第 4 章 ホンダ二輪車事業のアジア進出と現地化動向の分析 ―先行アジアの経験と資源能力のベトナム
4.3 中国におけるホンダの進出動向と現地化の特徴
中国の二輪車市場ではホンダは、タイやインドネシアなどと異なる事業展開がとられている。中 国の二輪車産業は戦後ドイツやソ連の技術を導入し、業務用の二輪車生産を中心に多数の地場系企 業が誕生しスタートした。中国経済の高度成長の要因は外国からの直接投資を背景とした輸出主導 型工業化による工業品の輸出拡大である(トラン、他、2007)。
中国の二輪車産業の成長は、1950 年代に始まる。当時中国では、二輪車は、警察など公用の移動 手段として発展していた。中国民生用二輪車の生産は 1980 年代日系など外資系企業の参入でスター トした。日系 4 社(ホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキ)をはじめとして、台湾系三陽と光陽、フラ ンス系プジョー、イタリア系ピアジオなど、提携企業は 20 社以上が進出した(松岡、2000)。産 業化の後発国では、ほぼあらゆる産業において発展の初期段階には、すでに先進国にある標準化し た製品技術及び生産技術が外資との合弁を通じて技術移転される。後発国の産業はそれらの先進国 技術の模倣からスタートすることになる94。ASEAN諸国と比べ、中国の二輪車産業は、外資系企業の 参入で技術基盤が形成された点は似ているが、地場系企業が多数存在する点で異なる。それらの地 場系企業は、外資系企業の参入と共に、急速に発展している。
92 佐藤百合(2006)「インドネシアの二輪車産業ー地場系企業の能力形成と産業基盤の拡大ー」『アジアの二輪車 産業:地場系企業の勃興と産業発展ダイナミズ』アジア経済研究所 p.290
93 天野 倫文(2007)「インドネシアバイク市場とものづくり」『ものづくりアジア紀行』赤門マネジメント・レビ ュー Vol.6, No.9 p.455
94 佐藤百合、大原盛樹(2006)『アジアの二輪車産業―地場企業の勃興と産業発展ダイナミズムー』アジア経済研 究所 p.166
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1980 年の時点で中国の人口は約 9億8120万人であり、世界第1位である。中国の 1 人当たり GDP は同年約 200 ドルであり、1990 年約318 ドルに上がってきた(Wordbank)。中国は消費市場規模が 大きく、所得水準の向上により二輪車ニーズが急拡大した。しかし、中国の所得水準は上がってい たが、ホンダなど外資系企業の二輪車の販売は、価格競争の面で厳しかった。
中国では、日系企業との合弁で中国地場系サプライヤーは技術情報を標準化し、一般化していた ため、同じ部品を生産するサプライヤーが多数誕生し、激しいコスト競争が展開されていた(出 水、2011)。二輪車需要の拡大と共に、中国の地場系二輪車企業は急激に拡大し、激しい競争が展 開された95。中国の地場系企業はコスト競争力を重視し、生産規模の拡大を通じて競争力を向上さ せていった。
1990 年以降中国のサプライヤーの多くは、コピー(模倣品)製造企業が多く、低品質であるが、コ スト競争の優位性と生産拡大に意欲を持つ企業が中心である。現在の主要企業の約半数が 1992 年以 降に二輪車生産を始めた企業である96。中国の二輪車生産は 1990 年代中盤から急拡大し、1999 年に は生産台数1000万台、世界 シェア50%にも達した(丸川、2003)。
図表4.7 中国とインド二輪車販売台数の推移(千台)
出所:Statista97、Motocycledata98より筆者作成
中国の二輪車産業は ASEAN と同様に外資系企業の参入で成長しているが、現在地場企業のシェア は日系企業を大きく上回っている。中国の地場系企業は独自ブランドを有するが、そのブランド価 値は高くない場合が多い。しかし、中国は低価格のローエンド市場を開拓し、2010 年代初めには世
95 二輪車は擦り合わせ型のアーキテクチャーを持つが、中国では日本から輸入したエンジン等を標準品として組み 合わせ型の生産をしている(藤本、2004 p.217)
96 Fourin(2010)「1999 中国自動車産業」 p.56
97 https://www.statista.com/statistics/314752/china-annual-motorcycle-sales/ 2020 年4月 28日アクセス
98 https://www.motorcyclesdata.com/category/asia-pacific/ 2020 年4月 28日アクセス 27510 26920
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中国 インド
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界一の生産国に成長した。また、世界のローエンド市場に積極的に進出するなど、市場競争力の弱 点を生産規模でカバーすることに積極的である。
2015 年以降、中国政府が都市二輪車流通制限の政策を打ち出したことから、中国の二輪車販売台 数は減少している。2016 年は約 1680万台であり、世界一の地位は、中国からインドに交代した。
2017 年には 1713 万台であり、2018 年には約 1557万台であった。現在、世界二輪車産業において中 国はインドと共に、市場をリードしている。2019 年に中国の二輪車販売台数は約 1713 万台に達し た(図表4.7)。
中国の二輪車産業はインドネシア、ベトナム、タイなどASEAN諸国と比較すると、産業組織が異 なっている。ASEAN は、外資系企業による産業組織が形成されている。一方で中国は、地場系企業 が多数存在し、国内市場をリードしていることが異なる。ASEAN 二輪車市場では、ホンダを始め、
日系二輪車企業は各国の国内市場シェアをリードしている。企業は供給能力に見合うだけの顧客を いかに獲得するか。そのために、顧客のニーズをより丁寧に観察し、よりきめ細やかに対応する戦 略を採用している99。ASEAN 二輪車市場では、日系企業は現地消費者の要望に応じて、生産、販売、
開発などの諸活動を促進している。ホンダの場合は、「ニーズがあるところで生産する」という経 営理念に基づき、現地化を進めている。従って、ASEAN各国の二輪車産業は国内消費市場を重用し ており、海外への輸出指向もあるが、重要ではないと考え国内市場を優先している。
逆に中国二輪車市場では、ChongqingやLoncinなど地場系企業は国内市場をリードしている。地 場系企業と言っても、日系企業との連携の企業が多い。例えば、中国軽騎集団及び中国航空工業総 公司はスズキと連携し、兵器部北方工業はホンダ、ヤマハと連携している(松岡、2000)。地場企 業は国内市場競争で力をつけ、中国の二輪車産業は輸出を促進し、強力なグローバル・ネットワー クを作ることに注目している。上述のように中国地場系二輪車企業はコスト競争の優位性を発揮 し、ローエンド市場の参入、開拓に成功し、2018 年には 700万超の二輪車を輸出し、販売台数全体 の 45%をしめた。
4.3.2 中国におけるホンダ二輪車事業の進出動向
1980 年代における日系製造企業は、東アジアやASEAN 市場を中心にグローバル化する傾向が強か った。特に自動車及び家電産業では、その傾向がみられる。二輪車産業も上述のように 1980 年代に 入ってからホンダ、ヤマハなど日系二輪車企業は、市場の規模や成長性が高い中国市場に進出し た。中国の二輪車産業はグローバル化した先進国企業、特に日系企業と合弁し、中国市場の競争力 を構築していった。その後、1990 年代後半から 2000 年代に入ると、ASEAN 市場への参入により広域 の「生産ネットワーク」を形成した(座間、他、2003)。中国地場系企業は成長志向が強く、国内 市場ばかりでなく、海外市場にも進出している。
図表4.8 中国におけるホンダ二輪車事業発展プロセスの概要
1981 年 嘉陵本田発動機との技術提携の開始
99 フィリップ・コトラー(DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー編集部訳)(1965)『市場戦略論』ダイヤモン ド社。Philip Kotler. Marketing Management. (Havard Business School Press,1965.) p.153
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1982 年 嘉陵工業との技術提携による二輪生産の開始 1984年 上海易初との技術供与
1988年 広州摩托車との技術供与
1992 年 洛陽北方易初との技術供与、五羊本田摩托の設立 1993 年 天津本田摩托車有限公司、嘉陵本田(重慶)の設立
2001 年 新大州本田の設立(本田技研工業(株)50%、新大洲47.3%、天津摩托集団2.7%)
2003 年 本田摩托車研究開発有限公司の設立 2005 年 新大洲本田天津工場の設立
2006 年 五羊本田工場の設立
出所:佐藤、他(2006)、出水(2011)、ホンダのホームページより筆者作成
図表4.8 を見ると、ホンダは 1981 年に嘉陵本田発動機との技術提携を開始し、1982 年に二輪車 生産をスタートしたたことが分かる。1984 年には上海易初、1988 年の広州摩托車、1992 年の洛陽 北方易初との技術供与が続く。1992 年には、広州の五羊との間で合弁会社の五羊本田摩托を設立 し、次いで 1993年には嘉陵本田(重慶)を設立し、天津の天津迅達摩托車との合弁会社、天津本田 摩托車有限公司を設立した100。1990 年代前半には、中国におけるホンダは製品技術や専用機などの 設備と日本製の研削盤などの精度の高い工作機械を提供した。また合弁会社間で相互に運転資金を 出した。1999 年以降には、ホンダ中国は二輪車生産を開始し、高品質・高価格が維持でき、高利益 を享受することができた(出水、2011)。
1990 年代に入ってから中国二輪車においては、ホンダのエンジン、基幹部品は標準化された図面 が出回り、中国地場系企業には模倣品の組立企業、摸倣部品の製造企業が多数誕生した。中国二輪 車市場では、外資系企業は都市部やハイエンド市場に注目し、高技術や優秀な人材を導入した。一 方で中国地場系企業は、市中で調達した部品をもとに組み合わせ型で二輪車を組み立て、低コスト の優位性を発揮し、ローエンド市場に注目することにより外資系企業を圧倒していった(Ohara、
2006)。
2000 年前後は、中国地場企業は日系企業二輪車の模倣車が大部分であるが、数種類の日本車をデ ファクトスタンダード的なモデルに設定し、それらをコピーした摸倣車を低コストで、大量に生産 した(出水、2007)。しかも激烈な競争の下で日系企業の半値以下の価格で販売し中国国内市場を 拡大したため、品質重視で高価な日系企業の市場を奪い取った。
低価格のコピー車対策においては、ホンダは業績の低い国有企業との合弁では競争できないと見 切りをつけ、大手のコピー企業ながら品質の高評価な民営企業との合弁に注目した。2001 年の新大 州本田摩托は、民営企業の新大州との合弁のもとで設立された企業である(出水、2011)。またサ
100 松岡憲司(2000)「中国のオートバイ産業」『重慶市の経済発展に関する総合的研究』龍谷大学中小企業経営研 究所 pp.6-7