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12 月 6 日 兵庫県三原郡西淡町松帆 感応寺 回り弁天

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12月6日 兵庫県三原郡西淡町松帆 感応寺 回り弁天

回り弁天(淡路巡還弁財天)は本年は一の宮町草沓の智禅寺から、松帆の感応寺へ引継がれる。最近は車で迎え るので大部様子が違うようである。

本年は古津路部落が中心になって迎入れを願い出た。願出人は真言宗、それも高野山派の真言宗の檀徒が中心で ないといけないらしい。本日午前8時頃智禅寺へ迎えに出向く。

白の絆てん、白ぱち、白鉢巻である。弁財天の木像は白布でくるんで、柳行李程の大きさの厨子に収められてあ る。厨子の上から更に白布(麻)で包み、ルックサックのように背負紐をつけ、迎え人の 1 人が、これを背負って 自分の村へ帰る。

車が村へ入ると部落々々で車を降りて村中を練る。総勢50人ばかりの若者が何れも白衣であるが、弁天様を担い でいるものを擁して村中を練る。「弁天はんぢゃ、長者ぢゃ」と口々にわめきながら練る。今は声が続かぬので1台 の拡声器をとりつけた車が先頭に立って、テープで我鳴り立てる。耳がキンキンする。弁天様を背負っている若者 は、重い荷を背につけたまゝ、放上げられたり、逆様に担がれたり、ものの5分も経たぬうちに、くたくたになる。

酒が入っているので尚更のことである。もとは家の中や畑中を揉み歩いたらしいが、現在は少しおとなしくなって、

道路上だけになっている。それも交通巡査がついて廻って、交通の支障とならぬように規制をうけている。年の経 った人々は一寸あきたらぬらしい。幹事の人も、救急車が要る程練れと*令するが、若い達は、仲々それに同調す る様子もない。そのため思ったよりもおとなしい。それに横道する練中も可なりあるらしい。

湊町を練って正午になったので、一時中止。弁天さんを感応寺に預けて昼食になり午後再び古津路の方を練る。

午後は古津路、江尻の各部落を練廻り午後5時半頃感応寺に帰着し収める。

当夜はお通夜といって檀徒の人々が本殿に参集しお籠りをする。翌 7 日は奉迎大祭であるが、非常な混雑が予想 されるので「お仮屋」を松原の海岸、国民宿舎前の広場に移し、こゝまで弁天様をお連れして、大祭を開く。この とき御開帳がある。

この大祭のため近郷から約20台の壇尻が集るという。当日のため破損した壇尻をこの際修理して新しく造った村

(古津路)もある。

12月の始めには感応寺の入口に、杉の黒木の鳥居を新造しこれに注連縄をはりめぐらす。この鳥居には箕を上下 に2ヶ合せて瓢形にし、中央に弁財天を墨書した額をかゝげる。

感応寺の院主から聞いた所によると、淡路全島には真言宗の寺が他の宗派の寺に比して圧踏的に多い。133ヶ寺現 存し、そのうちでも高野山派の寺が90寺ある。「淡路巡還妙音弁財天」の信仰はこの90寺の檀家による宗教行事で、

その総括的な統率は津名郡津名町佐野にある。八浄寺が高野山派真言宗の淡路支所としてやっている。

こゝには「基本巡還妙音弁財天保存会」という信者総代の組織があって、八浄寺と合議の上で回り弁天のルール を規定化しているようである。保存会のメンバーである信徒総代の 1 人、佐名川義雄さんは佐野の人であるが、わ ざわざ当日やって来て、この行事を監督している。

この佐野基本保存会で騰写版刷にして昭和37年に発行した塩崎義民著『淡路巡還妙音弁財天之由来』という本が ある。これを一瞥拝見したが同書によると

弘法大師が高野山開創のとき山内に弁財天を勧請し又更に各地を巡錫したときも弁財天を奉安して民生の安 正と護国天泰平を祈願した。当時佐野川原之里(現在北浜)に城喜代という瞽者(ごぜと送りがながついてい る)があったがその伯父にあたる旭昌は佐野津満寺の住職であった。所が旭昌は高野山に登り青厳寺にあって 名僧の誉が高かった。

ある年、城喜代は旭昌に招かれて杖をたよりに遥々と高野に詣で、旭昌を訪ねたが、久し振りに逢った 2 人 は今昔の物語りに時の移るのを忘れたが、そのとき旭昌が城喜代に諭したことは我はもと賊が家より出て幸い 高い僧位にまでつくことができ平安な年月を送っているが、汝は生涯不自由な身であるとことは誠に憐れであ るが、今より厚く仏法を奉じ、深く信仰に精進するなれば、決して現世安心を得られぬことはないと諭したの で城喜代も翻然と大悟し、伯父と別れを告げて尊像を奉持して佐野に帰ったという。

始めは尊像を家に祀っていたが、家族に病気が絶えぬので見て貰った所、俗家に尊像を祀ることがよくない というので、これを梵宮に移すこととし、城喜代は五熊(現小田の前の厳島社)に堂宇を建立して祀ることに なったという。堂宇の落城した

その年、10月亥の日、城喜代は本願となり近郷の瞽者集って妙音講を結び、平家を語って信仰忘らなかった ため城喜代は終に開眼したという。

その後、弁財天巡還のことが起り、例年出発の前日瞽者参集し饗応あり。宴終って通夜籠をし、翌朝開扇祭 典のときも琵琶を弾き、平家を語ったという。

また尊像を受けた村では 3 日間「妙音相撲」と称し淡路始め播磨、摂津、阿波、和泉から力士が集って神前 相撲をやったらしい。この力士は同時に尊像警固の役についたという。

所がこの妙音講なるものは享和4年(1804)以来明治21年に至るまで、毎年欠かすことなし巡還弁天の行事を行 った(淡路の民俗 253 頁)となる。明治初年にもたらされた神仏分離の気運に乗じて、復古神道家安倍喜平らが唱 導して弁財天は実は市杵姫命であり、その所宮は厳島神社であると唱えたとき、島内の仏教徒に混乱が起きたこと である。このことに狼狽した徳島県(当時の所席)では次のような布達を出している。

弁財天祭の儀、旧講中ノ者共願出ニ付、神祭可勅旨先日相違有之候、兵庫県寺院共彼是申立候旨趣モ有之、神 仏判然取調ニ可及筈ノ処、最早祭日相直居候故 当年の儀ハ社人立合不及、従来ノ姿ヲ以祭事取行申可兵庫示

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談取調ノ上自後ノ処置可申付事に候云々

とあり、6日後には改めて弁財天を神祭とすることは故障がある。当年はそれでもよいが今後は兵庫県と御掛合の上 厳島明神と称えた方がよいという訓令を出している。この訓令は

尤諸村浦ニテ弁財天ト号シ祭有之分ハ徒前通りニ候条、此段心得違無之様 とあって、その後も弁天祭の名称はそのまゝ用いているらしい。

現在回り弁天の奉迎は町村中の信者講中が肝入となって基本巡還弁財天保存会を通じて、淡路支所本山八浄寺へ 申込をするらしい。これには昭和14年に制定した「淡路妙音弁財天巡還規則」があって、これによって実施されて いるので、その概要を知ることができる。

第 4 条 尊天ヲ奉迎セントスル町村ハ、奉迎頭人及信者講中惣代五名以上連署し、別記書式ノ奉迎願書ニ申込金 ヲ添エ寺院惣代宛差出スベシ

第12条 弁財天巡還奉祀期間ハ陰暦十月第二子ノ日ヨリ翌年十月第二亥ノ日マデ一ヶ年間トス 第14条 尊天奉祝期間内ノ祭典ヲ左ノ通り執行スルモノトス

五大祭。(このとき御開帳をする)

1、奉迎大祭 陰10月第2子ノ日(現在は12月初旬の適当な日に変更されている)

1、当指式大祭 陰正月7日 (現在 1月7日)

1、春季大祭 陰3月18日 (現在 4月18日)

1、虫干大祭 陰6月土用ノ内 (現在 7月7日)

1、奉迎大祭 陰10月第2亥ノ日(現在 12月上旬)。 五大祭以外ノ各月なのか、月並祭。

第22条 五大祭ニハ寺院総代及両基本信者惣代ハ必ズ前夜ヨリ本殿ニ参籠スベキモノトス 第23条 奉迎町村ハ五大祭ニハ必ズ結内寺院ヲ招シ、尊天ヘ法楽ク捧ゲルモノトス。

第27条 尊天ノ附属荘厳具、及所用器具ハ尊天ト同時ニ次ノ奉迎町村へ基本信者惣代立会ノ上引続スモノトス この23条の「法楽ヲ捧ゲル」義務として、上記のように西淡町では12月7日、松原で大祭を執行するが、その とき近郷外部落から、20台のだんじりが参加する。

また1月7日の当指式大祭には採灯大護摩を修するという。

これは立聞きであったが今度西淡町へ弁天様を迎えるのに 1,200 万円はかかるということで、それに若者達が次 第に参加を嫌がるので練りも甚だ寂しいと、こぼしていた。

真言宗派で固めた信仰行事も次第に崩れようとする傾向はある。感応寺の院主さんに尋ねた所によると本日現在 まで来年の奉迎先の申込はないという話であった。昔は5~6年先まで申込がつかえていた頃に比べて、どうにもな らぬ様である。

Referensi

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