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2 月 6 日 佐賀県神埼郡千代田村姉 七福神来訪

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Academic year: 2023

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2月6日 佐賀県神埼郡千代田村姉 七福神来訪

青年が午後7時頃公民館に集り、夜食をしてから着付を整え姉部落内の各戸を巡る。

青年の男子のみ8人、次の順序で行く。

宰欽(サイド人という) 黒紋付羽織、提灯を持つ。火を点さない。

年徳 上下(青、紋入)長細い笊を被る。大小の脇差、柳に煎豆を入れて持つ。

大黒 ネンネコを前と背中を逆に着、頭巾を被り、袖口とツボンの足首のところを紐で縛る。藁を詰めた袋 と槌(木)とを振分れに肩にする。

エビス 服装は大黒と同じ。笹に実物の鯛を吊下げて持つ。

布袋 服装は大黒と同じ。何も持たぬ。頭巾の替りに平たい笊を被る。

ヂヾ 羽織、手拭で頬被をする。

バヾ 羽織、手拭で頬被をする。

嫁 女装、帯を結び、頭に綿帽子を戴きその上から手拭を被る。

面はない。顔は白粉をつけ、その上から墨でメークアップする。顔の化粧や、着物の着付は女子青年団員も公民 館へやって来て手伝う。但し、来訪には参加しない。

今年はまず、区長さん(坂井謙吾)の家から巡回した。暗がりの田舎道をやって来て、訪れる家の門口へ来ると サイド人「七福神のお入り」と呼ぶ

家の主人「どうぞ玄関から入っとくれ」と戸を開ける 土間からすぐ座敷に上り、上るとき

年徳「福は内、鬼は外」と柳の豆を座敷へ撒く 大黒「福は此方にドッテンドッサイ」

布袋「七の入り、七の入り」

エビス「金の糸、五色の竿で大きな鯛を釣りあげた。太さも太さ一貫八百」

ヂヾ「今年も豊年万作だ」

バヾ「ご尤もだ、ご尤もだ」

と唱えつゝ(嫁は何も言わなくともよい)座敷の席につく。そのとき家の主人が「皆さん、祝うとくれて、有難う」

と挨拶があって、8人提唱して長生、四海波を謡う。済んで主人が盃をさし、1献の後、高砂を謡う。一寸春の蒲鉾 などすまんで、すぐ出発して次の家へ向う。

現在姉は73軒。全部廻って終るのは夜中の12時過ぎになる。毎年2月7日にやることになっていた。所が村に 居る青年が次第に少なくなり現在は男は10人位で、そのうちにも勤め人が多く、翌日の勤務がこたえるので、昨(昭 39年)年頃から、青年団が土曜日にやらせて欲しいという申出があって、青年達がやって呉れることをだから別に 日を替えても差支えないことにしている。戦争中は一時中絶した。その前は青年団の人数も多く、大ぜいの青年や 子供がついて来て、道中は仲々賑やかであった。部落の正月の行事で「七福神」といゝ、この他には別に正月行事 はない。

青年団は高校を卒業すると皆入会する。男子は25才迄、女子は23才迄。もとは、入会した1番年若が嫁役、そ の上が婆、その上が爺と逆の順に毎年新入団員がやった。女子は参加しない。唯公民館へ仕度の手伝いはやって来 ることになっている。そのような関係で毎年同じものが同じ役をやるというようなことは滅多になかったが最近は 高校を卒業すると入団してもすぐ他県へ就職するものが多いので、自然在郷の10人程のものがやることになり、同 じ人が同じ役を毎年やるものも出来る。

七福神は姉部落にのみあって近隣でやって居るものはない。もとやって居たとも聞かぬ。姉でもいつ頃からやり 出したのか、古くからあるのか文書、記録のようなものはない。区長さんの若い頃は賑やかにやっていた。

部落中のものが共同でする行事には11月15日にお月待をする。14日の夜、餅を搗き、家の主が公民館に集って 徹夜する。而して15日の太陽の上るのを拝んで解散する。23夜はない。やったとも聞かぬ。

(2)

※以下の縦書、『県社油日神社誌』(県社油日神社社務所 T2)より引用

油日神社『県社油日神社誌』大正三年同神社発行(大津県立図書館)同神社所蔵の「年中行事」一巻。選録年月不詳文化二年の加筆ある故、その頃か。明治維新前の祭祀行事の詳細を知ることが出来る。同著より抄録。御祭礼毎歳四月初申日、但閏月有之亦勤行一、四月初申日御祭礼の事。祇宮百八灯並大挑灯四張西院より可献事一、御祭礼之事。当日頭人巡年勤行す。上野頭、高野頭、相撲頭、小佐治頭、岩室頭上野頭に有家筋四蔓瀬古、曽和、光瀬、瀬戸、右瀬古、曽和、光瀬之家族、油日、栖山村内住居、隋年﨟巡年勤之。瀬戸家唯以榊木之。相模小佐治、高野、岩室等其家筋雖村内之以其村号更不家筋之沙汰小佐治頭、中古瀬古、越後家より承相勤。一、獅子西頭奥氏、此家族神村住、今勤之一、笛。南氏、此家族、大原市場村所住一、大鼓鹿嶋氏、此家族、由堵野村所住一、神興丁此頭族神村在住一、只頭使興丁内以一老勤、祭礼持額板一、白杖此家族在岩室郷一、餅鎗賀興丁内老者持之一、鉾鎗龍王社神主持之一、釼段之鉾、柄山村瀬古氏神主筋より勤む一、鉾鎗檪野村より持之一、神馬之車事。上野頭、岩室頭。右両馬之時馬具明神より用達之一、御祭礼榊之事。北南七本之内南二本瀬戸上座、曽和上座北五本駕興丁之内帳頭者より段之相勤一、御獅子廻在之事先三月末ノ申日、宝蔵より奉出。上野頭之歳は田堵野村大鼓家にて衣装付、当日頭人家にて舞、社人参、作法有。高野頭之年は市場村笛家にて衣装付、当日頭人家にて舞、社家作法有。相模頭年は神村獅子家にて衣装着、当日同家にて舞、社家両人勤行。岩村頭之年は同神村獅子家にて衣装付当日同家にて舞、社家両人勤行 翌日、大久保村奥殿屋敷跡、並南殿ヤシキ跡にて舞初、大久保、中村、上田、鳥居野、相模、高野、市場、前野、岩室、大沢、南土山、蟹坂相勤、神村獅子家にて一宿。翌日上野村北野家舞初御供上、二番富田屋敷跡にて舞、次宮寺家にて舞、朝餉、次上野村、田堵野家舞、鹿嶋屋敷舞初、瀧、毛牧、和田、栖山村舞、日向家にて夕餉、翌日櫟野村舞納、越後家にて夕餉。一、祭礼御製楽之事。先頭人より神酒飾紙等但センクワ紙一帖、糊米少々越後家江持参す。但岩室頭ノ年成就院ヘ持参。両院両社家宮守三人、上野同苗立、合、拝殿ヘ神輿飾、神移社僧法華懺法、社人神楽出仕、神酒祝、晩ニ及ビ両院より百八灯並楼門拝殿ヘ挑灯一対宛献。佳興丁輩参籠、神輿を守護す。両社家より立馬ノ神酒、只頭ヘ相渡し、即広。但馬一疋に付酒五升、ニンニク二本鱈一枚添。一、祭日社僧護摩供。社家神楽相勤。両社家立馬、相揃装束。大鞁一番打而御白砂にて神輿出立、神酒頭人より佳輿丁ヘ差出、但引肴、ニンニク四十八本、干鱈二本也。二献、視御立大鞁打神輿出御。上野村御仮屋御休足、田堵野、六本松ニテ同断、市川原ニテ同断、次列下墅、入口ニテ頭人待合、乗馬清浄致す。但上野頭、佐治頭之年者無其沙汰御神輿御仮屋根ニ入リ供奉之人々、御獅子共巡仮屋事三回相済鐘搗役、散銭箱神輿前に直し置、散銭之内青銅二百文為肴料佳輿丁ヘ遺ス而メ人々出仕場ニ着座。此間、御獅子ト山御方ト一組出仕、社家ト頭人ト一組出仕、氏子役人一組出仕、佳輿丁ト只頭ト一組出仕。社家頭人出仕相済、社人祝詞ヲ上ケ祈念等相勤、跡にて獅子舞。然シ而両社家より頭人ヘ広神酒。次ノ立馬一疋ニ花籠一ヅヽ頭人ヘ進、此間頭人より佳輿丁ヘ神酒差出ス。御肴等大宮御出立之時ニ同シ。然メ還御触大鞁打ツて三度メ御神輿起。油日村下川原御休、西ノ宮祝詞有。神輿到楼門前トテ社僧拝殿ニテ鉄鉢一調、般若転読、其間獅子並供奉之人々拝殿囲ムコト三返、畢テ社僧一礼、社人祝詞、次ニ頭人前ニテ獅子舞、次越後前ニシテ舞事五返、次ニ日向ニシテ舞つ事三返。畢テ両社家拝殿稼上ヘ上リ両院ヘ一揖退去。即日社僧両院社人両家、上野家当行事鎧預、富田氏立会御神輿飾取納。

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