二 〇 一 五
年 七 月
「 今 月 の 言 葉
」 と
「 今 月 の 聖 語
」 に つ い て の 紹 介
今 月 の 言 葉
いま だ 万 歳
ま ん ざ い
の 人 身
に ん じ ん
を受 け たり とい ふこ とを きか ず、 一生 過ぎ や すし
。
『御 文章
』 こ
の 言葉 は、 浄土 真宗 の第 八代 門 主の 蓮如 上人 が著 した
『御 文章
( ご ぶ ん し ょ う
』)
に 書か れ てい る 内容 です
。意 味は
、「 い まだ 人が 一万 年の 寿命 を受 けた とい うこ とを 聞か ない
。一 生は す ぐに 過ぎ て し まう
。」 と いう こと です
。
「 一 生過 ぎや すし
」 と言 われ たと ころ で
、な かな かピ ン とこ ない かも 知 れま せん
。し かし
、 身近 なと ころ で 考え てみ ると
、今 日 から 七月 に入 り ます
。つ まり
、 二〇 一五 年も 後半 に 入り まし た。 早 いも のだ と感 じな い でし ょう か。 み なさ んの 日常 のな か にも
「も う過 ぎ てし まっ た か」 と 実感 でき る場 面が きっ とあ るは ずで
す。 そ の延 長 にあ る のが
「一 生過 ぎ やす し」 なの では な いか と思 いま す
。私 たち のい のち に は限 りが あり ます
。 一万 年の 寿 命も あり ませ ん。 限 られ たい のち だ から こそ 尊い も のだ と言 えま す
。日 々の 過ご し方 や 時間 の使 い方
、 そし て私 たち のい の ちは 有限 だと い うこ とを 改め て 考え させ られ る言 葉 だと 思い ま す
。
今 月 の 聖 語
身に つ いて 慎む のは 善い
こと ば につ いて 慎む のは 善い
心 につ いて 慎む のは 善い
『 ダ ン マ パ ダ 』
仏教 では
、人 の 行為
(業
)は
「身
業( し ん ご う
」)
・「 口 業( く ご う
」)
・「 意 業( い ご う
」)
の 三種 類で あ ると 説き ます
。 つま り、 身体 によ る 行為
、口 から 発す る 言葉 によ る行 為
、そ して 心の 動 きを 行為 とし ます
。 釈尊 は、 人間 の この 三つ の行 い につ いて 慎む こと は 善い こと であ る と説 きま す。 こ の「 慎む
」と いう こ とは
、私 たち の生 活 のな かで
、 つい 忘れ かけ てい る こと では な い でし ょ うか
。例 えば
、自 己中 心的 で周 りの 人を 傷つ ける 行動 や発 言。 また
、 自分 の思 う通 り にい かな いと 込み 上 げて くる 怒り の心
。 その よう な自 身 のあ り方 を省 み るこ とを 教 え てく れ る言 葉だ と 感じ ま す。 自 分 自身 の姿 を仏 陀 の教 えと いう 鏡を 通 して
、一 度見 つ め直 して みま しょ う
。慎 みの ある 行 為、 実践 し て いき た いで すね
。