• Tidak ada hasil yang ditemukan

感情理性(ヘクシス・メタ・ログー)主義」宣言─

Dalam dokumen Socially (Halaman 45-48)

岩 永 真 治

* 社会学部教授(社会学科)

浜国立大学)によるコメント、平井太郎(弘前大 学)、有末賢(亜細亜大学)、早川洋行(名古屋学院 大学)によるフロアからの質問、最後の司会者(研 究委員会)側における簡単なまとめと感想が大会 シンポジウムにおいてはあったが、ここではこの 論文の主旋律を奏でるなかで、必要に応じてそれ ぞれ個別の発言をとりあげ、論点の文脈を拡げて みたい。ただし、紙幅の関係から、記述の準備は したが十分にとりあげられない議論や論点もあ ることをあらかじめお断りして、お許しを請いた い。

1−1  ウィズコロナ時代におけるコミュニケー ション空間の簡単なスケッチ

   ─ 美的かつ解釈的再帰性の拡大と脱伝統的 な共同体の再構想をめぐって─

 Webネットワークは現在、空気のようなもので ある。暑い夏、エアコンがあり快適なアンティー クのチェアもある自宅二階の部屋の片隅で、ルー ターの中継機によってネット環境の改善が図られ た瞬間は、あたかも「呼吸ができるようになった」

かのような瞬間である。もちろん、その瞬間の以 前にも、生物学的に生きるためのフレッシュな空 気は室内に存在していた。だが、日常生活の他の 場所で通常できていた「コミュニケーションの空 間」は閉ざされていたのである。ネット環境改善 以前の「物理的空間」は、実際よりも狭く感じら れ、ネットに繋がった瞬間に「社会的空間が拡大」

した。

 この「社会的空間の拡大」が「行動性向」(ἕξις προαιρετική)(3)に与える影響の第一は、「美的 で 解 釈 的 な 再 帰 性(aestheticandhermeneutic reflexivity)の拡大と深化」である。これはイン ターネット時代(20世紀末期以来)に拡大してい る人間的な経験の根本的な変容であり、18世紀 以来際立って現象していた「認識的で合理的な 再帰性」(cognitiveandrationalreflexivity)とは ちがう、もうひとつの近代の局面を表現してい る。いわばデカルト的で啓蒙主義的な、かつ認識 的な思考(ブーレーシス,βούλησις)の伝統では なく、ボードレールやランボーが切り裂(ひら)

いた「美的で解釈学的な感覚」(アイステーシス, αἴσθησις)の伝統を表現しているのである(斉藤・

岩永(1996);ラッシュ ,S.&アーリ,J.(2018)参 照)。近年の日本におけるエスノメソドロジーや 知識社会学や対人コミュニケーション論は、この 点を見落としている。

 ちなみに、この「後景に退いていた近代」現象 は、女性の時代と言われる「感覚」や「感性」にも 大きな影響を及ぼしており、その意味で、こうし た近代性のもうひとつの局面を扱っていない日 本のフェミニズムやLGBTQ研究の大きな欠点に もなっている。また、広い意味で脱伝統的共同体

(post-traditionalGemeinshaften)をめぐる研究の 欠点にもなっているのである。

 他方、リモートワークをする家庭では、台所や リビングやバルコニーなどの「物理的な空間」が、

「状況の定義」によってちがった「社会的空間」と して同時に把握されている。ウィズコロナの家 庭空間では、たとえばパソコンのある台所が夫に とっては「仕事場」になり、妻にとっては「キッチ ン」になる(andviceversa)。均質で親密である はずのひとつの物理的空間が、家族成員の異なる

「状況の定義」によって、ちがった「社会的空間」

として立ち現れている。個人的な書斎が「教壇」

になり、寝室脇の白い壁のスペースが「会議室」

になる。シカゴ学派のトマスとズナニエツキが、

アメリカへの移民第二世代(ここではポーランド からの移民)の手紙を素材に描き出した「状況の 定義」(definitionofsituation)と、「現実」として の「二重の社会的空間」(dualismofsocialspace)

の関係が、世紀を超えてちがった文脈で問題に なっているとも言えるだろう。

 しかし、ここでコロナ禍の現在思い出す必 要 が あ る の は、「 社 会 的 距 離 の 取 り 方 」(social distancing)がコロナ対策として強調されたアメ リカ合衆国には、「社会的距離」(socialdistance)

という概念が、第一次世界大戦後に悪化の一途を たどっていた「東洋系移民問題」をめぐる「人種 関係調査」において適用され、彫琢された歴史が あることである。アメリカ人にとっての「社会的 距離」は、シカゴ学派都市社会学で著名なR.E.パー

ク等が、トマスとズナニエツキの「ポーランド農 民の調査」を参考にして深めていった概念でも あった(4)。「社会的距離をとる政策」の過程で、ア ジア系のアメリカ人が路上で標的になって襲撃さ れたのは、「武漢起源のコロナ・イメージ」がアメ リカにおける中国(─アジア)系移民の相貌に重 なった、「偶発的な」(κατά συμβεβηκός)出来事 ではない。

 今回のアメリカ合衆国における「社会的距離」

政策は、その特殊な歴史─社会的な文脈から、と くにアジア系移民に対する「人種関係─距離」政 策としても機能した可能性がある。この点、まず 注意を喚起しておきたい。

1−2 健康とはなにか─身体の性向について─

 さて、コロナ禍で求められている「健康」(ヒュ ギエイア,υγίεια,publichealth)は、「ある種の性 向(へクシス,ἕξις)」であり、「ある種の状態=行 動性向」であるから、議会(=立法者)は人間の 身体にむかって、そうした「行動性向」(へクシ ス)、すなわち「身体の性向」(Bodily Hexis)が形 成されるように働きかける必要がある。換言す れば、「身体的欲望」(bodilydesire)や「身体的快 楽」(bodilypleasure)に対して、「適切な手段で」

(inrightway)「適切な程度に」(inamoderated degree)「必要な場所で」(inrightplaces)「時機を 逸することなく」(atrighttime)働きかけなけれ ばならないであろう。それが、コロナ禍に対して 効果的な「現実態=現実の行動」(エネルゲイア, ἐνέργεια)を産むのであり、そのことが「適切な 解決」(arightandpropersolution)の「完成され た姿」(エンテレケイア,ἐντελέχεια)(5)を見出す 手段にもなる。

  そ の 意 味 で「 過 不 足 の な い 」施 策 が し か る べき所で迅速に行われ、それが維持され遵守 さ れ る こ と が、危 機 に 際 し て は、グ ロ ー バ ル に 見 て も 倫 理 的 お よ び 道 徳 的 に 正 し い 行 為 であろう。「過不足がない」というのは、ここ で は、「 超 過 」(ὑπερβολὴ,excess)と「 不 足 」

(ἔλλειψις,deficiency)がない「適切さ」(μεσότης, the appropriate mean between two vices or

extremes)を意味している。また、「過不足がない 状態の維持あるいは遵守」というのは、その「適 切さの遵守」(observanceofthemean)を意味し ており、それはひとつの「卓越性」の表現である(6)。 1−3  松田報告によって示された「3つの揺ら

ぎ」

 さて、第一報告である松田亮三(立命館大学)

が、コロナ禍にあって「3つの揺らぎへの知識・

体制づくりがなかった」と指摘したことは、基本 的にはこの「適切さの遵守」に関わっている。そ の「3つの揺らぎ」とは、〈1〉知識の生成と共有に 関して、不確実性に直面しているときに情報の集 約のされ方が不透明であったこと、〈2〉行動に関 して、ヘルス・リテラシーもバージョン・アップ が錯綜していること、〈3〉対策に関して、感染症 における流行状況の変化に合わせた対応が適切に なされず、とくに「地方と国の関係」においてそ うであったこと(都市問題あるいはローカル政治 としての「健康政策」問題が浮き彫りになったこ と)である。松田はさらに、コロナ禍で「ナショナ ル・ミニマム」をめぐる「価値的な揺らぎ」が生じ ていると言い、「危機に際しての社会的コミュニ ケーションの備えが必要」であると指摘した。す なわち、社会状態(=行動性向─岩永)を変える ような「健康政策」(healthpolicy=医療政策+公 衆衛生政策)が必要であると指摘したのである。

 この意味で、われわれが日本語の日常使いに おいても無意識にすでにそう言っているように、

「健康」とは「健康の状態」なのであり、それは「完 成目標」(テロス,τέλος)とそこに向かう「現実の エネルギー=行動の形態」(エネルゲイア)をとも なった「状態=行動性向」(ヘクシス)なのである。

 とくに、コロナ禍で「立派で美しい行為」(ト・

カ ロ ー ン,τὸ καλόν,thebeautifulandmorally right)と「人間としての喜び・悦び」(へーデュー ス,ἡδύς,thepleasantorfinepleasure)を自然に 導くような行動への配慮が社会の至る所で複層 的にまた自発的に生じるような個別と全体の工 夫が必要になっている。それが、現在「熟慮ある 公共政策」(deliberativepublicpolicy)を意味す

るであり、立法者や行政担当者の「思慮あるいは 見識のある態度」でもある。それは「失敗の本質」

(野中郁次郎)を振り返る「思慮」(プロネーシス、

φρόνησις)に裏打ちされた「政治術」(へクシスと してのテクネー ,τέχνη as ἕξις)でもある。そし て、古典期ギリシア由来の知識をベースにしたこ の施策の存在それ自体が、戦前の市民社会と戦後 の市民社会の断絶をも示しており、第一討論者で ある浅野慎一が提示した問い(戦前と戦後の市民 社会の共犯関係)に対するひとつの否定的回答に もなっているだろう。

2 古代ギリシア的な教養と現代日本の都市・地

Dalam dokumen Socially (Halaman 45-48)