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PDF 21世紀に先駆ける存在としての川~野辺地川~ (青森県)

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21世紀に先駆ける存在としての川~野辺地川~ 

(青森県)   

 

 「20世紀には 日本中の川が 仮死の川となっ たのだった。」(天野礼子『川は生きているか』 

p118)日本中の川を歩き、全国の川における開発に 対して反対運動を繰り広げた天野礼子さんの言葉 である。現在、日本に生きる人々の誰もが、多かれ  少なかれそのように感じているのではないだろう か。はっきりとした現実はよくわからないものの、

何となく昔と比べて川が汚染されているのではな いかという気持ちは今や皆が共有しているもので あろう。『捨てられた川』としてのイメージが、じ わじわと重く日本を支配しつつある。 

   

私が自分の故郷、青森県野辺地町の中をめぐり流れている野辺地川に抱くイメージも、当 初はそのようなものであった。少しばかり不安を抱えつつ帰郷し、中学校以来 

長らく気に留めることのなかったその川を実際に訪れ、昔の川の様子や人とのかかわ  りを学ぶうちに、はっきりとしなかった不安感は消え、逆に思っても見なかった視野  が与えられた。 

  野辺地川は管理不十分な面や汚染が進む面も確かにある。しかしながら今も昔も人  との間に深いかかわりを持ち、愛されている川でもあり、20世紀に壊された山河回復  への取り組みへ向けて21世紀を先駆できる存在であることも確かに言える。わずかで  はあるが、確かな環境問題における前進を感じさせてくれる川だったのである。 

 

  野辺地川は青森県の下北半島に接する陸奥湾の支流の一つであり、陸奥湾に隣接す  る野辺地町の中をめぐって流れている川である。水質の状態は全体として悪化しつつ  あるが、一般基準において良好である(河川砂防課  青森の水健全化プログラム)。 

汚染度がひどい青森中心区に比べ、比較的よい水の環境が保たれ、防波堤はそびえた  つものの人の手によって完全に治められている川というイメージはない。 

  この川は、歴史を通じて人とかかわり、人を生かし、人に多くのものを与えてきた。 

古くは1961年頃に野辺地代官所が川右岸に設置され、当時青森県にあった津軽藩、南  部藩の藩境を守る要として活用された。明治新政府をめぐり勃発した野辺地戦争の際  には南部藩の拠点ともなり、維新後にはその代官所が小学校の仮校舎として改造され  た(川の伝承)。野辺地川は藩境の要所として人の交通を見守り、戦争の際には人の  砦ともなり、後には小学校のそばで子供の成長をも見守ってきたといえる。野辺地に  伝わる歴史の端々でこの川が登場してくることは、川と人とのかかわりの深さを物語  るものであろう。 

  そのかかわりは人間の日常生活面においても重要だったようである。2,30年前、 

まだ防波堤が建設されていない当時、野辺地川は現在よりも狭く、子供のよい遊び場、 

また母親たちの洗濯の場ともなっていた。洗濯するときには、皆自ずと気をつけて洗 

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剤を川に入れないようにしていたという。冬には陸奥湾を渡って白鳥がたくさん訪れ  るなど、魚はもちろんさまざまな生物の良き生息場ともなっていたようだ。その環境  は、私自身が子供だったときにも変わらずあった。洗濯をする人こそ見なかったもの  の、川原に下りて丸いきれいな石を拾い集め持ち帰ったことや、注意深く選んだ石を  水に投げて水切りを友人と競い合ったこと、川にズボンをたくし上げて膝まで水につ  かり友人や兄弟と遊んだことははっきりと覚えているし、川に時々落ちていたゴミは  遊ぶたびに一箇所に集めて捨て直した思い出がある。夏休みの自由研究でも研究題材  として魚を川で捕らえ、ずぶぬれになりながらも取った魚を見て喜んだ。川で遊ぶと  いうことには特別な言いようのない魅力があった。川の水に触れると不思議な興奮が  湧き上がり、もっともっと水に触れたいという思いを抑えきれず、最後には服をぬら  して膝小僧まで川に埋め、はしゃぐのを止められない。それは私だけではなく、全て  の子供にとって共通の感覚だった。川に来ている子供を見かけることは少なからずあっ  た。彼らも私と同じく川の流れを肌で感じて思う存分楽しんでいたのではないだろう  か。水の間を流れてくるゴミを拾うのは、私たち子供にとって正義感でも道徳感でも  なんでもなく、ただ自然にしていたことだった。子供ながらにも、川に対する無意識  のうちの友情や尊敬が生まれていたに違いない。川に日常生活の多くを負っていた昔  の人々はもちろんのこと、少し前の子供のころの私や私の父母兄弟のように、皆川に  対しては愛情をもって接してきた。野辺地川は人、白鳥、魚など、多くの生物に昔か  ら愛されてきたのである。 

  今現在、野辺地川はどんな姿をしているのか。心中不安を抱えながら帰郷した私は、 

雪のぽつぽつと降りしきる中、川にぽつぽつ浮かんでいる白鳥の姿を見てほっとした。 

白鳥の姿は昔より少なくなったが、それでもその光景は安心感を与えた。子供のころ  遊んだ川原は少なくとも傍目には変わらず透き通った水が流れており、岸辺に降り積  もった雪が川原のゴミを覆い隠している分、昔と変わらない水環境に思えた。川のそ  ばに立って水の音を聞いていると、気持ちが自然と安らかになり癒されるような思い  がした。少なくとも外見からは、野辺地川は『生きている川』として私の目には映っ  た。目に見えるような汚染や被害がないのは、この川が今でも町民に愛されていると  いうことの証拠である。 

  現在の水環境が悪化してはいるものの良好な状態を保っているのは、地域の人々の  川への関心と具体的な運動の推進が大きく貢献している。『青森の水健全化プログラ  ム』が設置され、その運動の一環として現在では『野辺地川源流の地』とかかれた標  柱が野辺地川上流域に掲げられている(標柱  『野辺地川源流の地』の建立)。そこ  を訪れた地域の人々に、川の源を再認識してもらうためだ。このプログラムにおいて  は、実際に行政や事業者に対して水質汚濁規制の設置や下水処理水などの再利用を働  きかけることはもちろん、地域の人それぞれの川への意識を深めることを重要視して  いる。環境教育の導入、また環境保全のための川のゴミ拾いなど川の現状を知る機会  を増やし、医療福祉にも水辺でのリハビリテーションを提案するなど、積極的に地域  の人々に川を再認識させ、いい川作りに貢献してもらおうという狙いである(河川防  課  青森の水健全化プログラム)。ここには、人々の川への深い思い、川を支えよう  という姿勢、そして確かに環境問題へ向けての大きな前進が見て取れる。 

  野辺地川は、21世紀において取り組みが始まった全国の川を保全する運動の励みと  なる存在、それに先駆けてこうあるべきであるという川の姿を体現した川であると言 

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える。私の願いは、野辺地川がいつまでも人に愛される川、人を生かす川、そして『 

生きている川』であってほしいということである。また、川と触れ合う喜び、そして  川が人間にとってもそのほかの生物にとってもどれだけ大切であるかということを、 

人類に語り続ける存在であってほしい。そして確かに、野辺地川はその願いを託して  足る川であると言えるだろう。 

   

参考文献   

1.天野礼子 (1998). 川は生きているか. 東京都: 岩波書店   

2.河川砂防課, (2007  4月). 青森の水健全化プログラム~いい水いい人いい青森  水と 人の循環社会~. 2008  1月10日に参照, 「いい青森の滴」より Website: 

http://www.suteki-aomori.com/pdf/program.pdf#page=4   

3.川の伝承 野辺地町. 2008  1月  10日に参照, 「川の伝承  などわの川の散歩道」よ り 

Website:http://www.infoaomori.ne.jp/˜teruis22/aomori%20no%20kawa/kawadenn%200/ka mikita%20gunn%20.htm#noheji%20mati 

 

4.標柱「野辺地川源流の地」の建立.  2008  1月  10日に参照,「ピュアドロップあおも り」より Web site: http://www.suteki-aomori.com/iiaomori̲aisurukai1.html 

   

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