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(1)

一次の文章を読み、後の問に答えよ。 夏をいろどるフウブツシのなかで、花火ほど魅惑的で、そしていかにも日本的な美を見せるものは少な

いだろう。

川の水面に映る打上花火、縁台のまわりにはじける線香花火。日本人なら誰しもその鮮かな光彩と、そ

れが消えたあとに残る闇の深さを見つめた記憶があるはずである。

あるときは菊の花を描き、あるときは松の葉のかたちをつくり、それは獰猛であるはずの火を、優しい

心で飼いならした芸術だといえる。セーヌ河のうえでもハドソン河のうえでも、私は日本の花火ほど絢爛

として、しかも典雅な火の饗宴を見たことがない。

いうまでもなく、火を敬い、火をアコガれる心は世界中にひろがっている。有名な京都の大文字の送り

火にしても、起源はたぶん中国か、遠く西アジアの信仰に求められる。光を造形芸術にまで高めることな

ら、西洋のランプや燭台ははるかに日本の行燈をしのいでいる。おそらく問題の花火そのものも、原型は

火薬とともに南蛮伝来の魔術であったにちがいないのである。

けれども花火は、たんに燃えつづける光と焔の芸術ではない。それは一瞬に燃えあがり、たちまち燃え

つきる変化によって人の心を魅惑する。灯火が光の永遠性を象徴しているとすれば、花火は闇のなかに生

成する火のいのちを象徴しているといえる。

(2)

たしか寺田寅彦であったろうか、花火のなかには「序・破・急」のリズムがある、と書いた随筆家があ

った。始めはゆっくりと動きを起こし、なかほど激しく開花すると、やがて暗闇にむかって永遠に消えて

行く。この三段の生成のリズムは、古くから日本の伝統的な芸術のコッカクをかたちづくって来た。能の

大成者、世阿彌によれば、この「序・破・急」は水の流れにも鳥の鳴く音にも認められる。舞や歌はもち

ろんのこと、とんとひと踏みする足音のなかにも、この日本的なリズムが働いているという。

始めがあり、中があり、終りがあり、それが整然たるリズムに乗って展開するとき、われわれはものご

とが「完結」したという印象を受ける。変化のなかにはっきりした段落があり、その段落が互いに響きあ

っているときに変化は全体としてまとまりを見せる。よく訓練された徒手体操が美しいのは、それが変化

のなかに「完結」しているからであり、隙のない「序・破・急」のリズムに貫かれているからである。

そして、日本人はとくにこのリズムに敏感であり、一瞬の変化のなかにもまとまりを感じとる感受性に

めぐまれているのかもしれない。ひと踏みする足音のなかにも、始めと中と終りを感じとったわれわれの

先祖は、十七字の俳句のなかに完結した感情を盛りこむことに成功した。だとすれば、この独特の感受性

が、花火という、いわば純粋な「Ⅰ」そのもののような美を育てたとしてもふしぎではないのである。

はじけては消える夏の夜の花火を見ていると、ふと、そこはかとない悲しみがただようことは事実であ

る。日本人は昔からそういう「はかなさ」に心ひかれ、人生の無常に耽溺して来たと信じられている。そ

れはたしかにその通りなのだが、しかしその同じ日本人が、ふしぎに一方で極端なニヒリズムに走らなか

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ったことも事実なのである。人生の無常をかこちながら、われわれの先祖はそのなかにけっこう安定した 自然を見出していた。そしてそれはたぶん、一瞬の変化のなかにも「序・破・急」を感じとる、あの敏感

な秩序の感覚のせいにちがいないのである。

山崎正和「混沌からの表現」による

問一、傍線部①「フウブツシ」②「アコガ(れる)」③「行燈」④「コッカク」⑤「隙」のカタカナを漢字

に改め、漢字は読みを答えよ。

問二、傍線部A「打上花火」・B「線香花火」が象徴しているものは何か。文中より十五字以内で抜き出し

て記せ。

問三、傍線部C「問題」のこの文脈での意味として最もふさわしいものを次の1~5の中から一つ選び、符

号で答えよ。

1試験などの問い。2解決すべき研究課題。3厄介な困った事柄。

4関心を寄せている話題。5看過できない重要なポイント。

問四、空欄Ⅰの中に入る二字熟語を文中より抜き出して記せ。

問五、傍線部D「あの敏感な秩序の感覚」とは、どういうことか。文中の言葉を使って答えよ。

(4)

二次の文章を読み、後の問に答えよ。

「こと

もの」問題で、「もの」は、眼前にあることはあるのだが、それに対し共同体の共有物として、 -

つまり言葉としてまだ明確な名前を持たず、画定されない状態にあるとき使われると述べました。「ひと」

と「もの」の関係についても考えてみましょう。

まず、上述の「もの」についての定義づけが、この関係でも当てはまるかどうかを検討します。

これも大野晋の指摘によるのですが、古典では、「ひと」は、あてびと、いへびと、おおみやびと、うへ

びと、からびとなどのように、身分の高い人や一人前の社会的人格を持った人に多く使われるのに対して、

「もの」で人を表す場合、しれもの、すきもの、ひがもの、わろものなど、概して、蔑視する場合に使わ

れる場合が多いということです。また、名もない者、身分の卑しい者、一人前の人とは認められない者な

どは、モノ扱いされます。たしかに、現代でも、「小浜と申す者ですが」などというときには、自分を値打

ちのない存在として卑下して、謙譲の態度を表す場合に用いられます。

これはまあ、当然といえば当然の話ですが、ここでは、一見、人と物とを区別しない使い方になってい

るように感じられるかもしれません。しかしそうではなくて、かえって、特定の人をモノ扱いするところ

に、眼前にいてもそれを「名もない人間」としてろくに視野に入れないという区別の意味合いが表れてい

ます。つまり、やはり、「もの」についての先ほどの規定に当てはまるのです。モノ扱いされている人々

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は、明確に名付けられていない(輪郭鮮やかな存在として意識されていない)のです。

謙譲を表す「~と申す者ですが」なども、聞き手にとって相手が存在することは認めていながら、まだ

それがどんな存在であるかの心証を得ていないときに、こちらからその事情を思いやって発する表現です。

そもそも人間を表すのに、「者」という漢字を当てること自体、人を低く見るか、第三者的に突き放して

見るというニュアンスが込められています。者という漢字は、もともと箕に蓄えられた薪を意味するそう

です。

さてここに面白い事実があります。 英語では、「~する人」と「~するもの」を表す名詞の語尾に、よく~erや~orを付けて表します。

ひと:player 、printer 、driver 、washer 、cleaner 、runnner 、doctor 、conductor もの:player、printer、screwdriver、washer、cleaner、runnner、motor、hummer

すべてが語彙として一致するわけでありませんが、この共通性は、「~する何々」という点で同じですか

ら、両者を同一視していることを示しています。ドイツ語やフランス語では、英語ほどではありませんが、

~er や~eur をつけて「ひと」「もの」両方を表す例がいくつかあります。しかし、日本語では、こういう

ことをしません。必ず「~するひと」と「~するもの」とを言葉によってはっきりと分けます。右の英語

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の例に対応させてみましょう。

ひと:選手、印刷工、運転手、洗濯屋、掃除人、走者、医者、指揮者

もの:再生装置、印刷機、ねじ回し、洗濯機、掃除機、スケートの刃、発動機、金づち

「ひと」の場合は、者、手、屋などをつけ、「もの」には機、器などをつけるか、そうでなければ、元から

その用途に合わせた名前がついています。これは、日本語では、「~するひと」と「~するもの」とをけっ

して混同しない意識の表れでしょう。ちなみにこれは、あえて蔑視や謙譲の意を表す場合に「ひと」を「も

の」扱いするのとは、話の筋が違います。

さてこのことは何を意味しているでしょうか。

筆者の考えでは、この区別は人間に対するそれなりの尊重の念を表しています。それだけ、日本人は、

たとえ自分と直接に関係のない人であっても、人間一般、特に職業人に対して、ある特別の「気のかけ方」

をしていることがうかがわれます。その「気のかけ方」とは、「あの人は何をして生きているのか」という

気のかけ方です。このように、日本語は、「もの」に対する関心よりも、「ひと」に対する関心に多くのエ

ネルギーを費やすようです。このことは、日本語的思考の特性に結びついているように思われます。

たとえば、前近代までの日本の思想は、仏教にしても、儒学にしても、ほとんどが「人はどのように生

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きるべきか」「どのように生きれば救われるのか」という倫理にかかわるものばかりでした。そのぶん逆に、 朱子学で言う「格物致知」や西洋の物理学のように、「もの」を「もの」として探求しようとする心に乏し

かったと言えます。

また江戸時代に庶民の間で大流行した川柳や落語は、もっぱら「ひと」の暮らしぶりを面白おかしく形

容したもので、その人情味あふれる笑いと風刺とペーソスの芸は、たいへん高度な水準に達しています。

和歌や俳句には自然詠が多いではないかという反論があるでしょう。たしかにその通りですが、和歌や

俳句の自然詠は、まさしく西洋流の「もの」を「もの」として、つまり突き放した「対象」としてとらえ

るという態度とは、裏腹の態度を表しているのです。

ここでは『百人一首』から、恋心を自然に託しているのでもなく、いわくありげな裏の意をひそませて

いるのでもなく、「あはれ」「さびし」などの心情的な形容も一切含まない、純粋に叙景歌といえる例をあ

えて挙げてみましょう。

①秋風にたなびく雲の絶えまよりもれ出づる月の影のさやけさ

②久方の光のどけき春の日にしづこころなく花の散るらむ

③朝ぼらけ宇治の川霧たえだえにあらはれわたる瀬々の網代木

④村雨の露もまだひぬまきの葉に霧立ちのぼる秋の夕暮れ

(8)

いずれも秀歌ですが、これらの歌では、観察者が、流れゆく時間の中の自然の変化に包まれて、じっと

その感興を味わっているさまが顕著です。つまりこういう情景を見逃さずに洗練された言葉に仕立て上げ

ることで、ヴィジュアルな鮮やかさが繰り広げられるわけですが、単にそれだけではなく、自然の流れと

一体化した作者の抒情的な気分がそこに巧みに織り込まれることになるのです。

ちなみに①は「さやけさ」の体言止めが決め手、②は「しづこころなく」というⅠに作者の惜

春の思いが切なく出ており、③は「あらはれわたる」姿をゆっくりと見守っているところに情景への親愛

の情が感じられ、④は「露もまだひぬ」という新鮮な言葉遣いに、作者自身の感動が込められています。

そうした歌い手主体の「こころ」が純粋な叙景歌にさえにじみ出てしまうので、それが日本的な美意識の

宿命といってもよいでしょう。

俳句では、いっそう感情の流出が抑えられ、写生的な観察が重んじられますが、それでも、たとえば、「古

池や蛙飛び込む水の音」という句。この句では、「蛙」にかかわる音なら普通はあのやかましい鳴き声と結

びつくはずなのに、飛び込んだ一瞬の音に着目して、それをあえて言葉として出すことで、静けさや寂寞

がかえって強調されます。作者がその境地をむしろ楽しんでいるさまが伝わってくるのです。

また与謝蕪村の「五月雨や大河を前に家二軒」という句では、作者が、水かさを増す大河の前に心細そ

うに寄り添っている二軒の小さな家の様子を、おそらくは少し高い位置から心配そうに眺めている、その

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目線の確かさと人情味が偲ばれます。またこの句は、二軒いうところが大事で、世間の荒波に抗うことも できずにただ堪えている一対の男女のメタファーと解することも可能です。そう見れば、写生に徹しつつ、

そこにきわめて人間的な世界への入り口が開けるわけです。

以上のように、日本語的思考は、「もの」に関心を寄せる場合でも、それを死んだ自然として対象化する

のではなく、必ずなにがしか「ひとびと」への関心に引き寄せようとします。その引き寄せの媒介をなし

ているのが、情緒の作用なのです。

(「日本語は哲学する言語である」小浜逸郎)

【語注】

〈注1〉*格物致知…朱子学で物の道理を極め、後天的な知識を深めること。

〈注2〉*ペーソス…もの悲しい笑い。

〈注3〉*メタファー…隠喩。ある概念をそれに似た例を用いて表現すること。

問一、傍線部A「モノ扱い」とカタカナで表記されているのは、なぜか。理由としてふさわしくないものを

次の1~5の中からすべて選び、符号で答えよ。

1人と物とを区別しない表現となっているから。

2人同士を区別する表現となっているから。

3物体としての物を表現するのではないから。

(10)

4「モノ」が表現しているのは人だから。

5物として扱われていることを強調するため。

問二、傍線部B「『もの』についての先ほどの規定」とは、どんなことか。文中の言葉を使って答えよ。

問三、傍線部C「心証」の意味を次の1~5の中から一つ選び、符号で答えよ。

1理解2印象3納得4確信5推測

問四、傍線部D「面白い事実」とは、どんなことか。五十字以内で答えよ。

問五、傍線部E「runner」を日本語に直せ。

問六、傍線部F「両者」とは何か。文中より抜き出して記せ。

問七、傍線部G「突き放した『対象』としてとらえるという態度とは、裏腹の態度」とは、どんなことか。

文中より抜き出して記せ。

問八、空欄Ⅰに入る修辞法を次の1~5の中から一つ選び、符号で答えよ。

1直喩2暗喩3擬人法4擬態法5対照法

問九、本文の内容と合致するものを次の1~5の中から選び、符号で答えよ。

1日本語は「もの」を物とし、客観的に表現しようとするものではない。

2日本語には「ひと」同士の上下関係を示すきめ細かな敬語表現がある。

3日本語の表現には、人間関係を円滑にするため曖昧なものが多くある。

4日本語は言葉の省略または体言止めにより表現を豊かにしようとする。

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5日本人は自然への興味がとても強く和歌や俳句にもそれが表れている。

三次の文章を読み、後の問に答えよ。

灯籠流しを初めて見たとき、不謹慎に聞こえるかもしれませんが、なんという美しい慰霊の習慣であろ

うか、と思いました。

赤や緑の色紙で貼られた灯籠が、ひとたび火を点されると、まるで命を吹きこまれたように内側から輝

いて、この世のものとも思われない光を放ちはじめる。

川に流されると三々五々に寄りそって、静かに川を下っていく。まるで、いっしょに旅していく魂のよ

うに。

岸辺で祈る人びとの横顔。石像のようにいつまでも動かない姿。

あの日のことを何も知らない幼い子どもが、おばあさんの横にしゃがみこんで小さな手を合わせ、手を携 えて、灯籠を送り出す。賑やかに岸辺に駆け下りてきた子どもたちも、あたりの厳粛さに打たれて思わず

知らずうなだれる。

そしてみなで静かに灯籠を見送る。灯籠が、輝きながら、光の道をつけながら、川面に映った影と共に

(12)

ゆらゆら揺れながら流れていくのを、暗い海に向かってずっと流れていくのを、いつまでも見送る。

私はその光景の美しさに胸を打たれたのです。

去年のお盆、徳山で開かれた慰霊祭に初めて参りました。二十五年目の慰霊祭が終わり、息子が旅立っ

ていった海を眺めてぼんやりしているうちに、大阪まで帰る汽車を逃してしまいました。

どこかで一泊せねばならないようでした。深く考えぬまま、私は広島で降りることにしました。息子が

短い人生のなかで、とりわけ楽しく過ごしていると書いていた町。しかし、息子の知る廣島はあの恐ろし

い爆弾ですっかり消えてしまったことでしょう。

私は広島に一度も行ったことがなかったので、今の広島が自分にはどのように映るだろうかと考えたの

です。昔の高等師範がそのまま大学になったのは知っていましたから、息子が勉強した場所くらいは見ら

れるかもしれないとも思いました。

商売人が泊まる、駅前の小さな旅館に宿を取りました。帳場で宿の主人と話をしているときに、その晩、

灯籠流しがあると教えられたのでした。

灯籠を見送っている人びとを見つめていたときのことです。私は一人の少女の横顔にはっとしました。

目を疑いました。息子と並んで写真に写っていたあの少女が、灯籠に手を合わせているのです。息子の魂

が見せた幻でしょうか。ほんとうに驚きました。

(13)

少女は顔を上げて誰かに、にっこりしました。写真のなかで恥ずかしそうに微笑んでいたあの少女に間

違いありませんでした。

思わず、私は土手を下りていました。人混みをかきわけて少女のそばに行きました。

近くで見ると、写真の少女よりも少しだけ幼いように見えました。食い入るように見つめてしまったか

らでしょう、少女はこちらを振り返りました。

私は思わず「あなたは、おいくつ?」と聞いてしまったのです。十二という答えに、写真の少女がそん

なに若いはずがありませんから「お姉さんがおありですか?」とまた聞きました。しかしそう聞きながら、

あれから二十五年もたっていることを、私はようやく思い出していました。

案の定、あなたにお姉さんはありませんでした。つまりは写真の少女のお嬢さんかもしれません。写真

の裏に「木崎百合子十七歳」と書いてあったからです。原爆を生きのびていらしたら、今四十代の前半

のはずです。お母さんの年齢をウカガって、私は自分がおそらく間違っていないことを知りました。

あなたを驚かせて申し訳のないことでした。私はどうしていいかわからずおろおろしてしまって、その

場を逃げ出してしまったのです。

このたび、思いがけずもあなたからお手紙をいただいて、私は言葉では言い表せないほど嬉しく思いま

した。

(14)

私が出した手紙のことを、おばあさまがあなたのお母様の百合子さんに伝えられなかった由、私でも同

じことをしただろうと思います。おばあさまにどうぞもうお気になさらないよう、お忘れ下さるようお伝

え下さい。

私の息子慎司は学徒出陣して、回天という特攻兵器で敵艦に体当たりして死にました。終戦の三日前の

ことだったそうです。まだ二十歳でした。

あなたは回天という名前を聞いたことがありますか?直径一メートルもない小さな潜航艇です。これ

に爆弾を積んで敵艦を攻撃しました。

ただの攻撃ではありません。「特攻」については聞いたことがあるでしょう。生きた人間を爆弾に仕立て

た、これ以上ないくらいむごい死なせ方でした。

そんな命令に従って敵艦に突っこむなど、今の若い方には信じられないことでしょう。くだらない、犬

死にだと思われることでしょう。

慎司の遺書には、銃後の人びとを救うために自分の命を捧げるのだと書いてありました。我が子ながら

聡明な子でしたから、特攻兵器の無意味さはよくわかっていたに違いありません。しかしすでに敗色が濃

かった戦局を鑑み、残してきた人たちを思うとき、自分にできることはそのくらいのことだと自分の

死によって大切な人たちが助かるのだとムリヤリ自分に言いきかせたのだろうと思います。遺書に泣き言

(15)

は書いてありませんでしたが、さぞ無念であったろうと思います。

そんな無念な、短い人生のなかで、慎司が百合子さんという少女とおつきあいさせていただいていたこ

とを知って、私は心から嬉しく思ったのでした。

二人の写った写真は、遺品の薄い文庫本に挟んでありました。慎司が一番好きだと言っていた『マルテ

の手記』でした。その本に挟まれていた写真のお嬢さんは、慎司が一番好きだった人に違いありません。

勉強ばかりしていたような子でしたが、写真の慎司の幸せそうなこと。すまして立っていたいのに、つ

い顔がほころんでいるような。小さいころ、学校で何か嬉しいことがあったとき、飛んで帰ってきて私に

話してくれるときと同じでした。ちょっとすまして、はにかんで。生きて帰ってきていれば、きっと百合

子さんのことも話してくれたでしょう。

あなたのおばあさまにお話しした、百合子さん宛の手紙も遺品のなかにありました。封はしておらず「母

上が読んで、適当だと思われる時期に渡してくれると嬉しい」と添え書きがありました。自分でも迷いが

あったからではないかと思います。しかし、適当という時期が私には判断できませんでした。戦争が終わ

って三年もたってからお母様にお手紙を書いたのは、私自身の気持ちが整理できなかったからでした。

あなたのおばあさまが、娘の百合子さんに私からの手紙をお渡しにならなかったのも、同じような理由

ではないかと拝察します。

(16)

手紙を百合子さんのお母様宛にして、適当と思われたらお嬢さんにおたずね下さいと書いたのは、百合

子さんのご様子がわからなかったためでもありました。

原爆で被害に遭われているかもしれないと案じておりましたが、幸い送った手紙は送り返されてこなか

ったので、届いたことはわかりました。しかしご返事がないということは、おそらくお母様がお母様なり

に判断された結果ではないかと思いました。

慎司が何より願っていたのは百合子さんの幸せですから、それでよかったと思います。あなたにお目に

かかって、ますますそう思いました。

それにしても、あなたはお母さんにとてもよく似ていらっしゃいますね。あのとき、私は目を疑いまし

た。徳山で息子の入っていった海を眺めたあとに自分の目も心もどうにかなってしまって、自分の見たい

幻を見てしまったのかもしれないあなたの面影が浮かぶたび、そんなふうにも考えていました。

しかし、もしかしたら私の直感通りかもしれないと考える日もあって、もう一度お手紙を出してみよう

かとも思いましたが、それはしてはならないことだとあきらめていたのです。

もし私の直感が当たっており、あの出会いが息子に導かれたものだとしたら、百合子さんはお子さんに

も恵まれ、幸せに暮らしておられるわけです。それがわかっただけでも十分でしたのに、思いがけなくも希未

さんからお手紙をいただけたのは、ほんとうに嬉しく、ありがたいことでした。

(17)

あの晩流されたたくさんの美しい灯籠のなかに慎司の白い灯籠があったことを、百合子さんとそのお子

さんたちが毎年慎司の霊を迎えては送って下さっていることを、残りの人生の生きる糧にして、夫と息子

が迎えに来てくれる日まで、私もしっかり暮らしていきたいと思います。

あの不幸な戦争は、慎司から未来を奪い、百合子さんからも私からも慎司を奪いました。しかし、あな

たやあなたの弟さんという若い命が、慎司たちが見ることのできなかった世界を見、生きていってくれる。

そのことを想像するだけで私は温かい気持ちになるのです。

どうか、あなたたちの世代が生きる世界が平和でありますように。自由な心を縛る愚かな思想が、二度

と再びこの世界にマギれこみませんように。健やかに成長され、生を全うされますように。

遠くながら、あなたとあなたのご家族のお幸せを心からお祈りいたします。

堀田道子

〈うつしえに戦死せし子と並びたる少女よいずくに母となりいる〉

小山ひとみ

(朽木祥「光のうつしえ」による)

問一、傍線部①「携(えて)」②「ウカガ(って)」③「鑑(み)」④「マギ(れ)」⑤「健(やか)」のカタ

(18)

カナを漢字に改め、漢字は読みを答えよ。

問二、この手紙は、誰に宛てて書かれたものか。次の1~5の中から選び、符号で答えよ。

1百合子2希未3おばあさま4堀田道子5慎司

問三、傍線部A「灯籠流し」は、どこで行われたか。地名を抜き出して記せ。

問四、傍線部B「あの日のこと」とあるが、具体的に何があったのか。答えよ。

問五、傍線部C「息子が旅立っていった」とあるが、どのようにして「旅立っていった」のか。次の空欄に

当てはまる言葉を文中より抜き出して、答えを完成させよ。

でして。

問六、傍線部D「廣島」とここだけ旧字体で書かれている理由を説明せよ。

問七、傍線部E「一人の少女」とあるが、この時この「少女」は何をしていたか。次のA・Bの空

欄に入る五字以内の言葉を文中より抜き出し、答えを完成させよ。

・AをしてBを供養していた。

問八、傍線部F「お母様がお母様なりに判断された結果」とは、どういうことか。次の1~5の中から一

つ選び、符号で答えよ。

1原爆のことを思い出させるよう手紙など二度と見たくも見せたくもないということ。

2終戦後三年経っても戦争のことが忘れられず、気持ちの整理がつかないということ。

3辛かった戦争中の生活など一切忘れ、これからは明るく生きようというということ。

(19)

4結婚した娘の家庭生活に波風が立つようなことはしないようにしたいということ。

5見ず知らずの人からの手紙で、幸せに生きている娘を不安にはさせないということ。

問九、傍線部G「私の直感通り」とあるが、「私の直感」とは、どんなことか。次の1~5の中から一つ選

び、符号で答えよ。

1私がもらった手紙は、原爆で亡くなった息子のかつての恋人からではなかったのかということ。

2戦争で亡くなった息子の遺品の一つである手紙をお母様はすでに読んでくれていたということ。

3毎年、戦争で亡くなった自分の息子の御霊を供養してくれる人がいるのではないかということ。

4戦争で亡くなった私の息子慎司が生きていたら、この少女くらいの年であったろうということ。

5灯籠流しで見かけた少女が、戦争で亡くなった息子のかつての恋人の娘ではないかということ。

問十、傍線部H「うつしえ」の意味を、漢字二字で文中より抜き出して記せ。

(以下余白)

2023年度一般選抜一般試験型【国語】

2023年2月7日(火)実施

Referensi

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