10月27日 川西市多田院 多田神社 例祭
祭神、源満仲。清和源氏の祖で、この地開拓の祖。75才のとき仏門に入って1寺を創設。多田院と号し、寛和2 年(986)花山法皇の臨幸あり鷹尾山の勅号を賜った。現在の建物は殆んど徳川4代家綱のときらしい。当時多田大 権現といった。
秋祭はもと10月10~12日、最近27日に変更。4~5年前までは秋祭には源頼光が大江山の鬼退治をして凱旋する ときの武者行列があったがそれも現在はない。
昭和の初め頃までこゝに南無手踊というのがあった。最近これが復活に努力しているらしいが、憶えている古老 は2-3人しかいない由。道具や衣装は神社に保管されている。
後に大阪図書館でノートした民俗芸術第2巻第11号所収の鷲尾三郎の記事参照。
27日当日午前10時より祭典。阪急関係の商業政策と結ばれているらしく、氏子関係よりも宗教者*の方が勢力が 強い。一般の参詣者が祭典中楼門から中へ入れるのに特別入場料が要る。
当日、祭典中、"古式神楽"と称する巫女神楽があった。舞人 4 人、緋色の舞衣、緋袴で持物は造花の榊の葉枝に 鈴をつけたもの、及び、檜扇であった。祭典の間は舞楽の延天楽が奏されていたが、神楽になってからテープによ る放送に替った。普通の浪速式神楽より稍複雑なテンポの早い舞振であったがよく聞いて見ると、これは数年前か ら、宝塚劇場学校の生徒の年中行事になっており、奏楽は宝塚少年音楽隊の吹奏楽団ブラスバンドであるという。
古式神楽歌 北里閑 作詞 酒井協 作曲 山下咲子 振付 第1節 頼光公を憶ひて
大刀風のあらき丹波の大江山 岩尾の奥にまがつびの 鬼をやらひて安らけく 治まる御代こそめでたけれ 第2節 義家公を憶ひて
もののふの猛くやさしき軍神、みちのおくまで親鳥の 大和ごゝろの明らけく 幸はふ御代こそめでたけれ 第3節 満中公を憶ひて
津の国の多田の宮居に相生の 松は常盤に呉竹の 世々を重ねて限りなく 栄ゆる御代こそめでたけれ 昭和35/10/10日。大阪新聞"日本のまつり"三村幸一
南無手踊の名称は踊りながら南無阿弥陀仏と唱えたからだといわれている。大江山の鬼退治を模したものという がたぶんに京都今宮のやすらい祭の影響をうけている。
金棒を持った2人の鬼が先導する。長刀を持った4人の小年、次が13人の踊り手、列を組んで神社に練込み、境 内で輪になって踊る。
※以下斜字部分、鷲尾三郎「摂津多田神社の南無手踊」(『民俗芸術』第2巻第11号(地平社書房 S4)からの引用。
川辺郡多田院の多田神社で毎年10月10~11日、午後1時と3時の2回宛南無手踊を演ずる。頼光が大江山 の鬼を退治した凱旋記念にやったという伝説がついている。道行に鬼面をつけた2人が赤い棒を振廻しながら、
先行するのを、鬼が追立てられていると言って居る。道行にはこの外、子供が 4 人、長刀を捧げて後ろが鬼も 子供も道行にのみ加わるので、踊りには参加しない。
踊りは胸に太鼓をつけ、頭に茶褐色の毛を被り、その上に造花15本ばかりを立てた若者が左右5人づゝ並び、
その中間に赤き衣を着、紅の毛を被り其の上に鈴を持った 3 人が鉦と太鼓に併せて踊るので次のような位置を とる。
おどりは可なり激しい踊で、どこかに今宮のやすらい花に似たのを思出せれる。行事に加わる人々は、いづ れも古来山神社の氏子だけに限られ、他村から来たものは参加できない。踊りに歌う歌は一切秘密になってい て、歌うもの以外は誰も知らず、行事のとき以外は口にしない。この踊が念仏系統のものであることは容易に 想像できる。それに今一つ三河の花祭などにも脈を引いているらしい。また田楽とも考へられる。胸に太鼓を つけた男が頭にかざす造花は山桜に仕立てたもので凱旋の華やかさを表はしたものだというのは、大江山云々
の伝説から生れた村人の解釈であろう。この踊が今宮のやすらい花に似ているというのは正当である。鬼が先 行するのは追われるのではなく先導でなければならぬ。