. 再生産の運動とその貨幣・貨幣資本的条件
(1) 『資本論』第2部第1稿と『資本論』第3部第1稿第4章
(2) 『資本論』第2部第2篇第17章「剰余価値の流通」と『資本論』第3部第4篇,第5篇 4. 再生産の運動とその自立形態
── 貨幣取扱業と信用業の成立 ──
5. まとめと今後の展望
1. 問題の所在
グローバル金融資本主義,そう言ってよければ実体経済から乖離したかに見える金融の支配する 現代経済の本質への問い,そして世界的に展開する富の分配の不平等,所得の二極分解についての 問い,それは雇用形態が変質・劣化して行く現代日本経済の構造についての問いでもあるのだが,
金融と実体経済との相互関係,いわば現代経済の構造への問いは今日不可避の課題である。その時,
マルクスが『資本論』において展開した,金融論と再生産論(持続可能な経済)との関連が,最も 現代的な問いとして浮上する。『資本論』第3部第5篇が,第2部との関わりで考察の主題となる。
本稿の課題は,『資本論』第3部第5篇を読み解くための視座を獲得することである。そこには 基本的な二つの問題が横たわっていると思われた。その第一は,『資本論』第3部第4篇,第5篇 にまたがる,貨幣取扱業と信用業との関係であり,第二は,『資本論』第3部第5篇の利子生み資 本と信用業との関係である(1)。『資本論』第3部第5篇の考察のための前提として,本稿は,第3部
* 『資本論』の引用に際しては,長谷部文雄訳『資本論』(『世界の大思想』(18〜21巻)河出書房新社版1970年)
によった。なおこの原典は,モスクワのM・E・L・インスティテュート出版のドイツ語大衆版(1932-34年)
である。本文中の引用末尾に(資III 5-25,……頁)のように記載したが,長谷部訳『資本論』第3部第5篇 第25章……頁の意味である。『資本論』の引用にはDietz版全集(Karl Marx-Friedrich Engels Werke)の頁を
MEW.S.……として併せて記載した。ドイツ語原文はDietz版MEWによった。その他については適宜注記の
形で記しておいた。
(1) 川合一郎[1976]は,戦後30年にわたる貨幣・信用論にかかる諸論争を,1,戦後インフレーション研究。
第4篇,第5篇の関係,すなわち第一の貨幣取扱業と信用業との関係をめぐる問題に,再生産論的 視点から,接近しようとする試みである。
『資本論』第3部第5篇を,再生産論的視点から読み解くに当たって,大谷禎之介の,マルクス『資 本論』草稿に関する研究成果は示唆的である。
大谷の『資本論』第1稿(1863-1865年草稿)の研究によれば,現『資本論』第3部第5篇は,
もともと第4篇(草稿では第4章)の中で一括して論じられるはずであったが,『資本論』第3部 第1稿第4章(第4篇)執筆の過程で,同第4章,第5章(現『資本論』第3部第4篇,第5篇)
2,利子生み資本論争。3,不換銀行券論争。4,現代インフレーション論争。5,不換銀行券論争の国際 版 ―― インフレーションの国際的側面。6,スタグフレーション論。7,信用論の必然性。8,商業信用を めぐる論争。9,銀行信用とは何か ―― 信用創造か媒介か。10,中央銀行。11,信用制度と株式会社。と して総括した。
それらは,いずれも未解決の論争点であり,機会あるたびに復活する。
大友敏明[2008]は「特集にあたって」において,今日の経済学的論点を三つ挙げている。第1は不換 銀行券論争である。第2は信用創造論争である。第3は「明確な論争という形をとってはいないが」とい う但書きを付して,「貨幣資本と現実資本」論を挙げる。それは,「産業的流通と金融的流通」との区別に 関する問題で,「貨幣」と,「貨幣資本」との峻別と,その関係をめぐる論争と考えて良いだろう。それら は,いずれも本稿の視点と重なるところでもある。
第2の問をめぐって,伊藤武[2006]・小西一雄[2014a]と西川元彦[1984」・建部正義[2000]・吉田 暁[2002]らとの間で展明した本源的預金論と内生的貨幣供給論とをめぐる論争は,銀行券を預金(預金 通貨)に代えただけで,本質的には不換銀行券論争の復活であり,また古く19世紀イギリスの通貨主義 と銀行主義との論争の現代版であると考えられる。
また,内生的貨幣供給論の立場に立つ吉田[2002]は,ペイメントシステム(決済機能)並びに金融仲 介業務(貨幣の貸借機能)からなる銀行像を改めて呈示した。それは,貨幣取扱業と信用業との関係につ いての論争,そして銀行業の概念にかかる論争の現代版であり,本稿の主題でもある。
なお,降旗節雄[1959]は,貨幣取扱業と信用業を『資本論』第3部第4篇,第5篇に分離して論ずる ことへの疑問を提示し,浜野俊一郎[1979]は,利子生み資本と信用業との関係,すなわち『資本論』第 3部第5篇の基本的理論構成への疑問を提示する。これらの問に対する真田哲也[1998]による先駆的な 批判的研究があるが,本稿は,それらの問の延長線上にある。
『季刊経済理論』第51巻第2号(桜井書店,2014年7月)が,「MEGA第II部門(『資本論』とその準 備労作)研究の現在」を特集し,特に小西「「マルクス信用論」における草稿研究の意義」は,大谷禎之 介の『資本論』第3部第1稿第5章研究への着目とともに,本稿と重なるところもあり,本稿との異同に ついて若干述べておく。
小西[2014]は,大友[2008]の分類によれば「貨幣資本と現実資本」論の系譜の属し,『資本論』第 3部第1稿(1863-1865年草稿)の研究からの視点で『資本論』第3部第5篇の理論構造への新しい視点 を提起したものである。本稿は『資本論』第3部第5篇の理論構造への問の前提として,『資本論』草稿 の成立史的視点から,『資本論』第3部第4篇第19章と同第5篇との関係に主題を絞ったものである。本 稿の結論を先取りすれば,『資本論』第3部第5篇は,『資本論』第2部第1稿第3章第6節「蓄積を媒介 する貨幣流通」,並びに現『資本論』第2部第2篇第17章「剰余価値の流通」との関係から,産業資本の 運動(再生産)からの自立形態としての信用業と,その機能としての拡大再生産のための追加的「貨幣資 本」の蓄積と供給可能性の解明を主題とするというのが本稿の結論である。その方法を異にするが,『資 本論』第3部第5篇第25章以下(草稿第3部第5章5)「信用。仮空資本」)の主題が「貨幣資本(manied
capital)」論だとする小西[2014](056〜059頁)は,基本的には本稿の結論と重なるところであるが,信
用と信用業(Kreditwesen)の自立化なしにそれは不可能だという認識が肝要であろう。
に分割して論じられることになったというのである。そしてもう一つは,『資本論』第1稿は,第 1部に引き続き第3部が執筆されていたが,それが中断され,『資本論』第3部第1稿第4章執筆 に先立ち,その直前に『資本論』第2部第1稿の執筆が行われたというのである。
この大谷の指摘を受け,M・ミューラーは,『資本論』第3部第1稿第4章(執筆の途中で第4章,
第5章に分割される)を第2部第1稿との関係で読み解くべきことを提言する。
本稿は『資本論』第3部第4篇並びに第5篇についての,大谷禎之介並びにそれを承けたM・ミュー ラーの,マルクス『資本論』草稿に関する最新の研究成果を踏まえた,『資本論』の成立史的視点 からのアプローチをなす(2)。
2. 貨幣取扱業と信用業 ── 『資本論』第3部第4篇,第5篇の成立と,『資本論』第2部 ──
大谷禎之介の考証によれば,『資本論』第1稿(1863-1865年草稿)の『資本論』第3部第5章は,
そのプランでは第4章の中で一括して論じられる予定であったそれが,第4章執筆の過程で,第4章,
第5章に分割された。第4章の当初のタイトルは「商品取扱資本および貨幣取扱資本。利子と産業 利潤(企業利得)とへの利潤の分裂。利子生み資本」であった(3)。それが「商品資本および貨幣資 本の商品取扱資本および貨幣取扱資本への,すなわち商人資本への転化。利子と産業利潤(企業利 得)とへの利潤の分裂。利子生み資本」となり,最終的には,「利子と産業利潤(企業利得)とへ の利潤の分裂。利子生み資本」の部分が消され,「商品資本および貨幣資本の商品取扱資本および 貨幣取扱資本への,すなわち商人資本への転化」となった。そして第5章「利子と企業利得(産業 利潤または商業利潤)とへの利潤の分裂。利子生み資本」が分離されたのである(4)。
当初のマルクスの構想においては,金融業(筆者)は,第4章「商品取扱資本および貨幣取扱資 本。利子と産業利潤(企業利得)とへの利潤の分裂。利子生み資本」として構想されていたのであ るが,その内容に関する具体的記述は,『資本論』第1稿(1863-1865年草稿)に先立つ,「経済学 批判(1861-1863年草稿)」の中に見いだされる。「商業資本。貨幣取引業(Geldhandel)に従事す る資本」である。
そこより貨幣取引業の業務に関する部分を引用すれば以下の通りである。
「このような,貨幣支払や貨幣収納の単に技術的な操作は,それ自身労働であり,この労働は,
貨幣が支払手段として機能する限りでは,差額計算や決済行為を必要とする。この労働は一つの流 通費である。資本の一定部分はたえず蓄蔵貨幣として(貨幣準備,すなわち購買手段の準備金や支 払い財源つまり支払いのための準備金として)存在しなければならないのであって,資本の一部分 はたえずこの形態で還流する。これは,支払や収納の他に,この蓄蔵貨幣の保管を必要とするが,
(2) 大谷[1982]120頁〜。同[1989]。並びにM・Müller[1988]S.21〜22。(その翻訳は大谷[1989]183
〜188頁)
(3) 大谷[1982]123頁。マルクスが,『資本論』第3部第4章を「利子生み資本の章」と考えていたことは,
その直前に執筆された『資本論』第2部第1稿からも確認できる。(マルクス『資本の流通過程 ── 『資 本論』第2部第1稿 ──』275頁。このことについては,本稿第3章(1)『資本論』第2部第1稿と現『資 本論』を参照)
(4) 大谷[1982]122〜123頁。
これもまた一つの特殊な操作である。」(「経済学批判(1861-1863年草稿)」V,241頁)
そして,それら特殊な操作が生産資本(現『資本論』では産業資本。注17参照)の運動から自 立(独立)した形態として貨幣取引業は把えられている。それは下記引用に見られるように,「貨 幣取引業として独立した生産資本である」というわけである。
「この運動の中にある生産資本の一部分は,生産資本から分離して,単にこれらの操作 ―― まず 第一に貨幣の保管,貨幣の払出し,貨幣の収納,差額の決済などは,これらの技術的操作を必要と する行為から分離する ―― にのみ携わるのである。これは貨幣取引業として独立した生産資本で ある。」(同,241頁)
「貨幣の保管は貨幣取引業者の仕事になる。これは貨幣取引業者の一つの操作であり,この操作 は資本主義的蓄積過程の一契機から生ずるものであって,その契機は,まず第一に貨幣蓄積として 現れる(少なくとも部分的にそのようなものとして現れる)。資本家は,この遊休蓄蔵貨幣を利子 生み資本として価値増殖し貸付けようとする。こうしたことを貨幣取引業者はその階級全体のため に行うのである。〔貨幣の〕貸借も〔貨幣の〕支払や収納と同じように,貨幣取引業に従事する資 本の特殊な機能 ―― 資本の再生産過程そのものから生じる機能 ―― になる。以前には蓄蔵貨幣貯 水池の集中として現れたものが,いまや同時に,資本として貸付可能な貨幣の集中として現れる。」
(同,242頁)
ここでは,決済の機能に加え,貨幣の貸借すなわち貨幣資本の取扱をも貨幣取引業の業務と理解 されていたのである。そして,下記の為替並びに地金の取引である。
「為替相場や為替のいろいろな業務は世界貨幣としての貨幣の機能から生まれてくるのである。
国民的鋳貨の差額もそうである。最後に,地金取引もそうである。」(同,243頁)
それらを整理すれば以下の4項目となる。
1) 支払,収納,差額決済
2) 蓄蔵貨幣の保管(→貸付可能な貨幣の集中,3)につながる)
3) 貨幣の貸借
4) 為替業務,地金取引
それが,現『資本論』第3部第4篇並びに第5篇に分割される以前の「貨幣取引業」に関する具 体的記述であると考えて良いだろう(5)。それは,現『資本論』第3部第4篇第19章の「貨幣取扱業」,
並びに第5篇第25章における,「信用業(Kreditwesen)」の両者に対応する(6)。
(5) マルクス「経済学批判(1861-1863年草稿)」V,241〜243頁。
(6) マルクス『資本論』第3部第4篇19章並びに第5篇第25章。
『資本論』第3部第5篇第25章に登場する信用業の一つの側面である「信用貨幣=銀行券の創造」は,「経 済学批判(1861-1863年草稿)」「商業資本,貨幣取引業に従事する資本」では触れられていない。ただし,
それに続く「エピソード,資本主義的再生産における貨幣の還流運動」において,そこでは,『資本論』
第2部第2篇第17章と同様に,基本的には再生産の実現,殊に剰余価値の実現をめぐる貨幣的条件を取扱っ ているのであるが,最初に投下した貨幣量に追加される金生産による貨幣供給について述べるくだりにお いて,「ここでは,流通そのものが貨幣の生産作業場として機能するような信用貨幣の場合のことは無視 されている(277頁)」という注意書きを加えている。信用貨幣はここでは捨象されているということで ある。つまり,信用貨幣が,この場面においてマルクスの頭になかったわけでは無いのである。
マルクスは,「経済学批判(1861-1863年草稿)」「第3章,資本と利潤(現『資本論』第3部に 対応)」「商業資本。貨幣取引業(Geldhandel)に従事する資本」において,現『資本論』第3部第 4篇第19章,第5篇25章両章において語られる「貨幣取扱業(Geldhandel)」ならびに「信用業
(Kreditwesen)」の業務を,信用業の一つの側面である「信用貨幣の創造」を除いてではあるが,「貨 幣取引業(Geldhandel)」の名称のもとに一括して論じていたのである。そして,大谷の先の考証 に従えば,『資本論』草稿第3部第4章(現『資本論』第3部第4篇,第5篇)の執筆途上までマ ルクスはこの線で考えていたのである。
「銀行法(日本国)」によれば,「第2条の2,この法律において「銀行業」とは,次に掲げる行 為のいずれかを行う営業を言う。一,預金又は定期積金の受入と資金の貸付または手形の割引とを 併せ行うこと。二,為替業務を行うこと(2011年5月25日法律第53号)」となっている。そこでは,
信用機能である「預金の受入れと貸付(貨幣の貸借)」並びに「手形割引」と,決済機能である「為 替業務」が取り上げられている。なお,為替業務には狭義の送金為替の他,小切手取扱,手形取扱
(取立,支払)を含めて考えてよい。
そのように考えたとき,常識的には銀行業の二大業務であるそれらを,マルクスもまた『資本論』
第3部第1稿第4章執筆途上までは,「貨幣取扱業(Geldhandel)」の名称のもとに,そのように理 解していたのである。それらは,『資本論』第3部第4章において一括して論じられる予定であった。
しかしマルクスは,その執筆途上において,第4章,第5章(現『資本論』第4篇,第5篇)に分 割して論じたのである。これは一つの謎である。その時,我々の課題は,この謎の解明すなわちこ のプラン変更の理由の解明となる。
問いは次のようになる。マルクスはなぜ『資本論』第3部第1稿において第4章を,第4章,第 5章に分割したのであるか。すなわち,銀行業の二大業務である決済機能と,信用機能がそのよう に分割して論じられなければならなかった訳は何であったのか,と。
この問に対するヒントをなすと考えられるのが,大谷による『資本論』第1稿の執筆順序に関す る研究である。『資本論』第1稿は,基本的には第1部執筆後,第3部の執筆に入り,それを中断 して第2部が執筆され,再び第3部の執筆に戻ったというのは,MEGA編集者共通の認識であっ たのだが,その時期をめぐって大谷とMEGA編集者との間で論争となった(7)。大谷の見解が承認さ れることでこの論争は収束するのであるが,この間の事情について,M・ミューラーは次のよう総 括している(8)。
「この草稿の成立にとって特徴的であるのは,マルクスは(『資本論』第3部第1稿,筆者注)第 産業資本の運動の自立化の具体的形態を扱う「経済学批判(1861-1863年草稿)」「商業資本。貨幣取扱 業に従事する資本」では,その位置づけが与えられなかった信用貨幣が,「1863-1865年草稿」『資本論』
第3部第1稿第5章(現『資本論』第3部第5篇第25章)においては,信用貨幣の創造は明確に信用業 の一つの側面として,信用業のもう一つの側面=貨幣の貸借業務に対して位置づけられている。「経済学 批判(1861-1863年草稿)」の段階では,その位置づけがマルクスの中で固まっていなかったのかもしれ ない。
(7) 大谷[1989]「第4束について」120〜138頁参照。
(8) M・Müller [1988] S. 21,(翻訳,大谷[1989]186頁)。
3章の[あとに],または商人資本の第4章の[前に],まず間違いなく1864年末に,この草稿の 仕事を中断して,第2部「資本の流通過程」の最初の草稿を執筆したことである。……マルクス=
エンゲルス研究者たちにとって最初にこの中断そのものが根拠づけられたときには,第4章はすで に書き上げられていた,と主張された(MEGA編集者の見解,筆者注)。しかしながら,この中断 がこの章を執筆する前に生じていたこと示す動かしがたい諸論拠がある(大谷説,筆者注)。ここ で中断が生じたことには,明らかに形式的でなくて方法的な諸原因があった。」と述べる([ ]内,
強調。筆者注)。ここでは大谷説の論拠を「動かしがたい諸論拠」と認め,さらに,この中断の「方 法的な諸原因」への問いに踏み込んでいる。
ところで,ここでM・ミューラーのいう「中断の方法的な諸原因」とは以下の二点である。
第一は,第3部第1篇「利潤率」の前提となる,「年剰余価値率」に関する理論の完成の必要性 である。それには資本の回転の考察が不可避であったということ。
そして,第二は,生産資本(現『資本論』では産業資本)の循環と,その特殊部門の自立化の問 題である。この件についてのM・ミューラーの記述は以下の通りである。翻訳は,基本的に大谷 訳に従ったが一部変更してある。
「周知のように,マルクスはすでに,流通過程については独立に論じている箇所をもたない
「1861-1863年草稿」で,商業資本と利子生み資本との運動を研究していた。その際次のような根 本的な考えが彼の心にかかっていた。―― すなわち,貨幣資本と商業資本は,一方では「生産資 本の一般的な形態規定性」であり,他方では自立化された形態で(原文では“inverselbständigter Form”となっているが,これを“in verselbständigter Form”の誤植と読んだ。筆者注),つまり「特 殊的諸資本(だからまた独自な資本家群)として」登場する,ということである。ここでは
(「1861-1863年草稿」(9)),次のようにも述べられている。―― 「それらはまた,生産資本一般の特 殊的諸形態として,特殊的資本の諸部面,資本の価値増殖の特殊的部面(besondre Sphären der Capitalverwertung)にもなる」。生産資本の間の分配闘争のもろもろの法則性をテーマにした,草 稿の最初の三つの章のあとで,マルクスが直面した問題は,もろもろの特殊的資本の形態の叙述は,
生産資本の諸変態の叙述からどのようにして,厳密に区切られるべきか,この両者間の移行は,ど のように個々的に具体化されるのか,ということであった。そしてこのことは資本の流通過程の分 析を前提していた。諸資本の現実的運動(reale Bewegung)を問題にするまえに,まずもって,諸 資本のこの自立化の可能性が ―― 資本の運動範式(die formelle Bewegung des Kapitals)が ―― 確 定(fixiern)されなければならなかったのである。」(10)
(9) マルクス「経済学批判(1861-1863年草稿)」V,61頁。M・ミューラーの引用の該当箇所は,以下の通り である。「だから,二重化が生じるのである(少なくとも外見からすれば)。一面では,商業資本(商品資 本)と貨幣資本(moneyed capital)とは生産資本の一般的な諸形態規定であり,また,生産資本が商業資 本(商品資本)や貨幣資本(貨幣取引業)として通過する特殊な運動は,生産資本がその再生産過程の中 でこのような二つの形態で行う特殊な諸機能である。他面では,特殊な諸資本(したがってまた独自な資 本家連中)は,商業資本の形態においてであろうと貨幣資本の形態においてであろうと,専門的に活動す るのである。それらはまた,生産資本一般の特殊な諸形態として,特殊な諸資本の諸部面,資本の価値増 殖の特殊な諸部面にもなるのである。」
(10) M・Müller [1988] S. 21〜22,(翻訳,大谷[1989]187〜188頁)。
上記を筆者の見解を交えて解説すれば,『資本論』第3部第1稿第4章の主題は当初「商品取扱 資本および貨幣取扱資本。利子と産業利潤(企業利得)とへの利潤の分裂。利子生み資本」であっ たが,その商品取扱資本ならびに貨幣取扱資本(『資本論』第3部第1稿の当初においては,利子 生み資本の管理は商人資本としての貨幣取扱業の業務と認識されていた。筆者注)を,生産資本の 運動(生産資本の循環)から,その自立化した特殊的形態として描き出す課題であった。ここでの 鍵は,「生産資本の運動の自立化」である。
それは,貨幣取扱業が,貨幣取扱業(金庫業)と信用業とに分割して論じられる現『資本論』に おいても基本的には変わらない。
大谷は,上記の引用のあとで以下の様に総括する。「ここで,ミューラー氏が指摘しているのは,
きわめて興味深いテーマをなすものである。マルクスがなぜ,第3部の商業資本と利子生み資本と の分析にはいる直前に,第2部の描き下ろしに向かわざるをえなかったのかを,これらの分析との 関連で説明するという課題である。それは一方では,第2部第1稿および第3部第1稿を,この観 点から読み解くことを要求するが,他方では,この問題意識は,第3部第1稿の商業資本および利 子生み資本に関する記述を,第2部第1稿に引き続いて書かれたものとして読み解くこと」(11)であ ると。
本論考は,大谷,M・ミューラーの問題提起を,殊にM・ミューラーのあげる第二の問題提起を 引き継ぐものである。確認すれば『資本論』第3部第1稿第4章が,第4章,第5章(現『資本論』
第3部第4篇,第5篇)に分割された意味を,再生産論の視点から読み解くべき課題である。
3. 再生産の運動とその貨幣・貨幣資本的条件
(1) 『資本論』第2部第1稿と『資本論』第3部第1稿第4章
大谷禎之介によれば,『資本論』第3部第1稿は,その執筆の途中で中断され,第2部第1稿の 執筆が行われ,引き続いて第3部第4章が執筆された。さらに第4章執筆の途中にプランの変更が 行われ,それは第4章と第5章に分割された。『資本論』第3部第1稿執筆の中断の意味,すなわ ち『資本論』第2部第1稿と,第3部第1稿第4章との関係についての考察が以下の課題となる。
『資本論』第2部第1稿において,第3部第1稿第4章に直接言及されるのは,第2部第1稿第 3章第6節「蓄積を媒介する貨幣流通」である。それは第5節「蓄積,すなわち,拡大された規模 での再生産」に引き続き記されているが,そこでの主題は,拡大再生産の実現に要する貨幣量と,
貨幣資本の蓄積である。
「しかし,生産の規模が同じままであれば,一度流通状態におかれた貨幣量 ―― われわれはこの 中に,内外の交易に生じる諸々の変動の調整に役立っている既存の蓄蔵貨幣を含めている ―― で 足りるであろう。ところが,蓄積,あるいは,拡大された規模での再生産の結果,前貸される貨幣 資本の価値も,様々な資本の間での価値転換も,いずれも拡張するのである。」(マルクス『資本の
(11) 大谷[1989],188頁。
流通過程 ―― 『資本論』第2部第1稿 ――』274頁)
単純再生産であれば「一度流通状態におかれた貨幣量で足りるであろう」。しかし,拡大再生産 においては,「前貸される貨幣資本の価値(Vorschuβ,前払・投資される貨幣資本。筆者注)」,「様々 な資本の間での価値転換(拡大された生産を実現する貨幣=流通手段としての貨幣。筆者注)」,い ずれにおいても貨幣量が拡張する必要がある。そして,以下の記述に見られるように,そこでの問 題の核心は,剰余価値の実現に要する貨幣である。
「流通の拡大に反対に作用する諸事情 ―― 支払手段としての貨幣の発展,信用制度とその諸形態 の発展,人口密度の増大に伴う貨幣流通の加速化,交通・通信手段の改良 ―― を度外視し,かつ それに加えて純粋金属流通を前提すれば,次のことは明らかである。すなわち,年々の国民的剰余 生産物の一部分は金銀と交換されて,まず最初は個々の資本家の売られた商品資本の貨幣形態とし て返され,それから,収入のであろうと資本のであろうと流通手段として流通に入っていく。」(同 274頁)
「流通の拡大に反対に作用する諸事情 ―― 支払手段としての貨幣の発展,信用制度とその諸形態 の発展,人口密度の増大に伴う貨幣流通の加速化,交通・通信手段の改良 ―― を度外視し,かつ それに加えて純粋金属流通を前提すれば」,すなわち,貨幣取扱業(現『資本論』における金庫業
(Kassierer) 並びに信用業(Kreditwesen)。Kassiererは出納業とも訳し得る。)によって加速される 貨幣の流通速度等を捨象し,金属貨幣のみが流通すると仮定すれば,「年々の国民的剰余生産物の 一部分は金銀と交換」されること,すなわち金銀の調達が必要だというわけである。そしてその金 銀が,資本家の手に商品の貨幣形態への転態として集積し,それが「収入のであろうと資本のであ ろうと流通手段(貨幣)として流通に入っていく」。そこでは,拡大再生産における拡大された商 品の実現の可能性の根拠をなす,金銀の集積=貨幣の蓄積が主題となっている。
「次にはさらに,貨幣蓄積そのものを,資本の蓄積の特殊的一形態としての貨幣蓄積を,研究す べきである。」(同,274頁)
それは,拡大再生産のための追加的「貨幣資本」の蓄積への問である。
ただし,ここでいう,「資本の蓄積の特殊的一形態としての貨幣蓄積」と記されるその内容は,
仮空資本(国債,株式。筆者注),並びに貨幣の貸借を除外した,貨幣量の増大,すなわち貨幣の 蓄積が同時に貨幣資本の蓄積である様な場合である。
「まず,現実資本に対する,あるいは将来の収益に対する所有権限(国債,等々のような)の集 積にすぎないいわゆる貨幣資本(仮空資本(Fiktiveskapital)を指す。現『資本論』第3部第5篇 第29章において展開される。筆者注)……それは実際には,リカードゥが国家の債権者の貨幣資 本(国債,筆者注)について正しく言っているように,まったく資本ではない(no capital at all)
のである。この「観念的資本」の形態についてのさらに詳しいことは,利子生み資本のところ(第 3部第4章)で述べるべきである。……つまりこれが退けられるべき第一のことである。」(同,
275頁)。
「貨幣資本の蓄積が,収入のうち資本にやがて再転形されはずの部分がひとまず蓄蔵貨幣として 遊休する(現『資本論』第3部第5篇第25章,における,信用業の他の側面(die andre Seite),
貨幣の貸借の業務に対応する。筆者注),等々のことを意味する限りでは,このことも,同じく利
子生み資本についての第4章(第4章,第5章に分割される以前のプランとしての第3部第4章,
筆者注)でくわしく考察すべきである。」(同,275頁)
仮空資本,並びに貨幣の貸借の業務を退けた後に,マルクスの語るのは以下の通りである。
「金または貨幣の現実の蓄積を,一国民について,資本主義的生産の基礎上で語りうるのは,ただ,
それの再生産過程一般の拡大に伴って,収入の内金または銀と交換される部分もまた ―― 流通に 含まれている部分も,すでに述べたような貨幣蓄積を必要とする様々な機能のために,たえず蓄蔵 貨幣を形成する部分も ―― 拡大される,という限りにおいてである。」(同,275頁)
つまり,貨幣取扱業(金庫業並びに信用業)無しに,かつ金属貨幣だけという条件のもとでは,
拡大再生産に対応する追加的貨幣資本の供給が可能であるためには,拡大再生産の実現のための追 加的貨幣供給と同様に,「金または貨幣の現実の蓄積」が,「拡大されるという限りにおいてである」。
つまり,金または貨幣(鋳貨)の不断の供給拡大(生産,または外国からの購入)が,拡大再生産 の可能的条件となるというわけである。しかしそれは現実的ではないだろう。それは逆説というべ きである。ここで前提となっていた諸条件,すなわち,「貨幣取扱業(金庫業並びに信用業)無しに,
かつ金属貨幣だけという条件」そのものが止揚されなければならない。
第3部第4章,それは「利子生み資本についての」章と呼ばれているが,それは,紛れもなく,
拡大再生産のための貨幣ないし貨幣資本的条件についての考察が,ここでは除外されていた貨幣取 扱業(金庫業並びに信用業)の括弧が外され,第3部第4章で論じられることの予告である。
これを受けて,その再生産の実現にかかる貨幣的条件と,明らかに拡大再生産にかかる追加的貨 幣資本の可能的条件についての考察が,それに引き続いて執筆された,『資本論』第3部第1稿第 4章「商品取扱資本および貨幣取扱資本。利子と産業利潤(企業利得)とへの利潤の分裂。利子生 み資本」において考察されるはずであった。それは,マルクス「経済学批判(1861-1863年草稿)」
にいう「貨幣取引業として独立した生産資本(V,241頁)」の考察である。
ここで確認すべきは,『資本論』第2部の再生産論が,『資本論』第3部第1稿第4章との連関の もとに構想されていた事実である。この論理構造は,現『資本論』においても変わってはいない。
(2) 『資本論』第2部第2篇第17章「剰余価値の流通」と『資本論』第3部第4篇,第5篇 ところで,現『資本論』第2部には,『資本論』第2部第1稿は使われていない(『資本論』第2 部「序言」エンゲルス,1893年7月15日付)。『資本論』第2部の草稿は,件の第1稿のほか第8 稿まであるが,内,第1〜4稿は1870年までに仕上げられたもので,第2稿が,その最終稿であり,
第5〜8稿はそれ以降のものである。『資本論』第2部は第2稿を基礎に仕上げられたが,「この最 後にあげた原稿(第2稿のこと,筆者注)は,第2部の書き上げの内でどうにか完成されている唯 一のものであって,1870年のものである。すぐ次に言及する最後の改修のための覚書には「第二 の書き上げが基礎とされねばならない」と明記してある」(資II序,8〜9頁)
『資本論』第2部第1稿後執筆された第3部第4章はプランが変更され,第4章は第4章,第5 章に分割された。その後,『資本論』第2部第2稿(1870年)が執筆されたが,現『資本論』第2 部第2篇第17章「剰余価値の流通」は,それに基づくものである。『資本論』第3部第4章の第4章,
第5章への分割を前提として,それを受けて執筆されたのが『資本論』第2部第2稿の当該箇所で
あるということになる。それは,その分割との整合性,言い換えれば分割の必然性を説明する使命 を帯びていたというべきである。
『資本論』第3部第1稿第4章が第4章,第5章へ,すなわち現『資本論』第3部第4篇,第5 篇へと分割して論じられる意味を,『資本論』第2部との関係で考察する本稿の課題に対しては,
第2稿を基とした現『資本論』が,検討の対象としては,適切であると考えられる。第1稿ではな く,第2稿を基とする現『資本論』を検討の対象とした所以である。
したがって,本稿においては,前章の大谷,M・ミューラーの問題提起に若干の修正が加えられ る。『資本論』第2部第1稿に引き続いて第3部第4章,第5章が記されたのであるが,考察の主 対象は,『資本論』第2部第1稿ではなく,『資本論』第2部第2稿にもとづく現『資本論』第2部 第2篇第17章となる。
『資本論』第2部第2篇「資本の回転」第17章「剰余価値の流通」について考察を加えることに なるが,そこでの論述の基本的視点は,「貨幣」と「貨幣資本」との明確な区別にある。ここで,
後論のために一般的な考察を加えておく。
第2部第2篇第17章第2節「蓄積と拡大再生産」に以下のような記述がある。
「さしあたり,増大する生産資本の機能のために必要な追加的貨幣資本について言えば,これは,
実現された剰余価値のうち,資本家が収入の貨幣形態(Geltform der Revenue)としてでなく貨幣 資本(Geldkapital)として流通に投げ入れる部分によって提供される。貨幣(Geld)はすでに資本 家の手にある。その用法が異なるだけである。」(資II 2-17,259頁,MEW24.S.345)
ここでは,「実現された剰余価値」「貨幣」がその用法において「収入の貨幣形態」と「貨幣資本」
に分化することが語られる。W′−G′の内,G′はいずれにしてもすでに(実現して)資本家の手元 にある「貨幣」である。商品を実現した「貨幣」は,その用法において「収入の貨幣形態」と「貨 幣資本」という形態を受けとる。ここでは,「貨幣」と「貨幣資本」は,上位類概念とその下位概 念をなし,「貨幣」概念は「貨幣資本」概念を包摂する。そのとき「貨幣資本は,それぞれの個別 的資本が舞台にのぼる ―― 資本としてのその過程を開始する ―― 際にとる形態である。だからそ れは全過程を動かす起動力(primus moter,原注にerste Triebkraftとある)として現象する」(資 II 3-18,266頁,MEW24.S.354),そのような貨幣である(12)。
(12) マルクス『資本の流通過程 ── 『資本論』第2部第1稿 ──』においても同様の記述がある。
「年々の国民的剰余生産物の一部分は金銀と交換されて,まず最初は個々の資本家の売られた商品資本 の貨幣形態として返され,それから,収入のであろうと資本のであろうと流通手段として流通に入ってい く。」(マルクス『資本の流通過程 ── 『資本論』第2部第1稿 ──』274頁)と。
ここでいう「流通手段」は「商品の実現された貨幣形態」と同義である。その「流通手段」は資II 2-17第2節「蓄積と拡大再生産」における,「資本家の手にある」「貨幣」であり,「流通手段」は,その 用法において「収入としての流通手段」と「資本としての流通手段=貨幣資本」に分かれるというのであ る。この「流通手段=貨幣」と「資本としての流通手段=貨幣資本」の区別が重要なポイントをなすと思 われるのは,この点が『資本論』第3部第5篇第28章(第3部第1稿第5章)でも繰り返され,さらに『資 本論』第2部第2稿で明確化される視点であるからである。
『資本論』第3部第5篇第28章「流通手段と資本。トゥークとフラートンの見解」が,銀行学派の「流 通手段」と「資本」の区別の批判的考察であることは周知のことである。
以上を,再生産との関わりで図示すれば以下の通りである。
G−W…P…W′−G′の「W′−G′」は,資本の流通過程であるが,この時,貨幣は生産された商品 の実現に関わる。G−W…P…W′−G′は,資本の循環の総過程であるが,この時Gは起動力として 再生産の全体に関わる。Gが追加貨幣資本の導入であれば,G−「G−W…P…W′−G′」−G′(資III 5-21,281頁,MEW25.S.353)となる。
第2部第2篇第17章「剰余価値の流通」は,「第1節,単純再生産」「第2節,蓄積と拡大再生産」
の2節からなる。第17章「剰余価値の流通」の以下の展開は,再生産の実現にかかる貨幣(貨幣 としての貨幣。筆者注)と,再生産の拡大にかかる貨幣資本(資本としての規定性を受けとった貨 幣。筆者注)の可能的条件をめぐる議論となる。
さて,第2部第2篇第17章「剰余価値の流通」「第1節,単純再生産」においては,投資された 貨幣資本は同一規模で回収されることが前提されている。ここで問題となるのは,生産された商品 の実現,殊に剰余価値を実現する貨幣的条件である。
「だが商品資本は,生産資本に再転形される前に,またそれに含まれている剰余価値が支出され る前に,貨幣化されねばならない。そのための貨幣はどこから来るか? この問題は一見したとこ ろ困難に見えるのであって,トゥークもその他のものも,従来まだ回答していない。」(資II 2-17,
248頁,MEW24.S.332)(13)
「こうして機能する貨幣が支払者または受領者にとって資本をあらわすか収入をあらわすかは,どうで もよいことであり,事態を絶対に変化させない。この貨幣の分量は,単純に,購買=および支払手段とし てその機能によって規定される。(資III 5-28,12頁,MEW25.S.462)」
トゥークは,小売業者-消費者と,生産者-生産者間の流通の区別から,流通手段(等価交換の媒介とし ての貨幣)と資本とを区別したのであるが,「区別は,事実上,収入の貨幣形態と資本の貨幣形態との区 別であって,流通手段と資本の区別ではない。(資III 5-28,30頁,MEW25.S.459)」すなわち,商品を実 現する貨幣は,それが消費者であろうと生産者であろうと,購買手段であると支払手段であるとに関わら ず,おなじ流通手段(貨幣としての貨幣)である。
それに対して,生産財に投資される貨幣は,資本であり,消費財の購入に充てられる貨幣は収入である。
それらはそれぞれ,資本の貨幣形態であり,収入の貨幣形態であるという訳である。だから,資本を流通 手段としての貨幣から区別するものは「この貨幣は一方の側 ―― 売手 ―― のために資本を塡補するばか りでなく,他方の側 ―― 買手 ―― からも資本として支出・前貸しされるということである(資III 5-28,
10頁,MEW25.S.459)」。それは,貨幣そのものに属するのではなく。その用法にかかる定義である。
ある意味で,『資本論』第2部第1稿における(必ずしも明確ではなかった)この区別が明確化され自 覚されたことが,『資本論』第3部第1稿第4章が,第4・5章に分割された根拠となったのだと考えてい る。
(13) この件については「経済学批判(1861-1863年草稿)」V「エピソード 資本主義的再生産における貨幣の 循環運動」(『資本論草稿集』8,大月書店)において,詳細な検討がある。「商人資本。貨幣取引業に従事 する資本」(同上)が,現『資本論』における,第3部第4篇,第5篇における,産業資本の自立化形態 とその機能に関わる論述であるのに対して,「エピソード 資本主義的再生産における貨幣の循環運動」は,
再生産の実現の貨幣的条件について,主に単純再生産に即して論じたものである。後者は,『資本論』第 2部第1稿第3章第6節(1863-1865年草稿)で要約して論じられ,同第2稿(現『資本論』第2篇第17章)
で再び論じられる内容に対応する。なお,それは,現『資本論』第3部第5篇第28章「流通手段と資本。
トゥークとフラートンの見解」につながる内容をなす。
資本の循環G−W…P…W′−G′は,W′=W+⊿W,G′=G+⊿Gであるので,G−W…P…W−Gと
⊿W−⊿Gとに二重化される。⊿W−⊿Gは,剰余価値の生産とその実現である。単純再生産とは,
この時,⊿Wがすべて資本家階級によって消費される消費財であるという仮定である。
ところで,「G−W…P…W−G」の「W−G」が実現するのは,初期投資のGが,Wを買戻すこ とによって(Wの一部は生産財であり,一部は労働者の生活財であるが)資本家のもとに還流す ることによってである。ところが「⊿W−⊿G」の⊿Wは,資本家階級の生活財であるが,その実 現のための⊿Gはどこから来るか,というのが,上記の問いである。
マルクスの解答は,そっけない。
「じつは, ―― 一見どんなに逆説的に見えても ―― 資本家階級自身が,商品に含まれる剰余価値 の実現に役立つ貨幣を流通に投げ入れるのである。だが,よく注意せよ。―― 彼らがこの貨幣を 投げ入れるのは,投資された貨幣としてではなく,つまり資本としてではない。彼らはそれを,彼 らの個人的消費のための購買手段として支出する。だから,彼らはこの貨幣の流通の出発点だとは 言え,この貨幣は彼らによって投資されるのではない。」(資II 2-17-1,251頁,MEW24.S.335)と いうわけである。但し,一度投入された貨幣は資本家階級に環流し,繰り返し剰余価値を実現する。
もう一つの条件がある。記述の順序は前後するが,それは,貨幣摩損に対する塡補である。金の 生産ないし外国からの購入(為替決済にかかる地金輸入等)の問題である。
「この蓄蔵貨幣の一部分が磨損によって消耗されるかぎりは,それは年々,他のあらゆる生産物 と同じように,新たに塡補されなければならない。この塡補は,現実には,国内の年生産物の一部 分を金銀生産諸国の生産物と直接にまたは間接に交換することによって行なわれる。……奢侈品用 に生産される金銀を別とすれば,その年生産(輸入は捨象してある。筆者注)の最小限は,年々の 貨幣流通によって生ずる貨幣金属の磨損に等しくなければならない。さらに,年々の生産されて流 通する商品分量の価値額が増大すれば,年々の金銀生産も増大しなければならない。」(資II 2-17-1,244頁,MEW24.S.327)
「単純再生産を前提」するとしても,「最小限」すなわち,貨幣の磨損を塡補するに足りるだけの 貴金属の供給は不可欠である。それに引き続き「さらに,年々の生産されて流通する商品分量の価 値額が増大すれば,年々の金銀生産も増大しなければならない」とマルクスは記しているが,それ は,次節の「蓄積と拡大再生産」に関わる問題である。
以上を整理すれば,単純再生産の実現のための貨幣的条件は以下の3点に要約される。
1) 初期投資資本とその回収(→同一規模で再投資。筆者注)
2) 資本家による流通手段としての貨幣の初期支出。(→回収,再支出。筆者注)
3) 貨幣摩損塡補のための,金銀地金の生産ないしは輸入。(生産量不変すなわち通貨量不変と 仮定しても,金属貨幣の損耗によるその填補は不可避と言う訳である。筆者注)
以上の単純再生産に関する基礎的考察の上に,『資本論』第2部第2篇第17章「剰余価値の流通」
第2節「蓄積と拡大再生産」においては,拡大して生産された商品の実現のための貨幣的条件への 「経済学批判(1861-1863年草稿)」「エピソード」については,小林賢齊[2010]において詳細な研究 がある。
問いとともに,追加貨幣資本の蓄積が主題となる。
「ところが今や,追加の生産資本によって,その生産物として,追加の商品分量が流通に投げ入 れられる。この追加の商品分量と同時に,その実現に必要な追加貨幣の一部分が,流通に投げ入れ られた。―― すなわち,この商品分量の価値がその生産のために消費された生産資本の価値に等 しい限りでは。この追加の貨幣分量は,まさに追加の貨幣資本として投下されたのであり,したがっ て,資本の回転によって資本家のもとに還流する。ここに再び同じ問題が生ずる。いま商品形態で 現存する追加の剰余価値を実現するための追加貨幣はどこから来るか。」(資II 2-17,259頁,
MEW24.S.345)
「一般的な答は再び同じである。」(資II 2-17,259頁,MEW24.S.346)
基本的には,資本家の支出による,という点で「一般的な答は再び同じである」。
だが,そこには,もう一つの問題がある。拡大再生産とは,生産規模の拡大であり,商品供給量 の拡大である。拡大再生産による増大した商品供給量に対応する,追加貨幣の需要が増大するが,
そのための「追加貨幣」は,いかにして供給されるか,という問いである。それは貨幣の供給量の 問題である。それは,個別資本ではなく社会的総資本の観点からの考察である。
「流通する商品分量の価格総額が増加しているが,それはけだし,ある与えられた商品分量の価 格が騰貴したからではなく,今流通する商品の分量が以前の流通商品の分量より増大しており,し かも,この増大が価格の下落によって相殺されなかったからである。/この増大した価格をもつ増 大した商品分量の流通に必要な追加貨幣は,流通する貨幣分量の節約の高度化 ―― 諸支払いなど の相殺によってであれ,同一貨幣片の流通を早くする手段によってであれ ―― によってか,ある いはまた,蓄蔵形態から流通形態への貨幣の転形によって,調達されなければならない。この後者 は,遊休貨幣資本が購買=または支払手段として機能しはじめるということ,あるいはまた,すで に準備金として機能している貨幣資本がその所有者にとっては準備金たる機能を果たしつつ,社会 のためには(たえず貸出される銀行預金の場合のように)能動的に流通する・つまり二重の機能を 果たす・ということを含むばかりでなく,なおまた,鋳貨の停滞的準備金が節約されるということ をも含む。」(資II 2-17,259頁,MEW24.S.346)
流通する商品量の増加に対する貨幣供給は,貨幣量一定のもとでは,その流通速度を早めるか,
蓄蔵形態にある貴金属の貨幣への転形による以外にはない。それでも不足する場合は,いずれにし ても貨幣量の増加が必要となる。金の追加生産によるか,信用貨幣の創造によるというわけである。
マルクスはこの点について以下の様に語っている。それは貨幣の蓄積である。
「これら一切の手段でも足りないかぎりは,金の追加的生産が行われなければならない。あるいは,
同じことに帰着するが,追加的生産物の一部分が,金 ―― 貴金属生産国の生産物 ―― と直接また は間接に交換される。/流通用具としての金銀の生産に支出される労働力と社会的生産手段との総 額は,資本制的生産様式の ―― 総じていえば商品生産にもとづく生産様式の ―― 空費の最大な項 目をなす。それは,それ相当額の可能的・追加的な生産手段および消費手段,すなわち現実的富を,
社会的利用から引き上げる。資本の規模が一定の場合,またはその拡張の程度が一定の場合に,こ の高価な流通手段の費用が軽減されるかぎり,それによって社会的労働の生産力が高められる。だ から,信用業とともに発展する補助手段がこうした効果をもつ限り,―― それによって,社会的
生産=および労働過程の一大部分が現実的貨幣の一切の介入なしに遂行されるにせよ,現実に機能 する貨幣分量の機能能力が高められるにせよ,―― その補助手段は資本制的富を直接に増加させ る。/今日の規模での資本制的生産が,(この立場だけから見ても)信用業なしに,すなわち金属 流通だけで可能かどうかというばからしい問題も,これだけで片づく。それは明らかに不可能であ る。それどころか,資本制的生産は金属流通の範囲によって限界されるであろう。他面,ひとは,
貨幣資本を提供しまたは流通させるかぎりでの信用業の生産力について神秘的な考えを抱いてはな らない。この点についての詳しい展開は,ここでなされるべきではない。」(資II 2-17,260頁,
MEW24.S.347)
そこでいわれる,生産規模の拡大に伴う貨幣供給の源泉は以下の4つとなる。
1) 「流通する貨幣分量の節約の高度化 ―― 諸支払いなどの相殺によってであれ,同一貨幣片の 流通を早くする手段によってであれ ―― によって」。
2) 「蓄蔵形態から流通形態への貨幣の転形によって」。
3) 「金の追加的生産 ……あるいは,同じことに帰着するが,追加的生産物の一部分が,金
―― 貴金属生産国の生産物 ―― と直接または間接に交換される」ことによって。
4) 「信用業とともに発展する補助手段 ……今日の規模での資本制的生産が,信用業なしに,
すなわち金属流通だけで可能かどうかというばからしい問題も,これだけで片づく。それは明らか に不可能である」。ここでいう「信用業とともに発展する補助手段」とは,基本的には銀行券を指 すと考えてよいだろう(14)。しかも,マルクスはこのように続けている。それがなければ「それどこ
(14) ここでいう,金属流通と区別される「信用業とともに発展する」「補助手段」とは何であるかについては,
若干の論究が必要となる。それに関して,マルクスの考えを推測させる記述が,『資本論』第2部第2篇 第17章の序言にあたる部分に見出される。再生産の実現ではなく,追加的貨幣資本の蓄積に関する記述 であるが,以下に引用する。
「この追加的な潜在的貨幣資本が自らを表示しうる最も簡単な形態は,蓄蔵貨幣の形態である。この蓄 蔵貨幣が,貴金属生産諸国との交換によって直接または間接に受取られた追加の金または銀だという事は,
ありうることである。また,こうした仕方でのみ,一国内の貨幣蓄蔵額は絶対的に増大する。他方では,
―― 多くの場合にはそうであるが,―― この蓄積貨幣は,国内的流通から引上げられた貨幣が個々の資 本家の手で蓄蔵貨幣の形態をとったものに他ならない,ということもありうる。さらに,この潜在的な貨 幣資本がたんに価値章標(Wertzeichen)であるか,―― われわれはここでは,まだ信用貨幣を度外視する,
―― あるいはまた,第三者にたいする資本家の,法定文書によって確認されたたんなる請求権だという こともありうる。すべてこれらの場合には,この追加的貨幣資本は,その定財形態のいかんをとわず,そ れが将来資本たるかぎりでは,社会の将来の追加的な年生産にたいする,資本家の追加的なかつ準備とし て保有される請求権以外には,ぜんぜん何も代表しない。」(資II 2-17,241頁)
「われわれはここでは,まだ信用貨幣を度外視する」といわれるのは,この段階では,競争も信用業も 今だ捨象されているからである。ここで除外されている「信用貨幣」に対して,「価値章標」,「第三者に たいする資本家の,法定文書によって確認されたたんなる請求権」が対比的に記載される。「価値章標」
とは,金目から分離した鋳貨ないしは不換紙幣(政府紙幣)をさし,「第三者にたいする資本家の,法定 文書によって確認されたたんなる請求権」とは,基本的には商業手形を指すと考えて良い。
ここでいわれる,「価値章標」でもなく,「第三者にたいする資本家の,法定文書によって確認されたた んなる請求権」(商業貨幣=商業手形)でも無い「信用貨幣」とは,『資本論』第2部第2篇第17章第2 節に語られる「この点についての詳しい展開は,ここでなされるべきではない」と注記される「信用業と ともに発展する補助手段」に対応すると考えて良いだろう。それは,銀行券であると考えるのが妥当だろ
ろか,資本制的生産は金属流通の範囲によって限界されるであろう」というわけである。
ここで,「この点についての詳しい展開は,ここでなされるべきではない」と注記されるのは,
この問題の考察のためには,産業資本の自立形態である商人資本(貨幣取扱業)ないし信用業へと 上向しなければならないからである。それは,『資本論』第3部第4篇,第5篇への前哨をなす。
以上述べられた,拡大再生産の実現にかかる,貨幣需要に対する貨幣供給の条件への問いを図化 すれば,おおよそ以下のとおりである。
G−W…P…W′−(G+⊿G)に対して,⊿Gのうちgが追加貨幣資本として生産に投下される。そ の資本の運動範式は,g−w…p…w′−g′(g+δg)となる。
gの投資は生産過程を経て商品w′を流通に投ずるが,w′(w+δw)の内,wは最初に投ぜられた gの還流によって賄われるが,δwを実現するδgはどこから来るかという先の問に回帰する。しかも,
δwの拡大とともにこのδgも不断に拡大する。
上記の問題は,拡大再生産の実現の条件をなす貨幣(δg)が主題であった。
それに引き続き,以下においては,貨幣資本の蓄積が主題となる。
「さて,現実的蓄積,すなわち生産規模の直接的拡大が行われるのではなく,実現された剰余価 値の一部分が,のちに生産資本に転化されるために長かれ短かれの期間にわたって貨幣準備金とし て積み立てられる場合を考察しなければならない。」(資II 2-17,260頁,MEW24.S.347)
それは,上記の例のごとく剰余価値の一部が直ちに資本に転化される場合ではなく,追加投資の ための貨幣資本が蓄積される場合がその主題となる。剰余価値の一部は積み立てられ,それが後日 投資される。それは,資本の有機的構成の変化(高度化)に関わる,設備投資のための貨幣資本の 蓄積の可能性への問いである(15)。
ただしこの場合,「以前と同じ分量の貨幣(金量,筆者注)が国内にあるものと想定」され,「信 用業は,ここでは実在しないものと前提される」(資II 2-17,261頁,MEW24.S.348)。信用が,括 弧を外され,考察の視野に登場するのは,『資本論』第3部第5篇においてである。
「この場合に積み立てられる貨幣は,販売された商品の ―― しかも,その価値のうち所有者にとっ て剰余価値を表わす部分の ―― 貨幣形態である。(信用業は,ここでは実在しないものと前提され る。)この貨幣を積み立てた資本家は,その限りでは,購買することなく販売する。」(資II 2-17,
261頁,MEW24.S.348)
「この経過を部分的なものと見れば,何も説明すべきことはない。」(資II 2-17,261頁,MEW24.
S.335)
一部の資本家が売り上げの一部を,貨幣として蓄積することも,また蓄積した貨幣をもって,生 産財を購入する(すなわち追加投資を行う)ことも自然である。そこには何ら疑問も存在しない。
う。
(15) これは,マルクス「1857-1858年の経済学草稿(経済学批判要綱,Grundrisse)」に遡れば,「信用は,資 本が,自己を個別諸資本から区別して措定しようと,すなわち,自己の量的制限から区別された資本とし ての個別的資本を確定しようと努めるときに資本が取る形態である」(421頁),深町郁彌[1971](144頁
〜)の「資本所有の量的制限の止揚」の可能性に関する問に対応する。