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スポーツにおける人間の存在論的研究

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森  知高・若月須美子:スポーツにおける人間の存在論的研究 119

スポーツにおける人間の存在論的研究

       *

知高・若月須美子

緒 言

 スポーツをしている人の存在はどのようなもの か。ひとつの動きや技を作る。オフェンスのフォ ーメーションを作る。作戦を立てる。パターのコ ースを読む。ディフェンスバリエーションをひろ げる等,スポーツにおける人間的態度を掲げれば きりがない。このような世界は,スポーツにおけ る日常的世界である。これに対し,何人かの競技 者から,そういった日常的世界,すなわち理論的 に説明可能な世界によっては説明のつかない,神 秘的かつ実存的な非日常的世界の経験が報告され

ている。この世界はどのような世界で,そこにお ける人間の存在はどのようなものなのか。

 イスラエルの哲学者マルチン・ブーバーは,人 間は「我一それ関係」と「我一汝関係」との二重 の存在様式を持つと言う。人間存在を,彼の前に 立ち現われる世界(それの世界と汝の世界)との 関係で公式化するブーバーの思想に従い,スポー ツにおける人間存在を論じようとするのが本論文 の目的である。

方 法

 「我一汝関係」の世界は,その特性のひとつに

「沈黙性」(lne錨erbiHty)を持つ。つまり,この世 界は言語体系にあてはめることが困難な世界であ る。ブーバーにも,人それぞれがその固有の現存 在のなかで見出し得る一回限りのもの,本質的に して唯一なるものを〈普遍的なもの〉に変えなけ ればならず,本質的に非概念的なものを,処置一 伝達の可能な概念に言いあらわさなければならな いジレンマがあった。それ故,一般的な存在論が 存在者の存在,あるいは存在自体を体系的に論じ るのに対して,ブーバーの存在論では存在のみが 取り扱われるのでなく,存在に対する人間の二重

の「関係」が組識化や体系化を避けて語られてい

る。そのうち,「我一それ関係」の世界は概念的体 系的叙述が可能な世界である。

 本論文では,スポーツにおける「我一汝関係」

の世界をこの概念的体系的叙述が可能な「我一そ れ関係」の世界を足がかりとして考察してゆく。

構 成

 ブーバーの存在論は,〈在る〉ところのもの,す なわち存在者の存在とその関係を考察する。「我一 それ関係」の世界における存在者とその関係は,

〈主観〉・〈客観〉・その二者間を結びつける〈概念〉

である。それに対して,「我一汝関係」の世界の存 在者とその関係は〈我〉・〈他者〉・その二者問の 関係の〈現実〉である。

 〈主観〉は,自己の経験と利用の目的から十全 的な現実を自己のスクリーンに〈客観〉として映 し出す。そこにおいて,〈主観〉は,十全的な現実 の仮象であるく客観〉に自己を見ているにすぎな い。それに対し,非概念的な直接性において実在 に出合う〈我〉はく他者>を〈他者〉のあるがま まに受け取る。〈他者>の人格は徹底的に一回性で あり,私にとって「異なっている存在」なのであ る。また〈客観〉はく概念〉により〈主観〉に把 握されるのであるが、〈我〉とく他者〉の間には,

〈関係の現実〉があるのみである。〈概念>は因果 関係と合目的性に束縛された秩序ある体系として

「我一それ関係」を宿命づけている。〈現実〉は全 ての束縛から逃れた自由な二者,すなわち〈我〉

とく他者〉の実在的な結合である。

 時間性から見ると,<概念〉には過去の確実性と 理論的な反復可能性がある。それに対して〈現実〉

は,唯一性(Einzigkeit)と現在性,現前化(Verge−

genwど面gung)という理論を越えたところに生起 する。したがって〈概念〉とく現実〉の相異は,

*筑波大学大学院

(2)

因果性と時間性よ1)論じられる。

 以上のことから,「人間の存在論」の構成が次の ように組み立てられる。

 1 主観と我  2 客観と他者  3 概念と現実

  (1)因果性(宿命と運命)

  (2)時間性(過去と現在)

 なお本論文では,「我一それ関係」,「我一汝関係」

の世界から人間の現実に事実何が生じるのか,あ るいは「我一それ関係」の世界において,なにが 不当なそれで,なにが正当なそれかといった価値 的なことは一切問題としない。今問題とするのは,

両方の世界の構造そのものである。

1.主 観 と 我

 それの世界は主観の住む世界である。この主観 は現実を客観に映し出し,その映像を概念に固定

して把握する。主観は,その外にある十全的な現 実に向かうのではなく,いつも主観がつく1)出し た映像,すなわち主観的なものに向かう。主観の 把握するこうした主観的なものがくそれ〉であ『),

〈それ〉はその時,概念にその形態を依存する。

 主観の環境世界は主観の投影から成り立つ。主 観とは「個我」(Eigenwesen)であセ),「個我は〈現 実〉に関与せず,〈現実>を獲得しもしない呈〕

 主観と客観の関係が言葉の体系であらわされる のと同じように,〈それの世界〉では具体的なでき 事を抽象の体系に固定する。つま1),諸々の客観 の投影は主観による一方的な抽象作用である。そ れ故,主観は〈それの世界〉において独話的性格

をもつ。

 抽象とは,事物または表象のある要素・側面,

性質を引き出してとらえる思考作用である。これ は反面からいえば,他の要素,側面,性質を度外 視する捨象であ1),抽象と捨象は同一作用の両面 である。例えば,これから戦う相手に対し作戦を 立てるには,抽象と捨象は不可欠な思考の手続き である。敵は最初ぼんやむ)とした全体として与え られている。その相手を分析して,身長,体重,

得い技,動きのパターン,弱点など彼の特性を抽 出する。また,いらない情報を捨象しながら相手 を研究し,それらの相互の関係を明らかにしてそ れらを総括してゆく。それによって具体的なもの

が思考上で再生産され,作戦が体系的なものとし て得られる。スポーツにおける作戦は,競技者あ るいはコーチの一方的な独話的思考作用の成果に 他ならない。「敵対する相手との間で実際におこる

ところのものよ1)も,自分が何をなしたのかとい う事実の方に関心を傾け,また流れるままの状況 を流れるがままにしておく代わりに,自己のプロ グラムを基準として他者を動かそうとする独白者

(monologist)」llすなわち,独話的な抽象作用の成 果を利用する独話的競技者(Monological Athlete)

は主観と言える。「独白者である彼の行う運動は,

充分に彼自身の目的に基づいてはいるが,例えば バスケットコートに立っている,あの敵としての 彼を感得することはできない£1独話的競技者にと って問題となるのは,自己の目的あるいは計画に 沿って動いてくれるプレイヤーの存在である。今,

目の前でディフェンスしている彼は,主観である 私の投影,つまり主観的なもの(客観)にすぎな い。彼は私にとって,私の「照察」(Betrachtung),

あるいは単なる「観察」(Beobachtung)によってば らばらにされた対象であ『),それにとどまる限り,

彼の全体が,またその中心が,本性を現わすこと

はない。

 主観としての独話的競技者は〈現実〉自体にい たる道を見い出すことには無関心である。

 私の「自己一意味」(Selbst−Sinn)は単なるひと つのく認識主体〉ではなく,我を我として存在さ せる意味に他ならない。それと同様に,今私の前

でディフェンスしている敵の「存在一意味」(Seins

−Sinn)は,彼自身のうちに担われてお1),彼を彼 として存在させているのであり,私の表象のうち に組み入れることのできないものである。しかし,

主観としての独話的競技者は,自らの十全的な世 界を概念の形式に投影しようとする。還元も繹演

もできない十全的な存在であるはずの人間が,私 の目的達成へ向けて利用することのできる右側の ディフェンスの弱い敵として,主観の私に把握さ れるのである。

 こうした事態は,ブーバーが「分離」(Trennung)

と名付けるひとつの過程で生じる。汝と自然的結 合をした我の忘却から「我の意識を持つようにな った」,すなわち主観になった人間が生じる。こう した「我一それ」を言うようになった人間は,

  さまざまな事物の前に立つ。しかし,相互作用の  流れのなかでそれらに向かい合うのではない。

(3)

森  知高・若月須美子:スポーツにおける人間の存在論的研究 121

   ・そしてこのような容体化がおこなわれるよう  になる時はじめて,人間は事物をさまざまな特性の 総和として経験するのである。……彼はまた事物を  空間的・時間的・因果的な連関のうちに置くのであ  って,この時はじめてあらゆる事物は,場所と経過  とを有するもの,測定されるもの,条件づけられるも  のに化するのである。(ブーバー「我と汝」PP41−42⇒

といった状況に落ちいる。

 それ故,世界は特性の総和としてあらわれる。

特性は感覚の抽象化という形式を取る主観の投影 である。抽象化が支配する独話の世界においては,

ブーバーの言う間違った自己主張の衝動が通用す るようになり,この衝動が,「信頼できない,密で ない,持続性のない,見渡すことのできない,危険 な関係の世界を避けて,人間を物の所有へ逃亡さ せるのであるd〔41

 独話的競技者は,どんな情報にも還元できるは ずのない十全的な存在者をあるがままに受け取る よりは,いくつかの特性の総和として把握し,そ れによって安心する。彼と実存的な関係を結ぶよ りは,彼を打ち負かし,勝利すること,あるいは 何らかの報酬を得ることに並々ならぬ意欲を燃や すのである。それは十全的現実が「在る」世界よ り勝利や金を「持つ」世界の方が確かだからである。

 「根元語・我一それにおける我は,個我(Eigen−

wesen)として,発現し,自己を(経験と利用との)

主体として意識する。……個我は他のさまざまな        て 個我から対比的に分離することによって発現するd

この時ブーバーは独特のパトスをもって次のよう に言う。「自己分離の目的は経験と利用であセ),経 験と利用の目的は,いわゆる〈生活〉,すなわち人       生の全期間にわたって死んでいることである司  主観には真の我の実体は欠如している。このこ

とから,主観は否定体である。個我がそれを自己 と見なしている経験と利用の主体である独話的競 技者は,いかに多くのものを自己の所有としても,

そのことによって実体(Substanz)とはならない。

「それはあくまでひとつの点のようなもの,機能 的なもの,経験と利用の主体などであって,決し てそれ以上のものではない。その存在様態がいか に拡張されており,その〈個性〉がいかに強烈で あろうとも,そのことはこのような主体が実体と        ぐのなるための助けにはならないのである,」

 しかしながら,その主観(独話的競技者)が,

真の我(対話的競技者)になる瞬間がある。

 ちくしょうめ,ちくしょうめと彼はまた風にむか  って呪いをたたきつけてやった。 ……はピッケル  をかまえてその強風の中へ突入した。そして彼は,

予期したとおり,吹きとばされて小犬のように雪の 上をころがった。見事な敗北だった。彼は二度と再  ぴ,ちくしょうめという,不遜のことばを山に向っ  て吐くまいと誓った。冬山への挑戦という観念が大  きな誤謬だった。……挑戦も,戦いも,こんちくし  ようも,征服もいけないのだ。そのように,冬山を 敵視した瞬間,自分自身もまた山から排撃されるの だ。(新田次郎「孤高の人」PP217−219)

私が登っているこの山は,山を征服するという目 的を満たす為に,高さ,気象状況,地形などいろ いろな特性の総和として把握されていた。山は私 によって経験され利用されるところの山であり,

未だ,その十全的な実体を現わさない。その抽象 という独話は真の我から分離した主観によってな されるのであるから,私もまだ実体となってはい ない。ところが,私はそれらの情報だけからは予 測もつかない厳しい攻撃を受けたのである。私は 山を神聖なものと思うようにな1),畏敬の念を抱 き始める。山は主観である私に把えられる以上の ものとして姿を現わしてくる。今や,山は山とし てそれ以上環元することのできない十全的な存在 として存在する。その実存的存在を現前化できる 時,我もまた主観の域を抜け,真の我という実体

となり,「相互性」(Mutuahty)をもって山と出合い,

対話をするのである。

 このように「人間は汝との関わりにおいて我と なる罪}「我それ自体というものは存在しない。存 存するのはただ根元語・我一汝における我と,根        のユ元語・我一それにおける我だけである司つま虻),

〈主観〉もく我>も,向かい合うもの(Gegen莇er)

とのかかわりで定義ざれ,実現される。したがっ て,〈主観〉とく我〉の考察には,〈客観〉とく他者〉の 考察,およびその区別の考察が必要になってくる。

2.客観と他者

 「客観」というと物自体としての実存的対象の 意味で理解される場合もあるが,ここではいつも

「抽象」という意味で扱う。

 現実が客観になること一これは「客観化」と名 づけられる。これはそれ自身認識論の問題である が,ブーバーにとっては人間学的テーマである。

(4)

これを単独に集中的に扱った論文が「原離隔と関 わり望であり,この中でブーバーは,原離隔を

「人間存在の原理」として考察している。これは,

人間が環境に対して「自己を引き離すこと」(Selb−

stdistanzierung)を意味する。ただし,この引き離 しは空間的時間的に理解されるべきではない。な ぜなら,動物も「視覚的遠近法の可能性」を利用 することができる。ブーバーは,原離隔を抽象の 過程として理解する。抽象によって人間は,環境 から,自分の住む世界をつくりあげる。世界は人 間の努力によって独立化する。その後,「綜合的直 観」(Synthetische Anschaung)において,「世界との

関係に入ること」により,人間をとりまくもの全 てが,現実まで高められる。

 「原離隔」(Urdistanzierung)と「関わりへの参 入」(das In−Beziehungtreten)とは有機的に関わり ながらも,各々独立した運動である。これらは決 して同一の出来事,ないしは経過の二つの側面で あると把えられてはならない。世界の独立化とし ての引き離しは,まさに,第二の運動,すなわち

「関わる」ことの前提である。その前提のもとに

「綜合的直観」において原離隔と関わりとの二重 運動における「人間存在の原理」が実現される。

人間はもともと歴史的にも,個体発生的にも「自 然的結合」の形態をとる。関係においてあること 自体が根源的事実である。しかしながら人間存在 の契機としてその事実は更新され,人間の根源的 な引き離しにもとづいて「自覚的結合」としてあ らわれるのである。

 しかし,「(真の)関わり」は主じないかもしれ ない。引き離しは結実せずに終わるかもしれない のである。真の関わりが生じないところでは,引 き離しによって向かい合うものの全体性が,「我一 それ関係」の中で対象化されるという事態が生じ る。この対象化が客観化である。故に,客観化と は,関わりぬきの引き離しの結果である。「人間は 離隔されたものに本質的に関わるということがな

くても,離隔することができる3しかし,「離隔と 自立化だけでもって,人間にこの直観が与えられ るのではない。離隔と自立化は,人間に世界を,

(対象として)提示するであろうが,その世界は,

任意に増すことのできる諸々の量の総計としての 対象であるにすぎず,純正な全体にして一の世界     ゆではない。」

 私は一対の弓と矢を観察する。私はそれを形象

として受け取ることができる。ゆるやかなカーブ をもった弓と,まっすぐにのびる矢として。また 私はそれを運動としても受け取ることができる。

しなる弓,きしみたわむつる,力の全てを受けて 空中を翔んでいく矢として。あるいは法則の表現

として。すなわち対立的にはたらいている諸力を 一定の均衡に保つ法則の表現として認識すること ができる。これら全ての場合においてその弓と矢 は私の対象物であり,その場所と時点,性質と状 態とを有する一個の客観である。この時,人間は それの世界に住む。そこでは,自分の都合でそれ らの特性なり性質なりを,抽出したり,組みあわ せたり,組みかえたりして自由自在に取り扱う。

この時,その形相も機構も,色彩も運動の可能性 も,ともにその弓と矢のなかに存在し,すべてが ひとつの全体性のうちに包まれているはずのその 一対の両者が,その全体性において現われること は決してない。

 ところで,客観化の現象が幾分明らかになった ところで,「自覚的原離隔」の重要性について注意 する必要がある。

 「原離隔」が,ここで「原」離隔といわれてい るのは,この「離隔」の運動こそ,とりもなおさ ず,人間を,自立的に存在する人間存在として原 初的に可能にするところの,第一の「原理」(原初)

だからである。

 人間存在の第二の「原理」である「関わり」の 運動,すなわち,離隔されてそれ自身自立的に存 在するものに対してのみ「関わる」ことができる

という「関わり」の運動は,その都度遂行される べき行為であり,その意味で個別的な行為である。

これに対し,離隔の行為は普遍的である。「原離隔」,

つまり「関わり」の前提なくしては,「関わり」は 真に実現され得ない。「原」離隔は「関わ )」のた めの可能根拠であり,その意味で「原離隔」は,

人聞存在の秩序の上から言って「関わり」よ七)も 一歩先を行くのである。

 この「原」離隔において人間の自我が芽ばえ,

人間は世界から引き離される。故に「原」離隔は

「自然的原離隔」と言えよう。しかし,人間が,

真の人間になるためには「離隔」にとどまらず,

「関わり」に参与しなくてはならない。そのため には,自立的になった世界を,さらに「引き離す」

強い意志を必要とする。この「引き離し」の運動 によって,(1)他者の根源的別異性(Anderheit)と,

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(2)自己の人間存在性(自然的欲求的必要の密着か ら離れて,我が真の我になること),とがひとつに 成立する基盤ができる。ところが,「存在するもの」

一般を,自己の欲求的必要の立場に引きつけ密着 せしめていることから,それを押し離し離放する

と言っても,人間的自己の欲求は限りなく深い。

知られないところで知られ得ないほど深いのであ る。この,強い意志をもった「自己の引き離し」

こそ人間の最大の課題ではないか。実際,ブーバ ーは,「他者が根底的に〈異なっていること〉の肯 定,私にとって受けとられ,私によって愛される

〈他なる存在〉の肯定,それはまさしく,この同 一化によって価値を喪失し,その精神において無 に帰せしめられる3コことを強調する。「人格は徹底 的に一回性なのであり,従ってすべてに対して,

〈他なっている存在〉なのであり……ここにはじ めて,損われない実存があるのである3

 「別異性」は,ブーバーにおける存在論にとっ ての原理となる。「自然的原離隔」は,世界からの 我の分理としてどの人間にも生起する必然的現象 である。その後の原離隔は,自覚的な分離であり,

自己の欲求の糸から,世界を他者として解き放そ うとする努力と勇気を必要とする。「〈原離隔〉と

く関わり〉の世界」(汝の世界)に至るために,

〈原離隔〉とく関わり〉を成立させる世界」(それ の世界)でできる第一の努力が,この「自覚的原 離隔」なのである。

 自覚的原離隔を,オイゲン・ヘリゲルの弓道修 行の中に見ることができる。

 「あなたはその矢を的に当てようなどと考えて はなりません。……あなたがあくまで執拗に,確     あ実に的に中てる為に矢の放れを習得しようと努力        あすればする程,増々〈放れ〉に成功せず,中た廿)

も遠のくでしょうd期の熟した矢の放れば「あな たのもの一切を捨てさることによって習得されま        あす3という師匠よりの助言を得たヘリゲルの,中 てようという欲望から解放された状態は,「その中 ではもはや何ら特定の事が考えられず,計算され ず,希求,願望,期待されない状態望一自覚的原        あ離隔一である。中てることに執着している時弓も 矢も,的に当てることを目的とした私の利用物に すぎない。それは主観である私の 利用 という 意図をのせた私の投影である。そこには,私とは 全く別のものである一個の全体的別異的存在とし て弓と矢があらわれることはない。しかしながら,

執着から解き放たれた時,「無心無我」になった私 と,一個の人格となり,私に向かい合うものとな った弓と矢が,「期の熟した放ち」という現象にお いて,実存的な出会いをするのである。

 以上のことから,次のようなことが言えよう。

それの世界は単数的であり,汝の世界は複数的で ある。単数的なそれの世界には「独話的な我」,す なわち,「我なき我」(主観)のみが居あわせ複数的 な汝の世界には「対話する我と他者」が居る。こ の主観に対して,他の存在はけっして向かいあう 存在ではなく,客観である。そのような他の存在 は,異なる存在ではない。主観と客観の間には,

関わりも対話も成立しない。成立するのは「計算」

である。それの世界が単数的なのは,それの世界 にはただひとづの存在,すなわち主観に退化した 我のみが存在するからである。この我は汝を欠く。

それ故不完全な我である。なぜなら,「人間は汝に おいて我となる『のであるから。一方,対話の世 界には,実在的な我と,実在的な別異性を有する 他者が現前している。

 「プレイの前,そして終了後,あるいは休息時,

主観の私は,客観であるあなたをいろいろと評価 する。あなたのフォアハンドの威力について,バ ックハンドの強烈さについて,サーブのうまさ,

つかれ具合い,センス,精神状態について。私は それの世界で,特性の多くを考える。私のパート ナーが私より上手なことを考慮しゲームの彩配を 決め,彼がサーブが得意なことから,ファースト サーブは彼が打つことに決める9敵の彼も,味方 の彼も,それの世界では特性の総和にすぎない。

そしてそこから,ゲームの「方向づけ」がなされ る。特性の総和である彼らから,必要な情報が抽 出されて立てられた作戦は,いつも,既知の「過 去」のものの投影にすぎない。ここでは,主観が その特性に応じて彼らを「取り扱う」という現象 がおきる。この場合,主観は自己と会話をするの であって,他者と対話をするのではない。自己の 投影とは,自分にとって知られているから計算可 能である。この投影においてのみ,人は「方向づ け」ができるのである。

 「しかしながら,プレイが始まると,そういっ た計算はどこかにふきとび,分離することのない 全体となって私達はプレイしていた。… ・私達は

〈現在〉の中にいる互いの存在を認め合いながら,

個々別々な人格として,相互関係の中に立ちつく

(6)

していたのである3他者の別異性を認めあう相互 関係の中で,他者はいつも未知であり,したがっ て計算は不可能である。複数的な対話の世界にお いて,他者は現存する(Presentness)未知なる他者

として存在するのである。

 ここに,囚果性と時間性の問題が生じる。これ は,3一(1),(2)において論じられる。

3.概念と現実

 人間的な現象としてのそれの世界の成立が,抽 象化で始まることはすでにみた。この抽象作用は 基本的な根本事実であり,人間存在の原理たるひ とつの運動である。ブーバーはこの抽象作用を,

具体的な状況を越え,厳密な概念性の領域へ上昇 するという,人間の内的運動として把えている。

そして諸々の概念は,現実を把握する手段ではな く,有限性から開放された存在を,思考の対象と して表現する。抽象化という方法において,具体 性は廃棄される。概念だけでは「存在との接触」

で生起するものを十分に表現することはできない。

具体的な現実との出会い(存在との接触)は,け っして観念との出会いではない。対象的に表象す る概念は,現実の経験を表現したり,または,内 容として含むには不十分である。

 概念はそれの世界の中核をなしている。それに 対して汝の世界では,実現における現前化がその 中核をなしている。

 (1)因果性(宿命と運命)

 対象的に表象する概念は定義によって成立する。

定義とは,ある概念を他の概念から区別すること である。この区別は〈因果性〉に基づいて起こる。

「それの世界は,因果律によって無制限に支配さ れている。感覚的に知覚されるあらゆる〈物理的〉

な事象も,また自己経験のうちですでに見出され ていたセ),あるいは新たに見出されるあらゆる

〈心理的〉な事象も,ここでは他の事象の必然的        ヤ ロのな原因と見なされ,結果と見なされてしまつ司  概念において具体化される普遍性は,本質的に

因果性と結びついている。私が多くの具体的現実 において,それらの現実を結びつけ,それらのす べてに共通な普遍を捜し求め認識しようと思う場 合,私はこの現実が,ひとつの共通の原因によっ て,ひとつの共通の概念のもとで成立しているこ とを前提とする。このような「それの世界におけ

る因果律の無制限な支配は,自然を科学的に秩序        ロ づけるためには基本的に重要であっても」,関わり の世界には存立しないのである。「関わりの世界に おいては,我と汝とはたがいに自由な存在として 向かい合うのであり,因果律のうちに引き入れら れてもいなければ,因果律によって染色されても いない相互作用のなかに立つのである3「自由が 保証されている人間にとっては,因果律は重圧と

はならない3「運命と自由とはたがいに誓約をか わしあっている。運命に出会うのは,ただ自由を 実現する人間だけである。……あらゆる因果を忘 却して深みから決断する人間,財も衣服も投げす

てて,裸であの汝の顔前に歩みよる人間,すなわ ち〈自由なる人間〉は,彼の自由の対偶である運 命の眼指しに出会う。……自由と運命とはたがい に抱合してひとつの意味を形成している3  「プレイの真髄は,その人の生活上の重要な目

的に向かう,功利的活動にとらわれないというこ と,及び,自由に表現し,発見し,驚き,疑問を 持つことができることである。機能性とか有効性 などから説明されるところの活動全てが,一時的 に彼の関心の域からはずれ,彼はプレイの世界に 没入する。そこでは功利主義的なにおいが消え,

未知のものへの開放性にとってかわる。冒険する こと,運に任せての賭け,不確実性を伴うこと,

緊張感 一これらはプレイの本質である。……〈意 志する〉とは,プレイ的スポーツの中での活動と いえる。なぜなら競技者は,期待とか偏見などを

       ヤ      の

含むそれの世界にわずらっ必要がないのだから司 因果律からなる俗世界の網の目に記載された多く のことがらから離れ,そのスポーツの特性に触れ ることのできるプレイ的スポーツに没頭する競技 者は〈自由なる競技者〉であり,出会いへの態度 が充実した〈意志する対話的競技者〉と言える。

運命的に〈他者〉と出会い,その出会いを通じて

〈真なる関わりの世界〉に立ち入る可能性は大き い。しかしながら,プレイそのものが,選手をコ ーチ自身の名誉のための利用物とする媒介になっ たり,「勝利が,プレイヤーの報酬の対象と化する 時,プレイの開放性は消滅する。〈意志する〉すな わち,自由に与えあうということが,〈計算と利用>

の精神を摩滅していくのである3  (2)時間性(過去と現実)

       の  概念は,「因果関係,合目的性の秩序ある体系」

としてそれの世界を包んでいる。この体系は,「諸

(7)

森  知高・若月須美子:スポーツにおける人間の存在論的研究 125

々の方向の網,時間・空間の網,原因・目的の網,

主体・客体の網望である。主観と客観は,時間と 空間から成る世界の網の中にとらわれた点として 存在する。概念は,こうした点を互いに結びつけ る線である。そして,概念の根底には,いわゆるカ ントの純粋直観の形式としての時間と空間がある。

 それの時間においては「分散」,汝の時間におい ては「永遠の現在」あるいは,存在の絶対的「集 中」といった言葉で,その各々の存在の在り方が 現わされる。「実現における現前化」と名づけると

ころの,この存在の集中は,「人間の精神の力が目 覚め,集められ,創造的となる場なのだ。なにし ろ,自分の立場の方位づけが支配する場では,抜 け目のなさで全く鼻持ちならぬ,あの狡猾な経済 が住みついているからだ。というのは,そうした 経済はただ節約するだけで,革新することがない のだ。だが,現実化がしっかり地に足をつけてい る場では,力は深みから引き出され,集められ,

       ロ活動のために動き,革新の作業を行うのだ」

 そこにおいて「現在」と「過去」の区別がなさ れる。この現在は,「現在といっても,それは,た んに思惟のうちでその時々に措定される〈これま でに経過した〉時間の末端を,つまり,見せかけ の上でだけ固定された時の経過を表示するひとつ の点のようなものではない。真実の,そして充実 した現在は,現前しているものが,出会いが,関 係が存在するかぎりにおいてのみ存在するのだ。

汝が現前するという,そのことによってのみ現在 は生ずるのである岬概念の内容は常に過去のもの である。「根元語・我一それにおける我……には過 去があるだけで現在はない。言いかえれば,人間 は自分が経験し利用している事物にのみ満足して いるかぎりは,過去のうちに生きているのであっ て,彼の瞬間は,現在なき瞬間なのだ。彼は対象 物以外の何ものをも有してはいない3対象物,す なわち,慨念でもってあらわされるものとは「持 続ではなくて静止であ1),停止(lnnehalten)であ り,中断,硬直,分立であり,関係の欠如,現在 の欠如である。実在的なるもの(Wesenheiten)は現 在のうちで生きられるが,対象なるもの(Gegens一        ゆ tどndhchkeiten)は過去のうちで生きられるのである。

 それの世界において私が思い浮かべるところの 彼,すなわち,対象物としての,あるいは概念化 された「認識される客観」としてのテニスプレイ ヤーである彼は,実在する彼と同じものではない。

客観としての彼は,角度のあるスマッシュやすば やいボレーを決めた過去の彼である。あるいは,

それらのデータから導き出される,未来の彼の仮 像としての彼である。しかしながら,「テニスのゲ ームが開始してしばらくすると,その過去も未来

も〈現在〉の中に融合されてしまうのである。あ なたが私に対して何を意味しようとも,あなたが,

この〈今>を意味していることは確かである。な ぜなら,私達の動きは互いの現実を認め合ってい るのだから。この認識から私達の意味が生じ,こ の意味から認識が生まれ出る。あなたの,私への 反応動作の中に,ボール(それはあなた自身なの だが)を打ち返すという動作の中に,それをレシ ーブする私の行為の中に,私のサイドで動いてい る味方の動きの中に,現在という瞬間が確認され る。過去も未来も,ここでは考慮される余地さえ ない。あるのは,現在における私達の関係だけな     けのであるd

 ブーバーは,「知識作用」(Orientierung)と,「実現」

(Reahsierung)を対置する。主観である人間は,時 空間の網の中で知識を得ようとする。その際の,

すなわち直観の形式の時間とは異な1)実現の時間 は,「われわれが,時間,生によって体験された時 間,と呼ぶ,神秘に満ちた素材望としての「生き られた時間」なのである。

ま と

 1.スポーツにおける主観と我

 スポーツにおける主観は,抽象作用を現実把握 の手段とする。彼は,十全的な現実から,自己の 目的達成へ向けて,経験し利用できる部分を抽出 する。そうして把握された現実の仮象(客観)は,

他なる存在でなく,自己の投影である。主観の彼 は,客観を通して自己に話しかけているにすぎな い。故に,彼は「独話的性格を持つ経験と利用の 主体」,すなわち〈独話的競技者〉と言うことがで

きる。

 これに対して,スポーツにおける我は,現実を 把握しようとすることはなく,実在的存在を全体 にして一なるものとして現前化する。彼は,彼と は異なる他者と対話を実現させ実体となる。故に 彼は「対話的性格を持つ,関わりにおける実体」,

すなわち〈対話的競技者〉と言える。

(8)

 2.スポーツにおける客観と他者

 スポーツにおける客観は,主観の目的に沿って 抽出された「特性の総和」として姿を現わす。こ の客観は,主観の投影であり,彼に把握されて彼 の一部となるので,実在とは言えない。この客観 に基づくそれの世界は,主観である独話的競技者 のみが居合わせるので,単数的な世界である。こ の世界は,彼によって計算され,方向づけられる。

 これに対して,スポーツにおける他者は,我と は「全く異なる全体にして一なるもの」として存 在する。この他者が住む汝の世界には,その他に 他者の別異性を認める対話的競技者が存在する。

ここは複数的な世界である。他者の別異性を認め 合う相互関係の中で,他者はいつも未知のもので あり,従ってこの世界には,計算も方向づけも成 立し得ない。二者の対話がおこなわれるのみである。

 なお,汝の世界を成立させるため,他者の別異 性を認めようとする努力は「自覚的原離隔」と名 づけられ,それの世界と汝の世界を,共に成立さ せる前提となる「自然的原離隔」とは区別される

ことに注意を要する。

 3.スポーツにおける概念と現実

 概念により,秩序ある体系化された確実な世界 が提出され,競技者を安心させる。しかしながら

この支配にのみ〈束縛される競技者〉は,宿命の うずに巻き込まれる。また,概念の内容は常に過 去のものである。過去のうちに生きる対象物,す なわち,自分が経験し利用している事物にのみ満 足する競技者は〈過去に生きる競技者〉と言える。

 これに対して,現実は,不確実で,持続性がな く,把握不可能であることから,競技者を不安に させる。しかしながら,対話はここでのみ成立す る。現実の中で,我と汝は互いに自由な存在であ り,因果律の支配を受けない。この自由を実現す   コる競技者,すなわち〈自由なる競技者〉のみが,

運命として汝と出会い,汝との関係に至るのであ る。この出会いと関わりが存在するところにのみ 充実した現在が在る。〈実在的な競技者〉は,現在 のうちに生きるのである。

 〔註〕

 (1)マルティンニブーバー「我と汝・対話』(田口訳   みすず書房 1978)P.86。

 (2)Kretchmar,R.Scott, Meeting the Opposition   :Buber曜s㌫Wi111 and Graoe in Spont, Quest,

  24:19−27 1975 P.23。

(3)  1})id. P.23。

(4)ブーバー Op.cit.,PP.102−103。

(5)  Ibid!P.84。

(6)  』Ibid.  P. 84。

(7)  Ibid.  PP.86−87。

(8}   Ibid.  P. 40。

(9)  Ibid. P. 6。

(ゆ マルチィン=ブーバー「哲学的人間学』(稲葉訳  みすず書房 1969)5−26に所収。

   Ibid. P.14。

   P}id. P.12。

   Ibid!P.87。

   Ibi(L P.88。

  オイゲンニヘリゲル「弓と禅」(稲富,上田訳

   lbi己 P.89。

   lbid!P.98。

  ブーバー Op.dt.,1978 P.40。

  Gerber,Ellen W., ld㎝tity,R曲tion and Sport

  仏1})id. P110。

  ブーノく一 〇p.cit.,1978 P、68。

   lbiゴP.69。

   Ibi(L P.69。

   lbid. P.70。

  温Ibid!P.71。

  Krett(:hmar,Op.cit.,1969 P.168。

   Ibid.斡P.25。

  ブーバー Op.cit.,1969 P、168。

   1})id. P.168。

   lbid. P.182。

  ブーバー Op.cit.,1978 P.19。

   lbid. PP.19−20。

   1})id. P.20。

  Gerber,Op.cit., P.111。

  ブーノく一 〇p.cit.,1969 P.181。

 共同出版 1956)P.87。

(11)

(12)

(1鋤

(14)

(1田

〔1⑤

(1の

(181

(19)

 Sport and The Body,128−132 1979P.110。

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(30)

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(34)

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(9)

森  知高・若月須美子:スポーツにおける人間の存在論的研究 127

An Ontological Study of Man in Sport

Tomotaka Mori Sumiko Wakatuki

 This paper intends an ontological analysis of man in sport.The analysis depends on Bubeゼs昌L Thou rer互tion and 1.it reration .

 The Main contents are as follow.

 1.Subj㏄t and I  2.Obj㏄t and Thou  3.Concept and Presentness

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