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二〇 一 五 年 十 二 月 「 今 月 の 言 葉 」 と

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二 〇 一 五

年 十 二 月

「 今 月 の 言 葉

」 と

「 今 月 の 聖 語

」 に つ い て の 紹 介

今 月 の 言 葉 や れ な か っ た

や ら な か っ た

ど っ ち か な

相 田

み つ を

今 月 の言 葉は

、相 田 みつ をさ んの 言葉 で す。 やろ うと 思 って いた のに

、 時間 がな くて でき な かっ たと いう こ とが あり ます

。で す が、 時間 は十 分 あっ たに も関 わら ず

、そ のま まや ら ずに 終わ っ て しま っ たこ との 方 が多 くな い でし ょ うか

。そ して

、「 な ぜも っと 早く やら な かっ たの か」 と自 己 反省 し、 まわ り の人 には

「や れな か った

」と 言い 訳を し てし まう

。 やら なか った と 言い 訳は

、次 々と 沸 いて くる もの で す。 そん なと き、 相 田み つを さん の この 言葉 が 心 に突 き 刺さ りま す

。 い よ いよ 十二 月に 入 り、 今年 もあ と一 ヶ 月足 らず とな り まし た。 まだ 今 年の うち にや れる こ とで あれ ば

、 来年 に 延ば さず 行 動に 起 こし てみ ては どう でし ょう か。

今 月 の 聖 語 聖

は よ み や ぶ れ

『 蓮 如

上 人

御 一 代 記 聞 書

今 月 の聖 語は

、本 願寺 第 八 代の 蓮 如 上人 の言 葉 です

。『 蓮如 上人 御一 代記 聞書

』は 蓮如 上人 の 日頃 の言 葉を 記 録し た書 物で

、聖 教

(聖 典) はお 釈 迦様 の言 葉や 親鸞 聖 人の 言葉 に出 会 うこ との でき るも の です

。そ れを 読 み破 るく らい 開 いて 読む こと が、 聖 教を 大切 にす る こと にな る と 言わ れ てい ます

。 た と えば 英単 語 を 覚え た いと 思っ た とき

、ほ と んど の 人が 英 単語 帳 を用 い る でし ょ う

。 そし て、 英 単語 に 赤線 やマ ーカ ーを 引 き、 何 度も 何度 もペ ージ をめ くっ て暗 記し てい く

。 する と

、カ バー はだ ん だん 汚れ

、め くる 部 分も 黒く なっ てい き ます

。つ いに は

、カ バー がは が れて しま うこ と も起 こる でし ょう が

、そ れは 必死 に 覚え たと いう 努力 の 蓄積 にも 見え ま す。 本は 読む ため の もの であ り、 蓮 如上 人が

「よ み やぶ れ」 と言 われ る よう に、 何度 も 繰り 返し 読 む こと が

、 本を 大 切 にし てい る とい え るの では な い でし ょ うか

。 ち ょ うど 高三 のみ な さん は、 最後 の後 期 考査 とな りま し た。 教科 書を 読み 破 るく らい の思 い で、 各教 科 の 勉強 を して みま し ょう

宗 教 教育 係

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