木村健二郎先生を悼む
藤 永 太 一 郎 *
木村健二郎先生が昭和63年10月12日逝去されま した。92オであられました。本海洋化学研究所を 創立された石橋雅義先生が逝去されて丁度10年に なります。両先生は何れも明治29年のお生まれで あり,東京大学と京都大学の理学部において揃っ て分析化学,地球化学の領域に優れた業績を残さ れ, 30年に及ぶいわば「木石」時代とも呼ぶべき 華やかな学問の展開と開花に貢献されたと申すこ とができましょう。木村先生は石橋先生より御長 命でありましたが,最近も極めて御健勝であられ ましたので, この突然の御逝去は誠に痛恨の極み であります。木村先生の御業績につきましては
「ぶんせき」昭和63年12月号942 945頁に藤原鎮 男,浜口博桜井欽ーといった直弟子の諸先生が 述べておられますので,此処では筆者なりの弔意 を表させて頂きたいと存じます。
「京都大学の藤永君。質問をどうぞ」といきな り凛としたお声で御指名下さったのが座長の木村 先生の筆者への初めてのお言葉でありました。戦 後始めて京大で行われた日本化学会年会「分析化 学,地球化学」部会の会場での事であります。確 か菅原健先生の岩奨水(処女水)に関する御発表 に興味をもって挙手したのであったと記憶してい ますが,どうして筆者を御存知であったのかいつ も新しい感激をもって想い起すことであります。
筆者が京大に入学した頃(昭14),石橋研究室 では海洋化学研究が始まって間もない頃で,岸春 雄助教授はRd‑Th を使ってP b のトレーサー実験 を行ない,原田保男講師は海水中のRb, Csを, 品川睦明助手(後に阪大名誉教授)は海水中のA u
* (財)海洋化学研究所理事長
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木 村 健 二 郎 先 生
を分離しつつありました。当時既にわが国は鎖国 に近く,筆者がKolthoff教授に出した手紙には,
辛うじて一通の丁重な返事と別刷多数を頂いたの ですがその後5年間音信が絶たれたような時代で ありました 。このような間わが国には異質の化学 の花が開いたのであります。北大(太秦康光教授)
は火山を,東北大(小林松助教授)はアマルガム 還元法を,東大(木村健二郎教授)は温泉を,名 大(菅原健教授)は陸水を,京大(石橋雅義教授)
は海水を,阪大(槌田竜太郎教授)は錯塩を,九 大(岩崎岩次教授)は火山を主として研究し,戦 中戦後20年を通じ分析地球化学部門を形成して素 晴らしい成果を挙げていました 。日本分析化学会,
日本地球化学会が生れると共に,学的興味が大き く変化したということができると思います。地球 化学である限り相互に入り混ってはいたもの這各々 東大系は陸を,京大系は海をという風に研究領域 を大別していたのです。尤も東大出身でも三宅泰 雄,黒田和夫両博士といった方々は海水分析の研 究をされ, Csの濃度について原田, 黒田両博士
海洋化学研究 3, 2 (1988)
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木 村 健 二 郎 先 生 の 御 手 紙
間の論争など時に話題を賑しました。猿橋勝子博 士と筆者のクロリニティー論争も今はなつかしく 思い出されるそれらの一つであります。
日本分析化学会(昭27)が誕生すると, I U P A C 主催で国際分析化学会(ICAC)をわが国で催すこ
とにしようということになりました。このI C A C は昭和47年京都で新装の国際会議場で行なわれま
したが,その会長は柴田雄次先生,日本分析化学 会会長木村健二郎先生,組織委員長石橋雅義先生,
実行委員長筆者という顔振れでありました。この 会議は大成功でI U P A C事務局長Morf博士はこの ような国際会議は空前絶後だと絶讃したものです。
1969年コルチナ・ダンペッツォの総会でI U P A C の正式主催承認をうけ, 1971年ワシントンの総会 海洋化学研究 3, 2 (1988) ( 3 )
では会場の一室を借りて前年夜祭を催して会員を 招待をするような離れ技もやったものです 。実際 I C A CにはBelcher, Alimarin, Charlot, Martin, Pungor, Meinke, Walsh, West(P. W.), Kaiser,
Kirsten, 宗宮といった諸先生の招待講演があり,
御不快の柴田会長に代って木村健二郎先生が歓迎 の辞を述べられ石橋雅義先生が開会の挨拶と経過 報告を迩べられたのでありました。
さて木村健二郎先生,御令室芳子御夫妻にはそ の後も各種の学会のある度にお供することができ て思い出は尽きません。それらは福岡であったり,
高知であったり或いは徳島の阿波おどりであった りしますが,最後の最大の思い出は筆者が日本学 士院賞を受賞(昭61) した時のことになります。
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当日先生は足を傷めておられた有沢院長を代理し て早朝から終始天皇陛下を先導御案内になり,授 賞者の紹介,宮中での御培食など大変な御苦労を なさったあと着換えまでされて赤坂での文部大臣 招宴まで御一緒下さいました。この年以降昭和天 皇の御出席はなく,有沢院長も木村先生も 3年を 経ずして御他界になられた事になります。
木村先生はかねて形型子(俳名)葉山(連句)
の号にて会名の高い歌人であられましたが昨春,
本「海洋化学研究」を御高覧下さいまして関連し て珍しく色々のことを記述された長文のお手紙を 下さいました。御家族の皆様も同人句誌「草基」
も共に転載をおゆるし下さいましたので, まこと に光栄に存じ本誌に飾らせて頂きました 。重ねて 厚くお礼を申し上げ改めて先生の御冥福を祈り申
し上げる次第でございます。
三吟 歌仙 わが 胸に の巻 わが 胸に 崩れ はて けり 雲の 峰 なほ 眼ナ 裏に 残る 雪渓 林道 をつ くる 発破 の響 き来 て 揺る ると もな く揺 るる 秋草 月朝 に白 露ほ ろと こぼ すら ん ウ
虹跳 ねた る汐 入り の湖 喪の 帰り ヘル ン旧 居も 素通 りに ビア ノの 曲が いづ くと もな く ラプ レタ ー手 渡す 役を 頼ま れて 吹雪 烈し き女 子寮 の門 金銀 の飾 りま とひ し聖 樹ゆ れ 太平 洋を 見は るか す窓 満月 はい ま中 天に 動か ざる 実験 へ了 て新 酒酌 みあ ひ 前所 長写 真が 壁に さや けし や まこ と十 年
昔一 なり 花万 染母 校の 塀の 低き こと 水素 ガス 詰め 飛ば す風 船
ム口早。A
文中「宍道湖のスズキ」の句の事が出てきます が,次のような連句の若き詩情に感動致します。
︵草 茎歌 仙第 二三 0三番
︶
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零雨 境内 を出 れば 末黒 野ひ ろが りて 直11
道は るか 彼方 に故 里の 山 木村 葉山 子も 孫も ロス ヘ移 住し 老夫 妻 雨百 組す ます 仲人 の役 道贈 られ しカ ーネ ーシ ョン を大 壺に 山裏 の噴 井の 音の 静け さ 雨碁 を打 つを 日ぐ らし とす る権 宮司 道な ほり のお そき 首の 腫れ もの 山悪 いこ とみ な母 方の 遺伝 にし 雨会 津生 まれ は朝 酒が 好き 道木 犀の 匂ひ かす かな 雨の 月 山; 空の 虫篭 吊し たる まま 雨う そ寒 く片 目の 達磨 脱ら みつ つ 道新 総裁 に多 き難 問 山願 はく ば富 士噴 火す るこ とな かれ 雨立 春以 来夢 にお びえ て 道旅 の身 に異 国の 花は り散 やす く 山陽 炎燃 ゆる 日本 人塞 地
ラプレター手渡す役を頼まれて 葉 山 山 道 雨 山 道 雨 山 道 雨 山 道 雨 山 道 雨 山 道 雨 吹雪烈しき女子寮の門 零 雨
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