4月3日 姫路市広嶺山 広峯神社 お田植祭り
天平5年(733)吉備真備が遣唐使の任を終えて帰朝したとき広嶺山頂の奇瑞を感じ天皇に奏上して勅命により自 ら社殿を設けたのが広峯神社の創始とある。祭神、素盞鳴命、であるが吉備公の唐より移した牛頭天王の信仰の本 拠をこゝに置いたのであろう。貞観 11 年(869)京都に疫病流行の際、広峯から京都八坂御祇園に分霊を移して八 坂神社を創立した。明治以前は勅願社牛頭天王総本宮として薬師如来を本尊としていて、現在の社殿形式も多分に 寺院様式が混入しているようである。広嶺山上はやっと車で上れるが山上一帯は割合に明るい所であるし、それに 南方姫路市街の眺望が誠にすばらしい。鳥居の所から谷道を歩いて石段を上るとすぐ楼門がある。楼門の右手に鼓 楼、楼門を潜ると広前になって寺院風の大きな構えの拝殿へ上る段階の下に、横2.5m縦1.5m位の木枠を横3つに 区切り、それぞれ盛砂をして今日の神事の仮田としてある。右から、早稲、中稲、晩稲の立札が立てゝあって、仮 田の前の案上には榊の幣が置いてある。正午、境内は森閑としていて果して祭があるのやら分らぬ寂しさで楼門の 傍のふくらみかけた桜がさんさんと春光を浴びている。拝殿の横に廻ると小さな庁屋があり、そこで神官が1 人笛 の鳴り工合の下調べをしていた。刺を通じて今日の神事のことを尋ねる。
広嶺山頂の丘陵地帯の僅かな平地に点在して現在なお10数戸の社家筋のものが住んでいる。神官もそれ等の家の 人々が毎年交替で勤仕しているのであるが、御田植神事の諸役もこれ等の家筋の人達が奉仕する。尤も現在はもと 山に居た社家筋の家で姫路市内に転住している人もあるが、その人達も本日はやって来て参加する筈であるが、追々 来られなくなった事情もあって、現在は諸役の員数も減少し、神事そのものは農耕祈願であるので、もとは近在か らの農家の参拝者が可なりあったが現在はこれも少なくなった由であった。現に神事を通じてそのために参拝した 農家らしい人は事実1人もなかったのである。
諸役
田人 1人 大人。農仕事を心得ているもの、平服のまゝ飾りのない田笠を被る。
苗運び 3人 10才位の男子。広峯神社と染めた手拭で後鉢巻をする。
早乙女 3人 10才位の女子。普段着(皆洋服)の上に赤い羽織を着て、赤の襷がけ、桜の造花をつけた40
㎝位の花串7本を束にして頂につけた田植笠を被る。笠の緒は赤。
田歌唱い 1人 宮司が代行する。
笛吹き 3人 大人。白衣、青袴。
太鼓持ち 1人 13才位の男子。白鉢巻。径40㎝位の締太鼓を据台に置いたまゝ据台の両脇の枠を両手で持つ。
恐らくもとは自分で太鼓を打って囃したものと思われるが、今は宮司が太鼓打を代行する。撥2本。
傘持ち 1人 15才位の男子。白鉢巻。高さ約2.5m位の木枠でつくった傘に、紫色の布と薄茶色金襴刺繍の 布(何れも方形)を角違いに紫を下に重ねて覆い、4隅にそれぞれ金銅の鈴を垂らし、傘軸の天辺に 金銅製の鳳凰と竹串の白の御幣をつけたものを捧持する。
以上何れも山中に住んでいる社家の人達のみである。
午後1時頃、後で笛吹になった1人が鼓殿に上って階上の扉を開き釣ってある大太鼓を打つ。宮司1人が拝殿で 祭典の祝詞をあげる。
太鼓の音で集って来た諸役の人達がそれから用意にかゝる。子供達は衣装をつける。道具を庁屋から運び出す。
大ぜいで傘を楼門まで運ぶ。外にえぶり、馬犂、木製の鍬、苗運びの荷負って行く苗篭は手付の竹篭で、その手 の所に桃の枝と御幣をつけ1荷にして担い棒で舁ぐのであるが、早苗束は竜の髪。
全員、楼門の下に揃ったところで、宮司を先頭に田人、苗運び、早乙女、傘、太鼓持ち、笛の順で仮田の前まで 進み、太鼓持は列の右方、笛吹は左方に進み、まづ宮司の修祓をうける。案がとり除かれ、先づ田人進み出て、え ぶりをとって仮田3ヶ坪の盛土をならす。ならすのは晩稲から先にする。
次に馬犂をとり、前方に耕馬が居くかの如く犂を使う。
次に木鍬をとって畦ならしをする。
次に苗運び3人進み出て、苗篭より早苗束をとって仮田の中に撒きちらす。
次、早乙女進み出て、早苗束を解き各人田に入って上方隅から順々に苗を植えてゆく。
早乙女が田に入るときから楽が始まる。宮司が太鼓持の太鼓を打ちこれを合図に笛が奏せられ、宮司が次の田歌 を歌う。
千早振うる 神のみまえの ひめ小松 いく久々もつきぬ世の 桃の初花けふさきて てまあずさえぎり 植うる田を
千代にそえてはやさん この神のおみ田をはやさん これで御田植の神事は終了する。始まってから約15分。
昔は神事の終った後、参拝者のうちにはこの土を包んで持ち帰ったものもあったらしい。
神社では御田植の神事が終ってから15日間の潔斎に入るという。而して18日には穂揃祭をする。3日に植えた早 苗が成長して立派に穣った結果を、参詣人に知らせる祭であるが、参詣人は、その結果を自分で判断して、今年の 作付を決めるという。
実際はこの 18日の神事のために昨年の早稲、中稲、晩稲の穣穂を保管しておき、これを15日間神前に供して、
18日にはこれを参詣人に見せるということである。中にはこれを貰いうけて持帰り、自分の田の種まきに用いるも のもあるという。この稲穂は拝殿に収納してあった。
田植神事と穂ぞろえ神事とを一定の期間を置いて行く所は広峯の外播州地方には数ヶ所あるらしい。
(播州名所巡覧図会4の31)「広峯牛頭天王社」山中に社家多し。すべて五位也。檀廻、伊勢におなじ。