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⽇本語教育実践研究(5)期末レポート

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Academic year: 2025

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⽇本語教育実践研究(5)期末レポート

(1)「文型」や「表現(機能)」からではなく,「状況」から出発する教育実践を理解し,

実現する。

私は1期目で小林先生が担当されている授業『教育文法論』を履修していたため、本実践 を履修する前から、「コミュニケーションのための日本語教育を考える必要性」がわかって いた。野田(2009)は、これまでの非母語話者に対する日本語教育が言語の教育だったことを 指摘し、コミュニケーションの教育へ移行するべきだと主張している。しかし、頭でわかっ ていただけで、「では、実際に授業実践するとしたら、どのような授業を作ることができる のか」を、次は実際に体感したいと思い、履修した。

今期は履修者が多かったため、1人のたまご先生は、1、2回ほどしか授業を担当しなか ったが、自分が授業を担当する回でも、しない回でも、「「状況」から出発するとはどういう ことなのか」をこの学期では常に考えていた気がする。日々何気なく使っている日本語を、

メタ的に捉える力が鍛えられたと思う。清(2004)によると、日本語教師に「~ないでくださ い」の例文を作ってもらうと、実際の状況で使われるとは考えにくい「ここでタバコを吸わ ないでください」のような禁止を表す例が多かった。それに対して、一般社会人に同じ調査 をすると、「気にしないでください」のような配慮・気遣いを表す例が多かったということ である。ある言語形式が、実際に使われる状況に、日本語教師が鈍感であるということが明 らかにされている。このように考えたときに、たとえば、「~てもいいですか」を日本語教 科書の例文で導入するとしたら、「窓を開けてもいいですか」「たばこを吸ってもいいですか」

である。しかしこのような文は、私たちは本当に耳にし、話すのだろうか。と考えていたと きに、私がある日の夜、最寄り駅からアパートまでの道を歩いて帰っていると、知らない男 の人が車から出てきて、「すみません、ナンパしてもいいですか?」と声をかけてきた。私 はすぐ「あっ、え、すみません・・・」と言ったが、「「~てもいいですか」って、こういう ときにも使うんだ」と冷静に考えた。その日からアマゾン川からピラニアを見ることのおも しろさが増した。

絶対におもしろい授業実践になるとはわかっていたが、全 15 回の授業は、やはりどれも 考えさせられるようなものばかりだった。自分のこれまでの日本語教育に対する固定観念 が、徐々に解かれていく感覚を覚えた。現行の日本語教科書では、4技能のバランスを重視 するあまりに、どの文法が「話す」ためのもので、どの語彙が「打つ」ためのものなのか、

私の中でごちゃまぜになっている印象がある。野田(前掲)は、これまでの目的がない中立的 な文法に基づいた教育を見直し、「聞く」「話す」「読む」「書く」というコミュニケーション を目的とする文法に基づいた教育に転換すべきだと述べている。「話す」授業実践では「話 す」授業だと言っておきながらも「書く」ことのほうも細かく見ていて、学生たちは「これ でいいですか」と文法と語彙のチェックを求めてきていたし、たまご先生たちも誤字脱字を

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チェックしたりしていた。私は「「話す」授業なのに、なんで書いてばかりいるんだろう」

と、4技能のひとつである「話す」に注力した授業ではないと思ってしまった。ある程度の メモ、板書は必要だが、「話す」授業なら、自分のスマホで会話を録音して、聞き合い、会 話練習をすればよかったのかもしれない。実際の動作をつけて、教室空間をひとつの演劇会 場にすればもっとよかったのかもしれない。

学生たちは「これでいいですか」とチェックを求め、すなわち常に正解を求めている。た とえば初級の日本語教科書にのっとった授業をすれば、「ここ、いいですか」じゃなくて「こ の席に座ってもいいですか」、「勉強しなきゃ!」じゃなくて「勉強しなければなりません」

と、言語の正しさに注力することが多いと思う。しかし本実践では正しさよりも状況へのフ ィット感に注力したいと思っていたが、これまでの自分の日本語教師歴のせいなのか、どう しても正しさにも目がいってしまう。学生もまた、正しさを求めていて、「フィット感を大 切にしたいたまご先生」と、「日本語」と、「正しさを大切にしたい学生」この三角関係のせ めぎあいが、非常に難しかった。

私が担当した授業「打つ(投稿する)」は、言語の正しさという概念を捨ててほしかった。

「このときは、こういうルールで、日本語を打てばいいのよ」「こういう気持ちのときには、

こういうことに気を付けて、打てばいいのよ」をたくさん伝えたかった。しかし初級の学生 にとってはよくわからない授業実践だったと思う。ある程度の言語の正しさに関する情報 は必要だった。たとえば私が教えた「ちゃいま~す」は「いてちゃいま~す」、「これから・・・

ます」は、「これから泣きます・・・」のような誤用がでてきて、説明不足を感じた。また、

「打つ」の場合、「話す」とは異なり、文字情報として残るため、言語の正しさというもの を、「話す」よりももっと、注意するべきだった。また、私が授業した回のたまご先生の振 り返りを読むと、「パンケーキ」「JLPT」「レポート」など、状況にあてはめやすい導入だっ たと、書いてくださっていた。私は状況に出発することに自信がなかったが、学生が「ああ、

そう。これ、打ちたいと思ってたんだ」「こういうときは、こうやって打てばよかったんだ」

という学びが得られたようで、「状況と気持ちがわかりやすい導入」を、これからも心掛け たい。

「状況」から出発するコミュニケーションにおいて、母語話者である私でも、わからない ことがあった。たとえば、「免税、お願いします」なのか「免税、できますか(?)」なのか・・・。

母語話者だからこそ使用しない日本語コミュニケーションがあることに気が付いた。「日本 語非母語話者しか使えない日本語コミュニケーション」みたいなものを調べたらおもしろ いなと思った。

(2)1人ひとりの学習者にとって「+1」になる活動を組み立て,実践する。

学習者にとって「+1」だと思うものは、さまざまあると思う。ひとりひとりの「+1」

を見つけさせるには、コンテンツの次に、授業デザインに気を付けた。

私の授業の回で、「次の JLPT に合格したい、何と打ちますか」と問いかけたとき、ひとり

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の学生は「次は絶対合格する」と答えてくれて、私はそれをそのまま板書した。このことで

「+1」になった学生もいたかもしれない。しかし「次は絶対合格する」と答えた学生には 新しい学びがない。学生がつまらない、と思ってしまわないように、「それもいいよね。あ と、次こそ合格するぞ!は、とても強い気持ち。」と説明を付け加えたことで、その学生は 頷いていた。すべての学生に「+1」があるように、私以外の授業でもなるべく工夫するよ うに心がけた。

私の授業ではない回のときも、授業の前日は、「+1」を考えた。「リアクションする」の 授業で、今ある教案の流れの場合、学生にとっての「+1」は何か、さらに「+1」が増え るように、私がどうグループ活動に参加すればいいのか。などを考えて、グループ活動に参 加していた。グループ活動に参加する場合、学生にとっては私はたまご「先生」であるため、

教師であることの権力をあまり見せてはいけないと思っている。池田・舘岡(2007)によると、

多文化共生社会において構成員同士が対話を手段とする相互交流によって互いの信頼関係 を構築しながら、共に発展的に生きていくことを目指し、ピア・ラーニング(協働学習)が 提案された。この主張を受けて、グループ活動では、私はあくまでも参加者の一員であり、

学生と同じ立場の人間だというスタンスを守った。そのためには、知識をむやみに押し付け ない、学生の興味関心を第一に考えることを大切にしたつもりだった。しかしどうしても退 屈そうな学生がいると私が焦ってしまい、結局、準備してきた知識を教える形になってしま ったときもあった。わたにほ実践では、それぞれの学生が「+1」を実感できるために、瞬 発力と伝える力、さらには問題察知能力が必要だと思った。

小林(2017)は、「状況」から出発する授業実践において「日本語教師に求められるもの」

として「自らの言語生活、言語運用をメタ的に内省する力」「成熟した「ことばの使い手」

であること」と述べている。

授業中の時間を気にしすぎてしまったりすると、学生と丁寧にやりとりすることができ なくなってしまった。「なんと打ちますか?」「おいしそう」「うんうん、いいですね」と言 ってスルー。学生の発言を拾いすぎるとしつこい教師だと思われてしまうが、スルーしすぎ るのも冷たい教師だと思われてしまうことを反省した。

昨年「ICT と日本語教育」というキーワードが twitter で爆発的に大流行し、坂本ほか (2008)によると、

日本語教育においても、さまざまな形態でインターネットを用いた取り組みが試行さ れ、最近では学会発表をはじめ、多くの実践報告を目にするようになった。1990 年代 には数少なかった報告が、2000 年代になって急激な増加を見せ、日本国内・海外の日 本語教育関連の学会では必ずといっていいほどコンピューターを使った教育実践の発 表が見られるようになった。(p.214)

と述べている。社会の IT 技術発達により、日本語教育の研究においても、コンピュータ

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ーを使った授業実践報告だけでなく、近年ではスマホアプリを授業で使った際の教育効果 等の研究がなされつつあることがわかっている。

私も「ICT に明るい教師になりたい。だって、上手に教えたいから。」と思っていた。昨年 秋から自分なりに ICT と日本語教育の授業を作ってみて、ICT が授業実践において果たす役 割が、少しずつわかってきていた。わたにほでは、とにかく、「どうやって」教えるかもも ちろん大切なのだが、「何を」教えるか、そのコンテンツを吟味する力について、考えさせ られた。日本語学校では ICT に明るい教師=神のような存在である。「何を」教えるかは、

すでに決まっているため、日本語学校の日本語教師たちは、「どうやって」教えるかだけに 注力する。結果、自分も含め、「何を」教えるべきかという議論がされないまま、ICT スキル だけ身につけようとしている日本語教師が多いと感じた。どんなにかっこよく魚を盛りつ けたって、その魚が鮮度がなかったら、味はまずいままである。ぶかっこうでもいいから、

今にも泳いでいってしまいそうな新鮮な魚を提供したいと思った。

(3)学期開始時に立てた「私の目標」。 1.振り返り、内省すること

毎週の振り返りを残しておくことで、自分が授業前に何を考えていたのか、授業中に何を 考えていたのか、気を付けていたのか、授業後すぐに何を思ったのか、内省することができ た。授業前には「こういう授業になりそうだ。」「学生たちはこういうところに困りそうだ」

と思っていても、「案外、学生の反応はよくなかった」では、なぜよくなかったのか?を考 えることができた。また、他のたまご先生の振り返りを読むことで、自分には無い視点(=

非母語話者からの視点、日本語教師歴 20 年のベテランからの視点など)、また、たまご先生 によって異なる着眼点が見えて、おもしろかった。「話しかける」の授業では私はずっと「「話 しかける」ってなんなんだろう」と授業前も授業中も授業後もずっっっっと考えていたが、

他のたまご先生はそれほど考えておらず、「助ける」vs「手伝う」のちがい、「遅れる」vs「遅 くなる」のちがいなどについて考えていたように感じた。

「話しかける」といえば、「概念」を共有することが大切だということを学んだ。人によ って異なる語感を私はずっと気にしてしまって「待ち合わせに遅れたときは「話しかける」

なのか?」とひとりで悶々としてしまった。「話しかける」=「何か新しい話題を発言する ときの第一声」のような概念を事前に共有していれば、語感に揺さぶられることはなかった と思っている。

2.ひとつひとつの活動に、目的をきちんと立てること

本実践では、「質のいいスモールステップ」の重要性に気づかされた。私は大学4年生の ときから約3年間、日本語教師として教壇に立ってきたが、いかに自分が「スモールステッ プ」を無視してきたかを痛感した。以前勤務していた日本語学校で、私は自分がうまく授業 ができているのかどうか毎日が不安で、よく上司に授業のことを相談していた。上司はよく、

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「教科書の日本語だけを教えても仕方ない、せっかく教えるんだから、初級であっても社会 的な文脈も考慮しないといけないんですよ」と言っていた。私は「なるほど」と思い、初級 であっても、教える項目と関連がありそうな内容であったら、どんな授業でもグラフや統計 を見せるようにしていた。しかし自分の授業「投稿する」教案を小林先生含め検討したとき、

「なんで、日本人の SNS の使用状況を見せる必要があるの?なんのために?」とご指摘があ った。そのときに、私が今まで日本語学校でやってきた「スモールステップ」は無駄だった ことに気づいた。そのときは本当にショックを受けた。自分は3年も教壇に立ってきたのに、

活動の目的さえも、はっきりさせないまま授業をしていたのだと、痛感した。その日から、

「無駄なことはしないようにしよう。どんな活動にもしっかり目的を立てよう。」と誓った。

3.他のたまご先生の授業に、建設的にコメントができるように努める。

もともと私はコメントすることがあまり得意ではない。なぜなら、これまでの日本語学校 の職場で、常に自分は最年少日本語教師として扱われてきた。日本語学校では年功序列の風 習があり、私を含めた 20 代はなかなか自分の意見を言えずにいた。よって、「他の人の授業 にコメントする」のは抵抗があったし、自分は授業するのもコメントするのも下手だと思っ ていた。

しかし、わたにほでは、小林先生がわたにほ授業を履修している留学生に対しても、わた にほ実践を履修しているたまご先生に対しても、「何を言っても大丈夫」という雰囲気を常 に作ってくださっていた。その雰囲気のおかげで、私が日本語授業に対する思い、他のたま ご先生の授業に対する意見を、20 代の自分にかかわらず、気兼ねなく言うことができた。

特に授業前日の火曜日に、チームで意見を言い合ったのはいい思い出となるだろう。チーム のコメントのおかげで自分の教案が前進したし、思わぬところで自信を持つことができた。

私が1回目に教案を提出した後、先生や他のたまご先生からのコメントを受け止めて、教案 を作り直した。「こんなの、私の授業じゃない。私は、もう何を教えたいのかわからない」

と病んでしまって、チームのみんなは最後まで励ましてくれた。「いや、これは私たちには できないよ、SNS をよく知ってるあなたにしかできない授業だよ。」「日本語学校では、投稿 するときの文法なんて教えてくれないよ。「+1」が多い授業になると思う」と言ってくれ て、何度も救われた。私は今までずっとひとりで授業を作ってきたので、生まれて初めて、

「チームで授業を作ることの難しさ/おもしろさ」を一気に体感することができた瞬間だ った。

自分のコメントも、思わぬところで生きていることに気が付いた。「私の世界観がわかり づらくて、いいコメントじゃなかったなあ・・・」と落ち込んだときも、他のたまご先生は、

「あなたのコメント、助言のおかげで、授業の作り方がわかった」と言ってくれた。お世辞 であってもうれしかった。それぞれの異なるバックグラウンドを持つたまご先生たちに、的 確にコメントすることは難しかった。このことは研究と同じで、他の人の研究にコメントす ることの難しさと重なると思った。

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4.その他、学んだことなど

「状況」から出発するアプローチを理解し、一通り授業実践を終えることができた。授業 運営だけでなく、「何を」教えるかをチームで決めたコース・デザイン、フィードバック、

評価など、日本語教師の仕事を一通り行うことができた感覚がある。今後の課題は、「わた しらしい日本語を使えるようになるための授業実践」である。この問いに対する答えが、未 だに見つかっていない。私が授業を担当した際に、「食べま~す!」「大っっっ嫌い!」など を紹介したが、「なんか、自分らしくない気がするけど、先生が教えたし、使ったほうがい いのかな」と思ってしまうのではないか。また、話すチームの「買い物する」「食事する」

状況は、わたし対店員の会話が多く、「自分がどう見られたいのか」の観点がなかった。私 もひとりの中国語学習者であるが、「これがあなたらしい中国語ですよ」なんて誰も教えて くれないし、どうやってわたしの中国語が使えるようになるのか、未だにわからない。どう しても、大学3,4年生のときに使った中国語教科書の例文しか口から出てこなくて困って いる。このような日本語非母語話者が、たくさんいるのではないのか。このような学習者に、

私たち日本語教育の専門家は、どのようなアプローチができるのか、これからも考えていか なければならない。

「状況」のキーワードからずれてしまうが、授業実践を通して、学習者のリソース使用を 観察することができた。辞書、翻訳サイトなどの検索リソースを使ったり、人的リソースを 駆使したりして、それぞれの学習者は、自分が言いたいことを探していたように思う。自分 の修士論文においてもとても参考となった授業実践であった。

参考文献

池田玲子・舘岡洋子(2007)『ピア・ラーニング入門―創造的な学びのデザインのために―』

ひつじ書房

小林ミナ(2017)「成熟した「ことばの使い手」になる」川上郁雄(編)『公共日本語教育学

―社会をつくる日本語教育』くろしお出版,pp.202-207

小林ミナ(2019)『日本語教育よくわかる教授法―「コース・デザイン」から「外国語教授法 の史的変遷」まで』アルク出版

坂本正・小柳かおる・長友和彦・畑佐由紀子・村上京子・森山新(2008)『多様化する言語習 得環境とこれからの日本語教育』p.214,スリーエーネットワーク

清ルミ(2004)「コミュニケーション能力育成の視座から見た日本語教科書文例と教師の“刷 り込み”考-“ないでください”を例として―」異文化コミュニケーション研究第 16 号、pp.1-23

野田尚史(2009)「言語の教育からコミュニケーションの教育へ―非母語話者に対する日本 語教育を例にして―」社会言語学第 12 巻第 1 号、pp.67-79

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