【解説】
人間を含め,哺乳類の子は幼弱に生まれるため,哺乳をはじ め と し て 身 体 を き れ い に 保 つ,保 温 す る,外 敵 か ら 守 る と いったさまざまな親からの養育(子育て)を受けなければ成 長することができない.そのため親の脳には養育行動に必要 な神経回路が生得的に備わっている.一方,子の側も受動的 に世話をされるだけの存在ではなく,親を覚え,後を追い,
声や表情でシグナルを送るなどの愛着行動を積極的に行って 親との絆を維持している.親の養育が不適切な場合でも通常 子から親を拒否することはなく,親をなだめ,しがみつき,
何とか良い関係を取り戻そうと努力する.社会や自然界でご く当たり前に営まれている親子関係は,実はこのように親子 双方の日々の活動によって支えられているのである.親子関 係はすべての哺乳類の存続に必須であるため,子の愛着・親 の養育本能を司る脳内メカニズムも基本的な部分は進化的に 保存されていると考えられる.したがってマウスモデルを用 いた愛着・養育行動研究が,将来的にヒトの親子関係とその 問題の解明に役立つことは十分期待できる.本稿では,マウ スを用いた最近の研究を中心に,養育行動の概要とそれを制 御する分子神経機構についてご紹介する.
哺乳類の養育(子育て)行動の概要
母性行動 Maternal behavior とは「子の生存確率を高 めるような母親の行動」の総称である(1, 2)
.母親以外の
個体による子育ては,父親であれば父性行動Paternal behavior, それ以外の個体であれば Alloparental behav- ior と呼ばれる.本稿ではこれらを総称して養育行動 Parental behavior(親性行動とも訳される)と呼ぶ(図1
).
養育行動自体は鳥類,爬虫類,両生類,魚類,さらに 無脊椎動物にも広く見られる行動である(3)
.しかし哺乳
類(厳密には哺乳綱)では哺乳をはじめとする母親によ る養育がない種は存在しない.母親以外の個体も養育を行うことがある.鳥類ではオ スも,巣作りや給餌,抱卵などの何らかの養育行動を行 うことが多い.哺乳類の場合,95%以上の種の父親は直 接には仔を養育しないが,母子を含む群れ全体をオスが 警護するなどにより,間接的に母子を保護する行動はし ばしば見られる.また,一部の霊長類(マーモセット,
オマキザル)やげっ歯類(ビーバー,マウス)
,食肉類
(キツネ・タヌキ)などにおいては,父親も母親同様に
哺乳類子育て(養育)行動の 神経基盤
黒田公美
Neural Basis of the Parental Behavior in Mammals Kumi O. KURODA, 理化学研究所脳科学総合研究センター
哺乳を除く養育を行う種もある.さらに霊長類のほとん どの種では,オスでも養育を行った例が報告されている ので,実際に養育することが一般的ではないにしても,
オスにも養育能は備わっていると考えられる(4)
.また,
年長の同胞がヘルパーとして育児に参加する場合もあ る.
人類学的調査では30 〜 40%の民族では父親は子への 直接の養育行動をほとんど行わない(5)
.父親よりも,お
ばあさんやほかの子ども(多くは年上の同胞)が乳幼児 を抱くほうが多い.統計にもよるが,現代の米国に生ま れた子のうち50 〜75%は婚外子や離婚などのため10歳 の時点で実父とは一緒に暮らしていないという.また,有名な狩猟採集民族である!Kungでは,生後6カ月まで に子が父親に抱かれている時間は1.9%にとどまる(6)
.
ただしAka族では22%もの時間を父親が抱いており,民族による差が大きい.繁殖年齢を過ぎ,自身の子育て を終えた(祖母などの)女性の育児への貢献も重要であ る(4)
.母親に育児や家事において協力してくれる祖母が
いる場合,子の死亡率を低く,出産間隔を短縮できるこ となどから,結果的に多くの子孫を残すことができる.総じてヒトの子育てはほかの大型霊長類と比較して母親 のみに依存せず家族のほかのメンバーや近隣の大人,若 年者などに分担される (Alloparental care) 傾向がある.
実験室マウスの養育行動の概要
哺乳類の種の中で,これまで養育行動が最もよく研究 されてきたのは実験室ラット および マウス である.ラットとマウスの養育 行動は共通する部分が多いが,違いもある.ラットやそ のほかの哺乳類の養育行動の詳細については文献 (1, 2)
を,養育異常が報告されている遺伝子変異マウスや下記
養育行動の実験的定量方法などの詳細については拙 著(7, 8) を参照されたい.
1.
出産に伴う母性行動マウスの仔は出生時には目が見えず,運動機能も未熟 で自分で移動することができない.また,生後1週間は 毛が生えておらず体温調節機能も未発達である.そのた め,哺乳をはじめ,身体を清潔に保つ,保温する,外敵 から身を守るといったさまざまな事柄を親からの養育に 依存している.
もともとマウスはよく巣作りNest buildingを行う動 物であるが,母マウスは出産数日前から普段よりも大き く深い巣を作るようになる (Brood nest)(9)
.巣材とな
る柔らかい材料を集め,紙片を噛み砕いてふわふわにす る行動も活発になる.母マウスは通常夜間,交尾から約19 〜20日後に,一 腹4 〜9匹の仔を1匹ずつ,約10分ごとの間隔で出産す る.1匹産むごとに,母親は仔の身体をなめることで羊 膜と羊水を取り除くとともに,臍帯と胎盤を食べる
(Placentophagia)
.これらの組織は粘着性があるため,
胎 盤 食Placentophagiaが 不 十 分 な 場 合,仔 の 皮 膚 に 残った羊膜に床敷がくっついたり,臍帯同士が絡まって 何匹もの子がもつれあったりしてしまう.出産時の仔な め行動には仔の呼吸を刺激する機能もある.
出産と胎盤食が終了すると,母親はすべての仔を1カ 所に集める.この,仔を巣に運び入れる行動をレトリー ビングRetrievingと呼び,仔が何らかの事情で巣外に出 てしまった場合や巣が危険にさらされ,巣全体を別の場 所に作り直す場合にも行われる.さらに母親は巣の中で 仔同士が接触し合うまできちんとまとめる.この行動を グルーピングGroupingと呼ぶ.
このように仔をまとめてから,母親は授乳姿勢,すな わち乳首を仔に露出する姿勢でじっとすると,仔は嗅覚 と触覚を頼りに乳首を捜し吸乳する.母親はまた,仔の 身体とくに会陰部をきれいにし,排泄を促す目的で仔を なめる行動Lickingを行う.Lickingが十分でないと,
排泄物が会陰部で乾燥して固まってしまい排泄しにくく なる.ラットでは養育の指標としてリッキングの観察定 量がよく行われる(10) が,マウスは小さいため母親の舌 やなめている部位を観察するのはやや難しい.
生後2週を過ぎはっきりと目が見えるようになるまで は,基本的に仔は巣の中で同腹子とくっつきあって過ご す.母親は巣外に捕食に出かけ,戻ってくると仔をな め,授乳し,同時に自らも寝る.巣の近くに外敵や見知 らぬ同種個体が入ってくると,母親は仔がいないときに 図1■哺乳類の親子関係の諸要素
比べより多く侵入者に攻撃を行い,子を守ろうとする
(Maternal aggression)(11)
.仔が生後2週を超え自ら移
動できるようになってくると,これらの母親の養育行動 の量はしだいに低下する.2.
母親以外による養育行動未交配メスマウスは初めて仔に暴露しても30分以内 に何らかの養育行動を示すことが多い(12, 13)
.巣作りや
レトリービングに要する時間は連日の仔の養育の経験に より短縮する.またこの未交配メスのレトリービング行 動は下垂体や卵巣の除去,オキシトシン・プロラクチ ン・エストロゲンやプロゲステロン受容体などの遺伝子 変異によっても消失しない*
1 ことから,ホルモンはそ れほど重要ではないと考えられる(14〜19)*
2.
オスマウスの仔に対する行動は系統や実験条件によっ て大きく異なる(20, 21)
.脳科学研究でよく用いられる
C57BL/6系統では,飼育環境にもよるが多くの未交配 オ ス が 仔 を 攻 撃 す る(筆 者 ら の 研 究 室 で は 約80%)(22, 23)
.このとき未交配オスは,仔のにおいを嗅ぐ
と興奮し,尾を震わせて打ち付けたり,目を細めたりし ながら,さらに激しく仔のにおいを嗅ぐ.そして仔に噛 みついて出血させたり,くわえたまま引きずり回したり する.しかしこのオスをメスと同居させ,交尾・妊娠が 起こると,オスの仔に対する攻撃性はしだいに抑制され る.さらに仔が生まれ父親となると,実仔だけでなく非 血縁の仔に対してもレトリービングや巣作りなどの養育 を行うようになる
*
3 (図2
).状況によっては父親の存在
が仔の生存確率を高めることから,父性的養育は有意義 であると言える(24).
未交配オスの喰殺行動は飢えやストレスのせいではな く,殺しても必ずしも食べるわけではない.空腹でもな
いのに同一種の仔を噛み殺すのは,残酷で一見病的な行 動のようだが,状況的に自分の仔でないことが確実な新 生仔を喰殺することは将来生まれる自らの仔の生存確率 を高める可能性があり,養育行動と並ぶ適応的な行動の レパートリーであると考えることができる.実際,野生 のマウスやライオン,ヒヒなど,複数のメスがリーダー のオスと交尾し繁殖するような種においては,リーダー の交代に伴い新しいリーダーオスが群内の旧リーダーの 仔を喰殺する行動がしばしば見られる.これはメスの授 乳を中断させることで性周期を早く復活させ,交尾と実 仔の繁殖を可能にする適応的な行動である(25〜27)
.新
リーダーオスの喰殺行動は,その種の在胎期間の終わり 頃に一致して見られなくなることからも,喰殺から養育 への行動変化が実仔を殺すことがないように精密に制御 された生殖戦略であることがわかる(28, 29).
養育行動の神経機構解明のストラテジー
マウス養育行動に必要な神経機構をマクロからミクロ な方向に追求するストラテジーを図
3
に示す.これはほ かの本能行動,たとえば睡眠−覚醒や性行動を司る神経 機構解明のためにも用いられてきた古典的な手法であ り,特別なものではない.[1] 調べたい特定の行動(たとえばレトリービング)
を定量化するためのアッセイ系を確立する.
[2] その行動を行っている最中に活性化している脳 部位を,即早期遺伝子であり転写因子を構成するc-Fos やFosBの発現マッピングなどの手法を用いてリスト アップする.次にこれらの脳部位を破壊したり刺激した りすることによって,行動が抑制されたり促進されたり するかどうかを [1] のアッセイ系を用いて検討し,当 該の行動に必須の働きを担う脳部位を見いだす.同時 に,注目している行動以外の行動には大きな支障がない 図2■喰殺と養育の行動選択
*1エストロゲン受容体のノックアウトマウスでは,喰殺が上昇し レトリービングがやや低下すると報告されているが完全に阻害さ れるわけではない.エストロゲン合成に必要な酵素アロマターゼ のノックアウトメスマウスのレトリービング行動はほぼ正常であ る.一方,プロゲステロン受容体ノックアウトオスマウスは野生 型よりもよく養育を行うと報告されている.
*2ラットでは未交配メスは直ちに養育行動は行わないが,出産時 の血中ホルモン動態を人工的に未交配メスラットに与えるとレト リービングが促進される.しかし仔と数日にわたって接触させる ことにより養育行動を獲得した未交配メスラットでは,下垂体・
卵巣除去はマウスと同様養育行動を阻害しない.つまりラットに おいては,仔と接触する経験によって行うようになった養育行動 はホルモン非依存的,出産によって行う産後の母性行動はホルモ ン依存的であると考えられている.
*3実験室ラットやマウスは,自分の仔と同じ日齢の非血縁同種の 仔をあまり区別せずほぼ同様に養育する.ただし仔に馴染みのな いにおいがついていると拒絶する場合もあり,仔をしばらく里親 の床敷でくるんでおくと受け入れられやすくなる.
(行動特異性がある)ことも確認しておく必要がある.
[3] 重要な脳部位をできるだけ小さい領域に絞り込 んだ後,その脳部位にどのような種類のニューロンがあ るか,そのうちのどのニューロンが当該の行動に重要な のか,さらにそのニューロンの入出力経路や特徴的な分 子発現パターンなどを,解剖学的・生理学的手法などを 用いて調べる.
[4] [3] で同定された重要なニューロンの細胞内で,
行動を行うときにどのような変化が生じるのかを分子レ ベルで検討する.具体的な手法としては,網羅的遺伝子 発現解析,細胞内シグナル伝達分子のリン酸化(活性 化)状態の検出などがある.
また [1] の後に行う遺伝学的解析 Forward genetics も,行動や病気をはじめとするさまざまな生命現象の解 明に貢献してきた重要な手法である.
[2
′
] 調べたい行動に異常を来たす遺伝子変異マウス 系統を探索,入手する.この際,できるだけほかの行動 や全般的な身体発達・健康状態には異常が少ない(行動 特異性がある)ことが望ましい.[3′] 特定の遺伝子の変異が当該の行動に特異的な障 害をもたらすことが確認できたら,その遺伝子産物が発 現する脳部位やニューロン群を検索する.そして変異型
マウスでこれらの脳部位やニューロン群が野生型と比べ 機能不全に陥っているのかどうか,その程度などを調べ る.
[4′] [3′] でリストアップされた脳部位やニューロン 群を野生型マウスにおいて破壊したり刺激したりするこ とによって,行動が阻害・促進されるかどうかを検討す る.([2
′
] と同様)さらに最近マウスで非常に一般的になっている逆遺伝 学Reverse geneticsの手法も活用できる.上記の [3]
に続いて,
[4
″
] 重要な脳部位やニューロンの特異的マーカー分 子が同定できれば,この遺伝子の変異マウスを作成し当 該の行動を変異マウスで定量化することにより,この分 子が実際に当該の行動に重要な役割を果たしているかど うかを検討する.Cre-LoxPシステムなど,より精密で 手の込んだ技術を用いて,行動⇔脳部位⇔神経細胞⇔分 子という各レベルにおいて,当該の行動のメカニズムを 掘り下げていくことも可能である.養育本能発現に重要な脳部位
上述の [1]
,
[2] のアプローチによって,視床下部の 図3■養育行動の神経機構研究のストラテジー前 方 に あ る 内 側 視 索 前 野 (Medial preoptic area ; MPOA) がげっ歯類養育行動とくにレトリービングに最 も重要な領域として同定されてきた(図3(2), 枠部)(30)
.
MPOAの選択的破壊や,MPOAから外側方への繊維連 絡の切断は,産後ラットのレトリービングの発現・維 持,PExによる未交配ラットのレトリービング誘導のす べてを阻害する.破壊後も,体重・運動など全体的な健 康への影響はほとんどない.またメスの性行動や出産は 正常に行われる.また,レトリービングを行っている ラ ッ ト・マ ウ ス で は,行 っ て い な い 個 体 に 比 べ,MPOAのニューロンに転写活性の指標であるc-Fosおよ びFosBの発現が有意に上昇する.MPOAよりもレト リービングに特異性を示す脳領域はほかに見つかってい ない.
これまで筆者らは,[1]‒[4] のアプローチをマウスに
適応し,養育行動にMPOAが果たす役割を解析してき た.レトリービングを行って2時間後にはc-Fosタンパ ク質の発現が,MPOAの背外側部と腹側部でとくに高 濃 度 に 上 昇 す る.と こ ろ が -Methyl-D-aspartic acid
(NMDA) の興奮毒性によりNMDA受容体を発現する 神経細胞を死滅させる手法で部位特異的破壊実験を行っ たところ,意外なことに最も破壊の効果が大きかったの はc-Fosが 最 も 高 濃 度 で 発 現 す る 部 位 と は 異 な り,
MPOAのほぼ中心部にあたる領域であった(31) (図
4
).
この領域の神経細胞が両側性に破壊されると,未交配・産後を問わずメスマウスはほぼ確実に喰殺を行うことが 明らかになった.
一方で,喰殺によって活性化される脳領域を検討し た.予備実験で仔を喰殺する未交配オスマウスと,養育 する父マウスとを選別し,2日あけてc-Fosの活性化を 図4■MPOAのcFos発現とNMDA破壊実験
A : 未交配メスが単独(左)または3匹の新生仔と同居(右)して2時間経過した時点でのc-Fos発現量.内側・外側視索前野領域を12×11個 の一辺100 μmに分割し,各グリッドごとに平均値を算出した.色が濃いほどc-Fos陽性神経細胞が多い.上から下に向かって,約150 μm ずつ後方のCoronal脳切片を示す.B : 未交配メスにおいて,両側性の破壊が有意に喰殺行動を惹起する確率を,各グリッドごとに算出し た図.C : 上から,Bで太枠で囲まれた領域が両側性,片側性に破壊されている場合,両側とも破壊されなかった場合,手術を行っていな い対照群の,手術前後の養育行動.黒は喰殺,濃灰は仔を無視,淡灰は少なくとも1匹の仔を巣にレトリービングした,白は5分以内にす べて(3匹)の仔を巣にレトリービングした個体.
いったん消退させた後,仔を金網に入れて2時間提示し た
*
4 ところ,未交配オスでは父と比較して副嗅球に c-Fosが有意に高発現していた(22).副嗅球は鋤鼻器で受
容されるホルモンの情報を伝達する部位である.そこで 鋤鼻器を切除したところ,未交配オスは喰殺を行わず養 育を行うようになった(図5
).父親の養育行動には鋤
鼻器切除は影響を与えなかった.したがって鋤鼻器‒副 嗅球からなる副嗅覚系の情報が喰殺には必須の役割を果 たしていると考えられた.養育を抑止する方向に働く脳部位として,視床下部前 核や腹内側核がある(32)
.これらの脳領域の破壊は未交
配メスラットのレトリービングを促進させる.前核は摂 食行動,腹内側核はメスの性行動などを促進する機能を もつ.親が非常に空腹なとき,また性行動が活性化され ているときには,養育行動が抑制されると考えれば理に かなっている.またマウス,ラットのいずれにおいても 扁桃体の破壊や分界条(扁桃体からの主要な出力路)の 切断は養育行動を阻害せず,むしろ促進する(33, 34).扁
桃体は新奇な仔からの知覚入力に対する忌避反応を MPOAに伝えることにより,養育を抑制していると考 えられる*
5.
マウス養育行動と知覚入力〜嗅覚を中心に
子どもを見たり(視覚)
,泣き声を聞いたり(聴覚) ,
匂いを嗅いだり(嗅覚),子どもに触れたり(触覚)と
いった知覚情報が親の脳内に入ってくる.これらの情報は統合されて,「(食べ物やほかの物体ではなく)これは 同種の子どもだ」という認識が生まれると考えられる
(図2右)
.霊長類,ラットを含む多くの哺乳類種におい
て,単独の知覚遮断は養育行動の発現を阻害しないの で,一般的には子の認識は特定の種類の知覚に依存する ものではないと考えられる.しかしマウスの場合には,養育行動が主嗅覚系(嗅上 皮−主嗅球系)に大きく依存する点が特徴的である.嗅 上皮の障害や主嗅球除去手術,また嗅覚喪失を来たす遺 伝子改変などが,未交配メスおよび産後メスの養育行 動,とくにレトリービング行動をほぼ消失させる.最も よく調べられているのはIII型Adenylyl cyclaseをコー ドする 遺伝子のノックアウトマウスで,副嗅球 系によって若干のにおい物質を感じる機能は残るもの の,主嗅上皮を介する情報伝達が完全に遮断されるため に嗅覚脱失を呈する(35)
.
のホモ変異体(ノック アウト;KO)メスは交尾可能であり産後正常に胎盤食 を行うが,巣作りとレトリービング行動ができず,仔は 数日以内に死亡する(36)*
6.また産後のMaternal ag-
*6この話は,母親に嗅覚障害があり,仔は嗅覚に問題のない仔で あった場合に,母親が仔を正しく認識できないために養育を行わ ないので仔が死亡する,という内容である.一方で逆に母親が正 常で仔に主嗅覚系障害がある場合,仔が母親の乳首を探し当てる ことが難しいために,ほかに嗅覚正常の仔がいると競争に負けて しまい,嗅覚障害の仔が育たないことが多い.嗅覚正常の同腹子 を間引きして競争相手を少なくしてやると生き残ることができる.
実際,この問題によって KOの仔は生後の成長が遅れるが,
間引きをするなどすれば生存可能であり,3カ月齢では体重も野 生型と同等になる.このようにして育てたメスを,母親にさせて 本文のような実験を行うのである.その際には父親を野生型にし ておき,仔に嗅覚障害がでないようにしておかないと,仔の死亡 が母親のせいなのか仔のせいなのかがわからなくなってしまう点 に注意が必要である.詳細は文献参照のこと(7, 8).また主嗅球系 はマウスの母子関係にとって,両方向性に必須の役割を担ってい ると言える.
図5■鋤鼻器切除がオスの喰殺行動に与える影響
A : 手術前は喰殺を選択した未交配オスマウスに鋤鼻器切除手術をした (VNO ) 場合と,麻酔・切開のみの対照手術 (Sham) の場合の,術 後の仔に対する行動を30分間評価した.スコアは0=喰殺,1=仔を無視,2=1匹のみレトリービング,3=2匹レトリービング,4=3匹 レトリービング,5=3匹レトリービングした後1分以上クラウチングを行った(完全養育行動).B : 父親マウスにAと同じ手術を行った場 合の仔に対する行動評価.
*4この理由は,仔を喰殺させてしまうと,血液のにおいや味など,
喰殺行動自体とは異なる刺激によって活性化される恐れもあるか らである.金網なしで行った実験でも一貫した結果を得ている.
*5視床下部前核・腹内側核の外側部,扁桃体内側部は,喰殺する オスでは父オスに比べ有意に活性化されていた(22).
gression, 未交配メスのレトリービング行動も欠損して いる.嗅覚欠損を来たす hホモ変異体も同様に産後 の養育行動ができないことが報告されている(37)
.
一方,フェロモン情報を伝達する副嗅覚系は,レト リービング行動には影響を与えないが,Maternal ag- gressionに必要である.副嗅球系の情報伝達に障害を来 たす KOや ( ) 変異マウスのホモメスは正常 に妊娠・出産し子を養育することができるが,Mater- nal aggressionが減弱している(38, 39)
.また副嗅覚系は,
未交配メスラットの仔に対する忌避反応や(40)
,上述の
どおり未交配オスマウスの喰殺行動にも必須である(22).
まとめると,マウスにおいては,主嗅球系と副嗅球系 は,仔に対する行動選択においてそれぞれ養育または喰 殺に必須の機能を果たす(図2)
.つまり,仔からくる
複雑な嗅覚情報のうち,成分によって仔に対する行動に 関して逆方向の効果をもたらすものがあることになる.オスの脳には過去の社会的経験(交尾とそのメスとの同 居)が何らかの記憶痕跡を残し,その情報に基づいて,
オスは社会的文脈に照らして正しい仔に対する行動を選 択しているのであろう
*
7.この社会性記憶痕跡の実体を
明らかにすることが今後の目標である.未交配オスと父親オスで仔に対する行動が逆転する現 象は嗅覚系がマウスほど発達していない霊長類
*
8 でも 見られることから,オスの仔に対する行動選択の末梢知 覚レベルのメカニズムは種特異的である可能性が高い.しかし中枢レベルでは類似した情報処理が行われている 可能性がある.
養育行動の計画と実行
養育するという行動選択を行っても,必ずしも直ちに 上手に養育ができるとは限らない.子育て経験のある C57BL/6メスマウスを新生仔と同居させると,まず安 全な場所に巣を確保することを一番に行う.次に,仔を 1匹ずつ口にくわえて巣に連れていく.最後の1匹を巣 に入れた後,もう一度ケージを一周して,全員を連れて いったかどうか確認する.それから改めて巣に戻り,子 どもが汚れていればなめて清潔にする,哺乳する,保温 するなどを順次,効率良く行う.最終的には,適切な巣 材があれば,一人でいるときよりもはるかに大きく精巧 な巣を作る.母親はこの一連の行動計画に基づいて運動
系を制御し,最終的な養育行動が発現すると考えられ る.経験の浅いマウス,とくにオスや若年のマウスで は,仔を集めず巣の外で1匹だけを保温したり,一部の 仔を巣に連れていった後残りを放置していたり,また巣 作りの過程で仔が巣からはみ出したのに気づかないと いったことも起こる.したがって養育は本能であるとは いえ,このような一連の行動をスムーズに行うために は,経験・学習が必要と考えられる.このような経験に よる学習には,MPOAにおけるMAPキナーゼの一種で あるERKとその下流,Fos-SPRY/RGK系細胞内シグナ ル伝達経路の関与が示唆されている(41)
.
またラットやハムスターにおいて,中隔・海馬・帯状 回のいずれかの外科的破壊は養育行動を非効率的にす
る(42, 43)
.すなわち,複数の巣に1匹ずつ仔を置いたり,
仔をくわえて走り回ったり,いったん巣に入れた仔をま た巣から出したりといった行動を繰り返す.この場合,
養育本能自体は正常であるが,巣づくりやレトリービン グを正しく行うために必要な空間認識が傷害されている と考えられる.この問題と関連して,GnRHプロモータ の発現するニューロン(中隔や視床下部に分布)特異的 な KO母マウスは,正常に出産するがレトリー ビングを行わない(44)
.仔を巣の外に置くと,このKO
マウスは仔を移動せず仔が置かれた場所に新しく巣を作 り直すことから,筆者らは仔の位置と元の巣の場所を関 連づけることができないのではないかと考察している.おわりに
親子関係のさまざまな問題(親の不在,児童虐待やネ グレクト)がどのような悪影響を子にもたらすのかにつ い て は,多 く の 疫 学 的・実 験 的 研 究 が 行 わ れ て い
る(45〜47)
.しかし,ではなぜ不適切養育をしてしまうの
かという親側の要因については,あまり研究が行われて いないのが現状である.不適切養育を治療・予防し,効 果的な親子関係を促進するためには,まず正常な養育行 動の神経機構を明らかにしなければならない.親子関係 はすべての哺乳類の存続に必須であるため,親の養育本 能を司る脳内メカニズムも基本的な部分は進化的に保存 されていると考えられる.筆者らは,本稿で解説したよ うなマウスモデルを用いた養育行動研究が将来的に人間 の親子関係とその問題の解明に役立つことを願い,研究 を行っている.今後,より多くの若い研究者・学生がこ の研究分野に参入してくることを期待している.
謝辞:図4, 5でご紹介した研究は,理研脳センター 親和性社会行動研究 ユニット 恒岡洋右研究員(現:東邦大学医学部)と刀川夏詩子研究員
*7この行動選択は迅速に,通常30秒程度から遅くとも数分以内に 行われる.
*8とくに副嗅覚系は,旧世界ザルでは退化が進んでいる.
(現:同センター シナプス分子機構研究チーム)らとともに,JSPS科 学研究費および上原生命記念科学財団の助成を受けて行ったものであり,
ここに厚く御礼申し上げます.本稿に興味・ご意見のある方はお気軽に [email protected]までご連絡ください.
文献
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プロフィル
黒田 公美(Kumi O. KURODA)
<略歴>2002年大阪大学大学院医学系 研 究 科 修 了/2002年Human Frontier Science Program, Long-term fellow Postdoctoral Researcher at McGill University/2004年理化学研究所基礎科学 特別研究員/2007年同研究所脳科学総合 研究センター精神疾患動態研究チーム研究 員/2008年同研究所脳科学総合研究セン ター黒田研究ユニットユニットリーダー,
現在に至る<研究テーマと抱負>哺乳類の 親子関係の分子神経機構.親子関係は脳科 学では競争相手が少なく,自分の子育て経 験も生かせる,穴場的テーマです.学生さ ん・若手研究者の研究室見学歓迎です!
<趣味>ヨガ,シュノーケリング