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楠クリーン村で自給自足の生活をめざす高田夏実さんにお話を伺う──

Dalam dokumen Socially (Halaman 109-115)

面談者 高田 夏実

(2014年社会学科卒業)

[写真左]

※プロフィールは本文後ろ に記載

取材・構成・編集:佐藤 一貴(社会学科2年)

イ ン タ ビ ュ ー 日:2021年7月20日(火)

─なるほど…クリーン村のWebサイトの写真に、

ユンボが写っていましたが、あれもクリーン村 の方がご自身で操作されるんでしょうか。

 そうそう。たぶん今日も使うと思う。夏休み、

この敷地内の道整備をするんですけど、そのため の下準備を今日、ちょうどユンボがやるはず。と 言ったら、今ユンボの鍵をかける音が聞こえてき た!(笑)

 基本的に自給をするっていうのがベースの考 えとしてあって。食べ物もそうだし、衣食住の、

洋服はもちろんやれてないんだけど、食べ物と住 まいと、エネルギーはなるべく自給してやってい こうって考えていて。この自給をすることによっ て、環境にかける負荷もすごく少なくなるし、生 活がほんとに安上がりになる。それから、例えば コロナとか、震災もそうだけど、なにかあった ら「お金があっても買えない」っていう状況にな りますよね。だから、お金だけあっても仕方ない なっていうのはその時から思っていて。お金もも ちろん大事だけど、実際に食べるモノが作れる、

住む場所が作れる、そういうことを大事にしてい ます。その上で、オンラインショップとかで稼ぎ を上げなきゃいけない部分もあるから、自給と事 業というところで、「本当に安心して生きていけ る方法はなんだろう」ということを実践していま す。基本情報としてはこんな感じですね。

─クリーン村の生活を見て、「豊かだな」と思いま した。現代は科学技術の進歩という文脈で、生 活が豊かになっていっていると言われています が、クリーン村での「豊かさ」はこれとはまた 違った文脈のような気がします。

 そうですね。その「進歩」という言葉がけっこ う迷子になっていて。もちろん私たちもこんな生 活をしながら、進歩をうまく使っていますよ。ス マホアプリを自分たちで作ったり、海外の人たち と仕事をするからZoomがあって良かったなって 思いますし。ただ、大事なのは、進歩していくも のに翻弄されるんじゃなくて、自分から使えるよ

うになるということなんじゃないかなと思いま す。例えば新しいiPhoneにしても、どんどん新し いものが出るから私たちもどんどん買うみたいな 波に巻き込まれているような気もします。新しい から買わされている、要らない機能なのに使わさ れている、となると豊かさから遠ざかってしまい ますよね。だからこそ、「私にとって必要か必要で ないかを決めるのは私だ」ということを忘れない で、自分たちで選び直すことを私たちは心がけて います。便利なものは本当にたくさんある。だけ ど全部取り入れていったら環境ももたないし、要 らないもののためにお金を稼いで生きていくの は、本末転倒ですよね。

─取材の前にメールでやりとりさせていただきま したが、高田さんの考えが変わった東日本大震 災について伺ってもよろしいでしょうか。

 東日本大震災が起きたのは私が大学1年生の時 でした。あのときは、「これはもうとんでもないこ とが起きてしまった」ということはわかったんで すが、事があまりに重大すぎて、受け止めきれな かった。4年生になって卒業するときにも、本当 にどうやって受け止めていけばいいのかわからな かったのが正直なところです。そんなときに心の 整理を助けてくれたのが、猪瀬先生でした。先生 のゼミだけが震災に触れてくれたんです。あまり の事の大きさに、みんながみんな自分の中でも言 葉にならなくて、言葉にできなくて。だけど先生 が「みんなそんな気持ちだと思うから、とにかく みんな集まって、どう思ったか、正しくなくても いいからみんなで話そう」っていう会を開いてく ださって、そのときにホッとしました。

 私は出身が神奈川県なんですが、普通に電気を 使って普通の家で普通にモノを買って暮らすって いう日本での当たり前の生活をしてきたんだけ ど、原発事故があって、原発の近くに住んでいた 人がそこで生活できないとか、ずっと農地を守っ て来たのにそこを二度と使うことができないと か、そういうことが起こっているのを目の当たり にしたときに、何も考えずにエネルギーを使って

きた自分は本当に犯罪者だなぁと思って、それく らい気持ちが追い詰められて。もちろん、お金の 思惑や行政のやりとりとか、いろんな中であの原 発が設置されて、ああいう事故になってしまっ たってことがあるんだけど、そこよりは、何も考 えていなかった自分のことがやばいなっていうの が一番あって。やっぱりこれは忘れてはいけない し、これを忘れないような生活と仕事を選びたい なっていうのがすごくありました。

 そんなわけで、自分は加害者だと思ったし、逆 に風向きによっては生活できなくなる範囲が関東 圏まで広がり、私自身も避難する可能性があった という怖さ、もうひとつ日本という国で見れば、

海に流してはいけないものを放流し、日本ってい う国が犯罪国家として見られてしまうんじゃない かとか、そんな思いがぐしゃぐしゃに混じって。

すべてを重く感じました。だからサークルで海外 に出たときに、久しぶりに深く呼吸した感じがし た。

 こっちでも何ミリシーベルトとか言われるし、

自然と呼吸が浅くなるんだよね。空気吸いたくな いって。海外に行ったときにホ~ッとして。日本 にいるだけでこんなにしんどかったんだなって 思ったのも鮮明に覚えています。

─私も原発事故当時は不安だったので、科学的根 拠はなにもないですが、常にカーテンを閉め きって生活していました。当時私は小学校3年 生だったのでそこまでしっかりと考えられてい たわけではないですが、なんとも言えない重苦 しい暗い空気がありましたよね。

 そう。そこから離れちゃいけないなってすごく 思った。だけど普通に就活をしていくってなる と、もちろん、おもしろい会社、社会性のある会 社、たくさんあるけど、なかなかピンとくるとこ ろがなくて。というのも、例えば、東京とか、神奈 川とか、仕事をしながら生活を見直すってなった ときに、仕事と生活が分離しますよね。仕事は仕 事で、求められることをやって。帰ってからでき る限り生活を努力するような。そこが私にとって

なんか違うなって思っていたところ、大学の授業 でこの楠クリーン村のことを知って、「生活を変 えることも仕事なんだ」ってわかったときに、こ こだったら大学の時にいろいろ考えたことを無駄 にせずに働けるんじゃないかっていう、それがす ごく嬉しかったですね。

─楠クリーン村を見つけた時のことを詳しくお聞 かせいただけますか。

 それも猪瀬先生の授業だったんだけど、当時の たしか「ボランティア特講」って授業で、社会性 のある事業を起こした人がゲストスピーカーとし て来る授業があったんです。毎回違う方が来て、

その中の一人に、楠クリーン村の関係者の方が来 たんですね。そのときは楠クリーン村のプロジェ クトの話ではなくて、当時楠クリーン村が東北で やっていたプロジェクトのプレゼンだったんだけ ど、なんか価値観がすごくドンピシャだったなと 思って。何かを変えるときに、大きな仕組みから ドーンと変える方法と、草の根の活動みたいに、

個々の課題をやりながら、ちょっとずつ事例を 作っていくってやり方があると思いますけど、そ のときに聞いたのが完全に後者で。「小さいけど インパクトのある活動をして、それを徐々に広げ ていく事で社会を変えていきたい」みたいな話で。

すごく地域密着だなって思ったし、やってる人た ちが楽しそうだなって思ったし。うわべのミッ ションではなく、本当にこれをやろうとしてるん だなってことがそのプレゼンから伝わってきて、

その授業を聞いた時点で、「あっ、私ここで働きた いかも、というか働くかも!」みたいに強い感銘 を受けたという出来事がありました。

─大きな直感というか。

 そう。「あっ!ここだ!」みたいな。それも結構 探したんですよ。その授業があったのが3年生の 6月だったんだけど、就活の時期よりも早く、1 年生の終わりから「どうやって生きていけばいい んだろう」って不安に思っていたし、単純に社会

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