二 〇 一 六
年 一 月
「 今 月 の 言 葉
」 と
「 今 月 の 聖 語
」 に つ い て の 紹 介
今 月 の 言 葉
こ れ か ら が こ れ ま で を 決 め る
藤 代 聰 麿
これ まで の様 々 な 経験 を 振り 返っ た とき
、誰 し も、 上手 くい った こと や成 功し たこ と
、 褒め ら れた こと があ る はず です
。で も、 そ のこ と以 上に
、 上手 くい かな かっ た こと
、失 敗し て しま った こと
、 怒ら れて しま った こ との 方が
、案 外 多か った ので はな い でし ょう か。
「 無 常」 と言 うよ う に、 時間 は常 に流 れ てい き、 当然 の こと なが ら、 過去 に 戻っ てや り直 す こと は出 来 ま せん
。 その 過去 か らの 積み 重ね が 今 の自 分だ と 言 える で しょ う。 し か し、 今 月の 言 葉 は「 これ か らが これ ま で を決 める
」と 述 べら れて いま
す。 こ れは
、 これ ま での 失敗 を自 分 自身 がど う活 かし
、 行動 に移 すか で
、そ の失 敗の 意味 が 大き く変 わる こ とを 示し てい るよ う に思 いま す。 肝 心な のは
、こ れ から の行 動で あり
、 行動 次第 で、 こ れま での 行 い が意 味 ある もの に 転じ られ て いく よ うに 感 じま す
。 勉 強 やク ラブ 活動
、 学校 生活 など
、自 分 自身 の反 省点 を 整理 して
、こ れ から 始ま る新 しい 一 年に 活か し て いき ま しょ う。
今 月 の 聖 語
も し も 為 す べ き こ と で あ る な ら ば
、 そ れ を 為 す べ き で あ る
。
『 ダ ン マ パ ダ
』
『 ダ ンマ パダ
』と は
、釈 尊の 教え を集 め たも ので
、人 間そ の もの への 深い 反 省や 生活 の指 針 を短 い句 に よ って 示 した もの で す。 早 い もの で、 新年 であ る二
〇一 六年 を迎 えま した
。「 一 年の 計は 元旦 にあ り」 とい う言 葉が あ るよ うに
、勉 強や ク ラブ 活動 等、 今 年の 目標 と計 画を 定 めた 人も 多い こと だ ろう と思 い ます
。 仏 陀 の言 葉に は続 きが あり
、
「 それ を断 乎と して 実行 せよ
」と 述べ られ て いま す
。つ い
、 楽な 方 に流 され てし まい
、 目標 を見 失っ て しま うこ とや
、せ っ かく 掲げ た目 標 を忘 れて 日々 過 ごし てし ま う 様な こ と があ る か も知 れま せ ん。
「自 分の 為す べき こと を為 す」 そし て、
「断 乎と して 実行 する
」こ とは 決し て簡 単な こと で はあ り ませ ん が、 強 い意 志を 持っ て、 自 分自 身の 目標 に精 進し てく ださ
い。 そ のこ と が
、自 分を より 成長 させ てく れま す
。