10月12日 赤穂市坂越町 大避神社 船渡御
坂越湾頭にある天然記念物、天然樹林の生島を御旅所として行われる大避神社秋祭の渡御が中心の祭りである。
渡御には陸渡御と船渡御がある。
祭に先立ち9月12日にまづ頭人が選ばれる。氏子10ヶ町内の宮総代が神社に参集して神籤を引き10ヶ町内のう ちから7ヶ町を選ぶ。順序があって1番くじに当ったものから順に7番まである。
本年は1番から順に次の7ヶ町がくじを曳いた。
1、花之町 2、本町 3、下高谷町 4、東の町 5、上高谷町 6、大泊町 7、汐見町
曳漏れの 3ヶ町は小島町、西之町、鳥居町であった。籤漏れの3ヶ町は祭りの諸役にはつかない。場合によって は5~6年間も籤漏れとなったこともあるが、籤漏の町内は渡御には参加しない。休むだけという。籤当りの町はそ の町内から適当な頭人を選ぶ。戸主であればよい。
渡御は午後 2 時頃神社を出発する。それに先立ち拝殿に頭人が参集して祭典が行われる。このときの頭人の座順 は一定している。
頭人は当日樺色の直衣、烏帽子、大勢の町内の人々に擁せられて巻物を吊った傘をかざして渡御に参列する。「さ しとう」といって頭人の長男(幼児)を稚児に着飾り、肩車に乗って付添う町もある。
祭典終了後、拝殿にて獅子神楽を舞う。
獅子舞。
獅子舞は上高谷青年団が継承している。伊勢太神楽の獅子舞で、雌雄2頭、2人使。こゝは3人入ることはなかっ た。頭に5色の紙垂れをつけ、幌は紺、渦のちらし紋を染抜き所々に雲彩を染め付け顎の下は赤い布をつける。屡々 使いが入れ替るが、青年は白シャツ、幌と同じ色柄の股引、脚絆替りに白のストッキング、地下足袋、股引を締め る腰紐に赤い手拭様の布を挟んでいる。
曲は「みちびき」といって、獅子の外に猿田彦が出る。鼻高面を被り、茶色の筒袖、同色のたっつけ袴で、輪宝、
三つ巴、柏の紋を染抜く。鼻高面の頂から後へ尻が隠れる程の長い紙垂を房々と垂らす。手に鉾を持つ。銀紙を貼 った鉾で、柄は竹、これにも紙垂をつける。
囃子は太鼓2、締太鼓1、これに笛が4人、7穴藤巻きの塗笛である。
拝殿で1舞するとすぐその足で拝殿を出て、渡御の先駆をつとめ、実にゆっくりと猿田彦を先頭に、2匹の獅子が 前後に並んでこれにつづき、休む時なく石段を降りて海岸の乗船場へ向うのである。
陸渡御の間はずっと「みちびき」を奏する。上高谷の獅子舞は「みちびき」の外に16曲の舞を継承している。昨 11日と今日の午前中は町内の家々を廻る。これを「花舞」という。花舞のときは16曲のうち随意1~2曲を演ずる。
又乗船して船渡御の先駆をするときも、船上で数曲を演ずる。
16曲のうち「神勇み」(お多やんとも)には歌が入る。曲目及び歌詞は上高谷青年クラブに保存されている。
陸渡御は神社を出て参道の高い石段を下り、まっすぐに海岸に出るが防潮堤の外に僅かに残った砂浜があって、
そこから船に乗る。その間300m位であるが約2時間練る。渡御行列の順序
猿田彦←獅子2←頭人7←鉾4←弓2←太刀2←金幣←銀幣←榊2←神輿←枕2←沓1 の順で神輿の両側に弓を持った歌組6人が警固としてつく。
頭人は神輿に近い方から、1番・・・7番の順で先頭が7番くじの汐見町である。いづれも直衣、烏帽子に威儀を 正し伴に巻物を吊り下げた黒色の傘をさしかけられているが、その周囲を町内の人がとりかこみ途中、酒を飲むか ら、流行歌を唄うやら、仲々陽気に騒ぎながら、時には輪になったりしながら進むのである。
それで神輿舁きは殆んど神輿を降ろして休んでいる。
海岸に到着した神与は船に乗って船渡御となるのであるが船渡御の船の順序は
摺伝馬2←獅子船←頭人船7隻←御神輿船←楽船←歌組船
の順である。何れも祭のために造った特別の舟らしい。
神輿渡が海岸に到着する前から若衆連を乗せた2艘の摺伝馬が勇ましく港内を漕き廻っている。1艘の漕ぎ手12人 6人づゝ2列。外に舟の中心に立てた旗柱(旗は赤)の綱をとって舳に立つもの1人。樽太鼓を打つもの1人。艫近 く櫓をこぐもの2人。艫に三方棚を設けて、これを笹の葉枝を被うた所に立って、両手に5色の房をつけた采配を とって指揮するもの 1 人。何れも赤い半纏を着ているが、采配のみは、水色の腰巻をする。このとき采配のみは伝 馬に残り伝馬船を御座船に横付けして、御座船の上から桟橋造りの下知をする。采配の服装は上記と違う。派手な 赤い模様の襦袢、水色の腰巻、腰巻、水色の手甲、桃色の襷をかけるが襦袢の袖はひるがえしたまゝ。
また櫓の1人は赤と白の荒いだんだらの半纏、この衣装は2双とも同じであるが鉢巻のみは一方が赤、一方は黄。
小雨が降って暗くなって来たのは惜しかった。神輿到着の合図が海岸からあると 2 双の櫂伝馬のものは一せいに 褌 1 つの裸になり鉢巻をとって腕に結える。海岸へ向って力漕すると皆飛込んで海岸に上り、神輿を御座船に乗せ る桟橋をつくるのである。
桟橋造りはまづ海中へ脚立を置く。脚立の高さは御座船の舷とすれすれなる高さで、海中へ入って脚立を御座船 を纜した傍まで運ぶのである。非常に頑丈に出来た木の枠材であるが、すぐに運ばないで、大ぜいで担いで練り廻 ったり、その上に乗ったりする。次にその脚立の上に海岸から、これも頑丈な厚い歩板を 6 枚並べて置くのである が、やはり1枚づゝ練りながら運ぶ。大ぜいで、この歩板を立てゝ、1人がその上にかき昇る芸をやって見せること もある。隙がかゝり過ぎると、大きな柄杓で海水をぶっかけられることもある。
6枚の歩板が脚立の台に並べて掛けられると始めて神輿は歩板を渡って御座船に安置される。
裸の若衆は急いで伝馬に返し、半纏を着て、再び漕ぎ出す。その間に夫々頭人は自身達の船に乗り、獅子船の上 では猿田彦と獅子の舞が再び始まり、各船の間には纜が曳かれて、船渡御は大泊町の方へ廻遊して生島へ向う。こ の殿りを行くのが歌組船であるが、歌組船は途中から列を離れて、生島の御旅所のある着岸地へ先廻りして、そこ で御座船を迎える。
御座舟に獅子舞以外の船は何れも屋形船で幕を張り、幟を立て舷に彫をし、舳は高く、飾綱を垂れ、2丁櫓で扱ぐ のである。
歌組船について。
歌組船は西之町の福田家から出す。代々世襲で神輿の警固に当り、当日は紋付羽織に水色の袴をつけ、生島で神 輿を迎えるに当って船歌を歌う。
船歌の歌本は西之町福田太次郎氏宅に保存されている。大部のもので和漢の数々の歌が記されているという。
本日の祭礼にはそのうちの「四季の恋歌」を歌う慣習となっている由、1度訪問することを約する。
生島からの還御は午後 8 時頃とある。還御のときは町々の海岸に設けられた数百の篝火に点火されその灯の中を 還御されるという。