454 化学と生物 Vol. 54, No. 7, 2016
一細胞からの植物ホルモン質量分析法
微量な低分子化合物の内生量を細胞レベルで明らかにする
植物ホルモンは,植物自身が産生し,成長調節や環境 応答を制御する生理活性を有した植物に普遍的に存在す る(主に低分子の)化合物群であり,植物の乾燥重量 1 mg当たり数ng〜pgという極めて低濃度で作用するこ とが知られている.植物ホルモンを介した生理応答は,
しばしば内生のホルモン濃度の変化によって引き起こさ れる.たとえば,アブシシン酸(abscisic acid; ABA)
は乾燥ストレスにより内生量が上昇し,気孔閉鎖などの 乾燥応答反応を誘導する(1, 2).また,ジャスモン酸類
(jasmonates; JAs)は傷害や病害などのストレスで一過 的に高濃度に蓄積し,傷害や病害応答性遺伝子の発現を 誘導する(3).一方で,ある個体や器官・組織における全 体的なホルモン量の変化を伴わないままに,ABAや JAsに対する応答が観察されることも報告されてお
り(2, 4),植物ホルモンの局在・分布が厳密に制御されて
いることも考えられている.細胞内のホルモン濃度はそ の生合成,代謝(不活性化)および輸送のバランスに よって調節されていると考えられる.動物の場合とは異 なり,植物では何処で作られたホルモンが植物体内をど のように輸送され,何処で作用するのか.必ずしもはっ きりしていないが,たとえばABAについては,その主 要な生合成酵素は維管束組織に多く局在しており,そこ で作られたABAが孔辺細胞へ輸送されて機能している ことが近年明らかになりつつある(5, 6).またJAsは傷害 ストレスを受けた際に傷害部位の近傍数mmの範囲で一 過的に高蓄積し,局所的にJAs応答性遺伝子の発現を誘 導する(7)が,その一方で,傷害を受けていないほかの組 織へも輸送され,そこでも応答性遺伝子の発現を誘導す ることが知られている(8〜10).しかしながら,いずれの ホルモンについても,細胞レベルでの局所的な内生量の 変動はほとんど明らかにされておらず,また,実際に各 化合物が細胞間をどの程度移動しているのかなどの知見 も乏しい.
このように,植物ホルモンの生理機能や作用のメカニ ズムを理解するためには,その局在と細胞内の濃度を正 確に,できれば植物が生きたままの状態で把握すること が極めて重要になる.従来,細胞レベルでのホルモンの 局在や濃度については,マーカー遺伝子の発現を,その
プロモーターとGFPなどのレポーターを用いて間接的 に可視化することが試みられてきた.一方で筆者らの研 究グループは,これまでにほとんどの植物ホルモンとそ の類縁化合物についてLC-MS/MSを用いた定量分析法 を確立しており,分析対象にもよるが乾燥重量1 mgに も満たない葉の切片や,シロイヌナズナの種子一粒から でも正確な内生量を定量することを可能としてきた(11). しかしながら依然,植物の特定の一細胞を取り出し,そ こに含まれるホルモンを定量することは困難であった.
以上のような背景から筆者らは,近年理化学研究所生命 システム研究センターの升島 努博士のもとで開発され た一細胞質量分析の手法(12〜14)を用いることで,ABAと JAsの主要な活性型化合物であるジャスモノイルイソロ イシン(JA-Ile)の内生量を一細胞から分析する手法の 開発に取り組むことにした(15).
この手法では,顕微鏡下で一細胞の内容物を採取し,
それを質量分析器に直接供することで,一細胞内に含ま れる化合物の質量分析を高感度に行う.細胞内容物の採 取にはnano-electrospray ionization (ESI) tipと呼ばれ る,金属コーティングを施されたガラスキャピラリーを 用い,そこに少量のイオン化溶媒を加えることで,その まま質量分析器のイオン源として用いることができる.
筆者らは実験手法立上げに際し,まずは一細胞のサン プリングのしやすさを考え,表皮上では長軸方向に数十 から数百µmと細胞が比較的大きなソラマメを実験材料 として用いることにした.先端経が1 µmのnano-ESI tipを用い,実体顕微鏡下で一細胞の内容物を取得した 後,内部標準として一定量の安定同位体標識された ABA([D6] ABA)およびJA-Ile (JA-[13C6] Ile)を,溶 媒となる80%メタノールとともに添加し,それをその まま質量分析器のイオン源に供して分析を行った.分析 ごとのイオン化効率の違いなどを補正するために,目的 化合物のイオン強度と,加えた内部標準物質のイオン強 度の比を算出し,その値から細胞内の目的化合物の量を 見積もるのである(図1).植物ホルモンの内生量は非 常に低く,また,本手法では従来までの植物ホルモン定 量分析の方法と異なり,固相抽出などによる対象化合物 の精製や,HPLCの溶出時間を指標とした物質同定がで
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きないため,対象化合物由来のイオンの同定には十分に 注意を払う必要がある.質量分析器には,検出感度に優 れるトリプル四重極型のものと,質量分解能に優れる フーリエ変換型のものを使用した.標準物質を用いて検 量線を作成し,さらに植物の粗抽出液を未精製のまま一 細胞分析と同様にnano-ESI tipを用いて直接質量分析を 行った.その結果,トリプル四重極型の質量分析器を用 いた場合には,幸いにも今回ターゲットとしたABA, JA-Ileについては,MS/MS分析で得られる特定のフラ グメントイオンをモニターすることでLC-MS/MSによ る従来法と同程度に定量性が得られることが確認でき た.このように分析の対象となる化合物に対する詳細な 実験条件の検討を十分に行うことではじめて,一細胞分 析によって得られる結果に信頼性をもたせられると筆者 らは考えている.
これを踏まえて,実際にソラマメの葉の一細胞から乾 燥や傷害に応答したABAとJA-Ileの内生量の変化を検 出できるか検討した.その結果,未処理の葉に比べ,乾 燥処理を行った葉の一細胞からは有意に多量のABA が,また傷害処理を行った葉の一細胞からは有意に多量 のJA-Ileが検出されることが示された.現状ではnano- ESI tip中に吸い取られている細胞内容物の量を知る方 法が確立されていないため,ABAやJA-Ileの細胞内濃 度の正確な算出には至っていないが,仮に一細胞の内容 物ほぼすべてをサンプリングできているとすると,一細 胞から得られたホルモン定量値を葉全体の重量当たりに
換算した値は従来までの葉全体からのABAやJA-Ile定 量値とよく一致しており,これらのことからも乾燥や傷 害によるABA, JA-Ileの増加を一細胞からある程度正確 に検出できているものと考えている.
以上のように,われわれは生きた植物におけるホルモ ンレベルの変化を,一細胞由来のサンプルから検出でき るようになったと考えている.今後はより正確な内生量 の「定量」に向けて,化合物同定や定量性の評価法の改 善や,サンプル量の正確な見積もり方法の確立に取り組 む必要があると考えている.また,今回は分析法の確立 が主な目的であるため,ABAが全体に高蓄積している と考えられる状態の葉,もしくはJA-Ileが高蓄積してい ると予想される傷害部付近から得た一細胞をサンプルと して用いたが,われわれの本来の目的は一細胞分析でし か検出できない局所的なホルモンの蓄積量の違いを明ら かにすることである.この場合,得られた結果の信頼性 をどう評価するのかなども,今後解決すべき重要な問題 であると考えられる.このように,まだ解決すべき問題 は多いが,今回のわれわれの試みによって,一細胞内の ホルモンの正確な定量という目的の達成に向けて,着実 な一歩を踏み出せたのではないかと考えている.
1) E. Nambara & A. Marion-Poll: , 56, 165 (2005).
2) J. A. D. Zeevaart & R. A. Creelman:
, 39, 439 (1988).
3) A. J. Koo & G. A. Howe: , 70, 1571 (2009).
4) P. Schweizer, A. Buchala, P. Silverman, M. Seskar, I.
図1■一細胞質量分析実験の流れ
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456 化学と生物 Vol. 54, No. 7, 2016 Raskin & J. P. Metraux: , 114, 79 (1997).
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6) H. Koiwai, K. Nakaminami, M. Seo, W. Mitsuhashi, T.
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(清水崇史,瀬尾光範,理化学研究所環境資源科学研究 センター)
プロフィール
清水 崇史(Takafumi SHIMIZU)
<略歴>2006年東京大学農学部生物生産 科学科卒業/2009年日本学術振興会特別 研究員(DC2)/2011年東京大学大学院農 学生命科学研究科博士課程修了/2011年 同大学生物生産工学研究センター特任研究 員/2012年大阪市立大学大学院理学研究 科特任助教/2013年理化学研究所環境資 源科学研究センター特別研究員,現在に至 る<研究テーマと抱負>植物におけるジャ スモン酸類の役割を,その内生量や局在の 調節とともに明らかにしたい<趣味>釣 り,食べること
瀬尾 光範(Mitsunori SEO)
<略歴>1997年東京都立大学理学部生物 学科卒業/1999年日本学術振興会特別研 究員(DC1)/2002年東京都立大学大学院 理学研究科博士課程修了/2002年理化学 研究所基礎科学特別研究員/2005年同研 究所植物科学研究センター研究員/同年学 術振興会海外特別研究員(フランス国立農 学研究所)/2007年フランス国立農学研究 所(INRA)ポスドク研究員/2008年理化 学研究所植物科学研究センターユニット リーダー/2013年同研究所環境資源科学 研究センターユニットリーダー,現在に至 る<研究テーマと抱負>植物ホルモンなど の生理活性物質の作用機構の解析.種子の 休眠,発芽,寿命の制御機構の解析<所属 研 究 室 ホ ー ム ペ ー ジ>http://www.csrs.
riken.jp/jp/labs/daru/index.html<趣味>
競馬観戦,ランニング
Copyright © 2016 公益社団法人日本農芸化学会 DOI: 10.1271/kagakutoseibutsu.54.454
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