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前 言

Dalam dokumen 법을 통해 본 동북아시아사 (Halaman 117-127)

 宋代の法典類は、その種類・数量の多さにおいて、唐や明、清と比較し、突出して いることはすでに広く知られているところである。本論文は、その宋代の法典の特色 を、礼制を含めて論じたいが、さらに会議の報告では、何故宋代にそのような多くの法 律・法典が生み出されたのか、その背景を含めて論じてゆきたい。しかし、多くの部分 においてまだ未完成であり、本会議論文は当日における議論のためのもので、当日配布 用であって、それ以外に公にすることはできない。まず浅井虎夫は、伝わって法典名か ら察して、宋代の法典編纂事業の多さが古今未曾有である点を指摘し2)、さらに牧野巽が 宋代法の特色として、

一、慣習・内規(例)と成文法との対立が意識された

二、現実社会の変化にともない法が重修され、法典が加速度的に詳細となった

三、しかしその法典系統は元代において全く中断され、明代には唐法の継承を理想とした といった諸点を指摘している3)。こうした、宋代法の詳細さ・具体性についての認識は、

滋賀秀三をはじめ、後代に広く受け継がれていったところであるが、本報告では、宋代 の法律・法典の多さ、具体性、詳細さの背景となった立法形式の、仁宗英宗期以前・神 宗煕豊・徽宗〜南宋、の各段階での変化、および、かくの如く膨大な量にふくれあがっ た法律に対し、当時の現場の行政官たちが、どの程度それを知り、利用していたか、と いう点を明らかにしてゆきたい。

1) 本報告の一部は、青木敦『宋代民事法の世界』慶應義塾大学出版会、 2014に基づいて、最近の分 析結果を加えたものである。だが未熟なものであって、その発表は「法을 通해 본 東北Asia史」に 限るものである。

2)浅井虎夫『支那ニ於ケル法典編纂ノ沿革』京都法学会、1911、 p.223に「趙宋国を建つるに及び、

其一代の間、法典編纂の事業は頗多かりしものの如く、今に其名称を伝うるものによりて考察する も、実に古来未曽有の盛事なるを知るに難からず」とある。

3)  牧野巽「永楽大典宋吏部条法について」『市村博士古稀記念東洋史論叢』冨山房、 1933、

pp.1106-07。

 ただ、本題に入る前に、諸法律の分類法に関する問題点を指摘しておきたい。宋代法 のかなりの部分が律その他の天下を対象とした法典とは異なる、いわゆる「特別法」、

すなわち地域・部局別の法典や、用務ごとの法典であった。これは、北宋前半の編敕 や、煕豊以降の敕令格式と同様の「編敕」「敕令格式」の形式をしばしばとったが、用 務・官庁の名を冠されて、独立法典として頒布された。おそらく、判語の世界にはこう した特別法が多く含まれているのであるが、一方、南宋の地方行政の実務においてしか るべき法律が参照されず海行法が用いられたとの記録もある4)。海行対特別、という図式 は、確かに簡便ではあるし、滋賀5)においても、戴建国6)においても、特別法を海行法と 対置しているし、報告者の近著でも暫時それに従った。だが、それだけでは不十分な事 例もある。例えば、『宋会要』刑法1−22「格令二」大観元年七月二十八日条には蔡 京の言として、

伏奉聖旨、令尚書省重修馬遞鋪海行法、頒行諸路。臣奉承聖訓、刪潤舊文、編纘成書、共 爲一法。謹修成勅令格式、申明、對修、總三十巻、并看詳七十巻、共一百冊、計六複…、仍 乞以大觀馬遞鋪敕令格式爲名。

とある。すなわち、蔡京が尚書省に編纂させたのは『重修馬遞鋪海行法』であるが、

成って後、『馬遞鋪敕令格式』との名を冠したのであるから、分野としては馬遞鋪であ るが、地域的に海行であるから、海行の特別法とでも称すべきであろう。実際に、北宋 のいくつかのよく知られた諸法は、従来特別法とされていたが、用務別の海行法と言っ てもいいものである。代表的な例が、常平免役敕や、『諸州県学敕令格式』など学校関 係法であろう。ことに新法期には、海行すべき分野別の特別な立法の推進によって、政 策が行われる傾向が顕著であった。とすれば、法典形式は、その時々の政策方針によっ て影響を受けていたと考えられるし、さらにそうとすれば、それは所謂「法典」のみに 限られないのではないか。つまり、神宗王安石および崇寧の新法を例にとっても、それ は常平法や免役法、学校法など、行財政分野に限られず、礼法にまで及ぶ。つまり、宋 代の法典編纂の概観を行うに当たって、礼制を含めた、行政における書物編纂の動向、

および具体的政策内容の変遷を法典編纂と関連づける作業は避けて通れないのであっ て、本報告ではこの点に関する初歩的な史料の紹介および考察も、4「礼典と法典との 関係」において行う予定である。

1.形式不明法律条文存在の背景

 宋一代の残存法典は、極めて限られている。律たる『宋刑統』、唐令と近い『天聖

4) 『宋会要輯稿』(以下、『宋会要』)食貨63-4「蠲放」紹興3年7月18日に江南東西路宣諭劉大 中の言として「州縣曾經殘破人戸元不曾離業者、紹興元年秋料税租役錢減放四分、以前拖欠與倚 閣。州縣引用海行法、不得過三分。乞全行倚閣」とあり、靖康の変後、紹興元年の秋料の際の四割 の減放規定に従い、三割とする海行法規定に従っていなかった点が指摘されている)

5) 滋賀秀三『中国法制史論集――法典と刑罰』創文社、 2003。

6) 戴建国『唐宋変革時期的法律与社会』上海古籍出版社、 2010。

令』を除くと、宋代独自の編敕、敕令格式はどれも残存せず、条法事類としては慶元の ものが残されているに過ぎない。『吏部条法』があるものの、それは特殊な特別法であ る。しかし、判語をはじめとして、宋代史料には無数の「法」が引用されている。そし て近年、神宗期以降の「敕」と「令」の複雑な関係が、川村康や戴建国らによって明ら かにされつつあるが、これら無数の法は、それが具体的に何敕か、何令か、といった形 式が不明であるものが圧倒的に多い。そこには、やはり煕豊以降の「新書」と呼ばれる 敕令格式を軸とする法典が新たに編纂されてゆく中で、令と敕の入れ替わりや重複が生 じてきたことにもよる。それを跡づけるため、ここではまず、形式面での変遷を改めて 見てみたい。

大まかに言って、唐の開元年間に律令格式が官制して以降は、格以下に随時敕を発布 し、格後敕が主体となった。しかし、唐代開元後にあっても、格のみは編纂が続けられ た。『宋史』藝文志には「『開成刑法格』開成4年(839)には『刑法格』11巻が施行さ れた7)。おそらくは、開元刑法格に「後格前格を破るの載有り。後敕前律を破るの文無 し」とあるのによって、敕の編纂に至らなかったのであろう8)。そこで、格、格後敕、敕 が法典形式 の主体となり、北宋前半期 には建隆4年、太平興国3年、淳化5年、咸平元 年、大中祥符9年、天聖10年、慶暦8年、嘉祐7年には大規模な海行の編敕が編纂されて きた。一方で、個別の特別法が多く編纂されてきた。それらを含む宋代法典の目録の主 たる者として、『宋会要』刑法2「格令」(以下、格令)および『宋史』藝文志の「刑 法類」(以下、藝文志)が挙げられるが、それを一見する限り、立法の山が仁宗期、神 宗煕豊〜北宋末徽宗、南宋中期(紹興末年〜孝宗期)に見られる。太祖〜真宗時期はい まだに旧制として唐制および五代から引き継いだ諸制度を改変する余裕は無かったが、

仁宗期には征服事業が終わり、国家としての体裁が充実してきたため、慶暦には各方面 で改革運動が起こった。また王安石新法時期には、詳定編敕所の整備に結実されるよう に、改革が立法の形を取って行われ、その体制は宋一代を通じて変わることはなかっ た。そして、敕局と言われる各種立法機関が整って後、むしろ哲宗・徽宗時期のほう

7) 『舊唐書』50刑法志「開成四年、兩省詳定刑法格一十巻、敕令施行」とあり、宋史藝文志刑法類に も、「狄兼謩開成刑法格十巻、開成詳定格十巻」とある。その事情については、『冊府元龜』613

「定律令五」(『五代会要』9「定格令」)に、「後唐同光三年(925)二月刑部尚書盧質上『新集 同光刑律』充數十三巻、天成元年九月二十八日御史大夫李琪奏奉八月二十八日勅以大理寺所奏見管 四部法書內有『開元格』一巻『開成格』一十一巻、故大理卿楊遘所奏行『偽梁格』幷『目錄』一十 一巻、與『開成格』微有舛誤、未審祗依、楊遘先奏施行、為復别頒聖旨、令臣等重加商較刊定奏聞 者、今莫若廢『偽梁之新格』行本朝之舊章、遵而行之、違者抵罪。至其年十月二十一日、御史臺刑 部大理寺奏奉、九月二十八日勅、宜依李琪所奏「廢偽梁格」施行、本朝格令者、伏詳勅命、未該律 令、伏以開元朝與開成隔越七帝、年代旣深、法制多異、且有重輕、律無二等、若將兩朝格文、袞行 伏慮、重叠舛誤、况法者天下之大理、非一人之法、天下之法也、故為一代不變之制、又准勅立後格 合破前格、若將『開元格』與『開成格』並行、實難檢舉、又有『大和格』五十二巻、『刑法要錄』

一十巻、『格式律令事類』四十巻、『大中刑法格後勅』六十巻、共一百六十一巻、久不檢舉、伏請 定其予奪奉勅宜令御史臺刑部大理寺同詳定、一件格施行者、今集衆商量、『開元格』多定條流公事

『開成格』關於刑獄、今欲且使『開成格』。從之」とある。

8) 「開元刑法格。有後格破前格之載。無後敕破前律之文」(『全唐文』848周知微「請復議典奏」)

Dalam dokumen 법을 통해 본 동북아시아사 (Halaman 117-127)