大村 智先生が2015年のノーベル医学生理学賞を受賞された.抗生物質生産菌の研究者としては,ペニシリンの フレミング(英,1945年),ストレプトマイシンのワクスマン(米,1952年)に次ぐ3人目の受賞であり,放線菌 研究者としてはワクスマンに次ぐ2人目の受賞である.大村先生は,ペニシリンなどのβ-ラクタム抗生物質やスト レプトマイシンなどのアミノグリコシドを研究対象としない方針を立て,ロイコマイシン研究に端を発するマク ロライドを中心的研究対象として数々の科学的業績を上げられた.そして,「人類への偉大な貢献」と評価された イベルメクチン開発につなげられた.本稿では,大村先生に先行したエポックメーキングな抗生物質探索研究か らの道標を概略的に紹介する.
和製ペニシリン生産菌探索研究(1, 2)
ペニシリン(Penicillin)は1928年に英国のフレミン グ(Fleming)によって発見され,1940年にフローリー
(Florey)らによって再発見された.肺炎球菌に有効で,
肺炎患者も治癒できることが確認され,それまでの薬剤 では歯が立たなかった感染症原因微生物に突破口を開い た物質として高く評価され,フレミングはフローリーら とともにノーベル賞を受賞した(1945年).ペニシリン のニュース(キーゼ博士の総説)はドイツから潜水艦で 1943年の秋に日本にもたらされた.それを受けて第二 次世界大戦中の1944年2月に陸軍軍医学校内にペニシリ ン委員会(碧素委員会)を設置して,ペニシリン開発研 究を開始したのがわが国における抗生物質研究の端緒で ある(表1参照).同委員会には軍医学校長名の招集に より基礎医学・物理・臨床・化学・農芸化学・薬学・植 物などの研究者が参加した.そして,その年のうちに和 製ペニシリンをものしたのであるが,同委員会を組織し た稲垣克彦少佐および研究のリーダー役を務めた梅澤浜 夫博士の貢献に負うところが大きかった.
最初の委員会(2月1日)で,キーゼ報告(梅澤博士 が翻訳)などを基に議論が行われた.その結果,日本中 のカビを集めて培養し,梅澤博士らがその培養液の試験
管内抗菌作用ならびに動物実験での有効性を調べること になった.稲垣少佐は,全国各地からの菌株収集,必要 な研究資材の調達と配給,各研究機関との連絡,研究進 捗状況の調査,文献および資料の収集と配布,委員会等 の開催などの役割を担うことになった.稲垣少佐は,
軍 だけが学問を推進できる状況を把握し,ペニシリ ン研究の責任を深く認識して 縁の下の力持ち に徹し て公正な協力をすることを軍医学校のとるべき姿勢とし て事に臨んだ.
研究はいろいろな紆余曲折を経たが,10月に至って 大きな成果が得られた.9日に東大の坂口謹一郎研究室 で開かれた小委員会で梅澤博士は,薮田貞治郎研究室の 2菌株の培養ろ液からキーゼ博士の総説に従って抽出・
濃縮して得た黄色濃縮液が1,600〜3,200倍でブドウ球菌 の発育を完全に阻止し,廿日ネズミの肺炎球菌の感染に 強い阻止作用を示すことを報告した.そして,30日の 第6回委員会で,梅澤純夫教授(慶大)が,梅澤浜夫博 士の作製した濃縮液から抗菌物質をバリウム塩およびカ ルシウム塩として精製し,その理化学的性状はキーゼ博 士総説中に記載されていた精製ペニシリンの性状と合致 したことを報告した.
こうして8月が目標であった所期の目的は2カ月遅れ で達成された.神林浩陸軍省医務局長は,「従来わが国 の研究体制は余りにも割拠的で,学者は狭い殻の中にと じこもり,ときには排他的の弊なきにしもあらずのきら
【特集】 2015年ノーベル生理学・医学賞受賞記念特集:微生物探索研究
わが国における抗生物質探索の道標
堀田国元
Kunimoto HOTTA, 一般財団法人機能水研究振興財団
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いがありました.然るにこのペニシリン研究において は,医,薬,農,理学等関係各部門の一流の学者が渾然 一体となり,知識の交流,新研究への合議を重ね,相助 け相励まし,幾多の難関を突破して遂に一大成果を獲得 したのであります.これはわが国研究体制の一新機軸で あり,将来日本の学界に一つの暗示を与えると確信して おります」とお礼の言葉を述べた.研究者らは,研究資 材不足,睡眠不足,過労,栄養失調に悩まされながらも 研究に没頭し,事をなし遂げたわけだが,それは科学的 興味と情熱と同時に病原菌によって命を失う人を一人で も多く救わねばならぬという使命感に支えられていたか らであった.
次に大量生産研究が行われた.各種の培地・培養条件 が検討される一方で,稲垣少佐はある国のペニシリン工 場の写真が牛乳工場のように見えたことから,伯父が関 係していた森永乳業の協力を得て同社三島工場で瓶培養 を毎日100 L行うことになった.稲垣少佐の4名のブ レーン(相沢 憲,梅澤浜夫,増山元三郎,佐藤弘一)
が指導に当った結果,1カ月でペニシリン精製液を作る ことに成功した.この精製液の成果については,第7回 委員会(12月23日)で報告された.一方,梅澤博士の 指導下でペニシリン製造に取り組んでいた萬有製薬も同 委員会にペニシリンのアンプルを提出した.この委員会 で,井深健次軍医学校長(軍医中将)は,「ペニシリン 委員会はこれまで軍医学校が中心だったが,今回の成果 を契機に国家的事業として運営する.そのため従来のペ ニシリン委員会を発展解消し,海軍と協力して陸海合同 委員会として続ける.第二に,大量生産によるペニシリ ンは,とりあえず民需より軍需を優先する.第三に,ペ ニシリンという名称について,本邦で得られたものが必 ずしもフレミングの発見したペニシリンとは限らないの で, 碧素 という和名に改める.」という提案を行い,
委員の賛成を得て決まった.
梅澤浜夫博士はペニシリン委員会の成果を以下のよう に述懐している.「研究に供された2千株ものカビの中 からペニシリン生産有力株が選定され,昭和19年10月 頃には褐色無定形ペニシリンの生産の目処がつき,12 月には碧素という和名が決定した.11月からは大量生 産に向けて,萬有製薬,森永乳業,山形合同食品(明治 製菓,明治乳業)および北海道興農公社に生産委託・指 導が行われた.菌の培養に関しては,わが国の伝統発酵 技術である表面静置培養技術に頼らざるを得なかった.
抽出・精製法も資材の不足や停電問題を抱えながら研究 された.いずれも専門情報が乏しく,試行錯誤の繰り返 しであったが,そうした苦労が戦後の米国による先端知
識の開示と技術指導を受け入れ,こなしていくうえで大 きな基盤となった.さらに,委員会を学際的構成とし,
すべての研究報告を委員会で行うという運営方針は戦後 のペニシリン生産プロジェクトに引継がれたと思われ る」.
終戦とともに碧素委員会は消滅した.GHQ(連合軍 総司令部)の命令で,井深軍医学校長と梅澤浜夫博士の 二人が和製ペニシリンとともにペニシリン研究の業績を 提出した.
戦後,厚生省は米国のように良質有効なペニシリン製 品を製造させ,日本人の健康を守ることを目的とし,ペ ニシリンを重要産業といち早く位置づけて生産再開に向 け最優先で資金・資材・石炭・電力の割当,陸軍の衛生 材料の放出などを実施した.そして,「製造会社の協調 連絡を図る協会」と「総合研究と技術指導に当たり,厚 生省の諮問に応ずる研究者の団体」の設立が指示され た.この指示に基づき,社団法人日本ペニシリン協会
(1946年8月15日)と社団法人日本ペニシリン学術協議 会(1946年8月26日;後の財団法人日本抗生物質学術 協議会)が設立された.
産官学連繋のプロジェクト体制によって始まったペニ シリン生産研究は,戦後のGHQの政策に基づいて招聘 したフォスター(Foster)博士による米国の最先端科学 情報の開示と技術指導や生産菌株提供によって飛躍的に 高まった.やがて企業によるペニシリン大量生産・供給 体制が整う一方で,ペニシリン学術協議会の専門部会で の検討に基づいてペニシリンの規格基準・検定法・臨床 使用に関する基準が定められていった.
以上のように,戦中の荒廃した劣悪な諸環境の中で新 しい種としてまかれたペニシリン研究は,戦後の僅か3, 4年のうちにペニシリン製造業を輸出産業にまで発展さ せた基盤となったのであった.
アミノグリコシド抗生物質生産菌探索研究
ペニシリンに続いてGHQのサムス准将は,ワクスマ ンが1944年に発見したストレプトマイシン(SM)を第 2の国家プロジェクトとすることを提案し,その生産菌 株を日本にもたらした.SMは,ペニシリンが無効な結 核菌に対して有効性を示した抗生物質で,水溶性で塩基 性の性質をもち,その構造はアミノグリコシドと呼称さ れることになった化合物であった.ワクスマン博士は,
SM発見の功績により1952年にノーベル賞を受賞した
(表1参照).日本では結核は白い悪魔と呼ばれるほどの 国民病であったので,SMの導入はすばらしい福音で
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あった.SMプロジェクトにおいても梅澤浜夫博士は研 究を陣頭指揮され,大量生産という所期の目標を達成し た.
SMの生産菌は という放線菌で
あったが,日本に導入されたとき,放線菌に馴染みのあ る研究者は抗生物質研究者の中には皆無であった.1947 年に梅澤浜夫先生の研究室に加わった岡見吉郎研究員 は,日本で放線菌のことを経験している数少ない研究者 の一人である北海道大学の佐々木酉二教授の研究室(農 学部応用菌学講座)の出身であったが,学生のときに放 線菌のことを学ぶ機会がなかった.放線菌の分離・研究 を手探りでやり始めた岡見研究員は,同様の研究を行っ ている大学や製薬企業などの研究者に呼びかけて自由に 放談(意見交換)する会を始めた(この会が,現在の日 本放線菌学会の種となった)(3).
そうしたなか,ワクスマン博士が1952年12月にノー ベル賞受賞後の米国への帰途に日本を訪れた(4).これは かねて招請を受けていた北里柴三郎生誕百年祭への出席 が目的であったが,来日したワクスマン博士は日本各地 の抗生物質研究者を訪問し,意見交換するとともに激励 した.ワクスマン博士には,やがてマイトマイシン(Mi- tomycin)やロイコマイシン(Leucomycin)を放線菌 から発見する北里研究所の秦 藤樹先生が同行された.
ワクスマン博士は,日本各地を訪問後,日本の微生物研 究者の奨励のために日本のSM特許料を免除し提供する ことを決断された(5).これを基に,三笠宮崇仁殿下を名 誉総裁に載いて1957年にワックスマン財団が設立され た.同財団は,微生物学および医学に関する学術研究を 援助,奨励し,わが国の学術,文化の向上発展に寄与す ることを目的として現在も活動を続けている.また,ワ クスマン博士のもと(米国ニュージャージー州ラトガー ス大学)に,秦 藤樹博士や岡見吉郎博士が1950年代 半ばに留学された.
梅澤研究室(国立予防衛生研究所抗生物質部)では,
ペニシリン生産菌やSM生産菌の研究を通じて確立した スクリーニングシステムを基に,微生物の生産する抗生 物質の探索研究が精力的に行われた.そして,1957年 に放線菌が作る水溶性塩基性の新抗生物質カナマイシン
(Kanamycin; KM)が発見された.生産菌を分離したの は岡見博士であった.KMは,SM耐性の結核菌にも著 効を示し,翌年抗結核薬として認可され発売された.そ して,国内はもとより米国でもニューヨーク科学アカデ ミーが特別シンポジウムを組むなど高い評価を獲得し,
日本生まれの最初の国際医薬としてのステータスを獲得 した.KMは世界中で結核治療のために使用され,数知
れないほど多くの命を救った.
梅澤博士はKMの特許料をもとに財団法人微生物化学 研究会を設立し,1962年には財団附属の微生物化学研 究所(微化研)を開設して,世界をリードする抗生物質 研究を展開された.抗生物質研究の功績により文化勲章 を受章された(1962年;48歳).生涯(1986年,72歳で 逝去)に,アミノグリコシド抗生物質耐性菌の耐性機構 の解明,耐性機構に基づく理論的半合成アミノグリコシ ド抗生物質(ジベカシンやアルベカシンなど)の創製,
ブレオマイシンなどの抗がん抗生物質,農薬抗生物質
(カスガマイシン),酵素阻害剤,プラスミドなど世界に 先駆けた研究領域を切り開き,カリスマ的指導者として 抗生物質の学界ならびに産業界をリードされた.生涯に 150を超える新物質,十数個の医・農薬,1千を超える 論文を世に出され,1970年代半ばから逝去されるまで ノーベル賞候補として名前が挙がっていた.
筆者は,1972〜85年の13年間にわたり,梅澤先生の 微化研に在籍し,岡見先生の研究室で放線菌研究に携 わった経験があるが,以下に印象深く記憶している3つ のことを記しておきたい.梅澤先生は,基礎医学者で あったが,化学などについても高い知識と見識をおもち であった.日曜になると微化研の図書室で新着雑誌すべ てに眼を通され,眼についた論文には付箋を付けて関係 する研究者に配られ,研究者は速やかに読んで内容を報 告することになっていた.教育効果の高い慣習であっ た.2つ目は,化合物の不変性を重視されて「物質を単 離精製し,構造決定する」ことを貫き通していたこと,
3つ目は,生物学のファジー性を理解しつつ,その排除 を強く意識されており,ときに抗生物質産生プラスミド 説など大胆な仮説を発表されることであった.梅澤先生 が亡くなられた翌年(1987年)に開かれたある国際会 議において米国の製薬企業の研究者が,「10年ほど前,
“Hamao Umezawa” が来社して講演し,抗生物質生産
にプラスミドが関与しているという話をした.自分はそ の話に触発されて抗生物質生産菌の遺伝子の研究を始め た」と講演の冒頭で述べた.出席していた筆者は,梅澤 先生の影響力の大きさと広さを感慨深く感じた次第で あった.
大村 智先生の研究展開に思うこと
大村先生は,ペニシリンなどのβ-ラクタム抗生物質や ストレプトマイシンなどのアミノグリコシドを研究対象 としない方針を立て,自身のロイコマイシン研究に端を 発するマクロライドを中心的研究対象として数々の科学
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的業績を上げられた.そして,「人類への偉大な貢献」
と評価された抗寄生虫薬のイベルメクチン開発につなげ られた.筆者は,日本放線菌学会が主催した第7回国際 放線菌学会議(ISBA 88)のために1985年に立ち上げら れた準備委員会のメンバーとして加わり,そこで募金委 員長の重責を担われた大村先生の知己を得ることとなっ た.以来今日まで,30年にわたって陰に陽にご指導を 賜ってきた.数年前には,イベルメクチン開発の素であ るエバーメクチンを生産する放線菌の電顕像をエッチン グして作成された美術作品をご恵与いただき,職場の会 議室に飾っている.それは,大村先生の生きる姿勢を思 い浮べるためである.
大村先生の業績についてはそれにふさわしい方々にお 願いするとして,筆者は,大村先生が北里研究所の所長 となられ,学士院賞を受賞された1990年に,ある雑誌 社の企画で大村先生にインタビューしたときのことにつ いて述べたい.その内容は,当該雑誌 に掲 載され,その後まとめられた本(6)にも収載されたが,後 に大村先生の著書「ロードデンドロンの咲く街」に収載 されるという光栄に浴した.
インタビューでは,大村先生が学士院賞受賞講演で,
「研究者としての若き日の写真を示されたこと,エバー メクチンのことを通じてアフリカのオンコセルカ症の撲 滅に取り組んでいること,浮世絵を示されて物事の考え 方や哲学について触れられたこと.そして,筆者が抗生 物質の未来を暗示すると感じた,ラットのPC12細胞に
対してNGFと同様の作用を示すラクタシスチンという 化合物のこと」を題材としてQ&Aを行った.インタ ビューが進むにつれて,北里研究所において秦 藤樹先 生の後を継いで大村研究室を立ち上げたとき(1973年,
38歳)の覚悟,β-ラクタム系やアミノグリコシドは研究 しないとした理由,研究推進に必要なインフラストラク チャーとその構築,一歩一歩高い山に登るように研究を 高いところへもっていくことの重要性,若手の研究者を 育てるためのフィロソフィー,研究に取り組むに当たっ ての使命感の重要性などが語られている.
いずれも今回のノーベル賞受賞決定の際に大村先生が 語られた内容と一致しており,終始一貫貫いてこられた 姿勢であることに改めて深い感銘を受けた次第である.
なお,大村先生の生い立ちや研究業績,生き方について は文献7と8に詳しい.大村先生には,「ロードデンドロ ンの咲く街」のほかに,「芝白金三光町」,「夕暮れ」,
「植林」などの自著があり,いずれも全人教育的効果の 高い内容である.多くの人に一読を勧めたい.また,筆 者にとっては,大村先生から最初にいただいた「魯山人 と影の名工 陶工松見宏明の生涯(佳川文乃緒)」(9)が大 村先生の心情と信条がとても強く伝わってきた内容で あった.
大村先生の生き方は,科学者としてのフロンティア精 神,チャレンジ精神のほか,実学の重視,国際性の重 視,全人教育,そして平和の希求という事柄をすべて具 現されている.そして,創造の火を燃やし続けるととも 表1■ペニシリン‒ストレプトマイシン‒カナマイシン:発見・開発の道標
1929 40 44 45 46 52 57 58 62 67
ペニシリン(PC)
英国 PC発見
(Fleming)
再発見
(Floreyら)
ノーベル賞(45) 耐性菌
メチシリン(半合成)
米国 量産(Merck) Foster派遣(46)
Q176, タンク培養
セファマイシン(第一世代)
日本(稲垣克彦) 璧素委員会(44)
生産菌探索→量産(製薬企業)
ストレプトマイシン(SM)
米国(Waksman) 放線菌探索開始 SM発見(44) ノーベル賞(52)
来日(52) ワックスマン財団設立(日本;57)
日本(梅澤浜夫) 予防衛生研究所設立(46)
日本抗生物質学術協議会設立(46)
SM生産菌(GHQサムス提供)
量産研究(製薬企業)
カナマイシン(KM)
日本(梅澤浜夫) 放線菌探索開始 KM発見(57)
認可発売(58)微生物化学研究所設立(62)
文化勲章受章(62)
(製薬企業) 量産
米国 発売(Bristol Myers; 58)
KMシンポ(NY; 58および67)
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に,それらすべてを生き方の矜持としている凛とした徳 の高い姿がある.これほどの研究者人生の見本に接し,
学ぶことができることの幸運に感謝するばかりである.
おわりに
わが国の抗生物質研究は,戦時中(1944年)のペニ シリン委員会における研究を嚆矢として稲垣克彦陸軍少 佐や梅澤浜夫先生のリーダーシップにより開始された.
8歳の大村少年は山梨の野山を駆け回っていた頃であ る.また,大村博士が北里研究所で抗生物質研究を開始 され,1973年に大村研究室を立ち上げた頃は梅澤先生 のノーベル賞受賞の期待が高まっていたときであった.
残念ながら梅澤先生に栄冠は輝かなかったが,約40年 のときを経て大村先生が受賞されたことは放線菌研究者 の一人として,また,放線菌学会はじめ多くの学会が手 放しで喜びとしているところである.
図1は和製ペニシリンからストレプトマイシン,カナ マイシン,エバーメクチンをわが国における抗生物質開 発研究の道標として並べてみたものである.和製ペニシ
リンからカナマイシンまでの開発研究の主役は梅澤先生 によって担われ,抗生物質開発に必要な研究分野の基盤 が整えられてきたが,梅澤先生が逝去された後はその松 明を大村先生が担い,さらに発展されている観がある.
梅澤先生や大村先生に共通していることは,30代の 頃から哲学と信念・使命感をもち,基礎研究,応用開 発・産業化に向かって,知恵を絞り,プランを立て,進 む方向を見失わずに指導的役割を果たしてきたことと言 える.そして,創造の松明を燃やし続けていることも共 通していると感ずる.以って,範とすべしであろう.
文献
1) 堀田国元: , 63, 179 (2010).
2) 角田房子: 碧素・日本ペニシリン物語 ,新潮社,1978.
3) 日本放線菌学会: 放線菌と生きる ,みみずく舎,2011.
4) 飯島 衛(訳):セルマン・ワクスマン自叙伝 微生物と ともに ,新評論社,1955年.
5) 八木澤守正:最新医学,68,418 (2013).
6) 永井和夫監修: 生命に魅せられた研究者たち ,医学主 版センター,1995, pp. 16‒29.
7) サイエンティストライブラリー特別編:大村 智「新し い微生物創薬の世界を切り開く」,http://www.brh.co.jp/
s̲library/j̲site/scientistweb/no84/
8) 馬場錬成: 大村智2億人を病魔から守った化学者 ,中央 公論新社,2012.
9) 佳川文乃緒: 魯山人と影の名工 陶工松見宏明の生涯 , 1990.
プロフィール
堀田 国元(Kunimoto HOTTA)
<略歴>1967年 北海道大学農学部農芸化 学科 卒業/1972年 同大学大学院農学研究 科博士後期課程修了(農博)/同年(財)微 生物化学研究所研究員/1985年 国立予防 衛生研究所 抗生物質部室長/1997 年 国立 感染症研究所生物活性物質部室長/2004 年 一般財団法人機能水研究振興財団常務 理事,2014年 理事長,現在に至る/この 間1983〜85年米国日本ロシュ分子生物学 研究所客員研究員<研究テーマと抱負>機 能水の開発・標準化・新機能開拓・国内外 普及,抗生物質などの科学史,公衆衛生・
バイオセーフティ,生物多様性<趣味>読 書,スポーツ観戦,バイオ関連シーズ探し
Copyright © 2016 公益社団法人日本農芸化学会 DOI: 10.1271/kagakutoseibutsu.54.27 図1■わが国における道標的抗生物質の流れ
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