240 化学と生物 Vol. 55, No. 4, 2017
世界初 :2 価陽イオンで駆動するべん毛モーター
Ca
2+や Mg
2+でもべん毛は回転する
細菌がもつ運動器官であるべん毛モーターの回転に は,一般にプロトン(H+)やナトリウムイオン(Na+) といった1価陽イオンの細胞膜内外に形成されるイオン 駆動力が利用される.しかし,今回,神奈川県・秦野市 にある鶴巻温泉の温泉水から分離された sp. TCA20株が,カルシウムイオン(Ca2+)やマグネ シウムイオン(Mg2+)といった2価の陽イオンを利用 してべん毛を回転させる世界初のべん毛モーターをもつ ことが明らかとなった(1).TCA20株が分離された温泉 水は,湧き出る温泉中のカルシウムイオン量が牛乳並に 多い(約1,740 mg/L)弱アルカリ性塩化物泉として知 られている.
細菌のべん毛モーターは,直径約40ナノメートルの 精巧な ナノマシン であり,細胞膜に埋め込まれてい る(図1).べん毛のモーター駆動部は,回転子と固定 子からなり,固定子であるMot複合体は,イオンチャ ネルとして機能し,チャネル中をイオンが通過するとき にべん毛の回転子を回転させる駆動力を発生させる役割 を果たしていると考えられている(つまり,固定子=エ ネルギー変換ユニットと考えることができる).
べん毛モーターの研究において2008年を境に従来と は異なるタイプのモーターの存在が明らかとなってき た.ま ず,2008年 に は,好 ア ル カ リ 性 細 菌
KSM-K16株のべん毛モーターが外環境pHの変 化に応じてH+とNa+の駆動エネルギーを変化させるこ とができるハイブリッドモーターであることが報告され た(2).また,2012年には,好アルカリ性細菌
AV1934株のべん毛モーターがNa+以外に カリウムイオン(K+)やルビジウムイオン(Rb+)を べん毛の回転に利用できる初めてのモーターとして報告 された(3).このように,ここ9年で,これまで考えられ ていた細菌べん毛モーターの駆動エネルギーの世界にパ ラダイムシフトが起こったことになる.
ここでTCA20株の分離の経緯などを紹介する.はじ めに温泉水を分離源としてCa2+を添加した培地で複数 の菌株を分離後,軟寒天培地(軟らかいゼリー状の培 地)上でCa2+を添加した場合のみ遊泳が確認できた株 を1株分離した.この菌株の簡易同定試験を行い
sp. TCA20株と命名した(TCA20という名称 は,Toyo Univ. とCa2+とカルシウムの原子番号20に由 来する).次にTCA20株の全ゲノム配列を次世代シー クエンサーで解読し,べん毛モーター固定子をコードす る遺伝子を同定した(4).そして,この菌が2種類の固定 子 を も つ こ と を 明 ら か に し,TCA-MotAB1とTCA- MotAB2と命名した.これらのタンパク質の系統分類解 析を行った結果,TCA-MotAB2は,H+で駆動するグ ループ,TCA-MotAB1は,データベース上ではMotAB とアノテーションされている実験的検証の行われていな い新規なグループに分類されることがわかった.また,
TCA20株の生育実験より,この菌は元素周期表の第2 族元素に属するCa2+,Mg2+,ストロンチウムイオン
(Sr2+)といった2価の陽イオンを生育に要求すること や,これらの2価陽イオンの濃度依存的に遊泳すること がわかった.同様の遊泳実験をNa+やK+でも行ったが 全く運動性を示さなかった.次に,TCA20株での遺伝 子操作技術が確立されていなかったことから,遺伝子操 作が容易な枯草菌( )の固定子遺伝子 を欠損させて運動性を示さない株にTCA20株由来の 遺伝子(TCA- )を導入した.この株 は,Ca2+やMg2+を添加することで運動性を回復し,
Mg2+濃度を変化させて遊泳速度の測定を行うと,Mg2+
濃度に依存した遊泳が観察された.最後に,このべん毛 モーター固定子TCA-MotAB1を介して細胞内へMg2+
図1■大腸菌べん毛モーターの概略図
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が取り込まれているかを検証するため,枯草菌の主要な Mg2+取り込み系を欠損させた株(生育に6 mM以上の Mg2+を要求する)にTCA-MotAB1を発現させた場合 にMg2+要求性が解消されるかを検討した.また,その ときの細胞内のMg2+濃度の測定も行った.その結果,
形質転換株は培地中のMg2+濃度が5 mMでも野生株と 同様の生育速度を示し,細胞内のMg2+も野生株と同程 度に回復していることがわかった.以上のことから,
TCA20株 が も つ べ ん 毛 モ ー タ ー 固 定 子(TCA-Mot- AB1)は,2価陽イオンを共役イオンとして利用できる 世界初の固定子であることがわかった.
43年前に初めて報告されたべん毛モーターは,発見 当時,その構造が人工のモーターと構造が類似している ということで人々に驚きをもって迎えられた(5).しか し,その回転機構の解明は,その直径が約40ナノメー トルということもあり困難を極め,最近の科学技術の進 歩によってようやく研究が新たな段階に差し掛かってき たところである(6).TCA20株のべん毛モーター固定子 TCA-MotAB1は,多量のCa2+が存在する生息環境に適 応するためにCa2+が利用できるべん毛モーター固定子 に進化したと推察される.今回の2価の陽イオンで駆動 する生体ナノマシンの発見は,生物の環境適応進化の分 野やナノテクノロジーの分野からも重要な発見であると 考えられる.この発見により,べん毛モーターでは,こ れまでの駆動力エネルギー(H+,Na+,K+, Rb+)以 外に2価の陽イオン(Ca2+, Mg2+, Sr2+)を利用できる 設計図(アミノ酸配列情報)を得たことになる.今後 は,これまで得られた情報を利用し,どのように共役イ
オンを選別しているのかという選択フィルターの仕組み を明らかにすることでヒトの手により自由にエネルギー を使い分けられる人工的なナノマシンや分子スイッチの 創製が可能になるものと期待される.
1) R. Imazawa, Y. Takahashi, W. Aoki, M. Sano & M. Ito:
, 6, e19773 (2016).
2) N. Terahara, T. A. Krulwich & M. Ito:
, 105, 14359 (2008).
3) N. Terahara, M. Sano & M. Ito: , 7, e46248 (2012).
4) S. Fujinami, K. Takeda-Yano, T. Onodera, K. Satoh, M.
Sano, Y. Takahashi, I. Narumi & M. Ito:
, 2, e00866 (2014).
5) H. C. Berg & R. A. Anderson: , 245, 380 (1973).
6) T. Minamino & K. Imada: , 23, 267 (2015).
(伊藤政博,東洋大学生命科学部生命科学科)
プロフィール
伊藤 政博(Masahiro ITO)
<略歴>1989年立教大学理学部化学科卒 業/1991年東京工業大学大学院理工学研 究科修士課程修了/1994年同大学院博士 課程修了,博士(工学)/1994年マウント サイナイ医科大学研究員/1997年東洋大 学 生 命 科 学 部 講 師/2001年 同 助 教 授/
2009年同教授,現在に至る<研究テーマ と抱負>極限環境微生物,特に好アルカリ 性細菌の新たな機能を発見し,応用に結び 付けること<趣味>海外旅行,観劇<所属 研究室ホームページ>http://www2.toyo.
ac.jp/~ito1107/
Copyright © 2017 公益社団法人日本農芸化学会 DOI: 10.1271/kagakutoseibutsu.55.240
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