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8 月 2 日 行橋市今元 大祖須佐神社 今井祇園

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8月2日 行橋市今元 大祖須佐神社 今井祇園

大祖須佐神社の例祭は最近までは旧6月13~15日であった。13日14日が車上連歌。15日がお八ツ撥。数年前か ら8月2~3日に変更され、2日は車上連歌3日がお八ツ撥。

その2日の車上連歌を見学する。午後5時半、小倉を車にて発。行橋のバス今井終点の所まで行く途中、今元の 街頭に飾付を終った山車2基を見る。

字元永の小高い丘の上にある神社へ行く。西門、背後は繁っている。山地であるが、地勢からして、後はもうす ぐ海と想像される。今井浜の海水浴場へ行く道と岐れてすぐであった。急な石段を途中で左折して城壁のような裾 を行くと、丁度城壁の門を潜るような感じのする石段を登って拝殿前へ出る。

大祖大神社、須佐神社の相殿で、百韻の連歌は須佐神社の神殿に奉納されている。

宮司・高辻さんに面会して聞く。連歌奉納は享禄3年(1530)の今井祇園に福島重貞が300韻の連歌を奉納した ことに始まるという。それ以後、毎年連歌奉納は欠かしたことがなく、毎年第1 句、即ち発句を書入した発句帳が 上下2 巻となって散在でも福島家にある筈である。そのうち上巻は現在不明但し最近必ず返却されることになって いると神託めいた話を聞いた。下巻は□年から昭和40年まで毎年発句を記入して福島家に現存する。後で撮映 する。連歌300韻の作法は時により変革があったらしい。現在の作法は戦後、昭和23年頃あらためたものによって いる。

今井祇園の祭礼起源説には2つある。1、は安和元年(968)説。2は建長7年(1255)説。共に牛頭天王の重跡に より、悪疫退散の祈願である。須佐神社には氏子がない。従って所謂今井祇園は私祭であって、昔の地頭職、福島 家の奉幣神事である。

建長 6 年(1254)流行した悪疫の退散祈願のため、地頭、福島采女正重房、村上左馬頭が上洛して祇園社を今井 津前重の地に勧請したのに始まる。現在の元永に奉祀したのは天正年間。

建長7年6月15日にはその感謝祭を八坂の臨時祭に準じて執行した。毎年祭が無事にすむと悪疫もなし、豊作が 約束されるという。もとは旧5月25日の奉納連歌発句定めに始まり旧6月15日のお八ツ撥に終る永い行事で、20 日祇園ともいった。もとは鉾、山車を曳き廻した御霊会であったのが、現在連歌奉納とお八ツ撥の特異の姿となっ て残っている。

今井の街中に出来上っている2台の飾山、西、東というか、その東の山車の前に福島家がある。

7月15日(もとは旧暦5月25日)鐘下し 発句定め。連歌について、もう1つ考えなければならぬ点は寺方の勢 力である。今井には浄喜寺という東本願寺直末の寺がある。もと九州の総本山であって鐘楼にある洪鐘はもとは彦 山の霊山寺講堂にあったもので製作者が今井のものであったらしく、それがいつの世にか浄喜寺に移ったものらし い。鐘銘に

彦山霊山寺 大講堂洪鐘一口 座主惣衆合力緒人助成・・・・・・・・・・応永廿八年辛丑六月廿七日 鋳物 師大工豊前国 今居住 左衛門尉藤原安氏佐料助成

とある。今居は現在の今井で金尾部落は鋳物師大工の住んだ所という。他に善徳寺という寺がある。善徳寺につい ては今詳しく調べる隙がなかった。善徳寺は古くからの福島家の檀家らしい。

福島家がもと地頭職をやっていた頃の祇園会に連歌の入ったのは福島家代々に連歌の文才があったのみではなく、

寺の住職にその方があった様である。

福島家と善徳時とに継がりがあり、もと庄屋を勤めた村上家と浄喜寺とに継がりがあり、その協力で連歌奉納と いう独特の行事を盛上げたと見られる。

今井祇園に奉納する連歌 300 韻については現在でも福島家が宗匠を勤め、他に福島家を含めて六預と称する株座 がある。(福島、村上、守田、庄野、辻、未次)この人達が中心となって、寺の和尚の手ほどきをうけて連歌を続け ているというのが現状のようである。

扨7月15日は発句定めの日である。この日は福島家でその年の発句を定める。現在では題を定める。昭和40年 度の題は「賦、青何」とある。両寺の住職が相談の上六預の造ったもののうちから選出する。7月21日(もと旧6 月1日)連歌100韻の奉納。15日の発句定めで選出された発句につけて福島家を宗匠とし六預のもの(福島さんで 聞いたところによると現在はその他の二三の主だった家も参加し、10人であったという)が須佐神社の神殿で連歌 100韻を読み、これを浄書して神前へ奉納する。続いて、本年度の発句を福島家に伝はる歴年連歌帳第2巻に記入す る。福島氏が神前で奉納連歌100韻の読上げを終ると同時にその年の鉦、太鼓の祇園囃子を初めるという。

7月29日(もと旧6月9日)善徳寺に於いて東の車上奉納連歌の発句定め。これは福島家と善徳寺の和尚さんが 定めるらしい。100韻。

7月30日(もと旧6月10日)浄喜寺に於いて西の車上奉納連歌の発句定め。これは村上家と浄喜寺の和尚さんが 定めるらしい。100韻。

8月2日(もと旧6月13日が東、14日が西)車上奉納連歌興行である。飾り山2台を東と西という。もとは夫々 日を違えて行はれ、多勢の青年達が山車を曳き廻し、その途上で連歌興行をやったらしい、が現在は車上興行の日 は飾山を曳かない。

直接連歌興行には関係ないらしいが、祇園祭の行事として、その朝須佐神社の宮司が福島家に赴き奉幣の幣切を する。幣串は1本の槙の木で長さ約3M、切口が瓢形になるように刻り込み一見2本並べてあるように見える。福島 重房が京都より祇園社勧請の際、これを帆柱として京から持帰ったと伝える。幣紙は美濃紙 365 枚を切って大房を 盛り上げたようにつける。この紙は庄屋(現在は市長)が出す。この幣紙をつけてある根もとに御散米 2 包を左右

(2)

に括りつけ、更にその上に苧を重らす。散米と苧とは名主(現在は村上家)が出す。幣串の頂には更に美濃紙 1 帖

(20枚)を裏表より青竹を斜十文字に挟んでつける。この幣紙は祭のすんだあと神社よりお守りの心に入れて参詣 人に配ったという。

福島家では、この日座敷床に万古路大納言の真筆という牛頭天王の軸をかけ、出来た大幣をこの傍に置く。

陽のあるうちに飾山を見て廻る。相当しっかりした大きな車付の山で車は厚さ60cm位ある丸材、基部の組立は 皮付の藤蔓をそのまゝ砕いて縛りあげてある。今は曳かないが曳綱は麻綱、肩で押す。横木をつけ、正面は東西共 神社の方(東方)に向け、横木には径70cm程もある大きな鉦を東山は6ヶ吊す。(西山は4ヶ)。山の正面は簾を かけ、左右から裏側は幕を垂れる。簾の中は鉦と太鼓の囃し場。簾の外は人が 1 人坐れる程の幅の手摺をつけ、そ こで宗匠が坐って連歌を興行する。山の屋根は赤(青)の長旗数 10 本、及び笹竹の飾を見事に咲かせ仲々美しい。

夕暮頃から盛んに鉦を囃して人集めをする。

午後 8 時頃、西の山から、福島家へ使が届く。それを合図に福島家の当主は麻の上下袴で手に連歌を書入れる巻 紙を入れた文筐を捧げ、使者が1人提灯を持って、西山へ向う。文筐の連歌は西山で100韻、東山で100韻を読む のであるが実際は7月29日30日の各日に六預が発句を始め10句位を書き連ねてあって車上ではそれに続いて4、5 句を読むのみである。

西の山では福島宗匠が山車の前の床几に到着すると連歌初めの囃子が入る。鉦と太鼓である。續いて、手摺に到 着の提灯をかゝげ、宗匠が梯子を上って手摺の前の席につき、すずりを受け、文筐を開く。そのとき浄善寺の和尚 が床几の前に立って手摺の上の宗匠と対面し、「四方の連歌お始め下さい」と呼ぶ。これを合図に宗匠は須佐神社の 方を遥拝し、既に巻紙に書きつけてある、連歌100韻の始めの10句位を讀みあげ、それに続く句を見物人のうちか ら言って貰う。見物人といっても大てい六預の人達らしい。前持って話合があってそれぞれ床几の周辺で短冊に書 いた句を渡し合い、順番を定めていた。その人達がその短冊を見ながら宗匠へ大声で告げるのである、が、それで も昔の車上連歌の偲影はある。終ると、福島宗匠はその足で、やはり提灯の伴を従えて東の山へ向う。その頃 9 時 半をすぎたので、急いで小倉へ帰る。

8月3日。福島家の神幣の奉納がある。その奉幣には神の子に選ばれた男女の神童が若者達の肩に乗って祓川を渡 り、祇園社に向う。午後6時頃、この神童をお八ッ撥という。

八ッ撥について。

延享文書に「凡使2八歳童子舞焉」とあり注に「俗云2八撥1疑比2於八王子之神童1乎」とある。また、「始2祇園 祭錺山鉾12八撥12行之1」とある如く、八撥の語意は鎌倉時代より雑芸に用いられた鞨鼓の打ち方をいゝ、後に は楽器ノ自体を八ッ撥と呼ぶに至った。

八王子は牛頭大王が南海の沙喝羅龍王の女薩迦を后として生んだ、8人の王子のことで、これをスサノヲの神話に 附會して同神の子、五男三女ともいう。8月3日には八ッ撥(八王子)が神幣を奉じて福島家より今井の宮(熊野権 現であって今は祇園社とも唱える)へ神幸するのである。従って、現在の須佐神社とは直接関係はないようである。

7月27日(もと旧6月7日)おくじとり。

須佐神社の神殿で行う。今元在住の満8才の男女各1名より籤で選ぶ。紙に記した氏名の札を幣で祓って幣に付 着した札から選ぶ。選ばれた神童は祭礼の終了日まで人の手に触れさせず、別火潔斎をし、着るものも一切新調す る。

神童に選ばれた家ではもと(6月13日に東、6月14日に西)関係者を招待して"花見の座"を設けた。神童の顔見 世で直会をやったが現在ではこれは簡略されているらしい。

8月3日(もと旧6月15日)地頭職福島家当主は大幣を奉持して先頭に立ち、高眉を引き冠をつけ、狩衣指貫姿 の男神、角髪に小烏帽子、桂袴姿の女神とが紅白の扇を両手にかざし、大花傘を後からさしかけられ、若者の肩に 乗って続き、それに、休憩田の碁盤、衣類入、茣蓙等を持つ従者を従え、予の代用の 3 尺の青竹を振りかざし、鳥 の鳴声を消すために互に打合う数百人の青年に囲まれて祓川を渉渡り祇園社に向うのである。

さしかけの大花傘は竹骨は一年の日數の365本で紅白の造花を青い藁で錦に飾る。心花の竹骨は月の数12本とす る。

文献

芸能史研究#7 連歌の性格 島津忠夫 林屋辰三郎「中世芸能史の研究」序説 太平記

日本文学大辞典「笠着連歌」の項

太宰管内志、豊前國仲津郡今井祇園社の条 太宰管内志、筑後国下妻郡天満宮の条

福岡学芸大学紀要第11号「今井祇園社奉納連歌の沿革とその概要―生きている法楽連歌―」

行橋市教育委員会調査報告書(謄写本)がある筈。

Referensi

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