今日の話題
665
化学と生物 Vol. 51, No. 10, 2013
脳の層構造を作る分子
APC2 による神経細胞の移動の制御
脳では莫大な数の神経細胞がシナプスを介した神経結 合によって複雑かつ精緻な神経回路網を形成している.
神経細胞は脳の中で無秩序に分布していているのではな く,機能的に関係する神経細胞が集合し,層構造や神経 核を形成することによって,情報伝達や情報処理の効率 を上げている(1).たとえば,哺乳類の大脳皮質では,異 なる形態と機能をもつ神経細胞が6層の層構造を形成し ている.小脳は同様に3層の構造からなる.また,視床 下部の弓状核は,機能的に相関する2種類の神経細胞か ら形成されている.
発生過程において細胞分裂を終えた神経細胞は,誘 引,あるいは反発作用をもつ細胞外因子に応答して正し い経路を選択しながら,目的の場所に到達すると考えら れている(2).神経細胞の移動が障害されると,層構造や 神経核の形成が不全となり,正しい神経回路を形成でき なくなる.その結果,ヒトにおいては,てんかんや精神 遅滞,統合失調症などの重篤な脳疾患を引き起こす原因 となる場合がある(2).
細胞移動には細胞内のアクチン繊維や微小管などから 構成される細胞骨格系が重要な働きをしている.すなわ ち,細胞表面で受け取った誘引因子や反発因子の情報 が,最終的に細胞骨格の動態を変化させることで,それ らの因子に応答した適切な細胞運動が生じると考えられ ている(2).しかしながら,このような細胞外からの情報 を細胞骨格に伝える仕組みはよくわかっていない.
最 近 筆 者 ら は,APC2 (Adenomatous polyposis coli 2) という細胞内分子が,細胞骨格の動態を制御するこ とによって神経細胞の移動に重要な役割を果たしている ことを見いだした(3).APC2は,がん抑制因子の APC
(Adenomatous polyposis coli)(4) に構造上類似した分子 であるが,生体内の細胞に普遍的に発現するAPCとは 異なり,最終分裂が終了した神経細胞に主に発現してい る.筆者らは以前に,APC2が微小管に結合し,その安 定性を制御することを明らかにしていた(5).また,ニワ トリの視神経投射系を用いた実験により,神経の軸索が 正しい標的部位へ伸長するうえでAPC2が重要な役割を
図1■ 欠損マウスの脳で観察される層構造の異常
A. 正常マウスの大脳は,異なる神経細胞集団(異なる形で示す)が積み重なったきれいな層構造をしているが, を欠損したマウス では,これらの細胞集団が混じり合って分布している.左図は多形細胞の染色像を示すが,正常マウスにおいて多形細胞は最下層に分布す るのに対して,APC2欠損マウスにおいては他の層に広く分布する.右の模式図は,さまざまな解析から明らかになった両マウスの大脳に おける神経細胞の分布を示している.B. 正常マウスの小脳では,プルキンエ細胞と顆粒細胞が異なる層を作っているが, 欠損マウ スでは,プルキンエ細胞の配列が乱れるとともに(矢印),多数の顆粒細胞が分子層に分布している(矢頭).
今日の話題
666 化学と生物 Vol. 51, No. 10, 2013
果たしていることを明らかにしていた(5).
今回はAPC2について遺伝子欠損マウスを作製し,脳 神経系の異常について解析を行った(3).その結果,大脳 皮質,海馬,小脳,嗅球などのさまざまな脳の領域で,
層構造が正常に形成されていないことを見いだした(図1). 発生の一時期にブロモデオキシウリジンを神経細胞に取 り込ませ,その後の細胞移動について調べた結果,
欠損マウスの脳で観察された層構造の異常は,
分裂を終了した神経細胞が正しい方向に細胞移動を行え ず,ランダムに移動することによって生じたことが明ら かになった.さらに,発生期の 欠損マウスの脳 から神経細胞を取り出し,培養下において詳細な解析を 行ったところ, を欠損した神経細胞は,無刺激 時の移動能自身は正常であるが,誘引性因子や反発性因 子に応答して運動を変化させる能力を欠いていることを 見いだした.また,APC2が微小管に加えて,アクチン 骨格にも結合し,その動態を制御することも新たに見い だした.以上の解析結果から, は,細胞外の誘 引性因子や反発性因子の情報に従って細胞骨格の動態を 変化させるうえで,非常に重要な役割を果たしていると 考えられる.これまで,誘因性因子や反発性因子の欠損 やそれら因子の受容体の異常,細胞骨格自身の形成異常 などで正しい細胞移動が起こらないという報告はあった が,今回のように情報の伝達にかかわる分子が同定され たのは初めてのことである.
ニワトリの視神経投射系を用いた研究(5) から,
欠損マウスにおいては,神経細胞の移動だけでなく,神 経投射の形成についても異常があると推定されるため,
現在解析を進めている. 欠損マウスにおいては,
神経細胞の移動の異常や神経投射の異常によって神経回 路形成が不全となり脳機能に異常が生じると推測される が,実際に 欠損マウスは運動機能の異常やてん かん発作などを示すことがわかった.今後, 欠 損マウスの脳機能についてさらに解析を進めることによ り, 欠損による神経系への影響を総合的に解析
していきたいと考えている. 遺伝子に変異が生 じれば,ヒトにおいてもマウスと同様の異常が生じる可 能性が高い.筆者らの研究が,将来,神経細胞の移動や 神経投射の異常を原因とするさまざまな疾患の治療法の 開発につながる可能性があると期待している.
1) P. Rakic : , 55, 204 (2007).
2) R. Ayala : , 128, 29 (2007).
3) T. Shintani : , 32, 6468 (2012).
4) P. T. Rowley : , 56, 539 (2005).
5) T. Shintani : , 29, 11628 (2009).
(新谷隆史,野田昌晴,基礎生物学研究所)
プロフィル
新谷 隆史(Takafumi SHINTANI)
<略歴>1989年京都大学農学部食品工 学科卒業/1997年総合研究大学院大学生 命科学研究科修了/1999年基礎生物学研 究所助手/2010年同准教授,現在に至る
<研究テーマと抱負>細胞内情報伝達機構 を分子・細胞レベルから動物個体レベルま で理解すること.特に,細胞あるいは動物 個体が環境の変化に応答して恒常性を維持 しつつ適応するメカニズムを明らかにして いきたい<趣味>ロードバイクでもがくこ と
野田 昌晴(Masaharu NODA)
<略歴>1977年京都大学工学部工業化 学科卒業/1979年同大学大学院工学研究 科修士課程修了/1983年同大学大学院医 学研究科博士課程修了/1984年同大学医 学部助手/1985年同大学医学部助教授/
1991年基礎生物学研究所教授,現在に至 る<研究テーマと抱負>脊椎動物の中枢神 経系が個体発生の過程で形成される仕組み や,成体において完成した脳が機能する仕 組みについて広範に研究している.神経/
グリア細胞の分化,神経結合の特異性,シ ナプス制御の分子/細胞機構の解明から始 まって,記憶/学習,薬物依存,体液恒常 性のメカニズムまで,さまざまな脳機能シ ステム的理解を目指している<趣味>囲 碁,将棋など