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授業における人間形成のメカニズム(皿)

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庄司他、人男:授業における人間形成のメカニズム(HI) 25

授業における人間形成のメカニズム(皿)

一林竹二の授業論を中心として一

庄 司 他人男

 はじめに

 前二稿においては,授業における人間形成のメ カニズムを,多くの先学に学びながら,一般的な理 論的基礎として検討した。本稿からは,それをふ まえて,今日とくに注目に値するとみられる授業 論のいくつかを順にとりあげて検討する。そうす

ることによって,それらの授業論の有効性をさら に高め,広めることができると考えるからである。

 それらの授業論は有益な視点や示唆を豊かに含 んではいるが,論者独特の表現に頼りすぎている ために理解しにくい面が多かったり,特定教科の 授業論であるためにどの程度の一般性をもちうる のかが不明確であったりするなど,授業の実践と 理論の向上のために十分に生かされていない面が 少なくない。まことに惜しいことである。

 このような観点から,手始めとして本稿では林 竹二の授業論をとりあげる。

 林が全国各地の多くの学校で行なった授業や彼 の授業論については,すでにさまざまの批判や評 価がなされている。彼が行なったのは「授業」と 言えるものだったのか,子どもの表現(写真)や 感想文による授業評価は妥当性をもちうるのか,

等々の批判から,彼こそは「昭和の大教育者」で あった,等々の評価まで。

 しかし,これまでなされてきたそれらの批判や 評価の大部分は,それらの当否もさることながら,

授業という営みの核心にもう一歩迫りえておらず,

隔靴掻痒の感を禁じえない。その原因の一端は林 自身にもあることは言うまでもない。それにもか かわらず,林の授業論には,授業の基本的メカニ ズムという面からみて,傾聴に値するものも少な

くない。

 本稿では,前二稿で検討した理論的基礎を手掛 りとして,それらの点を可能なかぎり明確にして ゆきたい。

 ただし,その前に,ここでもう一度それらの理 論的基礎を簡単にまとめておく必要がある。

1.授業論検討の理論的基礎

 学校教育の目的は究極的には人間形成にあると するならば,そこにおける教育活動の最も大きな 部分を占める授業(学習指導)も,当然のことな がら人間形成をめざすものでなければならない。

しかし,今日そのような授業がまだまだ少数派で あることは多くの人々が異口同音に指摘するとこ ろとなっている。その最も根本的な理由の一つは,

授業における児童生徒の人間形成がどのようなメ カニズムでなされるのかが,教育界の共通認識と して解明され,確立されるに至っていない,とい うことにあると考える。もう一歩つきつめれば,

今日の教育界が佐伯畔の指摘する「理解に対する 誤解」から,いまだ脱していないということにも なるであろう。これでは,人間形成を図るような 授業が一般化しないのは当然と言わなければなら

ない。

 しかし,今日までの授業に関する理論的研究も,

不十分ではあるが授業における人間形成のメカニ ズムに関して,ある程度の成果は蓄積してきてい るのである。われわれは,理論的研究の貧困を嘆 くばかりでなく,それを積極的に活用するよう努 めることは,新たな研究の前進のためにも怠って はならないことであろう。

 ①このような観点から,われわれが最初にと りあげたのはヘルバルト(1776−1841)の「教育 する教授」(ErziehenderUnterricht)の理論であ る。これは,そのような問題に真正面から取り組 んだ先駆的な成果とみられるからである。

 彼によれば,教育の「唯一にして全体的な課題」

は,「道徳的性格」の形成である。そして,この「課 題」を達成する教育活動として,「訓育」よりもむ しろ「教授」が主要な役割をはたすとみる。ここ に,ヘルバルト理論の大きな特徴がある。「道徳的 性格」の形成は,全教科の「教授」を基盤に据え

(2)

ることによってのみ可能となるのである。したが って,道徳性の概念は必然的に,通俗的なものよ

り大幅に「拡大」されることになる。

 次に,このように教育の究極的な目的は「道徳 的性格」の形成にあるが,そこに至るまでの「教 授に課されるより近い目的」は,さまざまの教科 内容に対する「興味」つまり「多面的興味」の育 成にある。彼が依拠する表象心理学によれば,「興 味」はその人間の「欲求」を動かし,さらに「行 為」となって「意志」の形成に導く傾向が強い。

そして,「意志」の決定の様式が「性格」にほかな らない。「道徳的性格」もこのようなプロセスで形 成されることになる。このプロセスでは「訓育」

が大きな役割をはたすことになる。

 なお,この点にかかわって確認しておきたい点 がある。人間の生得的な「自然的・利己的衝動」

も「欲求」を動かし,性格の形成に影響するが,

それでは「道徳的性格」は形成されない。したが って,それに対しては積極的な意義は与えられな い,ということである。

 ところで,「興味」は,人間が後天的に獲得する

「表象」またはその総体(統体)としての「表象圏」

から生ずる,という。だから,「教授に課されるよ り近い目的」は,より正確には,「多面的興味」そ のものというより,それを生み出す「表象圏」を 形成すること,となる。しかもヘルバルトにおい ては,「表象」とは決して知的な面ばかりでなく,

知情意が渾然一体となっているものとして把えら れている。「あらゆる精神活動の座は表象圏にあ る。」という彼の基本命題は,これらのことを示し ている。

 ところで,「表象」を獲得するプロセスにかかわ って,彼は「類化」(Apperception)の原理をきわ めて重要視している。つまり,新しい「表象」の 獲得は,各人の既有の「表象」または「表象圏」

との何らかのかかわりにおいてのみ可能であり,

同時にそれは,既有の「表象」または「表象圏」

をも何らかの程度において再編成する,というこ とである。

 これがヘルバルトにおける「教育する教授」の 骨子であり,授業による人間形成のメカニズムの あらましである。

②デューイ(1859−1952)が教育を「経験の 再構成」(r㏄onstruction of experience)として

把えたことは周知のとおりである。教育を授業に 限定してもその本質は変らない。しかも彼は,上 述のようなヘルバルト理論の重要な部分を肯定し,

かつ高く評価している。

 本稿での中心的問題に関するかぎり,彼がヘル バルトを批判しているのは,「自然的・利巳的衝動」

を積極的に位置づけていない,という一点とみて よい。もちろん,この一点の意味が重大であるこ とは言うまでもないが。

 彼がヘルバルト理論を高く評価しているのは,

「経験の再構成」というのは,「思想圏」の形成と 本質的に異なるものではない,とみているためで あろう。実際,デューイのいう「経験」は,総体

としてみればヘルバルトの「表象圏」にほぼ対応 しているものと考えざるをえない。というのは,

デューイは主著の一つである『思考の方法』(初版

       

でも改訂版でも)において,「経験」を「経験的思

考」(empiricalthought)と「科学的思考(scientific tho㎎ht)とのすべてを含む広い概念として把え

ているからである。日本語ではデューイのいう「経

       

験」と「経験的」とを区別する適当な言葉がない ことも誤解を生む一因なのかも知れないが,それ は決して日常的な生活経験だけを意味するもので はないのである。

 このような「経験」概念を背景に,デューイは r再編成」の内容を,①r経験の意味の増大」と,

②「その後の経験の方向を導く能力の増大」の二 面から把えている。両者がどのように異なり,ど のように関連するのかについては明言してはいな いが,後者が人間の行動(活動)により直接的に かかわる内容であることは確かのようである。と いうのは,後者の「能力」は,「型どおりの活動」

(routine activity)と「偶然的活動」(capricious activity)の「能力」に対置されているからであ

る。したがってヘルバルトの「表象圏」との対比 で言えば,①「経験の意味の増大」の方がほぼそ れに対応するものとみてよいであろう。そして「興 味」概念を静的なものと把えるヘルバルトにおい ては,その基盤である「表象圏」においても,行 動に直接かかわる②の「能力」は含まれていなか ったものとみてよいであろう。この点に関しては,

「自然的・利己的衝動」の位置づけに関する両者の 相違が強く反映されているものとみられる。

 いずれにしても,「経験の再構成」の内実となる        サ

「経験の意味」の増大と「その後の経験の方向を導

(3)

庄司他人男:授業における人間形成のメカニズム(皿) 27

      

く能力」の増大とは,単な量的な増大にとどまる ものではなく,ヘルバルトの「類化」の原理がそ うであったように,既有の「経験」の再編成をも 意味していることは論ずるまでもない。両者の理 論は,重要なところで通じているのである。

 ③前二稿における論述とは順序が若干前後す るが,次に解釈学的方法論について述べる。

 ディルタイ(1833−1911)を中心とする解釈学 は,わが国では,いわゆる「三読法」の理論的基 礎として昭和初期から親しまれている。しかし,

解釈学に関する近年の研究成果をも併せて検討し てみると,それは「三読法」とのみ必然的に結び つくものではなく,さらには,自然科学と峻別さ れる「精神科学」だけの方法論とも言えないよう である。もっと広く,授業における人間形成のメ カニズムを解明する上でもきわめて有益な示唆を 与えてくれるものとみられる。

 このような観点から,とりわけ注目したいのは

「前理解」(Vorverstandnis)の概念である。それ によると,人間の「理解」は,知性や理性だけで 成立するものはないし,単なる経験の蓄績として のみ成立するものでもない。「理解」は,決してタ ブラ・ラサの上に成立するのではなく,つねに「先 立つ理解」としての「前理解」に導かれることに よって成立する。ゲイルタイによれば,新しい教 材(経験)の「理解」(理会)は「追体験」として のみ成立するが,その「追体験」が成立するのは,

「理解」者がすでにそれに対応する何らかの「前理 解」をもっからである。

 こうして新しい教材が「理解」されれば,はじ めの「前理解」もそれなりに豊かになり,再構成 されて,次の教材の学習に際しては,それがまた 新たな「前理解」として機能することになる。こ こから解釈学のもう一つの特徴である「循環性」

の概念が生じてくる。また,「前理解」とはヘルバ ルトの「表象圏」やデューイの総体としての「経 験」にほぼ相当するもので,その内容はひとりひ とり異なる。したがって,教師が同一教材をクラ ス全員に提示しても,各人の「理解」は決して画 一的にはならないのである。

 このようにみるかぎり,国語教材の「理解」も

「前理解」に導かれて成立することは言うまでもな いが,その方法が「三読法」をとる必然性は全く ないし,「一読総合法」とも少しも矛盾するもので

はないのである。

 ここで問題となるのは「前理解」のもう一つの 側面である。「前理解」には二つのタイプがあるこ とは以前から気づかれてはいたが,明確な概念と して区別したのはキュンメルが始めて(1965年)

であるという。彼によれば上述の「前理解」は「基 礎的前理解」と呼ばれるもので,すべての「理解」

に必然的に伴うものである。もう一つは,これと 前述の「循環性」の概念に示唆されて,「新たな可 能性」として着目されるようになった「先取り的 前理解」である。三読法における「素読」は,最 初の通読によって,一つの教材全体に関する「先 取り的前理解」を得させようとするものである。

したがって,これには「基礎的前理解」ほどの必 然性がないことは明白である。三読法で指導する のが効果的な教材もあることは認めるとしても,

教材の特質や難易度などとは無関係に,その方法 が常に有効であるという根拠は全くないのである。

 いずれにせよ,「基礎的前理解」に導かれてのみ

「理解」が成立するという認識は,ヘルバルトの「類 化」およびデューイの「経験の再構成」の理論と も共通するものであり,授業における人間形成の メカニズムの観点から,きわめて示唆的である。

 ④宇佐美寛は世界的なr分析哲学の理論批判 運動の流れ」に立ちながら,「理解する」とか「わ かる」とかいうことを,実際の授業場面のレベル で具体的に把えているだけでなく,それを基盤に して授業構成の契機についても有益な理論モデル を提起している。

 まず,後者については,「記号段階」という視点 から,「教科内容」「教材」「授業刺激」「解釈内容」

の四つを区分する。「教科内容」とは,教師が教え ようと意図する各教科の内容である。例えば,「国 民の食料の確保の上で農産物の生産が大切である

こと」(小5・社会)とか,「燃焼は,物質が酸素 と結び付く化学変化であること」(中・理科)など の内容ということになるであろう。これらは,子 どもたちにストレートに教えることは不可能なの で,授業では,身近な地域の農業の実態について 調べさせるとか,ガラス器の中でローソクを燃や す実験をさせる,などの具体的学習内容に取り組        ませる。これが「教材」である。「教材」で「教科     内容」を教えるのである。

 次に,授業場面では,教師は子どもたちに「教

(4)

材」を提示するだけでなく,説明・指示・発問な どのさまざまな働きかけをする。これが「授業刺 激」である。子どもたちはそれらの「授業刺激」

に促され,自らも思考することによって,その「教 材」を「解釈」する。つまり,教師が教えようと 意図した「教科内容」を,「教材」の学習に取り組 むことによって,自分の「解釈内容」として生み 出すのである。「理解する」とか「わかる」とかい

うことは,単に記憶することではなく,「解釈」す ることなのである。つまり,先の一例で言えば,

身近かな地域の農業の実状を「教材」として学習 することによって,その地域の農業のことだけで なく,「国民の食料の確保の上で農産物の生産が大 切であること」をも「解釈」させるのである。「教 科内容」は,「教材」の学習を通してでなければ,

教えることはできないのである。したがって,授 業による人間形成も,「教科内容」を子ども自身の

「解釈内容」として成立させることにほかならない のである。

 それでは「解釈」はどのように成立するのであ ろうか。宇佐美によれば,

  解釈とは,解釈される記号が,本来持ってい  ると一般にみなされている内容(これを「意味」

 とよぼう。)のわく内に止まるものではなく,そ  のわくを越えた新たな内容をつけ加えて新しい  内容を作り出すことなのである。ことばの解釈  は,単に辞書に出ているようないいかえ程度の  ものではなく,解釈者がすでに持っている経験  からの資料を加えて内容を再構成するものであ  る。

 ここでいう「再構成」は,デューイの「経験の 再構成」と内容的にもほぼ一致する。「解釈者がす でにもっている経験」とは,解釈学でいう「前理 解」にほかならない。宇佐美はこれを「情報構造」

とか「ことば一経験の蓄積構造」とか呼んでいる。

 なお,言語社会学者の鈴木孝夫は,「意味」とは

「ある音声形態との関連で持っている体験および 知識の総体」であるという。したがって,①「こ        じとばの『意味』とは,個人個人によって,非常に

違っている。」ほか,②rことばの『意味」は,こ とばによって伝達することはできない。」と言う。

この観点からみれば,すでにみた「表象圏」「経験」

「前理解」「情報構造」などは,各人がもつ総体と しての「意味」の関連構造ということになろう。

⑤佐伯畔の理論は,これまでの論述を認知心 理学の立場から補強するものとして注目に値する。

冒頭でも言及したが,佐伯は,今日の教育では根 本のところで「理解に対する誤解」があり,その

ことが教育に関するあらゆる誤解の根元になって いる,とみる。

 では,「理解」するとはどういうことか。佐伯に よれば,それは単に事実や手順を知っているとか,

細いことまで正答できるとかいうことではなく,

「納得」することである。この問題に関って特に注 目されるのは次の二点である。

 一つは,「理解」することは,「関連する世界が 広がること」だ,としている点である。佐伯は「理 解」することの条件として,①「具体的な問題が 解決できること」,②「ものごとの根拠が示せるこ

と」,③「現実の社会・文化とむすびつくこと」の ほかに,④として上記の「関連する世界が広がる こと」(「関連拡大性」)をあげるのである。

 ①②③はすでにこれまでも種々の表現で指摘さ れてきたことであるが,われわれが④に特に注目 するのは,「関連する世界が広がること」は,「意 味」の関連構造が広がること,とみられるからで ある。また,観点を変えれば,①も「具体的な問 題」へと「意味」の関連構造が広がることであり,

②も「ものごとの根拠」へと深く「広がること」

であり,③も「現実の社会・文化」へとが広がる こと」である。このように,「関連する世界が広が ること」に着目する意義は大であると考える。

 ところで,「意味」が「わかる」ということは「イ メージができる」ということでもある。したがっ て,「関連する世界が広がる」とは,実質的にはイ メージが広がることである。そして,イメージが 広がることは思考が広がることでもある。「言葉だ け浮んで,イメージが浮ばないとき,思考は行き づまる。」からである。つまり,「関連する世界が 広がること」に着目し,それを重視する授業は,

思考を重視する授業になるのである。

 佐伯の理論でもう一つ注目したいのは「真実性 感覚」の重視である。それは,学習者自身が学習 内容に対して,「ほんとうだ!」とするに足る「十 分な吟味と実感」をもっことである。教師が得た

「実感」を黒板にまとめて,それを子どもたちに「お ぼえ」させるという方法は全く通用しないのであ る。大脳生理学的にみても,本人が「感じなけれ ば, わからない 」のである。

(5)

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 この区別はきわめて重要である。にもかかわら ず,授業のベルではそれがほとんど意識されない ことが多いのも,「理解に対する誤解」が根底にあ るため,と言えよう。

 以上,前二稿の「まとめ」としてはやや冗長な ものになってしまったが,今後の論述にはこの程 度は必要とみた。これでもなお省略しすぎた面も あるが,それは必要に応じて補うことにする。

II.林竹二の授業論の検討

      し      

ここでは,林竹二の授業論を,彼が授業について

        ロ      

直接述べている文章を手がかりに,1でまとめた 理論的基礎の観点から,検討してゆきたい。内容

としては,←)授業と人間形成との関連,に)「授業 が成立する」とはどういうことか,(⇒授業におい て「わかる」とはどういうことか,四「授業を組 織する」ための手だて,の四つを柱に検討する。

これらは前述の理論的基礎からもほぼ自然に要請 される論点であるが,林の授業論にとってもそれ ほど無理な柱立てでもないであろう。

一 授業と人間形成との関連

 はじめに,この問題について林が述べている文 章をいくつか引用する。

①ソクラテスは知識の問題 ソクラテスは教  育を知識の獲得の問題としていますけれども,

 その知識というのは魂のひとつの状態であり,

 それが人生における救いなのだとかれは考えて  います。魂がいろいろのよごれから自由になつ  て,美しいものを美しいと見ることができるよ  うになった状態,真実を真実とみ,それに止ま  ることができるようになった魂の状態が知恵で,

 それだけがこの人生における人間の救いだとい  うのがソクラテスの哲学でした。そういう状態  を魂の中につくりあげることを教育だと考えて  いた。u)

②私のいう本当の学習というのは,単純化すれ  ば,主体的,持続的な問題の追求を通じて,子  どもが変ることだといえるでしょう。前にはこ  うだと思っていたことが,とうてい維持できな  いことを,自分で納得する。そうして,考えが  変る。ω

③かつての学校教育は,授業そのものに,否応

 なく子供をその中に引きづりこむ力があるとは  考えなかった。そして,どんなにつまらない授  業でも,おとなしく,行儀よくそれをうける子  どもをつくることに熱中した。質の高い授業を  創出することによって,子供を変えようとする  努力を捨てて,授業外の手段によって,子ども  を変えようとしたのである。〔3)

 以上の引用からだけでも,林が授業に人間形成 の基本的任務を見出していることは明らかである。

①はソクラテスの知識観ないし教育観を述べたも のであるが,それはそのまま林自身の教育観,と りわけ授業観になっているものとみられる。②に もソクラテスの思想が明瞭に表われているが,子 どもたちに「ほんとうの学習」をせることによっ て「考えが変る」ようにするということは,授業 による人間形成そのものである。③には,授業こ そ人間形成のための中心的任務を担うものである とする林の授業観が直裁に述べられているが,こ れは根本においてヘルバルトの「教育する教授」

の思想と少しも変るところがない。

 われわれは,「質の高い授業を創出することによ って,子どもを変えようとする努力を捨てて,授 業外の手段によって,子どもを変えようと」する 傾向が,今日もなお顕著であることは認めざるを えない。「授業外の手段」として最も期待されてい るのは道徳教育であろう。しかし,安易に道徳教 育に期待しても,学校教育の事実上の中心である 授業が改善されないかぎり,その期待は決して叶 えられないことは,すでに何度も経験したことで あるばかりでなく,論理的必然なのである。

 わが国においては,受験競争の激化が,このよ うな状況からの脱却を困難にしていることは事実 であるが,さらに根本的には,「質の高い授業」の 実態が,教育界における明確な共通理解として確 立していないことにある。その「質の高い授業」

      ヨ      

と受験学力だけを高めるためのレベルの高い授業 とが,明確には区別されていないのである。それ ら二つの授業は質の違うものらしい,ということ には気がついている場合も,実際の授業設計や教 室での授業展開の次元まで具体化するとなると,

二つの本質的な相違点はあいまいになり,見えな くなってしまうのである。

 その相違を明確にすることは決して容易な仕事 ではなく,教職の専門性が問われるのは実にこの 点なのである。佐伯腓が「理解に対する誤解」か

(6)

ら教育界が脱していないとみるのも,この点と深 くかかわっている。林竹二がこの問題に真正面か ら取り組み,それを「授業」を通じて実際にかな りはっきりと見せてくれている点に,われわれは 大いに注目すべきであろう。

 このような観点から見落せないのは,林の授業 を受けた一児童の次の「感想」文である。

④第二回目の授業は,がらりとかわってr開国」

 でしたけれど,ただ単にあの人がああやった,

 こうやった,勝った負けたなどということだけ  ではなく,その時の人の心理,その頃の情勢,

 それにその頃の人々の不安という人間性の問題  だったのです。ここに一回目の授業との共通点  をぼくは見出したのです。……ω

 筆者は正直に言って,子どもがこんなことを書 けるものだろうかと,初めのうちはわれとわが目 を疑ったほどである。しかしここでは,それが林 自身の授業観そのものであったことを確認すれば 十分であろう。「ただ単にあの人がああやった,こ

うやった,勝った負けたなどということだけ」を

    ヨ

記憶しても,そのことによって学習者が「変る」

ことはほとんどありえないのである。そうではな くて,「その時の人の心理,その頃の情勢,それに その頃の人々の不安という人間性」を,子どもた

    ロ      

ち自身が感じとること,つまり「理解」(解釈学で いう「追体験」)することによって,はじめて「変 る」のである。これが授業における人間形成の実 質的内容なのである。

 しかし,現実には,このようには考えられてい ないのである。林の次の言葉は,今日,あらため て玩味してみる必要があろう。

⑤ ところが,現実の学校の勤務の態様を見ます  と,明治以来の伝統によるものでしょうか,小  学校の教育(授業)を,小さい子どもに一定の  初歩的な知識を「授ける」単純な作業としてと  らえられているとしか考えられないのです。教  師に求められるものは,したがって,このよう  な理解にしたがっての任務に見合う活動でしか  ない,ここに小学校教育の根本的な不幸がある  ように思います。㈲

 これは,「明治以来の伝統」もあるにしても,根 底にあるのは,やはり「理解に対する誤解」であ

ろう。

 二 「授業が成立する」ということ

 授業が時間割どおりに行われるということと,

授業が上述のように,学習者を「変える」ような 質のものとして「成立する」ということとは,全

く別問題である,というのが林の基本的な授業観 である。この点については以下の数筒所を引用す

る。

①私がしばしばいうことだが,授業とは,子ど  もたちが,自分たちだけでは,決して到達でき  ない高みまで,自分の手や足をつかってよじの  ぼってゆくのを助ける仕事である。私はそう考  えている。私はさらに,授業はいつ成立するの  かの問いに対して,授業者のうちにある教えた  いものが,子どもたちの追求の対象となる一  もっと砕いて言えば子どもがそれを追いかけず  にはいられないもの(獲物)となるときである  と説いてきた。⑥

②話を授業の成立の問題にもどそう。授業は,

 教師のうちにある教えたいことが,子どもの継  続的な追求の対象に転化したときに,それは成  立する。その出発点は,教師のうちにある教え  たいものであって,教師の外にある教えるべき  ものではない。これは必ずしも,授業がもっと  も望ましい形をとって成立するためには,教材  が手作りのものであるべきだということを主張  するものではない。教材は与えられたものであ  っ・てもよい。ただそれが徹底的な教材研究によ  って,手作りのものと同じくらい,授業者自身  のものとなっていることが,授業が成立するた  めに必要だというのである。(7)

③私が授業を子どもたちと一緒に山をよじのぼ  る仕事にくらべるのは,教えるということが,

 教師の一方的な作業でないことをいいたいから  である。教えるということは,子どもが何かを  学ぶことによって,はじめて終結する仕事であ  る。それまでは,教師は,何も教えたことには  ならない。子どもがテストで満点をとっても,

 それは子どもが本当に学んだ証拠ではないし,

 教師が教えることに成功したしるしでもない。

 子どもが自分の手足を使って,すべての道のり  を歩きとおして,山頂にたどりつくまでは,即  ち子どもが本当に学ぶまでは,教師は何も教え  ていないのである。学ぶとは何かを,教師はき  びしく考えつめる必要がある。(8)

④授業は,何か決まったことを「教える」こと

(7)

庄司他人男:授業における人間形成のメカニズム(m) 31

 ではない。それは,ある教材を,文字通りに手  段・道具として,子供たちがふかいところにし  まいこんでいる可能性を引き出しながら,その  学習を組織する仕事である。したがって子供が  授業の主人公であることは当然だが,しかし,

 教師がきびしく授業を組織することに成功した  ときだけ,子供は,授業の主人公となる。また  授業は授業に成るのである。何故なら,授業と  は,子供が自分たちだけでは到達できない高み  にまで,自分の手や足をつかってよじのぼって  ゆくのを助ける仕事であるからである。(9  以上の引用例からも明らかなように,林は授業

の成立に関してきわめて本質なところを突いてい るが,肝腎のところが比喩的表現になっており,

また論理構造が不明確な論述になっている。これ では,授業のメカニズムは見えにくい。

←)林竹二は,しばしば(①③④)授業をきびし い登山に喩えるが,それは「教えるということが,

教師の一方的な作業でないことをいいたいからで ある。」という。しかしわれわれは,「子どもたち が,自分たちだけでは,決して到達できない高み まで」(①④)という点に着目すれば,その意味は さらに深まると考える。子どもたちに「自習」を 上手にやらせれば,それだけでもかなりの学習成 果は得られよう。しかし,それでは「ただ単にあ の人がああやった,こうやった,勝った負けたな

ど」(一の④)というレベルの「何か決まったこと」

はある程度学びえても,「その時の人の心理,その 頃の情勢,それにその頃の人々の不安という人間 性の問題」(一の④)など,「教師のうちにある教

えたいこと」(②)までも学び取ることはできるは ずがない。「授業が成立する」かどうかは,学習の

      

質の問題なのであって,単なる能率の問題ではな いのである。

 それでは,「教師(授業者)のうちにある教えた いこと」とは何であろうか。それは「教材」や「目 標」とはどう異なり,どのような関係になるので あろうか。これら相互の論理的な関係が明確に把 えられていないところに,林の授業論の大きな弱 点がある。もちろん,これは教育界全体の弱点で

もある。この点を解明するには宇佐美寛による「教 科内容」「教材」「授業刺激」「解釈内容」の概念分 けが有効である。

 林のいう「教師のうちにある教えたいこと」と は「教科内容」のことである。「開国」の授業の場

合で言えば,「阿部正弘が立たされた状況が,どの くらい困難なものであったか」〔9ということであ る。そのことが「身にしみて理解され,わかって くる」とき,初めて「授業が成立」したと言える わけである。しかし,「阿部正弘が立たされた状況 が,どのくらい困難なものであったか」という「教 科内容」は,子どもたちにストレートに教えるこ

とはできないのである。だから,黒船が何年に,

何の目的で来たのか,それに対して幕府がどう対 応したのか,などの具体的事実(「何か決まったこ

と」)について,子どもたちにできるだけ生き生き と,豊かに情報(知識)を提供しなければならな い。授業で学習するこられの具体的内容が「教材」

       である。したがって,それらの具体的史実をおぼ えたり,教科書をみればすぐに分るようなことを

     

暗記しても,「授業が成立」したことにはならない のである。それら多くの史実の「意味」を,子ど

もたちが「自分の手足を使って」相互に結びつけ,

関連構造を見つけて,阿部正弘が置かれた立場の

       

困難さを感じとることに成功したとき,初めて「授 業が成立」したことになるのである。じっさい,

「感じなければ, わからない 」のである。

(⇒ つぎに,「教科内容」を「教師のうちにある教 えたいこと」(①②)と把え,それを「教師の外に ある教えるべきもの」(②)と対比しているのも,

林による重要な指摘である。つまり,「教科内容」

は,教師にとっては,ただ単に,教えることにな

       

っている,という受けとめ方では授業は成立しえ ないのである。先の例で言えば,小学校(5年)

社会科では,「国民の食料の確保の上で農産物の生 産が大切であること」を,また中学校理科では,

「燃焼は,物質が酸素と結び付く化学変化であるこ と」を教えることの意味と必要性を,教師自身が 十分に認識し,それがほんとに授業者である教師 の「教えたいこと」になっていなければならない のである。教師にとってそれが明確になっていれ ば,それを指導するための「教材」としてどのよ うなものが適切か,という見通もつきやすくなる。

そして,そのような「教科内容」を教えるのに,

この「教材」が適切であるという見通しが立つな らば,それが教科書教材として「与えられたもの」

であろうと,「手作りのもの」であろうと,大差な いのである。

 それでは,「教師のうちにある教えたいこと」

が,どのようにして「子どもがそれを追いかけず

(8)

にはいられないもの」になるのであろうか。林は この点に関しては,子どもが本来的にもっている と学習意欲の存在を力説するだけにとどまってい る。次のように言う。

⑤ 学校教育は,子供をともすればば本来勉強ぎ  らいの存在としてとらえがちであるが,我々は,

 むしろかれらを勉強ぎらいにしている原因は,

 我々の授業の貧しさの中にあると考えるべきで  はなかろうか。子供たちは,パンを求めながら,

 石を与えられつづけた結果,心ならずも勉強ぎ  らいにさせられているのである。{ゆ

 しかし,このように力説するだけでは不十分で ある。ここで有益な示唆を与えてくれるのは,解 釈学のいう「前理解」(とりわけ「基礎的前理解」)

であり,デューイが「経験の再構成」という場合 の学習前の「経験」である。新しい学習内容,つ まり「教師のうちにある教えたいこと」と,子ど もたちのもつ「前理解」との落差(ズレ)または 矛盾が子どもたち自身に明確に意識されたとき,

しかもその落差や矛盾が何とか克服できる見通が 感じられるとき,教師の「教えたいこと」が,子

どもたちの「追いかけずにはいられないもの」に 転化するのである。これが「学習課題」の成立で

ある。

日 最後に,「子どもたちが満点をとっても,それ は子どもが本当に学んだ証拠ではないし,教師が 教えることに成功したしるしでもない。」(③)と いう点を検討する。これにつづいて,「ほんとうに 学ぶ」ということが「山頂にたどりつく」ことに 喩えられているが,これでは肝腎の授業のメカニ ズムは不明確である。「ほんとうに学ぶ」というこ とは「教科内容」を学ぶことなのである。だから,

「開国」の授業の場合について言えば,単なる年号       

や人名や事件の経緯などをいかにおぼえても,肝 腎の「阿部正弘が立たされた状況が,どのくらい 困難なものであったか」ということが「身にしみ て理解され」なければ,「何も教えたことにはなら ない」(③)のである。このように「教科内容」と

「教材」とを明確に区別して,その関連を明らかに すれば,山登などの比喩で核心をぼかす必要はな

くなるのである。

 ここで「教科内容」と「目標」との関係につい て附言しておきたい。「目標」はまず,各教科ごと の全体としての目標と学年(中学や高校では「分 野」も)ごとの目標とに大別される。そして,学

年や分野の目標を達成するのに必要とみられる

「教科内容」が選択・組織される。わが国では,こ

       

のところまでは,国家基準が学習指導要領として 示されている。したがって「教科内容」は,それ を子どもたちに得させることによって,各教科の 学年の目標が達成されるものになっていなければ ならない。そして,さらには,それらの「教科内 容」を子どもたちに習得させるための「教材」が,

教科書を中心に選択され,編成されることになる        のである。授業とは教科書を教えることではなく,

      し

教科書で,「教科内容」を教えることなのである。

       だから,教科書の「教材」をいくら教えても,そ れだけでは「何も教えたことにはならない」とい う林の指摘は,きわめて本質的な意味をもつので

ある。

 なお,ここでは,「子供たちがふかいところにし まいこんでいる可能性」についても論じなければ ならないが,この点は次節で扱う方が,より適切

と考える。

 三  「わかる」ということ

 本節では以下の三箇所を引用するにとどめるが,

すでにあげた引用箇所にも,この問題に関連する 内容はかなり含まれている。

①学習には常に,何らかの意味で,自分とたた  かって,自分をのりこえる過程がある。これは  ことばを失うほどの高度の集中なしには,可能  にはならない。(中略)はげしい内面のドラマの  進行の末に,学ぶということが成立する。授業  とは単なる知識の授受ではない。自分との対決

 なのである。(11)

②けれども,授業というものは,より根本的に  は,子どもの内に何かを起こさせる仕事なので  す。子どもの内にひとつの事件がおきる。そし  てその経験を通じて子供のうちに変化が生まれ  る。授業は,そういう仕事ではないかと思いま  す。ですから,子どもの内に何事かが起きて,

 それがどういうふうに進行していくかというこ  とが授業の中では,非常に大きな問題であるの  ではないかとおもうのです。ところが子どもが  発したことばだけを,子どもの内部におきて進  行している事実から切り離して,追っかけてい  ては,そうした授業の実質はとうていつかめな  いのは当然です。しかも,子どもの発言も,そ  れをO×式にとらえてしまっていることが多く

(9)

庄司他人男:授業における人間形成のメカニズム(皿) 33

 て,子どもの発言の根にあるもの,あるいはそ  の根底にあるもの,そういうものこそが学習の  中で,実は,非常に大きな意味をもっているの  に,それがほとんど問われていないのではない  か,という気が強くなって来たわけです。u2)

③ ……例えば「開国」の場合なんかは阿部正弘  が立たされたその場に,子供も或程度同じよう  に立たせることによって,開国の際に,阿部正  弘に課せられた課題の困雄さ,重大さを考えさ  せなければ,阿部正弘の決断の意味,阿部正弘  のやった仕事の歴史的な意味というものは,つ  かめないわけです。そのためには二時間の授業  のうち一時間を,その準備に一一子どもたちを  歴史的状況の中に立たせる作業にあてるわけで  す。当然私の言葉は多くなる。それは教えるた  めではない。その作業を通じて,二時間目のは  じめになって子供たちは,はじめて,阿部正弘  が立たされた状況が,どのくらい困難なもので  あったかが身にしみて理解され,わかってくる  わけです。そして問題の把握も分析も可能にな  るわけです。⑬

e①で,学習には「自分とたたかって,自分を のりこえる過程がある。」と言っているが,ここで いう「自分」の実体は,自分の「前理解」という

ことになる。「前理解」の内容は,必ずしも明確な 理解になっていないもの,したがって,本人自身

も気づいていないものも含まれる。それだけに,

新しい学習内容が,本人が余りにも当然のことと 信じて疑わなかった,その時点までの「前理解」

との落差(ズレ)や矛盾が著しいものであればあ るほど,「内面のドラマ」は劇烈なものとなる。つ まり,そのような「前理解」と,教師が提示する ものとのはげしい「対立」や葛藤がひきおこされ,

それを通して新たな「解釈」が生まれてくるので ある。これが,「理解する」とか「わかる」とかい うことであり,デューイのいう「経験の再構成」

なのである。この場合,学習前の「前理解」は,

あいまいであった部分が明確になったり,当然の こととして何の疑いももたなかったことが否定さ れたり,というさまざまな変質を被ることになる。

学習によって子どもが「変る」というのはこのこ とである。そして,このように「変る」ことが,

とりもなおさず人間形成の実質的内容となるわけ である。したがって,学校教育とは,子どもたち がこのような意味において「変る」ことを絶えず

追求していく過程にほかならないのである。デュ

       ヨ   ロ        

一イが,教育を「経験の絶えざる再構成」と把え たのは,まことに正鶴を得たものと言わざるをえ

ない。

口 ここまでみてくると,林が好んで用いる「事 件」ということの意味や役割もかなり見えやすく なる。授業とは,「子どもの内に何かを起こさせる 仕事なのです。子どもの内にひとつの事件がおき

る。そしてその経験を通じて子供のうちに変化が 生まれる。授業は,そういう仕事ではないかと思 います。」(②)という。これだけでは必ずしも明 確ではないが,林のいう「事件」には二つの意味 があるように思われる。それらは相互に連続して はいるが,はっきり区別することも必要である。

一つは,明確で,強力な学習課題という意味であ り,もう一つは,学習の結果として子どもが大き く「変る」という意味である。

 人間は誰しも新しい情報に接したとき,「前理 解」との間に何らかの落差(ズレ)や矛盾を感じ ることは,日常茶飯といってよい。もちろん,そ の程度の場合であっても,それなりに,「経験の再 構成」は行われ,「前理解」に何らかの変化は生じ ているのである。しかし,「事件」というからに は,そのような日常茶飯のレベルを越えて,落差 や矛盾がきわめて大きなものである。したがって

「事件」を学習課題の設定としてみた場合,子ども たち自身が学習課題をしっかりとっかむというこ

とは,この落差や矛盾を明確に意識するというこ とである。そして,その落差や矛盾の大きさが,

子ども自身の学習活動を推進するエネルギーの大 きさともなるのである。また,落差や矛盾を意識 するのは子ども自身でなければならない。教師だ けが意識したものを子どもたちに示すだけでは,

真の学習課題は成立しない。林が「二時間の授業 のうち(前半の)一時間を」(③),まるまるそれ に当てるというのは,子どもたちに学習課題を明 確に意識させることの困難性とその重要性を示す

ものである。

 学習課題が真に成立した後の授業過程では,子 どもたちの「前理解」と,教師の提示する情報(授 業刺激)との間に,はげしい対立や葛藤が展開さ れる。子どもたちは,決して受動的に,一方的に 教師の提示する情報を受け入れているわけではな い。もちろん,その過程では,子どもの「前理解」

がたじたじ後退し,跡形もなく崩壊することもあ

(10)

れば,「前理解」を脅かすに足る強力な攻撃が教師 側からはほとんど加えられない場合もあろう。い ずれにしても授業が終了するということは,この

      じ      

対立や葛藤が一段落することである,

 「理解する」とか「わかる」とかいうことは,

このような対立や葛藤の過程で,それまでの自分 の「前理解」がとうてい維持し得ないものである ことが意識されること,さらには,それに代る新 しい意味内容が意識されること,または,それま で全く無関係とみていた事柄が相互に深く結びつ いていることが意識されること,などある。いず れにしても,それらの過程を経てなしとげられる

「経験の再構成」が個々の子どもたちにとって,.ど うでもよいレベルのものではなく,重要な意味を もつものであれば,それを「事件」と呼ぶことも 決して不当とは言えないであろう。なお,教師側 からの攻撃が手ぬるく,子どもの「前理解」が全 く無事(?)で済んでしまうような授業では,子 どもは「何も学んだことにはならない。」のであ

る。

日 ここで,前節で留保しておいた「子供たちが 深いところにしまいこんでいる可能性」について 検討する。これは解釈学でいう「基礎的前理解」

の内容にかかわることは明らかである。人間には,

本人もほとんど意識していないにもかかわらず,

その行動や生き方に深く,強くかかわっている価 値観なり,世界観なりがあるはずである。したが って授業においては,教師は,これらをできるだ け引き出し,それらを巻きこむように組織し,展 開することによって,その価値観や世界観にも好 ましい影響が及ぶようにするわけである。授業に よる人間形成のメカニズムを解明する観点からは,

林のこの指摘も重要な点である。

 本節の最後に,授業が終了するということは,

       し        

さまざまな対立や葛藤が一段落することである,

と述べた点について考察しておきたい。「わかる」

ということの本質をいっそ明らかにするためであ

る。

 授業の終了によって,学習課題の追求の過程に おける対立や葛藤が完全に解消するようでは,充 実した授業とは言えない。初めの学習課題に関し ては完全に解消したとしても,学習が進むにした がって,初めのうちは見えなかった新たな疑問や 矛盾が大なり小なり必ず生じてくるからである。

「教科内容」と「教材」が基礎・基本に忠実なもの

であれば,なおさらのことである。新たな疑問や 矛盾は,もちろん,授業が終了してからも生じて くる。ところで,このことは,実は,「関連する世 界が広がること」にほかならない。「意味」の関連 構造が新たな方向につぎつぎと広がってゆくから

こそ,今まで見えなかったことが疑問や矛盾とし て見えてくるのである。授業において,ほんとう に「わかる」ということは,このようなことなの

       

である。単に暗記することとは全くその質が異な るのである。

 その広がり方は・個々の子どもの理解の深さ,

興味・関心・生活環境などによって大幅に変って くる。真の個性化教育とは,このようなことを大 切にするものでなければならない。「子どもが「わ かった」というときはわからない部分がいっぱい あるし,「わからない』というときにはわかってい る部分もだいぶある」{14)のである。しかも,それ は,子どもの思考活動が活発であればあるほど動 的であり,広がり方も促進されるのである。

 かくして,実際の授業においては,一つの単元 について共通に理解する部分もあるが,同時に 個々の子どもたちが個性的に,多様に「関連する 世界を広げ」ながら,一応その単元の学習を終る ことになる。ここで忘れてならないことは,共通 に理解する部分だけが重要なのではない,という ことである。

 このように,一つの単元によって得られた学習 成果の総体は,その後の関連する単元の学習に際 しては,また新たに「前理解」として大きな役割 をはたすのである。「理解」は「循環」的に深まる のである。

 四 「授業を組織する」手だて

 この問題に関して林が論じているのは,大きく は三点とみられる。教師の発問の機能,「吟味」に ついて,それに,子どもの発言の意味について,

である。これらは一連のものであることは言うま でもない。ここでは以下の箇所を引用する。

①ここで私は少し教師の発問の本来の機能につ  いて考えておきたい。発問とは教師が子どもの  内部に切り込むための手段である。あるいは,

 教師が外からは見えない子どもの内部にさぐり  を入れる手段だといってもよい。子どもの発言  は,それ自体価値なのではない。教師のきびし  い吟味を通じて,それははじめて子どもの内部

(11)

庄司他人男:授業における人間形成のメカニズム(IH) 35

 を語るものとなるのである。そうだとすれば,

 教師が問いを発しながら,答が出ると,それに  何の吟味を加えることなしに終るのでは,問う  ことは無意味である。子どもの発言はきびしく  吟味を加えられてはじめて授業の中に正しく位  置づけられるのである。だから,授業の核心は,

 子どもの発言ではなくて,それに加えられる吟  味である。そう私は考えている。㈲

②……この写真をこまかく御覧になるとわかる  んですが,手をあげる前のこの表情はいかにも  しめた!というような表情です。ところが,そ  の言うことを吟味してみると,その発言は参考  書からの借りもので,確たる根底をその子ども  自身の中にもっていないことがわかる。私は子  どもに単に発言させるだけでは授業ではない。

 その発言をきびしく吟味にかけることが大事だ  と考えています。そうすると借りものの知識は,

 全部つぶれるわけです。そのあとに,どこから  か仕入れた知識だけにたよらない,なんとか自  分をその問題にぶっつけているような学習がは  じまるわけです。⑯

③この(子どもが授業に一引用者)夢中にな  ること即ち集中は受け身の状態からは生まれな  い。先生がたのいわゆる講義のような授業の中  で,現実に,高度の集中があるのは,そこに対  話が成立しているからです。ところが,教師た  ちはそれがまるで見えない。そして,教師の発  言が多くて子ども発言が少ないから,それは授  業ではないときめつけるのです。〔17〕

④子どもの発言と教師の発言は別な性質のもの  であり,子どもの発言もそれがどのような,ど  れだけの根をもっているのか,まったく根のな  いものであるかということを鋭く感じわけるこ  とができなければ,教師は授業を組織すること  はできないわけです。それで,子どもの発言と  いうものが,どれだけ自分の内に根をもってい  るものであるかという問題を考えるためには  「ことば」というもの,ことばを発するというこ  と,あるいは発言自体の意味をもう少し根本的  に考えておかないといけないんじゃないかと思  います。が,私はことばというものは「事の端」

 だということをこのごろ強く感じているんです。

 何か「事」が底にあって,その事柄のはしがど  こかにあらわれること,それが言葉と考えるの  が本当じゃあないでしょうか。u8}

e まず,発問の機能についてであるが,林はそ  れを,「教師が外からは見えない子どもの内部に  さぐりを入れる手段だ」(②)とみている。同誉  の観点から,別の箇所では,それを魚釣の「浮  き 標」または医師の「問診」にも喩えている。こ  れは発問の機能を限定しすぎている点に問題は  あるが,ここに指摘されていること自体は授業  の成否にかかわる根本問題である。というのは,

 しばしば述べてきたように,そもそも何かを「理  解」するということは,個々人の「前理解」な  いし既有の「経験」と無関係には成立しえない  ことだからである。新しい知識(情報)を「理  解」するということは,それによって「前理解」

 や「経験」を,より豊かな,より確かな,より  体系的なものに「再構成」することなのである。

 ビンに水でも入れるように,新しい知識(情報)

 を子どもの頭の中に一方的に入れるということ  は不可能なのである。少なくともそれは,機械  的暗記ではありうるとしても,「理解」するとい  うことではないのである。

  そうだとすれば,「子どもの内部」つまり「前  理解」に「さぐりを入れる」ことは,授業を組  織する上では不可欠の基礎作業となるのである。

 同時に,「授業を組織する」とは,具体的には何  をすることなのかもかなり見えやすくなってく  るように思われる。

 それにしても,授業における発問の機能は「浮  標」や「問診」のそれに限られるものでは決し  てない。青木幹勇は,国語教育を背景にしてで  はあるが,「発問の機能」として以下の五項目を  あげている。

 ①子どもの実態を知ろうとする発問

子どもの理解をすすめ,確かにさせるため の発問

子どもに言考を促し,その思考を導いてい く追求的な発問

子どもの意見や感想をまとめさせようとす る発問

学習の意欲をたかめ,学習のふんいきを整 えるための発問{19}

 これによれば,「浮標」や「問診」の機能は①「子 どもの実態を知ろうとする発問」に相当する。そ して,とりわけ③の機能は,林の場合は,「吟味」

に際して中心的な役割をはたすものと見られる。

ここでは発問の問題全般について論ずる場ではな

(12)

いので,次に「吟味」の問題に進むことにする。

(二)林によれば,「吟味にかける」とは,「参考書 からの借りもので,確たる根底をその子ども自身 の中にもっていない」ような知識を「全部つぶ」

して,「そのあとに,どこかから仕入れた知識にた よらない,なんとか自分をその問題にぶっつける ような学習」を促す働きかけをする,ということ になるであろう。

 これを,本稿1に述べた理論的基礎の観点から 把えなおしてみる。「確たる根底をその子ども自身 の中にもっていない」ような「借りもの」の知識

とは何であろうか。まず,「確たる根底」とは,個々 人のもつ「前理解」の中でも,当面の知識に関連 する部分,その中でもとりわけ,その人の価値観 や世界観を強く規定している部分,とみてよいで

      あろう。それは一般には本音と言われているもの とほぼ一致するであろう。若干異なるのは,本音 とは一般には,人間の欲求とか価値判断にかかわ って用いられる言葉であるが,われわれはその面 に限定しない。地球は平である,と信じて疑わな い子どもにとっては,それも立派に本音のはずで ある。道徳教育にかぎらず,一般の授業において

      

も,できるだけ本音にはたらきかけることが必要       じになる。「借りもの」の知識とは,そのような本音

の部分と「意味」連関がつながっていない知識,

ということになるであろう。

 したがって,「なんとか自分をその問題にぶっつ けているような学習」とは,教師からの働きかけ

       ロ

に対して,子どもが本音またはそれに近い部分で 対応し,何とか両者の間に「意味」の連関をつけ ようとしている学習,ということになる。という ことになると,そこでは,「高度な集中」があり,

「対話が成立」(③)しているのは当然である。も ちろん,この「対話」は,外的行為としての教師 の発問と子どもの発言,という形をとるとはかぎ

らない。問題なのは,個々の子どもの内部でくり 展げられる思考活動としての「対話」である。

(三)次に,子どもの発言についてみてゆきたい。

これについては以下の三点が問題となるであろう。

第一は,「子どもの発言は,それ自体価値なのでは ない」(②)ということ,第二は,「子どもの発言 が少ないから,それが授業ではないときめつける」

ことは誤りだということ,第三は,発言のことば の「底」にあるものは何か,である。

 第一の点については,まず,授業という営みの

基本構造を再確認する必要がある。授業とは,教 師が意図する「教科内容」を,子ども自身による

「解釈内容」として成立させることであった。した がって,子どもの発言に価値があるかどうかとい

う問題も,それが「解釈内容」の形成にどうかか わるのか,という視点から判断されるべきである。

ところで,子どもの発言は教師の発問に答えると いう形で行われることが多い。そして林の場合は,

教師の発問の機能は「子どもの内部にさぐりを入 れる手段」にすぎないのだから,子どもの発言は,

自分の「内部」を教師に見せてくれるだけの意味 しかもたないことになる。そうだとすれば,「それ 自体価値なのではない」という見方も当然のこと であろう。

 しかし,子どもの発言をこのように一般化する ことは,教師の発問の機能を「浮標」や「問診」

のそれに極限することから生ずるもので,とうて い受け容れられるものではない。例えば,子ども が自分にもいまだあいまいな複雑な思考内容を,

クラス全員に何とか伝えようと苦心しながら発言 する場合などは,発言すること自体がその子ども の「解釈内容」の形成に大いに役立つはずである。

また,一人の子どもの発言が他の子どもたちの「解 釈内容」の形成に有益な刺激になることは特に指 摘するまでもないことである。

 もっとも,林の場合もこのような事実を無視し ているわけではなく,それは主として「吟味」と いう形で行われるのである。しかし,すでに明ら かなように,「吟味」と言っても,実際に行われる のは教師の発問であり,子どもの発言なのである。

したがって,「子どもの発言は,それ自体価値なの ではない。」という一般化は,一面の真実を含んで はいるが,きわめて不適切と言わざるを得ない。

 第二の,子どもの発言回数の問題も,判断の基 準となるのは,発言回数が「解釈内容」にどうか かわるのか,ということでなければならない。し たがって,発言の内容を無視して単に回数が多け れば良い授業だと,単純にきめつけられないこと は林の指摘するとおりである。しかし,ここで重 大な鍵となるのは,発言回数と「解釈内容」との 関係を,一時間や二時間の授業の中だけで考える のか,一学期または一年間という長期間の授業全 体で見るのか,ということである。言葉をかえれ ば,林のような「エライ先生」の飛び入り「授業」

と,一般の教師が普通に行なっている長期にわた

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