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中)石川県鳳至郡能町鵜川菅原神社、八講祭。祭祀者は鵜

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Academic year: 2023

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11月7日 石川県鳳至郡能町鵜川 菅原神社 いどり祭

※以下斜字部分、小倉学「石川県」(『日本祭礼風土記』第2巻 慶友社 S37)より抜粋

鵜川のイドリ祭(日本祭礼風土記、中)石川県鳳至郡能町鵜川菅原神社、八講祭。祭祀者は鵜川外6部落12 組の名組(みよう組のもののみ)毎年2組の名組が1人づゝの頭元を出す。輪番。頭元は11月1日に自宅の庭 にオハケを立てる。

3日、米洗い。5日は餅搗。6日宵祭。7日の本祭は7p.mより拝殿に着座。七度半の使で"鵜川の伝兵衛"が裃 で着座して式が始まる。

まづ頭元から小餅の膳。神職以下全員がイドる。

次、神酒。

次頭渡し。このとき中央へ大餅を据える。イドる。20分。

御幸の八講会。六仰天満社といったことがある。トムラの関係から諸橘村の竹原、大田川の 2 部落が参加してい る。鵜川町は鵜川、小垣、七見、谷屋の4部落。6部落の祭り、名が各2、12ある。

鵜川は広田家が1、あとは部落共有。

大餅は頭元持ち、7升5合。

小餅、節し餅は部落より出す。*し餅16枚、オハケ3間位、藁を下に。

竹の棒、榊と御幣をつける。

11月28日アエノコト(刈り上げ餅)アエノコト、春に田へ帰って頂く。

12月11日(2月11日)、田打、15日、苗とり、16日田植(休み)

1日口開け祭り、ドブロクの口を開ける。潔斎の(7日の潔斎)初まり、稲束を登る。

漂着神の祭り、藻(ホンダワラ)に乗って神が着る。

頭元、オハケ、軒を越した高さ、この竹の先にヒモロギ、化粧の急ぎホンダワラ 3 束つける(*の所へ)天地人 の3ヶ所。

※以下、長岡博男「鵜川天満宮の「いどり祭」に就いて―能登に於ける宮座制の一資料―」(『加賀文化』第14号 S15)

よりの要約・引用のため省略

当渡しは初めに小餅を入れた膳が出る。1 椀に 2ヶ、汁椀に 1 ヶの小餅を入れ皿に大根の生酢、この膳を前に 3 酌の酒があって、その後で、さんざん、小餅についていどったあと、次に大鏡餅が座の中央に 2 組並べて置かれ、

大鏡餅の上に燭台と、徳利を置き、当渡しの読上げを谷屋の藤八がやる。これを当名という。当渡しは六番組から 一番組へなされた。

レ1、太田川村羽田名

2、竹原村榎ノ木名 3、竹原村宇賀名

レ4、小垣村脇名

レ5、小垣村江ノ脇名

レ6、太田川村宮田名

レ7、鵜川村黒御子名(伝兵衛)

レ8、谷屋村藤八

レ9、谷屋村江ノ口名

レ10、七見村菅沢名

レ11、七見村赤名

レ12、小垣村横山名※

※小垣村横山名のみは現在は「かんじや」になっている。

(2)

鵜川のいどり祭は、もと鵜川と七見との境界附近の寄地といっている小さな岬に漂着した漂着神の信仰がもとで あるらしい。潤色はあるようであるが漂着神は海藻(ホンダワラ)被っていたこと、発見者はこれを稲穂の束の上 に置き、稲穂を掛けて隠しておいて、村の長に知らせ、その漂着地点の西方にある丘の麓に遷して祠を設け、そこ で祀ったこと等が古い伝承となっている。もと桜木神社あとといわれる社は丁度東方に寄地に面した丘の麓にあっ て現在でも祠の前から丘を下って海岸まで、まっすぐに 1 篠の径が残って居り、その両側にもとは桜樹が随分沢山 あったと、土地の人とは話している。御神体を桜木神社に奉仕した村長というのが"伝兵衛"さんという家で、恐ら くもとは家神として祀られたものらしい。この家が分家その他によって鵜川地方の豪族となり、同時に血縁による 親族神に成長して行った。その過程で、更に信仰が血縁関係の集落以外に、地域的な集落の人々もこれに加わると 共に職業的な農、漁関係の信仰要素が次第に加味せられ血縁的宮座制から株座に移行し、更に地域的宮座に移る過 程の中間組織として、現在の組織があるようである。

即ち12の名組のうち、あるものは家中心の株座としての地置を祭の中に占めており、他の名組は純然たる地域的 宮座の性格を持つものとなっている。この混然なる宮座が菅原神社の拝殿に会して 1 つの祭儀を執行するのが現在 のいどり祭の真相のようであり、ある意味で「デンベエサマツリ」と云はれている言葉の方が更にその真意を表明 しているようにも思はれる。

祭は明かに新嘗の祭である。頭元と脇当が全員を代表して神に饗する鏡餅を検分し、且つ神前で自ら共食する小 餅が神意に伴うものなりや否やを吟味する集会であって、神職は神の代表者とし、伝兵衛さんは神を饗応する代理 人とし、その間に頭元が饗に当った餅の出来具合の良否を話し合うのであるが、それが悪態祭の風習を混同して、

献餅を悪し様に罵り合い、その間脇元は座の 1 隅に低頭平身して、悪口に抗弁することもなく控えていて、ひたす ら無事パスすることを願っているのである。

この餅について悪様に罵る言葉は大てい毎年、きまっているようであるが始めから決っているのではなく、即興 の言葉であったのが今日では出尽してしまって決った節のようになったらしい。尤も年により座の人々から、実に 振った文句が出ることもある。ことに本年当受をする鵜川黒御子名は伝兵衛さん自身であって、

「こんな色の黒に薄い餅は、いくら見直しても受取れまいがまあまあ今年は遠方から運んで来たものでもある し県庁にいくらやかましく行っても良くならなかった県道が、やっと今補修にかかっている最中でその凹凸通 を運んで来た勢もあろうから奉持するとしても本年は伝兵衛さん、あなたの番ぢゃけん、お宮に近いし、道も それまでにはよくなっている事だろうから、本年はこんなことでは伝兵衛さん仲々頂けそうにもないですぞ」

と、悪口をいっていた伝兵衛さんに1本釘をさす者などあって、大笑いのうちに式が終了したのであった。

大鏡餅は各名にその式台が保存されていて、毎年それに乗せて出す。黒御子名で保存されている式台が古式のまゝ のようであるが他の名組のものは板の破れたのを継いで、縁をそろえるため少し削ったりして、大きさは各名で少 しづゝ違うらしい。

式台の上に平餅2枚を重ねて置き、その上に燭台と瓶子を乗せ、式の始まるとき燭台のロウソクには火を点ずる。

まづ受当のものが立って燭台と瓶子とを傍にとり除き、重ねてある餅の上の方の餅の縁に両手を掛けて、つまみあ げ、表裏を改めて、表裏を返えして、もとのように積み重ねる。1枚5升の米で搗いたもので、この平餅を両手でつ まみ上げて前後に振替えて裏返しに置くのは相当指先に力を入れて持上げないとむつかしいとの話であった。

神主さんに紹介して貰って神社の傍の大背戸旅館に泊る。

翌8日。早朝に頭元及び脇当の家ではオハケを撤して祭は終了する。頭元の竹原榎木名の橋本さんの家では午前8 時神職がやって来て縁先で庭のオハケの方へ向って修祓をして直ちに頭元の手によってオハケが倒される。根元の3 束の藁を括った 3 ヶ所の縄を解き、杖を抜いて竹竿を倒し、先につけてある榊の枝と白幣を解き、まづ藁と榊と御 幣、次に青竹を脇元が持って家の前を流れている小川の橋詰に行って橋の上から流れの中に投下し、次いで青竹も そのまゝ水に流す。海岸に近い名組の場合はこれを海に流すこともあるという。

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