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“‚“ÛŒâ‚è No.562 - 日本国際問題研究所

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はじめに

本稿はイラク戦争後の国際情勢がグローバル・ガヴァナンスの、特に安全保障分野にお いてどのような影響を与えたかを分析する。もちろん、こうした課題設定に厳密に答える ことは難しい。イラク戦争の影響といっても多面的であり、どの範囲まで含めて考えるか は一概に言えないからである。本稿では、イラク戦争後の復興プロセスを国際社会による 平和構築、復興支援といった観点から分析することはしない。もちろんこれは重要なテー マであるが、他の無政府国家や破綻国家における平和構築、復興支援の事例と本質的には 相違しないと考えるからである。

本稿ではあくまで、イラク戦争と戦後処理が与えた国際政治上の影響がグローバル・ガ ヴァナンスに与えた影響に分析を限定する。それでもこうした問題に対する解答を整理し てみることには意味があるだろう。グローバル・ガヴァナンスという表現が国際政治に普 及し、学術用語としてだけでなく国際的なスローガンとなった背景には、1989年の冷戦の 終焉と1990年から翌年にかけての湾岸危機/戦争が決定的な影響をもったことは否定でき ない事実であり、今回のイラク戦争は、この

1989

年から

91

年にかけての出来事のひとつの 結末であると同時に、国際政治の潮流の新たな転換点をなしたともみなしうるからである。

今後、国際社会がグローバル・ガヴァナンスという課題に取り組むにあたっても、イラク 戦争によって起きた国際政治の構造上、認識上の変化を前提とせざるをえないであろう。

1

グローバル・ガヴァナンス論と米欧および国際連合

1) グローバル・ガヴァナンス―分析的用語法

1990

年代の初頭にグローバル・ガヴァナンスという言葉が流通し始めてから、約15年が 経過した(1)。グローバル・ガヴァナンスという言葉はさまざまに定義されているが、本稿に 必要な限りにおいて簡単に定義しておこう。「グローバル・ガヴァナンス」の定義について 検討したある研究によれば、この言葉の用法は分析的用法と規範的用法に分かれるという(2)。 主に学術用語として用いられるのは分析的用法としてだが、その場合、多くの定義は、ジ ェームズ・ローズノーの定義に依拠しており、それは、グローバル・ガヴァナンスを、「家 族から国際組織までのあらゆるレベルの人間活動におけるルールの諸体系を含んで、制御 の実施による目標の追求が越境的効果をもつもの」と捉える(3)。分解すると、(1)価値ない

(2)

しルールの形成やその実現といった「規範」、(2)国家、国際機関、さまざまな私的団体など 多様な主体が垂直的でなく水平的に相互に影響するという「主体」、(3)目標実現のためにい かなる方法が用いられるかという「手段」、(4)越境的な影響を及ぼすという「範囲」、とい った要素が含まれていることがわかる。このうち(4)は「グローバル」性の特徴だが、(1)か ら(3)は「ガヴァナンス」という言葉の特徴であると言えよう。分析的用法としての「グロ ーバル・ガヴァナンス」はこれらの特徴を備えた現象が国際政治において比重を増してお り、また時にその変化が望ましいという意味合いで使われることが多い。

2) グローバル・ガヴァナンス―規範的用語法

他方で、グローバル・ガヴァナンスという言葉は、その普及の早い段階から、政策プロ グラムとしての位置づけを与えられていた。その原点にあるのは、グローバル・ガヴァナ ンス委員会(CGG)最終報告、Our Global Neighborhood(邦訳『地球リーダーシップ』)であっ た。28人の世界的有識者によって構成された

CGG

が1995年に発表した報告書は、ガヴァナ ンスを「個人と機関、私と公とが、共通の問題に取り組む方法の集まり」と定義したうえ で、グローバル・ガヴァナンスは世界政府ないし世界連邦主義ではなく、「ひとつの決まっ たモデルや形式があるわけではなく、また特定の制度あるいは一連の決まった制度がある わけでもない。変化を続ける状況に対して、常に発展し反応する、広範で、ダイナミック で複雑な相互作用による意志決定のプロセス」と定義し、政府間協調の拡大、政府主体と 非政府主体の協調の拡大、国連システム内の調整の改善、世界政治における人間中心主義 などを提言した(4)。この後も、政策的には、グローバル・ガヴァナンスの議論はここで取り 上げられたテーマを主要なアジェンダとして進められていく。

3) 二つの自由主義とそのきしみ

しかし初期のグローバル・ガヴァナンス論の政策的展開を振りかえると、そこには欧米 間の微妙な「言力政治」の要素を読み取ることができる(5)。その出発点は

1990

年代初頭にブ ッシュ(父)政権が打ち出した「新世界秩序」論であった。大統領は、イラクによるクウェ ート侵攻を受けた1990年

9

11

日の議会演説で、この危機が「新世界秩序が生まれうる機 会でもある」と述べ、旧敵であったソ連書記長ゴルバチョフの同意を得て国連の枠組みを 活用して、正義と平和の探究において世界が一致結束するビジョンを語った(6)。湾岸戦争の 勝利を受けて国連への期待が高まった時、エジプトで外相を務め、フランスで教育を受け た国際法の専門家、ブトロス・ブトロス・ガリが国連事務総長に選出された。ガリは、1992 年1月に開催された安全保障理事会サミットからの委任により、6月、「平和への課題」を公 表、国連が平和強制部隊を備えることも含めて、国連が地域紛争に対して非強制、強制両 面を含めた包括的な関与を行なうことを含んだ提言を公表した(7)

このガリの提言と並行したのが、CGGの活動である。この委員会は、1980年代に南北問 題、軍縮と安全保障、環境と開発に関する報告書を提言することで国際的に影響を与えた ブラント、パルメ、ブルントラントといったヨーロッパ政治家の呼びかけによる「グロー バルな安全保障とガヴァナンスに関するストックホルム・イニシアティヴ」(1991年

4

月)の 提言で設立された。ガリはストックホルム・イニシアティヴに名を連ね、1992年

4

月には

(3)

CGG共同議長と会見し、委員会の活動に期待を表明した

(8)

この文脈を考えると、グローバル・ガヴァナンス論は、アメリカの共和党が中心となっ て描いた強大な戦力を中核とするアメリカを中心とした世界新秩序構想に対して、1980年 代からアメリカと異なる視点の提示に努めてきたヨーロッパを中心とする国際派有識者が、

新世界秩序論との正面対決を避けつつ、国連改革をひとつの焦点として冷戦後国際秩序形 成の主導権を握ろうとして提示したビジョンとみることができる(9)

国連などを舞台とした世界秩序構想をめぐるせめぎ合いは、アメリカでクリントン民主 党政権が発足した後も基本的には継続した。共和党から民主党への移行において連続性を 担保したのは、民主的平和論であり、クリントン政権は民主主義の拡張をアメリカの安全 保障政策の柱として位置づけた(10)

1990年代半ばまでに、複数の地域的危機が新世界秩序ないしグローバル・ガヴァナンス

をめぐる議論に大きな影響を与えた。ソマリア、ルワンダ、ユーゴスラヴィアである。こ れらはそれぞれ異なる政治的意味をもっていた。ソマリアでの米軍を主体とする平和維持 部隊による強制行動の失敗は、アメリカでは国連主導の国際秩序の限界を示したとみなさ れ、特に勢力を伸ばした共和党はアメリカの国益を前面に出すことを求めた。批判に答え る形でクリントン大統領は1994年5月、大統領決定通達(PDD)

25を発し、国連への関与は

アメリカの利益にかなうとしながらも、国連平和維持活動(PKO)の拡大を望まず、アメリ カの関与は選択的に限るとした(11)

このタイミングは、折り悪しく、ルワンダでの虐殺に対する国連の関与を困難にした。

ルワンダではフツ族の支配する政権に対するツチ族の反乱による内戦が

1990年以来続いて

いたが、1994年4月のフツ族大統領殺害がきっかけとなり、3ヵ月余りの間に数十万人とさ れる大量虐殺が起きた。しかし現地に派遣されていた国連ルワンダ監視団(UNAMIR)は増 派されるどころか縮小され、増派がなされた時はすでに遅かった。この経験は、ガリにと ってはアメリカの消極性によるものだったが、アメリカからすると国連の非効率性を示す 事例とされた(12)

他方で、ユーゴでの事例は、国連の呼びかけに応えて平和維持部隊を派遣していたヨー ロッパにとって苦い経験となった。1992年

2月にユーゴスラヴィア和平を支援するために派

遣された国連防護軍(UNPROFOR)を主導したのはヨーロッパ諸国だった。しかし武力紛争 が激化するなかで

UNPROFOR

は有効に機能せず、1994年には北大西洋条約機構(NATO)

の限定的な空爆に対して国連派遣部隊が人質にされる状況に陥った。アメリカはヨーロッ パ主導の対応への苛立ちを強め、NATO主導の強制措置を促すようになっていた。

これらの経験を経て、ガリは「平和への課題」の野心的な構想を縮小せざるをえなくな り、「平和への課題の追補」を公表し、紛争に対する国連の関与として非強制、強制の区別 を強調し、特に前者に力点を置くことで国連の伝統的な役割に近づくことを示唆した(13)。 しかしアメリカに対する批判を隠さないガリと国連への反感を強めるアメリカとの反目は 高まり、1996年にはアメリカはガリの事務総長再選を阻むことになった。

CGG

の報告書の作成に、こうした国際政治状況がどの程度影響したかは正確にはわから

(4)

ないが、報告書の発表が

1995年 1

月、ダボス経済会議(世界経済フォーラム)において行な われたことは、ガリが期待する改革による国連強化を支援する意識もあったのではないか と推測される。

報告書は、国連改革を柱として取り上げ、安保理改革や非政府組織(NGO)の代表による 市民社会フォーラムの設立、経済安全保障理事会の創設などを提言した。安全保障につい ては、第一に、国家の安全保障と並んで、人々(people)の安全保障、地球の安全保障の重 要性を指摘するとともに、第二に、人道的危機に対しては国際社会は行動する義務を負う として人道的干渉を許す一方でその濫用を防ぐような国連憲章の改正を求める。第三に、

危機の予測と予防、危機対処で国連の役割の拡大を求め、緊急対応可能な国連ボランティ ア軍をも提言する。第四に、大量破壊の脅威への対応として、大量破壊兵器の廃絶、核拡 散防止条約(NPT)の無期限延長、包括的核実験禁止、地雷の製造と輸出の禁止などが提言 された(14)

対して米国内では1990年代半ばから、国連のような多国間枠組みを非効率とみなし、ア メリカを中心とした柔軟な枠組みによって国際社会の問題に対応しようという考え方が強 まった。たとえば、グローバル化に伴って、大量破壊兵器などの脅威が拡散している現実 を認識したうえで、湾岸戦争の際の多国籍軍を、場合によっては武力行使によってでも価 値を守る意志をもつ有志連合の枠組みと捉えて、冷戦後秩序の骨格として評価する見方で ある(15)。クリントン政権がこの時期に発表した「関与と拡大戦略」も、世界の民主化の推進 と同盟国との関係を国家安全保障戦略の柱としたが、国連に関する言及は少なかった(16)。 時を同じくして、ネオコン(新保守主義者)第

2

世代と呼ばれる一群の著述家が、アメリカ の優越した軍事力を維持しつつ、民主主義、自由、市場といったアメリカが体現する価値 を世界に拡張することを目指すべきといった論調を訴え始めた(17)

ここで指摘できるのは、CGG報告書が依拠する世界観とアメリカで主流となった世界観 との関係である。両者は広い意味で、近代ヨーロッパに由来する自由主義の系譜にある。

フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」と表現したように、冷戦の終焉は自由主義のイ デオロギーとしての勝利を意味していたことは否定できない。しかし同時に、グローバリ ゼーションは私的領域の活動力を高め、逆に政府の社会に対する規制能力を低下させるこ とになった。この状況に対してどのような秩序を構想するかについては、答えはひとつで はなかった。CGGを主導したヨーロッパ系の有識者の世界観は、基本的にはカント流の啓 蒙的自由主義の視点をとり、人間を理性的たりうる存在として捉え、理性的秩序の根幹に 法規範を置くものであった。対してアメリカで主導的になった世界観は功利主義的人間観 に立ち、他者を侵害しない限りでの個人の自由の最大限の拡張が望ましく、民主主義や自 由市場は個人の自由を最大化するからこそ望ましいとした。「自由主義の勝利」は、自由主 義陣営内のイデオロギー的な分裂を生み出していたのである。ここでは前者を啓蒙的自由 主義、後者を急進的自由主義と呼ぶ(18)

政策的用語法としての「グローバル・ガヴァナンス」は、統治の主体や統治手段の問題 に関して多様かつ不定形と捉えることで二つの自由主義を架橋し、両者の共存を可能にす

(5)

る「言力政治」の舞台を提供したと言える。しかし分析的観点から捉えると、両者は、グ ローバル・ガヴァナンスの規範、主体、手段の捉え方において少なからず相違しており、

同じ言葉を異なる文脈で用いる形での政治的闘争の道具としても機能した。

まず、規範については、啓蒙的自由主義にあっては、理性的な法こそが規範の中核をな し、カント的な国際法と世界市民法の両立ないし究極的な融合こそが目指される。対して 急進的自由主義においては、自由の尊重が道徳的な根本性を有し、法や制度はそこから演 繹され、自由市場、民主体制、越境的な法などさまざまな形態をとりうる。次に主体につ いては、啓蒙的自由主義にあっては理性的存在としての国家、国際機関、啓蒙化された市 民による私的団体などを主体とするのに対し、急進的自由主義にあっては、あくまで私的 価値が優先され、自由の絶対的価値を尊重する諸アクターが主体とされ、そうした価値を 共有しない国家や集団(個人は本源的に自由を愛すると仮定されている)は障害ないし敵とし て客体化される。最後に、手段については、啓蒙的自由主義が、理性的主体としての自発 的協働に期待する一方で、理性的普遍主義の擁護のために、法に基づく力の使用を否定し ないのに対し、急進的自由主義では、価値観を共有する主体の有志連合によって自由の領 域を広げていくことが期待され、そうした運動に反対する存在に対して、自己の自由を守 るため、また道徳的正当性の観点から、時に力を使うことも肯定されるとする。

グローバル・ガヴァナンス論が登場してきた1990年代前半において、すでに両者は底流 において緊張をはらみつつ共存していた。1990年代後半から

2000年代にかけて両者のせめ

ぎ合いは増幅され、ついに、イラク開戦期以来の国際関係において表面化したという見方 ができるのである。

2

イラク戦争とグローバル・ガヴァナンス

1) 摩擦熱の上昇―イラク戦争まで

1990年代後半からイラク戦争に至るまでの過程で、啓蒙的、急進的二つの自由主義の立

場は、国連その他の場で交錯していった。両者の見解が重なる場合もあったものの、傾向 としては次第に両者の亀裂が深まっていくことになった。

両者の立場が結果的に一致した例は、1999年のコソヴォ問題をめぐる

NATO

による空爆や

9・ 11

テロ事件後のアフガニスタンへの武力行使である。湾岸戦争後にクルド人保護を目的 とする保護地域設定の場合にみられたように、ヨーロッパ諸国は人道的干渉を肯定する点 ではアメリカよりもむしろ積極的だった。他方でアメリカでは、コソヴォ地域をめぐりセ ルビア系勢力による「民族浄化」の残虐さが喧伝され、それに対応できない国連やヨーロ ッパ諸国の無力さへのいらだちが高まった。結局、ロシア、中国等の反対で安保理で明示 の武力行使決議は得られなかったが、NATOによる空爆によって事態の決着を図る方針で欧 米諸国は一致したのである(19)。また、9・11事件後の「テロとの戦い」としてのアフガニス タン作戦に関しても、両者の立場は重なった。事件翌日、安保理は決議

1368を全会一致で

採択し、「あらゆる手段を用いてテロ行為によって生じた国際の平和と安全に対する脅威と 戦う」ことが謳われた(20)

(6)

ただしこれらの場合でも、一致は完全なものではなかった。ユーゴ空爆については、欧 米の国際法学者の多くは、合法性に問題はあるが、正統なものと捉えた。しかしその理由 づけについては、アメリカでは国際社会の共通の目的実現のためには法は曲げられうると いう説明が有力だったのに対し、ヨーロッパでは人道的目的が例外的に法を破るとの説明 が主流だった(21)。アフガニスタン作戦でも決議

1368はアメリカの意向を受けて、

「固有の個 別的集団的自衛権の確認」について言及し、ある程度は安保理監督下に置かれる湾岸戦争 型の多国籍軍ではなく、自衛権に基づく有志連合での行動を許した。

しかし顕著な亀裂は、軍縮・軍備管理分野でみられた。周知のようにアメリカは、1990 年代後半から

2000年代初頭にかけて、化学兵器禁止条約

(CWC)の査察条項の国内法によ る無効化、生物兵器禁止条約(BWC)検証議定書への反対、包括的核実験禁止条約(CTBT)

の批准拒否、対人地雷禁止条約締約拒否、弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約からの脱退、

国際刑事裁判所(ICC)規程署名撤回などの行動をとってきた。ラギーの言うところの、例 外主義(exceptionalism)と除外主義(exemptionalism)の表われと言えるだろう(22)

もうひとつの争点がイラクに対する経済制裁であった。大量破壊兵器の完全廃棄などを 目的として湾岸戦争後も対イラク経済制裁が続けられた。しかしこの政策を主導する米英 に対し、イラク国内の経済混乱、医療・教育などでの物資不足が指摘され、1990年代後半 には安保理決議によって「食糧のための石油プログラム」が開始された。その際、イラク 国内の人道状況の悪化を訴えて石油輸出の上限を次第に拡大し、米英に対して制裁緩和を 訴えつつ、イラクでの権益を拡大したのがロシア、フランスであり、2000年にはイラクの 石油輸出は湾岸戦争前の水準に戻っていた(23)。フセイン政権はこうした情勢に力を得て、

米英主導で作られた制裁や制限に対して挑戦的となり、大量破壊兵器とその製造能力の除 去を任務とする国連特別委員会(UNSCOM)の活動への妨害を強め、制裁の完全な撤廃を要 求する一方で、イスラエルへの自爆テロを行なった者に懸賞金を与えるとの声明を出すな ど、アメリカとの対決姿勢を強めた。この状況は、アメリカからみれば、国連や仏ロなど のヨーロッパ主導の多国間主義の有効性への懐疑をさらに強めるものであった(24)

2) イラク戦争とその影響

言うまでもなく、ブッシュ(子)共和党政権の登場と

9・ 11

事件がイラクをめぐる国際情 勢を大きく変化させた。ブッシュ政権はクリントン政権以上に単独主義的選択を行なうこ とをためらわなかった。そして

9・ 11事件の衝撃とその後のアフガニスタン作戦の短期での

(タリバン政権を失陥させるという意味での)成功は、イラクというゴルディアスの結び目に 対して軍事的解決という剣を与えるものだった。ブッシュ大統領は

2002年1

月の年頭教書演 説でイラク、イラン、北朝鮮を「悪の枢軸」として名指しし、2003年

3

月の米軍が主導する 有志連合による開戦へと突き進んだ。

開戦に際して、ブッシュ政権が提示したのは3ないし

4

の理由であった。第一に、イラク が湾岸戦争以来の大量破壊兵器放棄決議に違反していること、第二に自衛行動、第三にフ セイン政権の非人道性に対する人道的干渉である。第二の自衛については、2002年

9月の国

家安全保障戦略において先制的自衛の論理が提唱されていた。それとは別にフセイン政権

(7)

がアル・カイダと連携している可能性を挙げて、テロとの戦いの一環としてのフセイン政 権打倒という理由づけもなされた。

国際法の専門家は、法的には正当化事由の中核は第一、すなわち大量破壊兵器放棄など を求めた安保理決議

687

の違反であり、2002年

9

月に全会一致で採択された安保理決議1441 は、論議の余地があるものの、この決議の違反に対して、湾岸戦争期に武力行使を容認し た安保理決議678を「再生」させたものとみる。特にイギリス、オーストラリアは明確に安 保理決議違反を武力行使理由に掲げているとする(25)

この分析に従えば、イラク戦争が国際法規範に与えた打撃は一見するほど大きなもので はない。確かに有志連合は安保理の明確な授権なく武力行使を行なったが、決議

1441

は意 図的に曖昧にされており、「重大な結果」が武力行使容認を意味しうるよう解釈の余地が残 されていたのである(26)

むしろ影響は、政治的なものであった。ブッシュ政権は国連や非協力的な諸国に対して 冷笑的な態度をとり、上記のように開戦理由についても複数の要素を提示しながら、明確 な論理構成を行なおうとしなかった。こうした姿勢がアメリカに対する国際的批判を強め、

アメリカを政治的に孤立させ、国連という、少なくとも現状では最高の国際法的権威の源 泉と、アメリカという巨大な権力の乖離をもたらしたのである。自由主義諸国間の亀裂は、

言力政治としての段階から、国際的な影響力を競い合う、より明白な権力政治の段階へと 移行したのである。

さらに悪いことに、イラク戦争は、フセイン政権打倒後にアメリカの国力の限界を明ら かとした。イラク占領統治政策について準備不足であり、大きな政治的、経済的負担とな る一方で、大量破壊兵器が発見されず、イスラム過激派テロリストとの関係も証明されな かったことは、アメリカの情報能力の弱点を示した。結果的にアメリカはアフガニスタン においてもイラクにおいても国連や

NATO

などの同盟国に協力を求めることになったが、

2003年 8月のバグダッドにおける国連代表部爆破事件のように、アメリカをもってしても治

安が維持できない所での国連や他の同盟国の協力には当然に限界があった。

イラク戦争と占領政策失敗に伴うアメリカの国力への制約がグローバル・ガヴァナンス に与えた影響の第一は、大量破壊兵器拡散政策に関してである。リビアが2003年12月に大 量破壊兵器の放棄を公表したことについて、イラク戦争が、どの程度かは明確ではないと はいえ、影響がなかったとは言えないだろう。しかしアメリカの強大な軍事力の誇示は、

アメリカからならず者国家や専制国家として敵視される国家の指導者の恐怖心を当然なが ら高め、彼らのアメリカに対する抑止力として核保有のインセンティヴを高めた可能性が ある。イラクと並べて「悪の枢軸」とされた北朝鮮やイランについてそうした論理が作用 した可能性は大いにある。さらに、アメリカの強大な国力の威信が低下したことで、効果 的な拡散対抗策は困難となった。北朝鮮の明白な挑発行為に対してあくまで

6者協議による

外交的、平和的解決を強調し、イランに対してもヨーロッパ諸国の仲介を軸として外交的 解決を図らねばならなくなったことは、大量破壊兵器不拡散政策として成功しているとは 言いがたい。

(8)

テロリズムに対する対応に関してはどうであろうか。ブッシュ政権が9・

11

事件と直後に 起きた炭疽菌事件以降、米本土内でのテロを防いだのは事実である。しかしイラクの治安 崩壊はイラクをテロの温床とし、中東全般の不安定を拡張した。アブ・グレイブ収容所で の捕虜虐待は明白な違法行為だったが、グアンタナモ基地での収容者に対する非人道的な 扱いは国際的に非難を集めた。根本的には、公私双方のさまざまな主体間の協力が必要で、

かつ新たな規範と手段を必要とするという意味でグローバル・ガヴァナンスのアプローチ によって対応されるべき課題に対して、従来型の戦争として対応したことがアメリカの資 源を浪費させ、その威信の低下につながった可能性が高い(27)

他方で、アメリカの単独主義に対する反発は、国連に対する過剰な期待を生み出したと 言えるかもしれない。CGG報告書以降も、国連や国際的な有識者は国連改革やグローバ ル・ガヴァナンスに関する提言を出し続けた。その主要なものだけをみても、安保理改革 に関するラザリ案(1997年)、国連平和活動に関する委員会報告(ブラヒミ・レポート、2000 年)、国連ミレニアム宣言(2000年)、介入と国家主権に関する国際委員会(ICISS)『保護す る責任』報告書(2001年)、「人間の安全保障」委員会報告書(2003年)、ハイレベル委員会 報告書(2004年)、アナン事務総長報告書「より大きな自由」(2005年)などである。

これらの報告書、提言はおおむね「平和への課題」や

CGG

報告書の経験をいかして、よ り具体的で精密な議論を行なっていると言えよう。しかし米欧関係のきしみに加えて、世 界経済秩序をめぐる南北間の対立、独裁的傾向を示すロシアや一党独裁体制を維持する中 国の存在、宗教原理主義や民族的排外主義の台頭といった状況において、これらの提言が どの程度実現され、さらに実効性をもつかには疑問も大きい。たとえば安保理改革をとっ てみても、安保理の構成が今日にふさわしいものでないことは多くの国が認めるであろう が、既存の安保理構成国の権利を奪わない改革は拡大にならざるをえず、それはアメリカ などが特に重視する安保理の効率性と矛盾することになるだろう(28)

要するに、イラク戦争はアメリカ流の急進的自由主義とヨーロッパ流の啓蒙的自由主義 の対立を顕在化させただけでなく、二つの世界観に基づくグローバル・ガヴァナンス構想 の限界も示したのである。鍵は、両者がそれぞれの限界を認めたうえで、新たなアプロー チを創造できるかどうかである。たとえば、有志連合型の拡散対抗イニシアティヴ(PSI)

や、大量破壊兵器のテロリストへの拡散防止のための安保理決議1540はそうした可能性を 秘めているかもしれない(29)。また、核不拡散体制に関して、米政府が提唱する国際原子力 パートナーシップ構想(GNEP)とエルバラダイ国際原子力機関(IAEA)事務局長が提唱し た国際核管理構想は、それぞれ多くの問題点を抱えているものの、原子力の平和利用と核 不拡散体制の両立を模索するうえでは重要な提言であろう。イラク戦争がグローバル・ガ ヴァナンスの後退から世界秩序のさらなる分解へと至る転換点となるのか、グローバル・

ガヴァナンス論が冷戦終焉後のユーフォリアを脱して、現実的な基盤のうえで再構築され るのかが問われていると言えよう。

(9)

おわりに―戦間期のデジャビュ?

冷戦の終焉から程なく20年が経とうとしている。この間、20世紀転換期と同様に、グロ ーバル化が進み、それに伴って思想的にも越境的な相互依存関係を反映した自由主義が普 及した時代であった。20世紀初頭では第1次世界大戦の結果、連合国の勝利は自由主義の優 越を促した。アメリカは国際連盟秩序に参加せず、ヨーロッパから孤立主義をとったが、

そのことの重要性はしばらくは認識されなかった。しかし大恐慌と反自由主義的思潮の高 まり、全体主義の勃興によって国際社会は緊張し、E・

H・カーの『危機の二十年』のよう

に、自由主義思想の楽観を戒める現実主義思想が登場した(30)

グローバル・ガヴァナンス論が展開してきた底流にある自由主義の勝利もまた、啓蒙的 自由主義と急進的自由主義の間の緊張関係を胚胎しつつ、国境を意識しない世界秩序を模 索してきた。しかし世界的金融危機や9・11事件、そしてイラク戦争を経て当初の楽観は後 退した。「歴史の終焉」を宣言したフクヤマも、アメリカが岐路にあるとの認識を示すに至 っている(31)

今われわれが辿りつつある道は、かなりの程度戦間期の知的経験に重なっているのでは ないだろうか。たとえば、既存の主権国家中心の国際法に対して、分散国家(disaggregated

state)

の概念に基づく新世界秩序を提示する国際法研究者のビジョンは、第

1次世界大戦後

に登場したハロルド・ラスキなどの多元的国家論と相通じるものを感じさせる(32)。さらに、

近年増加してきた、グローバル・ガヴァナンスと主権や権力といった伝統的な国家概念と の関係を問い直す研究は、古典的な現実主義の再生と軌を一にしているのかもしれない。

そのような洞察、カーの取り組んだ理想主義と現実主義の関係や、ヘドレー・ブルの言う 世界秩序と国際秩序の相関関係に関する研究は、自由主義的理念に沿った世界政治秩序の ひとつの可能性としてグローバル・ガヴァナンスを捉える時、今日的課題に対しても意義 を有していよう(33)。秩序における価値と権力の問題に対する知的な取り組みは、将来、今の 時代を再び 戦間期 と呼ばせないためにも必要な作業であろう。

1) 今から15年前の1992年はグローバル・ガヴァナンスなる概念にとって事実上の生誕の年であっ た。この概念の普及に大きな影響を与えたと考えられる論文集、James Rosenau and Ernst-Otto Czempiel eds., Governance without Government: Order and Change in World Politics, Cambridge University Press, 1992、が発刊されるとともに、グローバル・ガヴァナンスの名を冠した国際委員会が発足し た年でもあったからである。このグローバル・ガヴァナンス委員会は1995年、Commission on Global Governance, Our Global Neighborhood, Oxford University Press, 1995(邦訳=グローバル・ガバナ ンス委員会著、京都フォーラム監訳・編)『地球リーダーシップ―グローバル・ガバナンス委員 会報告書』、日本放送出版協会、1995年)を公表し、この概念を国際的な政策アジェンダとして普 及させるのに大いに貢献した。また、1992年には、ロンドン大学政治経済校(LSE)にThe Centre for the Study of Global Governance(CsGG)が設けられたが、これはグローバル・ガヴァナンスを研究 対象に掲げた研究機関としては恐らく最初のものであろう(http://www.lse.ac.uk/Depts/global/aboutus.

htm)

2 Klaus Dingwerth and Philipp Pattberg, “Global Governance as a Perspective on World Politics,” Global

(10)

Governance, Vol. 12, No. 2(2006), pp. 185―203.

3 James N. Rosenau, “Governance in the Twenty-First Century,” Global Governance, Vol. 1, No. 1(1993), p.

13.

4)『地球リーダーシップ』、28―34ページ。

5) 田中明彦『ワード・ポリティクス』、筑摩書房、2000年。

6 Address Before a Joint Session of the Congress, September 11, 1990(http://bushlibrary.tamu.edu/research/

papers/1990/90091101.html).

7 “An Agenda for Peace: Preventive diplomacy, peacemaking and peace-keeping,” A/47/277-S/24111, Report of the Secretary-General, pursuant to the statement adopted by the Summit Meeting of the Security Council on 31 January 1992, 17 June 1992(http://www.un.org/Docs/SG/agpeace.html).

8)『地球リーダーシップ』、419―421ページ。

9)それに理論的裏付けを与えたのがアメリカを中心とするリベラル派の研究者であったと思われる。

1995年のCGG報告書と並んで、研究者による論文集Commission on Global Governance, Issues in Global Governance: Papers Written for the Commission on Global Governance, Kluwer Law International,

1995、が刊行されたが、これにはJames Rosenauが主要な寄稿をしている。

(10) 1993年には民主的平和論の概観を提示した、ブルース・ラセット(鴨武彦訳)『パクス・デモク ラティア』、東京大学出版会、1996年、の原著が公刊された。

(11) http://www.fas.org/irp/offdocs/pdd25.htm

(12) ガリはその回想録で、アメリカへの批判を隠していない。Boutros Boutros-Ghali, Unvanquished: a U.S.-U.N. Saga, I. B. Tauris, 1999, pp. 129―140.

(13) “Supplement to an Agenda for Peace: Position Paper of the Secretary-General on the Occasion of the Fiftieth Anniversary of the United Nations,” Report of the Secretary-General on the Work of the Organization, A/50/60- S/1995/1, 3 January 1995(http://www.un.org/Docs/SG/agsupp.html)「平和への課題」から「追補」に至 る経緯については、神谷万丈「国連と安全保障」、防衛大学校安全保障学研究会編著『安全保障学 入門(最新版)、亜紀書房、2003年、214―230ページ。

(14)『地球リーダーシップ』、第三章、第五章。

(15) 山本吉宣『「帝国」の国際政治学』、東信堂、2007年、319―321ページ。山本は有志連合論の理論

的始祖はRichard Haassであったとする。

(16) “A National Security Strategy of Engagement and Enlargement,” February 1995(http://www.au.af.mil/au/

awc/awcgate/nss/nss-95.pdf). この文書はすでに、「アメリカが決然として、また必要なら単独で、力

を行使する」との表明があった。

(17) 山本、前掲書、68―72ページ。

(18) もちろんここで、二つの自由主義という区分も、それぞれをアメリカとヨーロッパに分けること も、乱暴であることは明らかである。たとえば米国内に、アメリカの単独主義を批判する見解を もつ研究者や市民団体は数多い。にもかかわらずここでは、啓蒙的自由主義が18世紀後半のヨー ロッパに体系化されたのに対し、急進的自由主義が同時期のアメリカ独立革命と連邦憲法の精神 に根ざしているという認識から、二つの自由主義の対比を際だたせ、ヨーロッパとアメリカにそ れぞれ結びつけて考える。また、二つの自由主義の名称についてもさまざまな命名がありえよう が、国際関係論で一般的なレアリズム対リベラリズムといった分類(ロバート・ケーガンのホッ ブズ的世界観とカント的世界観といった表現はその素朴な適用である)は、内政と国際関係を貫 くイデオロギー的分類としては不十分であり、自由主義内の対立と捉えるべきであろう。Robert Kagan, Of Paradise and Power, Alfred A. Knopf, 2003. 国際関係における自由主義諸派の対立を扱った文 献として、James L. Richardson, Contending liberalisms in world politics: ideology and power, Lynne Rienner, 2001; Gerry Simpson, “Two Liberalisms,” European Journal of International Law, Vol. 12, No. 3(2001), pp.

(11)

537―571.

(19) コソヴォ事件をめぐる法的議論は、Marc Weller, “Forcible Humanitarian Action: The Case of Kosovo,”

Michael Bothe, Mary Ellen O’Connell, and Natalino Ronzitti eds., Redefining Sovereignty: The Use of Force after the Cold War, Transnational Publishers, 2005, pp. 277―333.

(20) http://www.un.org/News/Press/docs/2001/SC7143.doc.htm

(21) Brad R. Roth, “Bending the law, breaking it, or developing it? The United States and the humanitarian use of force in the post-Cold War era,” Michael Byers and Goerge Nolte eds., United States Hegemony and the Foundations of International Law, Cambridge University Press, 2003, pp. 232―263.

(22) John Gerard Ruggie, “Doctrinal Unilateralism and its Limits: America and Global Governance in the New Century,” Corporate Social Responsibility Working Paper No. 16, John F. Kennedy School of Government, Harvard University, 2006.

(23) 酒井啓子『イラクとアメリカ』、岩波新書、2002年、第五章。

(24) Philip H. Gordon and Jeremy Shapiro, Allies at War: America, Europe, and the Crisis over Iraq, McGraw-Hill, 2004, pp. 37―44.

(25) Christopher Greenwood, “The Legality of the Use of Force: Iraq in 2003,” O’Connell and Ronzitti eds., Redefining Sovereignty, pp. 387―415; Michael Bothe, “Has Article 2(4)Survived the Iraq War?” ibid., pp. 417

―431.

(26) Michael Byers, “Agreeing to Disagree: Security Council Resolution 1441 and intentional Ambiguity,” Global Governance, Vol. 10(April 2004), pp. 165―186.

(27) メアリー・カルドー(山本武彦・渡部正樹訳)『新戦争論―グローバル時代の組織的暴力』、岩 波書店、2003年、275―292ページ;ベンジャミン・R・バーバー(鈴木主税・浅岡政子訳)『予防 戦争という論理』、阪急コミュニケーションズ、2004年;Lawrence Freedman, The Transformation of Strategic Affairs, Adelphi Paper 379、The International Institute for Strategic Studies, 2006。

(28) 安保理改革提案に対する批判的見解として、Thomas G. Weiss, “The Illusion of UN Security Council,”

Washington Quarterly, Vol. 26, No. 4(Autumn 2003), pp. 147―161; Edward C. Luck, “How Not to Reform the United Nations,” Global Governance, Vol. 11, No. 4(2005), pp. 407―414.

(29) PSIについては、川上高司「拡散に対する安全保障構想とグローバル・ガバナンス」、総合研究開

発機構ほか編『グローバル・ガバナンス―「新たな脅威」と国連・アメリカ』、日本経済評論社、

2006年、98―128ページ。決議1540については、浅田正彦「安保理決議1540と国際立法」『国際問 題』第547号(2005年10月)、35―64ページ。

(30) E・H・カー(井上茂訳)『危機の二十年』、岩波文庫、1996年。

(31) フランシス・フクヤマ(会田弘継訳)『アメリカの終わり』、講談社、2006年。

(32) Anne-Marie Slaughter, A New World Order, Princeton University Press, 2004; Harold J. Laski, Studies in the Problem of Sovereignty, Yale University Press, 1917.

(33) ヘドレー・ブル(臼杵英一訳)『国際社会論』、岩波書店、2000年。

なかにし・ひろし 京都大学教授

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