9月10日 滋賀県蒲生郡日野町中山 芋くらべ祭
同町の芋くらべ祭保存会が発行する調査報告書は実に詳しい。
芋くらべ祭は正しくは野神祭であって祭場の中心は中山東谷の西の端にある 1 番高い丘陵の上で一般に野神山と いわれている。頂には土壇があり正面には神木があってその前の広場を東西に区分し、その中央に芋石と称える石 が据えてある。芋石を中心に東西の土壇は一面に拳大の石を敷きつめ石畳としその周囲に菱垣と称える割竹の竹矢 来の垣を設ける。
野神山への登り口は東西別々に設けその両方とも栗の葉を敷き並べ置き、これを「むかで」の道と称えたが現在 はこの栗の葉を敷くことはしない。
宮座。氏神熊野神社に奉仕する団体で氏子総代とは別に、山若をつとめた村の長老13名(東谷7人西谷6人)に よって構成され、おとなという。その最年長者 2名(東西各1人)を神主といゝ年々東西交替に正副の神主をつと める。熊野神社の神饌団を管理する。
当屋。野神祭の準備一切をするものでもとは野神田があって、これを管理したが現在なし。現在は宮座のおとな がこれに代り当家に於ける祭の儀式は現在は熊野神社の社務所でやる。
山若。東谷、西谷各7名づゝ16才を最低年令としてそれから年令数により上へ7人、必ず家の相続人であること を條件としている。年令は上から順に一番尉、二番尉という風に始まり役柄も違う。
一番尉。神の三々九度の盃、神饌の供え、をする。素袍、腰袴、風折烏帽子。
二番尉。東西の連絡係り、その他神事一切の世話をする。裃袴。
三番尉。芋うち、神の角力の行司をする。裃、袴。
四番尉。野神山の祭壇の釣石を切る。芋うちの検知かわせの半切を出す役。
五、六番尉。かわせの半切の交換をする。われわれの三々九度の盃をする 七番尉。水廻しをする。
勝手 東西各1人。紋付羽織、袴、山若を上ったものから選ぶ。祭場へ物を運ぶ指揮に当る。
山子 8-14才の男子、別に相続人でなくともよい。山子のうちの年長者から順に一番、二番・・・・・と番号で 唱える。会所から熊野神社へ、熊野神社から野神山へ芋を運ぶ担手となり、又「ソーライ、ワーライ」の 掛声を唱える役をする。
野神祭は男女 2 体の神を祭る。東谷は女神、西谷は男神を祀る。従って東谷の山若、勝手は白足袋をはき作法の 動作も柔和であり、西谷のものは黒旅で作法動作は荒々しい。
野神山には男女 2 座の神座を作る。東の神座は真竹の割竹で棚をつくるがその棚は身を上にし、皮の部分を下に して編む。棚の4隅には、さかきあせび、びしゃこ、ふくらそうの枝を差す。
西の神座は真竹を用いるが竹の皮の部を上に身を下に編む。棚の 4 隅に木の枝を各種束にして差すがさかきは用 いない。
東の神の膳。女竹で大きく作る
西の神の膳。真竹で、東よりも少し小さく作る
神座は東西とも金石と称える楕円形の石で、これを棚の中央に釣る。この石は東西夫々の山若四番尉が責任を以 って保管する。
東は自分の家の神棚に保管する。
西は人の知らぬ草藪の中に秘め置く。
一番尉は夫々幣と笏を持つ。笏の裏は東西ともむかでの画を描く。
東は表に蝮の画を描く。
西は表に剣の画を描く。
まづ 1 日目の行事は会所より、東西共一度芋を熊野神社へ運び、熊野神社の社務所で神主の前で三々九度の盃を する。終って東西道を異にして夫々野神山へ向う。そのときの行列の順は定っている。
途中人家を離れて野神山へ差掛る道の所から、山の麓までの間山子達は声を揃えて「そうらい、わあらい」と幾
度か唱える。それからむかでの道を行くのである。
野神山では東西次のように着坐する。
式次第は山若二番尉の発声で進行する。
まづ一方(発声は交互にする)の二番尉が相手の二番尉に対し「水廻しをしては如何」というと、相手は「いか にもよろし」と答える。そうるすと東西各々の二番尉が三番尉に向って「水廻しをすること」と伝えると三番は四 番へと順序七番まで伝言され、七番尉は最後にうなづいて、その所作にうつるのである。
この発声の順序は次の通りである。
水廻しをすること 神を拝すること 芋を供えること 神を拝すること 神の膳を奉る 神を拝すること
神の三々九度の盃をする 神を拝する
吾々の膳を出す、
かわせの半切を出す 神を拝する
神の膳を撤すること 吾々の三々九度の盃をする 芋打ちの酒肴を出す 釣石を切る
神の角力をとる 芋を出すこと 芋を打つ。
神を拝する。
吾々の膳は山子まで全部出す。1膳のものは次のようである。餅、竹箸、(糯米の粉を捏ねて鯉の型木に入れて作 り、葉鶏頭の紅をもって尾鰭を彩る)。伏免(ぶと、しろもちともいう、米粉を水で捏ねて鯉の蒸さず生のまゝ芋の 葉の上で角切りにしたもの)。せんば(里芋の苗を茹でて梅酢を用いて味付したもの)。さゝげ(黒豆を塩味に煮た もの)。かもうり(冬瓜を薄塩水炊したもの)。
芋打ちの酒肴はせんばを肴に盃をさす。扇子で石畳を叩けばいくらでも盃を重ねることができる。
神の角力は行司を三番尉がやるが東西によって軍配替りの扇の持ち方が違う。
芋打ちの次第は各役の言葉のやりとりが決っている。芋打ちに用いた芋は式次第終了後、神主の家に持参し神主 に芋の長さを報告する。神主は山若の報告により当年の芋の長さ及び、その芋の奉献者の氏名を台帖に登録する。
もと芋くらべに勝った方の部落は田の畦の草を自由に刈ることのできたという。又西が勝てば豊年、東が勝てば 不作という伝承がある。
台風が北上していたが中国地方横断の途中で消えてしまった後で、晴れてはいたが実に湿度の高い、気温もこの 暑恐らく最高かと思われる異様な無風の蒸暑い日で、昼食抜きのバスタキシーの乗継急行での中山への飛込みは、
さすがに一寸身体にこたえた。カメラ 2 つを持って菱垣にくらいつくように立っていると油汗が身体中に流れて少 し、循環系統に異常を来して来るように思われたので、草の上に腰を降して休んだが、いつにない弱身をさらけ出 してしまった。東谷の会所から、日野のタキシーを電話で呼んでそこの水道の水を頂いたときの、ざまはなかった。
国道 1 号線まで出て、綾町のドライブインで、スパゲチイを食べると元気はやうやく回復したが暑さと空腹に負け たのは久し振りであった。
暑い野神山の神座の敷きつめた石の上で、長い間、吾々の三々九度をやっている山若を耐らぬだろうと同情しな がら、道中で帰る。
本日の暑さは筆者ならずとも、誰しも耐えられなかったようであった。あの様な時には、余り意地を張らぬ方が 後々の為によろしいのではないかと思って居る。尤も東谷の女神の方が西谷の男神より優位を占める土地柄、致し 方ないことであった。