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繍文灘 懸論織
地場産業振興と行政の役割
一福島県上川崎和紙産地と山形県新庄亀綾織を事例として一
物 沢 敏 生
葉.はじめに
地場産業は全瞬各地に様々な産地を形成し,生産を 進めている.各産地はそれぞれ,その地域の歴史的背 景などの影響を受けながら,地域的生産捧系を形成し ている。そのため,地場産業に関する稀究はこれまで にも多く蓄積されているが,その多くは産地の生産構 造分析が中心テーマとして設定されている。このよう な醗究勇縫華に対し,須灘(2§総〉は規凝緩趣による 競争の激化とバブル経済崩壊後の長難不況により地方 自立の担い幸としての地場産業という期待が潰え去っ た現在,繊土・コミュニティ・家族・騒人などの観点 から醗究を進めていくことが必要であることを指摘し
ている。
この観点からの講究が最も蓄積されているのは陶磁 器業に関してである.宮鱗(欝96〉は砥部焼が罠芸 産地化した経緯を分新,濱霞(稽§8/は小石原焼の 産地形成を民芸運甥から論じた。また.初沢は産地の 存続機能を技衛伝承醸から分析を進め,工業試験場な どの行政の果たす役割の重要雛iについて明らかにした
(初沢:2§総;2G§5詑§総/。この飽の産業については,
須由(ig9窃 による井波彫亥彗業,宮絹(ig991 2§§2;2§§3/による穂菓子『£芸,出中漆器,樺綴工 の醗究,湯沢(鱒醗12§02〉による結城紬の織手の
ライフヒストリー分析からの鱗究などがある。
近年は多くの地域で地場産業の持つ文化的撫面が注 目され,地域アイデンティティの形成などを目的とし て,その振興が図られてきている、これにあたっては,
多くの地域で行政が中心的な役割を果たしているが,
その成果と課題については十分な検討が癒えられてい
ない.
そこで本小論においては福島県二本松毒(縫安達
町〉の一L瞬麟種紙と,山形県新庄毒の亀綾織を事鰹と して.伝統工芸の伝承に待政が果たす役割について検
討を至難える。
2.上辮麟釈紙の伝承に行政の果たす役割
2一董 艮琵春蚕葺究の整理
紙は欝羅必需品の一つであり,a々大量に消費され ている.この傾向は賎に近糧難から顕著なものになっ ており,各藩はその財政上の必要性からも綴紐製造業 の保護・育成に努めた。このため各地に種紙産地が形 成されたが,明治鱗に入ると紙消費量が急激に増撫す る一方で洋紙製造工場も急増,各地の穣紙産地はその 生産構造を大きく転換させた。そのため,穣紙産地に 関する醗究は多い。
辻本(欝78/は,明治期の美濃産地において生産 力を高めるために,全羅から嚢質で安慰な原料を集め たことが美濃紙の全匡掃f場を確立する基盤になったこ と,それが懸屋・商人によって統括される産地構造を 形成したことを明らかにした。また,藤津(ig6窃は,
土佐和紙業を事纒に明治維新後の動陶をマニュファク チュア化と機械化に注馨しながら分析し,商人資本に よる支醗とその変他が産業の発展を麟約したことを示 した。この飽,鈴木縫965)は,越醜産地を鱗にそ の労饒力構造が極端なまでに家族労働に依存し低賃金 であること,それが家族多就業形態をもたらしている ことを明らかにし,小満(ig5傷は,高野産地を1舞 に封建ブロック経済の解体など外部経済が変免しても 穣紙業が農業に従霧していることを購らかにした。
このように多くの報紙産地は明治期に構造転換を行 いながら新しい生産体麟を形成していった。しかし,
第二次雛界大戦にともなう生産統麟は,このような生 産構造を破壊,洋紙工業の発展や産業構造の転換とあ
一3§一
(582尋1 織農大学地域舞造 筆路巻 第2弩 欝欝、2
いまって,産地の存立基盤を大きくゆるがした.
このような状溌に関して,会縷(ig8毒/は,新潟 察の動条・小国産地を擁に,L条産地は灘稼ぎによる 労働力の減少が,小国産地では鰭の桑への転換による 原料不足が産地衰退の要霞となっていること,安田
(欝78)は,美濃産地を1多彗に、拶造紙種の地域的專業 化,製贔の高度化が進む一方で,周辺地域の工業化の 進展にともない労働力の面から産地の存立基盤が崩れ てきていることを明らかにした.また,次幽(欝62/
は.統計分析から東北地方の紙産地の衰退が機械製紙 との競合のためではなく生活様式の変fヒにともなう障 子紙需要の減少にあることを霧らかにした上で,高給 産地を事溺に需要の減少にともなって零纒規模縷の生 産業蓄から消滅していっていることを示した.
このように,稲紙産業は特に高度成長期以降衰退し てきているが,産地が存続することの意義は現在にお いても決して小さくない。高郷(2§巷5/は.、圭二佐産 地を綴に種紙産業は産業それ自体は衰退しているもの の地域社会の灘からはアイデンティティ形成のために 伝統産業が求められていることを示し,また,小林
(ig96/は,兵庫県旗美町を事纒に,行政が中心になっ て失われた紙づくりの復元と生産の維持を,町おこし と結びつけて行っていることを紹介している。地域づ くりの面において,伝統産業の存在は依然として大き な意味を持っているのである。
2−2 上欝麟灘紙産地の機要 一歴史飽推移を中心に一 、1灘1鰭稲紙は二本松市安達地域の北東趨,上編綺地 区の地場産業として発展してきた。L瞬輪地区は東部 を縁武隈鱗が流れ,標高鎗○〜鐙G騰の丘陵の上に集 落が分毒している。
L灘麟産地に関しては,次出廷g5窃がその構造 転換について報告している。以下.次出の論考に沿っ て一と醗麟由地の歴史的推移を紹介することにしたい。
L絹織産地はそこを領有していた二本松藩の保護に よって発展したが,その一一方で製贔が障子紙に限定さ れていたことや,形状が二1二本松領内の規格に締綱され るなどの麟約も受け,広い市場を持つ産地に成長する ことができなかった.しかし,鱗治簿1に入ると秘紙産 業が遍羅人口を暇暇する役離を果たし,村内分家によ る生産農家の拡大が進んだ。また,仲買人も積極的に 活動し,販路の拡大と製品の多様秘も進んだ。
これにともなって原料の緒皮が不足,幅島県内の県 北・県葎1地方から零多入され,近隣の町である飯野・ノ罫 浜・安達などに市場が形成された。これにともなって
市場宿業が原料闘渥兼紙悶渥的性格を持つものに変 化,生産・流通を続撫した。このような商業資本の成 長は産地の生産拡大に寄与したが,その一方で簸蕗拡 大のために生産原懸の崩き下げが要求され,故紙や 藁,後にはパルプなどが混入されて,その贔質は低下
した。このような生産構造の転換によって上辮麟産地 は急速に成長したが,戦後になるとパルプの混入率の 高いことが機械漉き紙との競合を発生させ,産地を急 激に縮小させることになった
本小譲で取り、しげる欝鱒年代初めには紙漉き農家 は6薪にまで減少しており,後継者もなく,産地はま さに消滅寸麟の状態であった.}雛寺の産地の状溌を機 観しておこう.
筆者が欝鱗年に行ったヒや蕃ナング講査の際,上瞬 崎地区には6軒の紙漉き農家が存在していた。しかし,
一定程度の生産力を持っていた6)はこのうちi軒だけ で,飽の農家の生産力は小さなものにすぎなかった。
原料は椿皮を中心としていたが,それだけではコスト がかかるために農家によっては輸入パルプを混入する
こともあり,品質面では必ずしも良質のものばかりで はなかった。これが…ヒ瞬蜻産地の発展を醗害する大き な要因の…つであった。また,かつての仲買等,流通 を担う業者がいなくなったことから流通機能も弱体化 した。出荷先は東覇本金1域に広がるものの、ほとんど は綴人取引であった.製品は障子紙が減少して書道・
水墨麹の屠紙や織物羅療料などが現われてきている。
しかし,纏の種紙産地に轟荷された後に二[芸贔に毒霧二亙 され,その産地の製贔として簸売されるものなどもあ り,産地内での撫工や醤撫懸績の鶴、しが課題となっ
た。
2−3 行政による支援
このように緋ll鋳報紙は急速に衰退したが,ig8§
年代までは地方自治体等による支援はほとんどなされ てこなかった,、これは地域の穣紙産業について,その 重要性が認識されていなかったためである.安達瞬
(鷺時,以下略/が稲紙産業の支援に乗り申したのは,
ようやく姫飯年になってからだった。
当時,穏紙産業は高齢化が進み,後継者もいない状 態だった.そこで,安達瞬は地元にと絹麟穣紙振興維 舎を緩織し,補勘金を責畠して原料や道具の確保 整 繕を進めた。ここで特に力を入れたのが原料となる稽 の作付面積の拡大である。補鋤金は年間欝9万響で,
19髄年から穣紙伝承館が建設される鱒蟹年まで続け られた。この後,欝93年にL絹織報紙は福島県の重
一鱒一
地場産業振興と鴛敢の役舗 一篠轟舞11罐麟穣紙産地と繰形察籍痩亀綾織を事擁として一 (5825)
要無形文化繋重に指定された。
ig§5年,福島県で国体が闘催されるにあたり,そ の表彰状に福爵県産の穣紙が縫われることになった。
しかし、当時,福島曝による上陽蜻蔭地を除けば,い わき毒上遠野に紙漉き農家がi軒残っていただけで,
しかもその生産力は小さかった。(この後,欝96年に 欝達毒(灘梁幽瞬/良1舟生地区で公民館活嚢を核とし て懸絶していた穣紙づくりが復活された。,)そのため,
紅鰯麟産地に瞬麺で綾絹されるすべての賞状の生産が 依頼されることになったのである。と鰐綺産地では約
3年間,すべての紙漉き農家が鵜力して生産にあたり,
この需要に対応した。これによってt鱗鶴報紙の無名 度と詳懸は一気に高まった。この後,欝97年には上 綴織穣紙が県の伝統的工芸品に指定されている。しか し,このような「特需」だけでは十分な需要を継続的 に確保するとができず,後継者育成1二も結びつかな かった。このため,安達瞬は穣紙の振興と後継者育成 を肖的とする報紙伝承館の建設を決定した。
欝97年,建設省(圭1舞鶴が安達瞬内の瞬道4弩線 沿いに遵の駅を建設した,、当時,欝では上綴織地区に 穣紙伝承館を建設することを検討していた。しかし,
幹線道路からはずれていては十分な集客が見込めない こと,また道の駅への集客を増やすことも求められて いたこともあって,伝承館を道の駅内に建設すること になった。
報紙伝承館は地場産業の振興施設としての位置づけ で,農林水産省の補鋤を受けて建設された。伝統産業 の振興を通じて農村の活性髭と観光への波及効果をも たらすことが鱗待されている。総事業費は約i憶3千 万円で,うち6千万胃が濁庫補助.銘§万円が察補助,
残りが安達瞬の一般財源から支畠された。管理・運営 主体は第3セクターの繍安達欝振興公社で.安達瞬,
安達瞬商工会,JAにほんまつが猷資した。オープン は2§綴年4月23欝だった.施設は木造平屋建てで 頃8.5㎡,稀紙漉き体験室,報紙漉き作業室,1量二芸醗 修室,筏聴覚コーナー,展示叛売コーナーなどから構 成されており,常勤職曇3名と常嚢振導員(報紙漉き などを担当,パート職員報い/3名によって運営され ている。業務内容は報紙漉き体験・民芸贔製作体験の 指導,報紙漉き,民芸品製作・販売,新商贔の企藤・
聡発などであるが,2§艇年より諸嬢・トロロアオイ 爆の管理も行っている。(ただし.民芸品製作鉢験は 後述の「わがみ会」へ委託している。/
第嘩表穣紙伝承館の稗驚客数と売上高
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穂紙漉き体験 繊講難纏劇 雛 i合…諸
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メ、 1至親人i 1讐 11i
2鰻年嚢 玉.3簿 7墾,暮紛 鰻 3ア?,鵬袴.鍛
繰瞬灘劇
1麗纏2・2§i 董.彗輯.欝 蝦 2雛,購 尋.警731
IS.差焉、?き8 §、323,鰹1
猟矧2、董軽 墾2,3蓉毒 劇2§羅[7編 8鰯,2緯書.歪懸1
2纏年褻i i.鰍 …
憾2.5灘 鍛12§董・齢・鰹21 {刀D2玉5,33毅§、3鍵,§鰭
1齢2鰍年嵐謎雛膿よ畜3。癬獣安響藪興公事1資織こよる・
開館以降の売上高等を第i表に示した。積極的な営 業活動などもあ青り,年間約i千万轡程度の売り、しげを 維持している,、しかし,これだけでは経費をまかなう ことができず,年瞬5§暮〜簿§万轡の赤字が発生して いる。この赤字分は安達欝より管理委託料として補填 されてきた。(これにともない,報紙振興続合へ支鐵 されていた補励金は廃艦された。/現在,報紙伝承館 では周辺の土産物癌等に製酪を籍したり,卒業証書を 種紙で作ることの営業活動なども進めている。既に羅 安達瞬内の小中学校の卒業証書はすべてL購麟報紙で 製作されている。また、この飽の各種賞状等の生産も 進めている。しかし,賞状類はi枚あたりのコストが 約尋5§円かかるヒに馨麟代もかさむため,普及は容易 ではない.賞状類の年瞬発、と高はすべての種類を合計 しても鎗万円程度にすぎない。小中学校縫墨けの総合 的な学習の時潤などを活欝した体験活動なども行って いるが,これも頭打ちの状況である。運営を採算ベー スに乗せるグ)は,現状ではきわめて困難であると誘え
よう。
しかし,技衛伝承面では隷紙伝承館の持つ意味は非 常に大きい。伝承館建設時,墨1瞬麟産地の紙漉き農家 は2軽にまで減少しており,後継者もなく,その披講 伝承は途絶寸蔚の状濁だった。そのため,伝承館建設 時にはかつて紙漉きをしていた農家の経験者を2人指 導曇として雇い,穣紙の生産と体験指導にあたった。
しかし,長い闘経験が途絶えていたことに換え,穣紙 は家族内分業体麟によって生産されていたため,経験 者といえどもすべての工程の技饒を持っていたわけで はなかった。そのため,当初は現在も紙漉きを行って いる農家に醗修に行き,各種の技籠の習得にあたっ た。技衛伝承が途絶する麟に,このような彫で技能を 受け継ぐことができた意義は非常に大きい。これに よって,駈辮鰭産地の技能を伝承することが醒能に なったのである。
凝様の動きは原料蔀門においても晃られる。当補,
格等の原料は紙漉きを続けている農家から購入してい
一駐一
(5826) 爆轟大学地域麟進 第憾巻 第2馨 臆§7、2
た。しかし,それでは原料栽培薬穆の技爾伝承が途絶 えてしまうおそれがあることから,2G経年よ1り農家 から椿耀などを潜り,椿とトロロアオイの栽培に着参
した.現在,これらを栽培している農地は2§農,こ の飽,栽培を敏託して楮枝6)状態で購入している農家 がi5農ある.権懸の管理などについても,紙漉き農 家の揚導を受けながら行っている。積の栽培・収穫な
どは年に玉繕しか経験できないため,その技能の習得 には時濁がかかる。この点からも,{云承館がこのタイ
ミングで建設されたことは幸運であった.
しかし,開館時に雇醸した指導農は正銑ζこ叙}代{憂半 であり,苦い縫代への披講伝承が急務の課題となって いた.産地内には匿に後継者はなく,外部からの参入 も期待できない状溌である。その最大の理歯は,製品 を生産しても流通ルートを確保でないことである。上 灘麟産地の周辺に大都溝などの需要兜がなく,蔚述の ように製品の贔質も必ずしも高いわけではない.また,
£芸贔の生産なども行われていなかった。そのため,
埼玉県の小躍産地のような形の発展も鱗待できず,仲 買人などがいなくなった後は懸人取引に頼らざるを欝 ず,十分な流通ルートを確保することができなかっ た.このことが一塾瞬麟種紙の産業としての発展を阻害
し,後継者をなくしたのである.
このため,伝承館では独峯竃こ後継者を育成すること とし,2§総年欝月に後継者候補者をパート職曼とし て採濡した。技徳習得後に駕幾職員とする契約であ る。後継者躾補者は特に技衛を持っていることを求め ず,騨内在往者から公募した、、
後継者躾補者へのヒア》ングによると,技徳習得に はいくつかの癒で難しさがあるとのことである。その
一一ツは,躾補者のそれまでの生活経験の中で報紙漉き が存在していなかったため,一つ一一つの作業の持つ意 味が理解できなかったことである.饑えば,道具を洗 う際にもその道具をどのくらい洗わなければいけない のか,それがなぜなのかが初めのうちは理解できな かった。かつての縫弟麟痩の時代とは教え方が違うの は理解できるが,最終的には技はF盗む」しかない,、
濤来,自分が教える灘に曇ったとしても教え方は瞬じ だろうとのことである,
また,伝承館での技衛伝承そのものにも麟約要鑓が ある。秘紙漉きの技能は自分の身体で覚えるしかな
く,それをするためには毎暮漉いていることが効果的 である。しかし,伝承館では生産と販売の双方を行っ ているため,生産にあたっては常に在庫を考えていか なければならない。そのため毎馨紙を漉くわけにはい
かず,結果として技能習得に暗闘がかかる。
このように,伝承館における技能習得にはいくつか の課題があるものの,現在の段階では比較的有効に機 能しており,今後.それをさらに拡大していくことが 鱗待される。伝承館は離逮のように6名で運営されて いるが,椿嬢1の管理や椿綾!の処理をしなければならな い時期には労働力は大麟に不足する。伝承館の運営を 安定させるためにも後継者の増撫が必要であると考え
る。
穣紙伝承館が)機能としてもう……つ淺目しなければな らないのが工芸品の生産である。上郷麟産地において は,もともと稽紙工芸品は生産されていなかったが,
前述のように1二1継妻産地から鐵萄された紙が飽産地で 豆二芸贔に籏工されるようなこともあり,付撫纒績を高 めるための工芸贔の麗発が求められていた。この嚆矢 となったのが「しおξ)の会」のを震動である。「しおり の会」は安達瞬婦人会連絡鶴議会を母体とするもの で,ふるさと創生事業にともなう補勘を契機として,
公疑館で、ヒ燐麟穏紙を綾霧したしおりを製作した。こ の製品が葬常に好評で,鴎をPRするための手みやげ 薦に活濡された。この酒甦以降,主婦麟を中心として 稲紙一工芸品を作ろうという気運が高まり,「わがみ会」
の結成へとつながつた。
安達醗では欝97〜99年に澱東藤本財繕よ鯵地域文 化振興のための補勘金を受けた。この補鋤金は後継者 育成,難路器擁,新海景雛発などを藝的としたもので、
6名が参撫して穣紙{芸品づくりのための醗修会を実 施した、、このメンバーが核となって結成されたのが
「わがみ会」である。蟻窪時はまだ穣紙伝承館が建設さ れていなかったため,隣接する二本松市にある「安 達ヶ原ふるさと村」において物贔簸売と穣紙工芸贔の 製作体験を開始した。これは現在も継続しているが,
現在では伝承館へも販売霧の報紙工芸品を締したり,
メンバーの一部が伝承館で工芸品の製作にあたるなど
している。
また,この勉に伝承館の職嚢も斑の醗修を受けて至二 芸品の製作にあたっている。
以.L,検討を換えたように,秘紙転承館の建設によ りi穣紙製造に関する技徳・技能が伝承されたことに耀 え,興毒謬慕の拡大,報紙濃iき体験などの1拡大,工芸品の 開発,一k綴麟報紙のPRなどの各面で大きな成果があ げられた、,しかし,これらの実施にあたっては行政が 大きな役麟を果たしており,その動陶に左右される璽 能牲がある.安達町と一1本松議との合併は,これを現 実のものとした。
一塵2一
地場産業振興と蕎酸の投麟 一懲羅察暮1睡毒穣紙産地と出形緊新建亀綾織を事綱として一 (58271
「平成の大合併」により,2§総年稔目糞ヨ,安達欝 は岩{驚瞬,榮!騨難}とともに, 二本松毒に合併した。合 群鋳の取り決めによ1り,安達瞬振興公縫は従来のまま の形で存続することとなった。、二二本松毒にとってもし 鱗縛穣紙は重要な観光資源の一一つであり,その韓熱熱ま 大1きいと考えられる。 しかし,鹸述のように近接する 安達ヶ原ふるさと轡において「わがみの全盛が民芸贔 づくりを行っており.溝施設の機饒に垂複が発生して いる。安達ヶ原ふるさと村も二本松毒が管理する施設 であり,将来的には各施設の持つ機能の整躍も必要と なるのではないだろうか、,
合併によって行鼓琶域が広域化すると,「地域産業」
に対する意識にも温度差が生じざるを得ない。しかし,
豊1瞬麟穣紙は長い伝統を持つこの地域独特の産業であ り,その文化的纒纏は大きい。ここ十数年にわたる振 興4)ための勢力を無にしないためにも,今後も,これ を発展させるための各種施策が充実することを鱗縛し
たい。
3.新庄亀綾織復興の社会的基盤
3一華 概究視点の設定
稀紙産業以外にも,鴛政が中心となって振興を図っ ている事纒は多数存在する.ここでは歯形県新庄羨の 新庄亀綾織を事鰹として,行政が産業振興に果たした 役離と,それを支えた社会的基盤について検誹を綴え
る,、
織物業はlll本グ)資本餐義形成の基盤を成した産業で あり,これまでにも多くの覇究が蓄積されてきた。特 に産地の生産構造分析に臠する醗究が多い(辻本:
i鱒5,ヒ野:ig73,関:ig8尋;ig85,迂本ほか:
欝89など〉.また,地域外の流通資本などが産地内の 生産構造に与える影響や(蕎野ほか:欝72,合爵ほか:
i鰍,竹羅:窟6,初沢:麗7;鵬8/,産地の生 産構造に大きな影響を与えるアパレルメーカーや ファヅションデザイン業の特性の分析,S費Aを展露 するブティックなどに臠する検討(初沢:ig93;
ig98;20§2/なども饑えられている』れらの講究 はいずれも産業面に重点が置かれたもので,暴土やコ ミュニティに焦点をあてたものは,先に紹介した湯沢
(2§艇,2§§2/など少数にとどまっている。今後はコ ミュニティなどに露点を置いた事鰹講究を積み重ねる 必要がある。それにあたっては,技衛的な課題の解決 のみならず,それを衰える被会的基盤に関する検討も 簾えなければならない、
そこで,本小論では,江戸時代に発展しながらも大 斑末に途絶した新庄亀綾織が近年復興されるにあたっ て,行政がどのような支援を行ったのか,また,どの ような社会的基盤がこれを支えてきたのかを明らかに することを濤的とする。亀綾織を事擁として取りしげ たのは,初沢(20§3/において撤したように,一段 途絶した産業を復活するにあた )ては,その産業を支
える技慈量的i基盤・社会的基盤を明嚢豪にとらえることが できると考えたためである。
鉄筆、亀綾織の歴史と特徴をとらえた.1二で検討を換
える、、
3−2 亀綾織の歴史
亀綾織の歴史に関しては,小難鵡/欝36/と瞬圭 庁護圭醸講整縁・幽形県企麟調整都(欝82)に基づき 紹介する。
亀綾織は新庄藩二二代藩室戸澤距誠公の時代に誕生し たものと考えられている.灘時の記録に「奉公人橿撲 取父は紗綾輪子等串候女まで、ヒ方より多数被抱云々」
(新庄藩古老覚書/という記述があり,京葉から織女 を弼し抱えたことがわかる。文政・天保年闘縫8至8
〜露姦4/に入ると,藩の財政が鱗難にな一)てきたこ とから,館林・構生・控野より織麟を招き,織物を奨 励した.弘化年闘(i8騒〜鰺48/には藩童の婦女子 が織獅を織り,それを江戸藩邸を通じて簸売していた。
奪難治にはいると,i87{}年に授産所が設置され,1露 藩士・簿疑の子女に機織りを習得させた。授産湧が i885年に融1諮れた後もいくつか6)鰯人経営の産業 場で生産がおこわれていたが,大正の祷め頃までに
は,これもなくなっていった。
亀綾織が衰退した理濃としては,⑤織りヒげた製品 を各々栗東在住の知己に簸売するなど潤羅が育たず流 通膨一トが確保できなかったこと,②中心となって企 業化を進める人物がいなかったこと,③白絹ばかりで 饒1工されていなかったこと.⑤機械化の講究がされな かったこと,⑤織鞠税の課税,などが指摘されている。
この特産品の衰微を惜しみ,欝慧年,大竹スエ氏 が新庄町神明響機場を作り電i勤織機による織布を醗嬉 したが,妓籍の機械{ヒ桝講難でコス←認こなり,
欝26年に閉鎖した。その後,鰺鍍年に渋江トキノ氏,
欝鰯年に福井吉之勝氏が再興を試みたがいずれも失 敗し,新庄亀綾織は「幻の織物1となっていた。
3−3 亀綾織の特徹
次に,亀綾織の特徴について瞬t庁計薩調整聡壕童1
一尊3一一
(5828/ 篠轟大学地域創造 筆路巻 第2弩 鱒§7.2
形県企薦調整部(ig82)に基づき紹介する。
通商産業省繊維局監修の繊維辞典によれば,「賦亀纏持 とは絹織鞠の一種で,緯糸を強く打ち込んで紗綾(サ ヤ/形の綾を現した生織物。織、1二後糊落としをして精 錬する」,また,淡交投の原色染髪辞典には,「天壌年 闘(欝雛〜驚8瞬以来,西陣で織り始めた絹の綾織 物を癬女綾(亀綾〉と称した」とされている。
端布の分析結果などによれば,緯糸・経糸ともに3 本隊しの績み合わせによってできてお鯵,中には数十 本の糸の緩み合わせによって綾が作られているものも あることが醗らかになった,、極めて高度な織物であっ たと言える.
さらに,新庄亀綾織の特徴として無撚翰の生糸が綾 購されていたことも指摘できる。これは後練り織麹と も呼ばれ,絹糸に付善している膠質分をつけたまま製 織し,織物になってから精錬して膠質分を除去する。
この方法によって独特な縁合いと光沢をもった織物が 生産できるが,嚢生地しか生産できないという欠点も ある。これを補うために最盛難には論数種類の綾織 りが生産されたが,瞬一素材のまま表面の績織差だけ を追求したことが商贔の差響彗化を瞬難にし.商贔力を 紙下させることになった。また,複雑な綾を多種類生 み幽したことによって機械化も困難になり,手織りに 頼らざるを得なかった。これが生産性の低下とコスト 高を誘発し,亀綾織を衰退させる原纒にもなったび)で
ある。
現在においては,亀綾織の機械{ヒは技衛的には可能 である。しかし,新庄においては「文化の伝承」が重 縄されていることに換え,量産しても十分な販路渉確 保できないことから,生産は手織りに限定されてい
る。
3−4 亀綾織復興に各組織が果たした役割
以下においては,亀綾織の復興にあたって各績織が 果たした役割を検討することを通し,産業の復興には どのような社会的基盤が必要であるか,また,それに はどのような課題があるのかを検討することにした
い。
① 国土庁のモデル定住圏地域特産品雛発事業 亀綾織復興の契機となったのが婚叙年度に実施さ れたこの事業である。第三次全麟総合開発計嚢に基づ き,新庄毒を中心とするi毒4町3村(新庄市,舟形 町,最、1灘f,金建峯響,真室瞬欝,鮫緋材,戸沢村,大 蔵村〉が「暴動モデル定住圏」に指定された。モデル
定住鐵は文色圏を基に萩たな生活圏を策定し,ハード 藤も含めて懸域としての整備を進めていくことを醤的 としている。地域特産贔開発事業はこの一環とて地域 の失われた産業を復興し,地域住民に醗発への意欲と 霞覚を促すことを霞指したものである。
この事業は残存の産業の振興を籔るのではなく.地 域文建の掘り起こしとその産業化を慕指すことに特籔 がある。そのため,各地域で現在ではなくなってし まった逝去の産物の掘り起こしが進められた。籍庄醇 では亀綾織と絵羽寺厭が繰補にあげられたが,陰曙寺 燃は印麟する模様の蔽権を縄入が保有していることが ネックとな1り,亀綾織が事業対象に指定された。麟の 補助を受けたものの,事業の実施主体は新庄市であっ
た.
事業では,①復元(復元試作・商贔化検討・蕎贔試
{偏試作晶の検討・販売方法の検討〉,②工業化試験(工 業化母体の選定,披講者養成、生産謙醸・設備計麟の 策定,旛工委託の講整,販売計画の検討,生産,総合 評働,③、薫業建,の段隣を踏み,最終的に産業飽す ることが購待されていた。しかし,現実には現在にお いても工業化が成功したとは誘い難い状溌である。
この理感としては,本来段購的に進めるべき①復元 事業と②工業化試験が瞬時藁蕎的に進められたこと,
また,②工業化試験の段躇での亀綾織の生産を支える 社会的基盤の綴織化に課題があったことが指摘でき る。以下,ヒヤリング調査に基づき,これらについて 鹸討を進める。
②出形察工業技術センター置購試験場による織霧の 復元と技衛指導
亀綾織復元のための技徳的な課題の解決について握 懸したのが露形曝工業技衛センター置購試験場であ る、、亀綾織は途絶してから半鍵紀蟹玉二が経過し,その 生産技衛も織機も失われていた。しかし,新庄市立籔 書館に綾織の織鯵方に関する文書が残されていたた め,工業技衛センターがそれと端馨の分析から復元を
進めた。
技衛の完全な復元には約4年を要し,復元晶の試作 に成功したのは欝85年頃のことだった。綾織舞は新 庄産地に特有のものではなく,その披講そのものは各 地に存在しているが,ここでは明治鱗までに行われて いた文様の復活に重点が置かれた。文献資料において は文様の名繭のみが伝承されており,それがどのよう な文様なのかは明らかではなかった。これを端布など の分析を通して復元し.最盛期に総種類あったと伝
一尋4一
鍵三場産業雛菱興と蕎酸の役割 一権妻驚県髭蟻綺羅紙産地と縫韮葺≠1瑛籍睦三亀綾織を事1礪として一 〔582§1
えられている文様のうちの2§数種類までの復元に成 功した。これによを)失われた技衛を後墜に伝承するこ
とが可籠になったが,この段階で羅に■業化試験に関 する事業が進められていた。すなわち,復元が可饒で あるか不明の蓑隻購で,既に工業化を擬野に入れた事業 が進められていたのである。技衛者養成に時懸がかか ることなどを灘察しても,雛速な事業展開であったと 言えよう。この段蔭で製贔特性や生産体麟,繭贔建,
流通構造などを正確に灘握できなかったことが,その 後の事業展灘に大きな影響を与えたと考えられる。
工業技衛センターは妓籍の復元だけでなく.実際に 製織する者の妓籍指導にもあたり,技衛面での復元に 大きな役割を果たした。繊形県工業技衛センターは各 地縫に試験場を醍潰しているが,織物関係については 米沢織鞠産地を擁する置賜試験場が全県を管轄してい る。鷺初,米沢の山形察立高等披講専門学校(現在は 廃建/に織鞠の技徳醗修コースがあったため,そこで 亀綾織の講修も行う予定だった。しかし,③で遠べる ように講修希望考のほとんどが主婦であったため,米 沢での碕修は不擁縫になった。そのため,置賜試験場 の技麟が遷i黙新庄まで畠張し、披講捲導にあたっ た。これは試験場にとっても大きな負担だったが.こ れがなければ亀綾織の技衛伝承は不響能だった。二£業 報捧蕎センター置賜試験場は,亀綾織復元の中心的な役 離を果たしたのである。
なお,出形県内には長井産地などにも綾織鞠を生産 している機渥があり,新庄亀綾織復元にあたっての講 究成果はそれらの披講指導ξ二も使欝された.その意味 において,亀綾織の復興事業は熱形県の織鞠業振興に も貢献したということができる、,しかし,繊維産業の 衰退にともない,置賜試験場の規模は大鵜に縮小され た。現在では織奮部門の麟究・指導は申鑑されている。
③ 地域住民緩緩の活動一亀綾織の生産母体一 亀綾織復興にあたり,復元事業と壷行して工業化試 験事業が進められた。これを推進したのは籍庄市で あったが,生産の受け灘となることが鵜待されたの は,住畏懸体の「彩の会」だった。彩の会は新庄市に あった袋物を葬る趣味の会だったが,当時,紙庄南で 活動している駿簸関係の疑問覆鉢があまりなかったこ とから,この会が中心となって活動することになった。
工業技備センターの醸修母体となったのもこの会であ
る。
醗修は第i年度が座学で原理を鮭強し,第2年度か らは織機を購入して太い継糸を繙いて平織むの生産調
練を宥った。これを行っていた欝85年頃,工業技衛 センターで亀綾織の復元に成功し,製贔紀の醤途がつ いた.このような動きを受け,亀綾織の生産体舗も整 えられることになった.その最大のものが「新庄亀綾 織伝承協会」の設立である.醗修の受1ナ醗となってい た彩の会は高齢化が進み,ファッション製品を生産す ることが霞難になっていた。そのため,籍庄毒と新庄 商工会議藪が中心となって参撫養を募集し,伝承協会 を設立したのである。なお,彩の会は高齢建の進展に よって現在は解散している.
伝承協会は実際に生産にあたる生産者によって組織 されている。ただし,そグ)大部分は主婦であり,趣味 を発展させたいという希望から参擁した者が多かっ た.そのため,技衛的な基盤はほとんどなく,商品建 が轡能になるくらいまでの技衛の習{響には約3年が必 要だった,これは現在でも購様である,そのため,会 員数は韓人から雄数人程度で推移しており,生産の 拡大は羅難である。また,高度な製贔は生産できる会 員が霞られているため,現在は小物類を中心とした生 産となっている.着尺類などは特注品で生産を行って はいるが,生産に暗闘がかかるため十分な対癒はでき ていない,
会員はボランティア的な撤いであり,工賃は時給 2§倉円にすぎない.これは最低賃金に満たない額であ るが,会員麟の活動であるということで認められてい る.これは亀綾織の生産が採算ベースにのっておらず,
「工業化」の段踏にはとうてい到達していないことを 示している。現在の生産量は年間6〜7反,販売額は
玉5α万円離後である。
このように生産量が少ないのは手織むにこだわり.
機械化を進めていないことにもよる。現在σ)技衛水準 であれば亀綾織の機械建は容易であるが,伝承協会は 生産の拡大よりも「文化の伝承ユに璽点を置いており,
事業としての採算牲よりも製法や生産技備を後世に伝 承することを重税している。
このような鉱承協会のあり方は,産業化を目指した 当初の計画暴標からはずれている。しかし,伝承編会 の現在の体麟からすれば産業化は事実上不可能であ
り,このような方向を選択せざるを得ないと考える。
当初計醸の段隣での社会的基盤に関する検討不足を指 摘しなければならないだろう。
④ 新庄市・新庄商工会議斯など地域の公的機聡の梁 たした役割
新庄毒は以しのような活動をすべてコーディネート
篇 一 一
/58鋤 姦黠大学地域鰯造 第銘巻 第2轡 騰解.2
するとともに,活動の事務局を蓬i当,事業PRや財政 的援勘も行っている。麟遠のように,亀綾織の復興に 関しては当初より新庄甫が中心になって実施してお り,事実、、L,事業の主体であると言える。新庄薦は現 在も伝承協会の事務局を務め,会計事務などをすべて 担難している勉,年闘60万円程度の運営補勧金を麦
畠している.
また,現在,伝承協会が生産・藪売を膏っている「機 織り長握」は中心欝欝地溝牲{ヒ事業にともなって整備 されたもので、新庄海工会議所の支援も受けている。
「機織り長屋」は欝99年に山形新幹線が新庄まで延紳 された際,観光客を中心毒街地に誘導するためのポイ ントの一つとして整鯖されたものである。商工会議所 が中心になって運営しているまちづくり株式会社であ る「緩庄TMC㈱まが空き店舗を改装して賃貸してい る。家賃は縫6万5千円で,うち2万4千灘を毒が補
助している。
このように,新庄市等の公的撥鬢難は伝承臨会と亀綾 織を,ハード・ソフト露薦から貰えている。これが亀 綾織の復興に重要な役割を果たした。これは産業の振 興に行政の果たす役割が重要であることを示すのもで あるが,その一一方で産業の存立基盤が弱く,行政」)支 援なくしては存続し得ないことの裏返しでもある。生 産・簸売に関する十分な検討がないままに一[業化を進 めたこと,特に生産纒における織綾化の見通しが不筆一 分であったことが,産業建に失殿し,公的機関の支援 を長期化させている原誘となったと議える。
4.地場産業の振興と行政の役割
以ヒ,織島県の、麟i麟秘紙産地と出形県新庄亀綾織 を事縦に,行政が地場産業の振興に果たす役離につい て検討を旛えた。
上絹綺報紙産地は戦後急速に衰退し,欝9§年代初
鏡には産量蓮華ま季春滅寸麟の薯実態であったのこのような耳犬
溌を打離するため,安達町は欝鍵年より秘紙産業の 支援を開始した。安達瞬は地元に鷹二瞬麟灘紙振興綴合 を維織し,補勤金を支出して原料や道具の確保・整備 を進めた。この後,土絹織報紙は欝93年に馨轟県の 重要無形文建財に,欝§7年には編島県の伝統的工芸 品に詣定されている、しかし,これだけでは十分な効 果を一と1げられなかったため,安達瞬は報紙の振興と後 継者育成を毯的とする穣紙伝承館を建設した。穣紙伝 承館は第3セクターの繍安達町振興公縫によって管 理・運営され,2蟹経年4鐸オープンした、、年闘肇酵i
千万円の売りしげを維持しているが,年闘灘魯〜79馨 万円の赤字が発生している,赤字分は安達購より管理 委託料として補填されているが,運営を採算ベースに 乗せるのは,現状ではきわめて騰難である。しかし,
披講伝承藏では,その持つ意妹は非常に大きい。伝承 館では独自に後継養を育成することを計慰し,2馨総 年欝月に後継者候補者をバート職興として採離した。
現在,この職嚢に技篠}を伝承中である.こ;れにより,
11購綺種紙の技衛を後置に伝えることが可籠となっ
た。
新庄亀綾織は大鑑鰯に途絶した織梅である。これを 復興するにあたっては,新庄市が事業運営と綴織闘 コーディネートの各嚢で中心的な役割を果たし,それ が事業の成功につながったと評懸できる。また,織鞠 製造技術の復元と人材養成では山形県工業技衛セン ターの果たした役麟が大きい。これは,地場産業振興 には行政が適雅な支援を行うことが有効であることを 示している。しかし,実際に亀綾織の生産にあたる住 民織緩が十分に成長することができず,産業化には成 功していない。これは復元のための技衛的課題や流通・
簸売捧離について{一分な検討を簾えないまま事業を聡 始したことの影響であると考えられる。この結果,亀 綾織は公的支援の下に「地域文化」としての基盤は確 立したものの,「地域産業」には親皮することができ なかった。経済的にも欝宣する段隣には達しておら ず,待政等の支援が不再欠である。事業の展灘にあ たっては,事前の調査を暗闘をかけて厳密に行うこと が必要である。
近年,地方財政の悪{ヒにともない,地方肖治体の磁 場産業支援は急速に衰退しつつある, しかし,産業振 興藏で行政の果たす役割は依然として大きい。地場産 業は地域文化振興の醸でも大きな役欝を果たしてお
り,継続的な支援が難待される.
本確究を進めるにあたり,謄本学徳振興会科学醸究 費補助金(平成捻〜i7年度 基盤醗究(C/ 伝統的 産業の集積地域における持続的生産システムに関する 醗究 課題番号:慧5齢§78 醗究代表者:初沢敏生)
を使題した。
本講究の撮要は,鱒§5年度繋本地理教育学会欝究 大会ならびに鱒§6年度服飾文化学会醸究大会におい
て発表した、、
一鱒一
地場産業振興と手蓄政の役麟 一橿轟緊11縦綺1穣紙産地と戯形曝新窪亀綾織を察擁として一 (583i)
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