6月16日 京都 伏見稲荷神社 御田植神事
現在の御神田は戦後、農地でない神社裏山の谷間を平らにして仮に造った神田で、日当りが悪くて稲は育たない という。形ばかりの御田植になっている。
もとは向日町にあった。田の字形に畦をつくった神饌田で神事をやるよう。次第を整えた祭儀行事を、現在の狭 い田でそのまゝやることになっているので無理がある。
依然より大阪府三島郡在住のもので稲荷初穂講を組織して、講中が神饌田の稲作一切を奉仕していた。講員は現 在の吹田市、茨木市等(鳥飼、高田、吹田が主)に分離しているが今でもその人達が6月16日には神社に集って田 植の神事をする。講員はしかし全部農家というのでもない。
午後 1 時、神前に持って来た早苗を奉って祭典が始まる。その間に田舞を稲荷神社巫女が拝殿で舞う。平安朝時 代の風俗のまゝの衣装をつけ、採物は檜扇、神楽調。
音取
やましろや いなりのかみの みたまつり いざもろともに ゆきて まはばや
楽破
やつかほの いなりのみたに おりたちて まいつ かなでつ うゝる さをとめ
楽急
いなりやま かげをひたせる いはひだに やつかたりほの あきのいろみゆ
舞終って、田主(烏帽子、素襖)神前より早苗をうけ、これを唐櫃に納めて農夫が担いで神田に向う。
神官により神田修祓の後、初穂講中が 1 枚目の田から植え初める。そのときその田に続く下手の湿潤草地で再び 田舞をする。
この草地はよほど天候がよくないと踏入めない。下手は池になっている。田舞の終るころ1枚目の田は植終って、
上の2 枚目の田に移る。そのとき田主が畔に立って自分で太鼓を打ちつゝ田植歌を唱う。この田植歌は神社特有の ものでなく、三島郡地方で田植のとき一般に歌われていた田植歌であるという。
「稲荷山」はこゝへ来たとき「八幡山」と唱い変えるだけ。田植歌には「ぼゝの毛が生けそろて」等野卑なものも あるが、これは伏見へ来たときは遠慮する。
水口祭の幣は伏見神田特有の幣で、三島郡では違う。又最近は殆んどやらない。三島郡の田植をする日と、伏見 稲荷の御田を植えに来る日とは禁忌その他の関係はない。
6月16日 伏見稲荷神社 御田植神事
田植歌。鶴の子の育ちはどこやヨイ/\稲荷山ネソーヤナ稲荷山やくしろのまつの若松ネソーヤナ「稲荷山」というのはこゝで歌うときに限り稲荷山という。三島郡では「八幡山」と唱う。八幡山がもと歌である。面白や京のまちは車ヨイ/\淀にや舟ネソーヤナ淀にや舟、桂の川にや迎い舟ネソーヤナ花むこの肴は何にしようヨイ/\紫蘇の葉ネソーヤナ紫蘇の葉を細かにきざみ酢をかけネソーヤナ
式次第はもと向日町にあった田の字形の神饌田に於いて執行されたときのまゝを現在も流しているので少し、む りがある。拝殿で祭典後、1度田儛をやる御田儛は神楽調。
音取
やましろや、いなりの かみの みたまつり いざもろともに ゆきて まはばや
楽破
やつかほの いなりのみたに おりたちて まいつ かなでつ うつる さをとめ
楽急
いなりやま、かげをひたせる いはひだに やつかたりほの あきのいろみゆ
田儛は巫女によって舞われる。
後、田主、神前より早苗をうけ、これを唐櫃に納め神田に向う。
御田植は三島初穂講中がやる。
初穂講はもと三島郡に居たもので講員は現在吹田、鳥飼新田、茨木等の人が集っている。大たいが農家、その人 達が毎年田植奉仕をする。
別に自分の家の田を植える日とは関係がない。神田では早苗を田に降し、神田前の草地でまづ田儛を再び舞う。
その間に大たい 1 枚目の田は植え終る。次の田に移るときから田主が畦に立って自分で太鼓を打ちつゝ、田植歌を 唱う。この田植歌は三島郡地方の田植に歌っていた田植歌で、御田植祭のためのものでない。唯、一般には「八幡 山」といって唱っている歌をこゝへ来て歌うときに「稲荷山」といゝ替えることにしている。他の文句は変らぬ。
ヤヒなものもあるが、それはこゝでは唱はない。
水口祭は神田のみで、三島郡では現在やらない。
田植歌八幡山(こゝでは稲荷山)鶴の子の育ちはどこやヨイ/\稲荷山ネリーヤナ稲荷山やくしろのまへの若松ネソーヤナ
面白や京のまちは車ヨイ/\淀にや船ネソーヤナ淀にや船桂の川にや迎い舟ネソーヤナ
花むこの肴は何にしようヨイ/\しその葉のネソーヤナしその葉を細かにきざみ酢をかけネーソヤナ